星の王子と花の姫君   作:百合魔神

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夢の隣に、もうひとつ

 

 

きららは普段より二十分早く部屋を出た。

 

撮影のない朝まで急ぐ必要はない。それでも、昨夜届いたメッセージを思い出すと、いつもの時間に食堂へ行く気にはなれなかった。

 

『明日、一緒に朝ごはん食べようね!』

 

時間は決めていない。ならば、はるかが来る前に朝食を済ませればいい。

 

寮の食堂へ入ったきららは、窓際の席に座る人影を見つけて足を止めた。

 

「おはよう、きららちゃん!」

 

はるかはすでに朝食を並べ、満面の笑みで手を振っていた。

 

「……何時からいたの」

「きららちゃんが来るかもしれない時間の、ちょっと前から!」

「その答え、一番怖いやつだから」

 

きららは別の席へ向かおうとした。しかし、はるかの向かいには、いつの間にか空の椅子と食器が用意されている。

 

「こっち、空いてるよ」

「見れば分かる」

「一緒に食べよう?」

「今から食べるところだったでしょ」

「きららちゃんを待ってたの」

 

断れば、今度は盆を持ってついてきそうだった。

 

きららは小さく息を吐き、朝食を受け取ってはるかの向かいへ座った。制服の下へ隠した星の指輪が、椅子へ腰を下ろした拍子に胸元で揺れる。

 

はるかは自分のパンへ手を伸ばすより先に、きららへ身を乗り出した。

 

「聞きたいことがいっぱいあるの」

「朝からやめて」

「町を離れた後、どこに住んでたの? どうして連絡くれなかったの? モデルになろうと思ったのはいつ? 昔から髪はその色だった? キラくんって呼ぶのと、きららちゃんって呼ぶのは――」

「待って」

 

きららは片手を上げた。

 

「一つずつにして。それから、人がいるところでキラって呼ばないで」

「あ……」

 

はるかが周囲を見回す。幸い、離れた席の生徒たちはそれぞれの会話に夢中で、こちらを気にしていなかった。

 

「ごめんね。もう言わない」

「理由、聞かないの」

「きららちゃんが困るんでしょ?」

「……まあね」

「だったら、聞かなくても守るよ」

 

あまりにも素直に答えられ、きららは返す言葉を失った。

 

はるかは昨日、キラの正体を知ったばかりだ。昔のことを話したくなる気持ちは分からなくもない。それでも、秘密を面白がっているわけではないらしい。

 

きららはスープを一口飲み、話を終わらせるように視線を落とした。

 

「じゃあ、次の質問!」

「終わってなかったんだ」

「プリキュアのことなんだけど」

「それなら聞かない」

 

はるかの勢いが止まる。

 

「毎回じゃなくてもいいの。どうしても困った時だけ、力を貸してもらえないかな」

「昨日、一回だけって言ったでしょ」

「でも、きららちゃんがいてくれたら、もっとたくさんの人を守れると思うの」

「あたしには仕事がある」

「うん。だから、仕事がない時だけでも」

「勝手に条件を変えないで」

 

きららが強く言うと、はるかの肩が僅かに下がった。

 

それでも、諦めた様子はない。

 

「きららちゃんなら、モデルもプリキュアも――」

「昔の友達だったからって、あたしが何でも言うこと聞くと思わないで」

 

言った瞬間、食堂の音が遠くなった気がした。

 

はるかが口を閉ざす。

 

きらら自身も言い過ぎたと分かっていた。だが、一度出た言葉は戻らない。

 

はるかはキラを見つけたから、再び近づいてきた。その再会とプリキュアへの勧誘が一緒にされるたび、昔の約束まで利用されているように感じてしまう。

 

「きららちゃん」

 

はるかは膝の上で両手を握った。

 

「仲間になってほしいのは、本当だよ」

「だったら――」

「でも、きららちゃんともう一度友達になりたいのは、それとは別」

 

きららは顔を上げた。

 

「別?」

「きららちゃんがプリキュアを断っても、わたしは一緒にいたい。今度は、ちゃんときららちゃんのことを知りたいの」

 

はるかの目に迷いはなかった。

 

昨日のように抱きついてくることも、指輪を持ち出すこともない。ただ、今の気持ちを伝え、きららの返事を待っている。

 

「……そっちは分かった」

 

それ以上は答えず、きららは朝食へ戻った。

 

しかし、はるかはプリキュアの話も諦めてはいなかったらしい。食事を終える頃には、再び口を開いた。

 

「それでも、少しだけ考えてもらえないかな」

「しつこい」

「一緒に戦った時、きららちゃんがいてくれて、すごく心強かったの」

「昨日の仕事を見たでしょ。あれが毎日続くの」

「分かってるつもりだけど……」

「つもり、ね」

 

きららは空になった食器を盆へ載せた。

 

ファッションショーの一部分を見ただけで、自分の生活を理解したと思われるのも気に入らない。きららがどれだけの予定を詰め込み、その合間に学校生活を送っているのか、はるかは知らない。

 

「今日、放課後は空いてる?」

「うん」

「あたしの予定、最後までついてくる?」

「いいの?」

「ついてこられたら、プリキュアの話をもう一度だけ聞く。途中で無理になったら、もう勧誘しない」

 

はるかの顔が明るくなる。

 

「やる!」

「先に言っておくけど、待ってあげないから」

「絶対ついていくよ!」

 

数時間後には音を上げるだろう。

 

そう考えながら、きららは食堂を出た。

 

その日の昼休み。

 

事情を聞いたみなみは、生徒会室で書類を整理しながら、はるかへ念を押した。

 

「私は放課後に生徒会の仕事があるから、同行できないわ」

「大丈夫です! わたし一人でも、ちゃんときららちゃんについていきます!」

「そこが少し心配なのだけれど」

 

みなみは手を止め、はるかを見る。

 

「きららさんが仲間になってくれれば心強いわ。でも、断る権利もきららさんにあるのよ」

「分かってます」

「本当に?」

「……たぶん」

 

声が小さくなる。

 

近くで聞いていたきららは、窓際の壁へ背を預けた。

 

みなみは自分もプリキュアでありながら、無条件にはるかを応援するわけではないらしい。

 

「きららさんも、無理をさせないでくださいね」

「無理だと思ったら春野さんが自分でやめますよ」

「やめないかもしれないから言っているの」

「その時は置いていきます」

「きららちゃん、置いていかないで!」

 

はるかの声が生徒会室へ響く。

 

放課後になると、きららは終業の鐘が鳴り終わる前に教科書を閉じた。

 

鞄へ必要なものを詰め、教師が教室を出ると同時に立ち上がる。

 

隣の教室から駆けてきたはるかが、廊下で合流した。

 

「お待たせ!」

「遅い」

「まだ鐘が鳴ってから二分だよ?」

「三分後のバスに乗るから」

「えっ」

 

きららは歩調を緩めない。

 

はるかは鞄を抱え、慌てて後を追った。

 

校門を出た時には残り一分。停留所にバスが近づいてくるのが見える。

 

きららは速度を上げた。はるかも懸命に走るが、慣れない鞄が何度も腰へぶつかる。

 

「待って、きららちゃん!」

「バスは待ってくれない」

「きららちゃんは、少しくらい待ってくれても――」

 

扉が閉まる直前、二人はどうにか車内へ滑り込んだ。

 

空いていた席へ座ったはるかが、肩で息をする。

 

「これで、一つ目?」

「まだ移動しただけ」

「もう疲れたかも……」

「じゃあ帰る?」

「帰らない!」

 

返事だけは早かった。

 

最初の目的地は、モデル事務所が使用しているレッスンスタジオだった。

 

壁一面の鏡と長いランウェイがあり、数人のモデルが歩き方の指導を受けている。きららは制服から練習着へ着替えると、鏡の前へ立った。

 

姿勢、歩幅、腕の振り方。講師に指摘された部分を一度で修正し、同じ場所を何度も往復する。

 

はるかは壁際の椅子から、真剣にその姿を見ていた。

 

「付き添いの子も、歩いてみる?」

 

講師に呼ばれ、はるかは自分を指差した。

 

「わたしですか?」

「せっかく来たんだから。プリンセスみたいに、堂々とね」

「プリンセス……!」

 

その言葉に目を輝かせ、はるかはランウェイへ立った。

 

顎を上げ、胸を張る。絵本のプリンセスを意識したらしいが、身体を反らしすぎて足元が見えていない。

 

三歩目で靴が絡み、身体が横へ傾いた。

 

転ぶより先に、きららが腕を掴む。

 

「胸を張るのと、反るのは違う」

「難しい……」

「頭を上から糸で引っ張られてる感じ。肩の力を抜いて」

「こう?」

「まだ入りすぎ。肩を下げて、目線は正面」

「はい、先生!」

「先生じゃないから」

 

きららははるかの背へ手を添え、姿勢を直した。

 

再び歩かせると、先ほどよりは自然になっている。しかし、舞台の端でポーズを取ろうとして、なぜか片足を上げた。

 

「それ、バレエでしょ」

「プリンセスっぽいかなって」

「どこのプリンセスが片足で立つの」

「難しいね、プリンセス」

 

講師が声を上げて笑った。

 

「きらら、教えるのが上手ね」

「危なっかしくて見てられないだけです」

 

きららはすぐ練習へ戻った。

 

はるかは、自分の姿勢をもう一度鏡で確かめている。何度転びそうになっても、最初の位置へ戻ってやり直すところは昔と変わらなかった。

 

レッスンが終わると、休む間もなく撮影スタジオへ移動した。

 

雑誌に掲載する春物の特集で、衣装は六着。背景と小物を変えながら、一着につき何十枚もの写真を撮る。

 

きららはカメラを向けられた瞬間、表情を切り替えた。

 

爽やかなワンピースでは柔らかく笑い、黒を基調とした衣装では視線を鋭くする。カメラマンが求める前に、服の雰囲気へ合う角度を探していた。

 

「きららちゃん、すごい……」

 

はるかはスタジオの端で、小さく呟いた。

 

撮影後、スタッフが候補写真をモニターへ並べる。

 

「どれもかわいい!」

 

はるかが指差したのは、きららが正面を向いて笑っている写真だった。

 

「これは使わない」

「えっ、どうして? 一番かわいいよ」

「このページの主役は服だから。これだと顔へ目が行きすぎるの」

「かわいく写ればいいわけじゃないんだね」

「モデルは、自分だけ目立てばいい仕事じゃないから」

 

きららは横を向いた写真を選んだ。

 

服の形が分かり、袖の装飾も光を受けている。笑顔は控えめだが、誌面全体へ自然に視線を誘導できる一枚だった。

 

次の衣装へ着替えるため、きららが上着へ手を掛ける。その拍子に、襟元から細い紐と銀色の星が覗いた。

 

はるかの目が星へ向く。

 

きららは咄嗟に指輪を制服の内側へ戻した。

 

周囲にはスタッフがいる。はるかが昔の話を始めれば、誤魔化すのは難しい。

 

だが、はるかは何も言わなかった。

 

ただ嬉しそうに微笑み、すぐ別の方を向く。

 

朝の約束を守ったのだと気づき、きららの胸に小さな温かさが残った。

 

撮影を終えると、二人は次の仕事先へ向かう車へ乗り込んだ。

 

移動時間は二十五分。きららはコンビニで買っておいたサンドイッチを取り出し、半分ほど口にする。

 

はるかも同じものを買ったが、包装を開けたまま眠りそうになっていた。

 

「食べないと次までもたないよ」

「食べてるよ……」

「三分前から一口も減ってない」

「ちょっと目を閉じてただけ」

「寝るなら食べてからにして」

 

きららは小さな飲料ボトルをはるかへ渡した。

 

はるかは礼を言い、一口飲んでから、恐る恐る尋ねる。

 

「昔のこと、聞いてもいい?」

「人がいないから、一つだけ」

「町を離れた後、どこにいたの?」

「ママの仕事についていってた。住むところも学校も、何度か変わった」

「ずっとモデルの近くにいたんだね」

「近くにいただけ。モデルになるって決めたのは、もう少し後」

 

はるかはサンドイッチを食べながら頷いた。

 

「手紙を出そうとは思わなかった?」

「住所、知らなかったから」

「わたしの家、知ってたよね」

 

きららの手が止まる。

 

はるかの家は、公園から見える距離にあった。手紙を送りたいと思えば、方法はあったかもしれない。

 

それでも出さなかった。

 

年齢を重ねるほど、キラとして振る舞った過去は説明しにくくなった。はるかが覚えているのは、男の子のような服を着て、俺と名乗っていたキラだ。

 

再会した時、嘘をついていたと知られたくなかった。

 

それ以上に、十七歳の男だった自分の記憶を抱えたまま、天ノ川きららとして生きていることなど、誰にも説明できなかった。

 

「……出さなかった。それだけ」

「そっか」

 

はるかは寂しそうに笑った。

 

責められると思っていた。どうして約束を守らなかったのかと、問い詰められるかもしれないと身構えていた。

 

だが、はるかは残りのサンドイッチを包み直した。

 

「じゃあ、これから話せる分だけ教えて」

「それだけ?」

「話したくないことまで聞いたら、きららちゃんがまた逃げちゃうから」

「逃げない」

「昨日、控室から走って逃げたよ」

「あれは仕事に戻ったの」

「すごく速かったね」

「追いかけてきたのはそっちでしょ」

 

言い返しながら、きららは窓の外へ顔を向けた。

 

追及されなかったことには安堵している。

 

それなのに、少しだけ物足りないと思った理由は分からなかった。

 

雑誌のインタビューを終える頃には、日が傾き始めていた。

 

それでも、最後に最も大きな仕事が残っている。

 

世界的なファッションデザイナー、ボアンヌが手掛ける広告モデルのオーディション。課題は、会場に用意された衣装と小物を自由に組み合わせ、「自分だけの輝き」を表現することだった。

 

候補者は十五人。

 

きららは衣装棚を見渡し、迷わず数点を選んだ。

 

黒を基調とした細身のドレスに、金色のベルト。肩へ星を思わせる装飾を加え、髪を高い位置でまとめる。

 

自分の身体と、最も美しく見える形を知っている。短い時間で作ったとは思えないほど、完成された姿だった。

 

審査席の前へ進み、指示された位置で立つ。

 

ボアンヌは顎へ手を当て、頭から足元までを眺めた。

 

「美しい。隙がない」

「ありがとうございます」

「だから、退屈だ」

 

きららの表情が僅かに動いた。

 

「あなた一人で、すべてが完成している。その衣装である必要がない。服があなたの中へ入り込む余地がないのだよ」

 

きららは反論しなかった。

 

一礼して控え場所へ戻る。

 

再挑戦できるのは一度だけ。制限時間も残り少ない。

 

「きららちゃん」

 

はるかが衣装棚のそばから呼びかけた。

 

「今、話しかけないで」

「これ、合わせたらどうかな」

 

はるかが手にしていたのは、濃紺の柔らかなドレスと、淡い桃色の花飾りだった。

 

「色が甘すぎる。そもそも、花はテーマと合わない」

「でも、星の光が少し近くなる気がする」

「何それ」

「星だけだと、遠くに見えるでしょ?」

 

はるかは花飾りをドレスへ重ねた。

 

「花の色が一緒なら、手を伸ばしたら届きそうな星になると思うの」

「服の話してるんだけど」

「わたしも服の話だよ?」

「絶対違うでしょ」

 

専門的な根拠などない。

 

それでも、濃紺と金色の間に淡い桃色を置くと、確かに印象が変わる。冷たく見えていた星の輝きへ、僅かな温かさが生まれていた。

 

きららは胸元へ隠した星の指輪を意識する。

 

はるかの指には、花の指輪がある。

 

「そのままじゃ使えない」

「うん」

「腰の位置なら、甘くなりすぎないかも」

「うん!」

「返事だけしないで、そっちの細いベルト取って」

「これ?」

「違う。隣」

 

きららは衣装を組み直した。

 

濃紺のドレスを中心に、金色の細いベルトで形を締める。桃色の花飾りは腰へ一つだけ留め、髪は下ろしたまま片側へ流す。

 

先ほどの隙のない姿とは違う。

 

星の輝きを残しながら、誰かへ近づく柔らかさがあった。

 

再び審査席の前へ立つ。

 

ボアンヌは、先ほどより長くきららを見つめた。

 

「なるほど。光を弱めたのではない。その光が、誰へ届くものなのかを見せたか」

「はい」

「先ほどより温度がある。あなた自身を失わず、見る者を受け入れる余白ができた」

 

ボアンヌは手元の書類へ印をつけた。

 

「結果は明日知らせる。今日は以上だ」

 

会場を出た時には、外はすっかり暗くなっていた。

 

はるかは壁へ手をつき、どうにか歩いている。

 

「それで」

 

きららは振り返った。

 

「まだプリキュアになれって言う?」

「それは……」

 

はるかは息を整えながら、しばらく考えた。

 

今日だけで、きららがどれだけの予定をこなしたか。そのどれにも手を抜かず、空いた時間には学校の課題まで確認していた。

 

この後、寮へ戻ってから予習をするという。

 

「今は言わない」

「諦めたんだ」

「違うよ」

 

はるかは壁から手を離し、自分の足で立った。

 

「きららちゃんが大切にしてるものを、わたしのお願いで壊したくないの」

「困った時だけでいいって言ってたでしょ」

「でも、言われたら、きららちゃんは気にしちゃうと思う」

「あたしが?」

「来られなかったら、誰かが傷つくかもしれないって。そうしたら、仕事中でもずっと気になっちゃうよね」

 

否定しようとしたが、言葉が出なかった。

 

実際、昨日の戦いを見た後も、きららはプリキュアのことを完全には忘れられなかった。パフュームとキーを返しても、次に何か起きた時、自分だけ仕事を続けられるかは分からない。

 

「だから、もう頼まない」

 

はるかは笑った。

 

「プリキュアにならなくても、わたしはきららちゃんと友達になりたい」

「昔に戻りたいってこと?」

「昔に戻るんじゃないよ。今のきららちゃんと、今から友達になりたいの」

「昔のあたしと、今のあたしは違うよ」

「うん。だから、これから知りたい」

 

返事を急かすことなく、はるかは一歩下がった。

 

「今日はありがとう。お仕事、見せてくれて」

「別に」

「オーディション、受かるといいね」

「受かるから」

「うん。きららちゃんなら受かるよ」

 

その言葉だけを残し、はるかは先に歩き出した。

 

いつもなら隣へ並び、返事を待たずに話し続けるはずなのに、今日は振り返らない。

 

きららはその背中を見つめた後、少し遅れて歩き出した。

 

翌朝。

 

食堂へ入ったきららは、無意識に窓際の席を見た。

 

誰もいない。

 

昨日は早い時間から待っていたはるかが、今日はどこにも見当たらなかった。

 

静かに朝食を済ませられる。望んでいたはずなのに、パンの味がいつもより薄く感じる。

 

携帯電話にも、はるかからのメッセージはなかった。

 

『おはよう』も、『昨日はありがとう』もない。

 

緊急連絡以外には使わないという最初の約束を、今になって思い出したのだろうか。

 

教室へ向かう途中、廊下の先からはるかが歩いてきた。その隣には、みなみとゆいがいる。

 

きららに気づくと、はるかは明るく手を振った。

 

「おはよう、きららちゃん!」

「おはよう」

 

それだけだった。

 

足を止めることも、隣へ駆け寄ることもない。みなみたちと一緒に、そのまま廊下を進んでいく。

 

きららは教室へ入った後も、しばらく扉の方を見ていた。

 

これでいい。

 

仕事の邪魔をされず、昔のことも聞かれない。プリキュアへ誘われる心配もなくなった。

 

そう思っているはずなのに、午前の授業はいつもより長く感じた。

 

放課後の撮影でも、集中が続かなかった。

 

衣装を替えるたび、スタジオの入口へ視線が向く。昨日、壁際からこちらを見ていたはるかの姿を探していることに気づき、きららは自分へ腹を立てた。

 

「きらら、今日は少し視線が硬いね」

 

カメラマンに指摘され、きららは瞬きをする。

 

「すみません。もう一度お願いします」

 

気持ちを切り替え、指定された位置へ戻った。

 

その直後、マネージャーが携帯電話を手に近づいてくる。

 

「きらら、昨日のオーディションだけど」

「結果、来たんですか?」

「合格。ボアンヌさんが、次の広告はあなたで進めたいって」

 

一瞬、周囲の音が消えた。

 

「本当ですか?」

「おめでとう。今日、この後に衣装合わせをしたいそうよ。場所は夢ヶ浜の展示ホール近く」

 

胸の奥から喜びが込み上げる。

 

自分の力だけでは届かなかった結果だ。桃色の花飾りを選んだはるかの言葉がなければ、同じ衣装のまま終わっていたかもしれない。

 

きららは携帯電話を取り出した。

 

はるかとのメッセージ画面を開き、文字を入力する。

 

『受かった』

 

送信ボタンへ指を近づけ、止めた。

 

自分から連絡すれば、はるかはまた距離を詰めてくるかもしれない。それに、合格したからといって真っ先にはるかへ知らせる理由などない。

 

入力した文字をすべて消す。

 

その直後、携帯電話が震えた。

 

プリキュアの緊急連絡へ、アロマから通知が入っている。

 

『夢ヶ浜科学展示会場にゼツボーグ出現ロマ!』

 

続いて、みなみからも連絡が届いた。

 

『一般のお客様の避難を優先しています。きららさんは仕事へ向かってください』

 

はるかからのメッセージはなかった。

 

助けてほしいとも、来てほしいとも書かれていない。

 

「きらら、車が来たわよ」

「はい」

 

携帯電話を鞄へしまい、きららはスタジオを出た。

 

夢ヶ浜科学展示会では、多くの研究者や企業が新しい技術を発表していた。

 

その一角で、若い研究者が小型発電装置の説明をしている。災害時、僅かな光や風から電力を作り、避難所へ明かりを届けるための装置だった。

 

「絶望の闇に、くだらない光を灯そうってのか!」

 

クローズが現れ、研究者の胸へ黒い鍵穴を作り出す。

 

「お前の夢を見せてみろ!」

 

研究者の身体が檻へ閉じ込められた。

 

「僕は……災害で困っている人へ、光を届けたい!」

 

夢から生み出されたのは、巨大な計算機と複数のロボットアームを備えた科学者型のゼツボーグだった。

 

会場内が悲鳴に包まれる。

 

はるかとみなみは来場者を外へ誘導した後、人目のない展示室へ駆け込んだ。

 

「プリキュア・プリンセスエンゲージ!」

 

二つの光が弾け、キュアフローラとキュアマーメイドがゼツボーグの前へ立つ。

 

しかし、怪物は二人の攻撃を計算し、先回りするようにロボットアームを動かした。

 

フローラが右から踏み込めば、その位置へ鉄球が落ちる。マーメイドが水流を放てば、盾を展開して防ぐ。

 

「動きが読まれているわ!」

「それなら、もっと速く!」

 

フローラが跳び上がる。

 

ゼツボーグは着地点を予測し、巨大な腕を振り下ろした。

 

フローラは空中で身体を捻り、どうにか直撃を避ける。しかし、衝撃で展示台の一部が崩れ、逃げ遅れた親子へ向かって倒れ始めた。

 

「危ない!」

 

フローラは親子を庇い、背中で展示台を受け止めた。

 

「きららを呼ぶロマ!」

 

アロマがプリンセスパフュームを抱え、携帯電話へ向かう。

 

「駄目!」

 

フローラが止めた。

 

「きららちゃんには、きららちゃんの夢があるから」

「でも、このままでは危険ロマ!」

「わたしたちで、何とかする!」

 

フローラは震える腕で展示台を押し返した。

 

衣装合わせへ向かう車は、科学展示会場の近くで止まっていた。

 

道路が封鎖され、前方には長い車列ができている。遠くから爆発音が響くたび、黒い煙が空へ上がった。

 

「困ったわね。このままじゃ衣装合わせに間に合わない」

 

マネージャーが地図を確認する。

 

「別の道は?」

「向こうも通行止め。ボアンヌさんのスタッフには私から連絡するけど、三十分は遅れると思う」

「分かりました。理由を伝えてください。遅れても必ず行きます」

「ええ。先方と調整するわ」

 

きららは鞄の中の携帯電話を握った。

 

誰も来いとは言っていない。

 

仕事へ行けと、みなみは書いていた。はるかも自分の夢を壊したくないと言った。

 

ここで衣装合わせへ向かっても、責める者はいない。

 

「……少し、外の様子を見てきます」

「きらら?」

「道路が動きそうか確認するだけです」

 

車を降り、角を曲がる。

 

人々は展示会場から離れる方向へ走っていた。警備員が避難を呼びかけ、周辺の店も扉を閉め始めている。

 

きららはアロマへ電話を掛けた。

 

数回の呼び出し音の後、慌ただしい声が聞こえる。

 

『きららロマ!?』

「プリンセスパフュームとキー、持ってきて」

『戦ってくれるロマ?』

「まだ決めてない」

『ええっ!?』

「でも、今は貸して」

 

電話を切り、きららは展示会場へ向かって走り出した。

 

会場の中央では、フローラとマーメイドが追い詰められていた。

 

二人の動きはすべて予測され、攻撃へ移るより先に妨害される。マーメイドがロボットアームへ拘束され、フローラも巨大な計算機の下敷きになりかけていた。

 

「結局、二人じゃ何も守れねえじゃねえか!」

 

クローズが笑う。

 

ゼツボーグが、避難途中の人々へ腕を向けた。

 

その前へ、黄色い光が落ちる。

 

「プリキュア・プリンセスエンゲージ!」

 

星の光をまとい、キュアトゥインクルが着地した。

 

巨大な腕を蹴り上げ、攻撃の軌道を変える。

 

「きららちゃん!」

 

フローラの顔が明るくなる。

 

トゥインクルは怪物から目を離さず、手を振った。

 

「今はそっちに集中して」

「来てくれて、ありがとう!」

「勘違いしないで。頼まれたから来たんじゃない」

「うん!」

「今日、ここに来たかったのは、あたしだから」

 

トゥインクルはゼツボーグへ駆け出した。

 

右へ踏み込み、直前で左へ方向を変える。怪物の予測が修正されるより先に、ロボットアームの上へ飛び乗った。

 

一定の歩幅から、急に速度を変える。ランウェイで身につけたターンを応用し、狙う場所を寸前まで悟らせない。

 

「計算できない動きなら、どうするの!」

 

ロボットアームの関節へ蹴りを叩き込む。

 

拘束が緩み、マーメイドが脱出した。

 

「トゥインクル、足場を作るわ!」

 

マーメイドが水流を放ち、空中へ道を作る。

 

トゥインクルはその上を駆け、ゼツボーグの頭上へ跳び上がった。怪物が迎撃しようと腕を上げた瞬間、フローラの蔓が動きを止める。

 

「今だよ、トゥインクル!」

 

三人の動きを同時に計算しきれず、ゼツボーグの表示板にエラーが連続する。

 

トゥインクルは檻の中の研究者を見た。

 

暗い場所へ光を届けるために、何度も失敗しながら装置を作り続けた人。その夢は、怪物と戦うために生まれたものではない。

 

それでも、誰かを守りたいという思いは、プリキュアと変わらなかった。

 

「あんたの夢は、人を絶望させるためのものじゃない」

 

黄色いドレスアップキーを掲げる。

 

「あたしが、もう一度輝かせてあげる!」

 

キーをプリンセスパフュームへ差し込み、光を解放する。

 

「モードエレガント!」

 

星を散りばめたドレスが大きく広がった。

 

「プリキュア・トゥインクル・ハミング!」

 

無数の星がゼツボーグを包み込む。

 

黒い力が砕け、巨大な身体が光の中で消えていく。檻が開き、研究者は無事に解放された。

 

クローズは悔しげにトゥインクルを睨んだ。

 

「またてめえか!」

「次からは、もう少し計算しにくい相手を選んだら?」

「覚えてろ!」

 

黒い翼が広がり、クローズの姿が消える。

 

戦いを終えた三人は、人目のない展示室へ移動した。

 

変身を解いたきららは、プリンセスパフュームとキーを見下ろした。

 

昨日は、迷わず返した。

 

今も返そうと思えば返せる。手を伸ばせば、すぐ近くにアロマがいる。

 

しかし、きららは二つを握ったまま顔を上げた。

 

「あたし、プリキュアやる」

「本当!?」

 

はるかが飛びつこうとする。

 

きららは片手を突き出し、その動きを止めた。

 

「ただし、条件がある」

「何でも言って!」

「仕事や学校がある時は、無理に呼び出さない。行けない時に責めたり、罪悪感を持たせたりしない」

「うん」

「昔のことやキラって名前は、誰にも話さない」

「うん」

「それから、勝手に抱きつかない」

「うん――あれ?」

 

はるかは抱きつこうとして上げていた腕を止めた。

 

「最後だけ、今増えなかった?」

「昨日の分」

「じゃあ、聞いてからならいい?」

「駄目」

「まだ聞いてないよ?」

「聞かれても駄目」

「今日は我慢する……」

 

はるかは残念そうに腕を下ろした。

 

本当に抱きついてこない。

 

きららは少しだけ意外に思ったが、顔には出さなかった。

 

「条件は分かったわ」

 

みなみが穏やかに微笑む。

 

「お互いの事情を知り、支え合うのが仲間ですもの。きららさんだけが何かを諦める必要はないわ」

「簡単に両立できるとは思ってないけどね」

「ええ。難しい時は、三人で方法を考えましょう」

「それなら……まあ、やってみる」

 

きららはプリンセスパフュームとキーを鞄へ入れた。

 

アロマが嬉しそうに飛び回る。

 

「これでプリンセスプリキュアが三人そろったロマ!」

「きららちゃん、これからよろしくね!」

「その呼び方」

「えっ?」

「きららでいい」

 

はるかが目を丸くする。

 

きららはみなみへ視線を向けた。

 

「あたしも、みなみって呼ぶから」

「分かったわ、きらら」

「それで、そっちは――」

 

はるかを見る。

 

期待に満ちた顔で待っていた。

 

「はるかでいいでしょ」

「うん!」

 

返事と同時に、はるかが一歩近づく。

 

きららが睨むと、途中で止まった。

 

「抱きついていい?」

「駄目」

「じゃあ、握手は?」

「それなら、まあ」

 

きららが差し出した手を、はるかは両手で握った。

 

力が強い。

 

「痛い」

「ご、ごめん!」

 

はるかは慌てて手を緩める。

 

きららは呆れながらも、その手をすぐには離さなかった。

 

「そういえば」

 

きららは思い出したように口を開く。

 

「昨日のオーディション、受かった」

「本当!?」

「今から衣装合わせ。遅れるって連絡してもらってるから、もう行かないと」

「おめでとう、きららちゃん!」

「ちゃんと、きららって呼べてないけど」

「きららちゃんは、きららちゃんだよ」

「さっきの話、何だったの」

 

はるかは嬉しそうに笑っている。

 

花飾りを選んだ本人へ、ようやく伝えられた。

 

それだけで、合格の喜びが少し大きくなった気がした。

 

きららは遅れて衣装合わせの会場へ到着した。

 

担当者へ事情を説明して謝罪し、すぐ作業へ入る。寸法の確認、衣装の仮合わせ、撮影日の調整。戦いの疲労は残っていたが、最後まで集中を切らさなかった。

 

寮の部屋へ戻った頃には、夜も遅くなっていた。

 

入浴を済ませ、机へ向かう。

 

手帳を開くと、明日の予定も空白がない。

 

朝の自主トレ。授業。放課後の撮影。インタビュー。帰寮後の宿題。プリキュアの緊急連絡へ対応する時間も考えなければならない。

 

以前より、確実に忙しくなった。

 

携帯電話が震える。

 

『オーディション合格、本当におめでとう!』

 

はるかからだった。

 

続いて、もう一通届く。

 

『明日の朝、一緒にお祝いしようね!』

 

日時も確認せず、すでに一緒に食べることが決まっているらしい。

 

きららは返信せず、手帳の朝食欄へ文字を書いた。

 

七時――はるかと朝食。

 

一度ペンを止め、「はるかと」の部分へ線を引こうとする。

 

だが、結局何も消さなかった。

 

きららの予定は、昨日より少しだけ窮屈になった。

 

それでも、その予定を消そうとは思わなかった。

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