星の王子と花の姫君   作:百合魔神

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夢は、ラケットの向こう側

 

 

球技大会で一番プリンセスらしい競技は何か。

 

黒板に並んだ三つの種目を見比べ、はるかが答えを出すまでに三秒もかからなかった。

 

「わたし、テニスにする!」

 

サッカー、バスケットボール、テニス。その中から一つを選び、男女で組んだチームやペアで競うのが、ノーブル学園の球技大会だった。

 

教室のあちこちで相談する声が上がる中、きららは隣の席へ頬杖をつく。

 

「テニスやったことあるの?」

「ないよ。でも、白いウェアでラケットを持つなんて、すっごくプリンセスっぽいでしょ?」

「この前、見た目だけがプリンセスじゃないって習ったばっかじゃん」

「うっ……。だ、だから、中身もこれから頑張るの!」

 

はるかが両手を握る。それだけで何とかなると思っていそうな顔だった。

 

きららは呆れながら、希望用紙のバスケットボールへ丸をつけた。屋内なら日焼けを気にしなくて済むうえ、撮影の合間にも練習しやすい。

 

みなみはサッカーを選び、男子生徒からどよめきが上がった。生徒会長と同じチームになりたい者が、一斉にサッカーへ希望を変えようとして教師に止められている。

 

種目が決まると、次はチーム分けだった。

 

テニスのダブルスペアが読み上げられていく。教師がはるかの名前に続けて「藍原ゆうき」と告げた瞬間、教室の女子たちが揃って振り返った。

 

「藍原くんと?」

「いいなあ、春野さん」

「でも、春野さんってテニスできたっけ?」

 

羨ましさだけではない視線も混じっている。はるかはそれに気づかず、教室の後方に座る男子を探した。

 

藍原ゆうきは、窓際の席で配られた組み合わせ表を見ていた。短く整えた髪に、日に焼けた肌。周囲の騒ぎには慣れているらしく、特に表情を変えずに立ち上がる。

 

「春野」

「は、はい!」

「放課後、テニスコートに来い。どれくらいできるか見たい」

「分かった。よろしくね、ゆうきくん!」

 

はるかが明るく答えると、ゆうきはわずかに眉を動かした。

 

「何で俺の名前を知ってるんだ?」

「え? みんなが呼んでたからだけど……」

 

拍子抜けしたように、ゆうきが目を逸らす。その様子を離れた席から見ていたきららへ、みなみが声をかけた。

 

「人気者同士、お似合いのペアかもしれないわね」

「はるかは人気者っていうより、目立つだけでしょ」

「そうかしら?」

「そうなの」

 

答えながら、きららは再び組み合わせ表へ目を落とした。

 

誰とはるかが組もうと、自分には関係ない。そう思ったはずなのに、藍原ゆうきという名前だけが、妙に目へ残った。

 

放課後のテニスコートに、乾いた音が響いた。

 

ゆうきの打ったボールが地面で弾み、はるかの横を通り過ぎる。はるかのラケットは、何もない空間を勢いよく振り抜いていた。

 

「あれ?」

「もう一球いくぞ」

「う、うん!」

 

二球目はラケットの縁に当たり、真上へ飛んだ。落ちてきたボールを追いかけたはるかが足をもつれさせ、危うく転びかける。

 

三球目は、ラケットにさえ触れなかった。

 

ゆうきがボールを拾い、深いため息をつく。

 

「春野。テニス、何年やってる?」

「今日が初めてだよ」

「……は?」

「でも、これから練習すれば――」

「待て。初心者なのに、どうしてテニスを選んだんだよ」

 

はるかはラケットを胸の前へ寄せた。教室で答えた時ほどの自信はなかったが、嘘をつく理由もない。

 

「テニスって、一番プリンセスっぽいかなって」

「プリンセス?」

 

ゆうきの目が丸くなり、次いで呆れたように細められる。

 

「そんな理由で選んだのかよ。こっちは遊びじゃないんだぞ」

「遊びのつもりじゃないよ!」

「ボールにも当てられないやつが言うな。試合では俺が全部やるから、春野は邪魔だけしないでくれ」

 

胸の奥へ、古い痛みがよみがえった。

 

絵本を抱え、プリンセスになりたいと話すたび、できるわけがないと笑った男の子。顔立ちは変わっていたが、怒った時に少しだけ上がる右の眉には見覚えがあった。

 

「もしかして……ゆうきくん、あの時の?」

「あの時?」

 

ゆうきも、はるかの顔を見つめ直した。

 

やがて何かに気づき、目を見開く。

 

「お前、幼稚園の時もプリンセスになるって言ってたやつか」

「やっぱり!」

 

懐かしい再会のはずなのに、嬉しさはまるでなかった。ゆうきも同じらしく、額へ手を当てている。

 

「昔から全然変わってないな」

「ゆうきくんだって、昔からいじわる!」

「本当のことを言ってるだけだろ」

 

言い返そうとしたはるかの耳へ、思いがけない名前が届いた。

 

「そういや、お前、あの頃よく公園にいた男の子と遊んでたよな。短い髪で、やたら生意気な……キラだっけ?」

 

はるかの指が、ラケットの柄を強く握る。

 

「キラくんは生意気じゃないよ」

「俺が何か言うたび、お前の前に出てきただろ。今も会ってるのか?」

 

答える前に、現在のきららの姿が浮かんだ。

 

きららが自分で話そうと思うまで、自分の口から誰かに伝えてはいけない。考えるより早く、はるかの答えは決まっていた。

 

「キラくんは、遠くへ引っ越したの」

「ふうん」

 

ゆうきはそれ以上興味を示さず、ボールを籠へ戻した。

 

「とにかく、試合で俺の邪魔はするなよ」

「待って。わたし、まだ――」

「今日は終わりだ」

 

ラケットを抱えたまま、はるかは遠ざかる背中を見送った。

 

悔しい。夢を笑われたことも、何もできないと決めつけられたことも。

 

けれど、一番悔しかったのは、言い返すためのものを何一つ持っていない自分だった。

 

第二生徒会室へ戻ったはるかは、机に突っ伏した。

 

パフが心配そうに椅子の周りを歩き、アロマは事情を聞こうとはるかの肩へ乗る。みなみときららは、向かい側の席に座っていた。

 

「昔から、ああなの。わたしがプリンセスになりたいって言うたび、無理だって笑って」

「最低。今からあたしが文句言ってこようか?」

「きらら、それでは何も解決しないわ」

「でも、言い方ってものがあるでしょ」

 

きららは苛立ちを隠さず、組んだ腕へ指を食い込ませた。

 

はるかは少し迷った後、ゆうきがキラのことを覚えていたと伝える。きららの指が止まり、表情から怒りが消えた。

 

「それで、何て答えたの?」

「遠くへ引っ越したって言ったよ」

「……半分は本当だけど。どうして?」

 

きららの声が、わずかに低くなる。はるかは机から身体を起こし、真っ直ぐに彼女を見た。

 

「きららちゃんが話したいと思うまでは、わたしが言っちゃいけないことだから」

 

迷いのない答えだった。

 

きららは何かを言いかけ、結局、窓の外へ顔を向ける。

 

「そ。ならいいけど」

「きららちゃん、もしかして心配してた?」

「してない。はるかがうっかり喋ってないか確認しただけ」

「でも、お耳が赤いパフ」

「パフ」

 

きららに睨まれ、パフがアロマの後ろへ隠れる。はるかが小さく笑うと、部屋に張っていた空気が少しだけ緩んだ。

 

その様子を見届けてから、みなみが口を開く。

 

「藍原くんの言い方は褒められたものではないわ。ただ、彼の言葉にも考えるべきところはあると思うの」

「みなみさん?」

「はるかにとって、テニスはプリンセスらしく見える競技だった。でも、彼にとっては違うのでしょう」

 

はるかは膝の上に置いたラケットを見る。

 

ゆうきは遊びではないと言った。その時の目は、はるかの夢を笑った幼い頃とは違っていた。

 

「わたし、テニスを軽く考えてたのかな」

「始めた理由が何であれ、その後どう向き合うかが大切よ」

「だったら、ちゃんとやる」

 

はるかはラケットを握り直し、椅子から立ち上がった。

 

「夢を笑われたからじゃない。ゆうきくんが大切にしてるものを、わたしが軽く扱ったままにしたくないの」

 

その言葉に応えるように、プリンセスレッスンパッドが光り出す。

 

画面から飛び出したミス・シャムールが、机の上へ優雅に着地した。赤いリボンを揺らし、肉球のついたステッキを肩へ担ぐ。

 

「ごきげんよう、エブリワン! 何やらミーのプリンセスが、お悩みのようねん」

「ミス・シャムール!」

 

はるかがラケットを抱えて駆け寄る。

 

「わたしに、テニスを教えてください!」

「Tennis?」

 

シャムールははるかの頭から足元までを見た後、ラケットへ視線を移す。

 

「なるほど。プリンセスはるかは、コートの上でElegantに輝きたいのねん」

「最初は、そう思って選びました。でも、今は違います」

 

はるかはラケットを強く握る。

 

「一緒に戦う人の夢を、軽く扱いたくないんです。ちゃんと練習して、パートナーとしてコートに立ちたいんです」

「Very Good!」

 

シャムールがステッキを一振りする。

 

全身が光に包まれ、猫のような小さな姿がみるみる伸びていく。光が消えた時、そこには紫と白のスポーツウェアをまとった長身の女性が立っていた。

 

長い黒髪が左右に広がり、腰の後ろでは猫の尻尾が揺れている。赤いリボンと肉球のステッキだけは、先ほどと変わらなかった。

 

「ええっ、人になった!」

「Oh! ユーたちに見せるのはFirst timeだったかしらん?」

 

驚く三人の前で、シャムールは軽やかに一回転する。

 

「テニスコートでは、このスタイルがBestねん。驚くのはそこまで。プリンセスはるか、ミーについていらっしゃい」

「はい!」

「それでは、テニスレッスン――スタートよん!」

 

シャムールは肉球ステッキを掲げ、颯爽と扉へ向かった。

 

「プリンセスらしいElegantな一球。その裏には、何百、何千というPracticeがあることを、しっかり教えてあげるわねん」

 

それから、はるかの特訓が始まった。

 

最初はラケットの握り方。次は構えと素振り。ボールを打つより前に、コートの端から端まで何度も走らされた。

 

「腕だけでSwingしない! もっとFootworkを使うのよん!」

「は、はいっ!」

「腰をTurn! 最後までBallから目を離さない!」

「はいっ!」

「声はGood! でも足がStopしてるわねん。もう一度、Let’s Try!」

 

はるかは息を切らしながら、再びコートを走る。

 

みなみは本を片手にフォームを確認し、はるかの重心が崩れるたび指摘する。パフとアロマはコートに散らばったボールを拾い集めた。

 

きららは練習相手を引き受けた。

 

モデルの仕事で鍛えた身体の使い方は、初めて握るラケットにも応用できたらしい。きららが放つボールは、はるかより遥かに速く、狙った場所へ正確に落ちた。

 

「Nice Serve、プリンセスきらら! Excellentよん!」

「このくらいならね」

「いくよ、はるか」

「うん!」

「ちゃんと拾って」

「えっ、速――きゃあ!」

 

打ち返せなかったボールが、はるかの後ろのフェンスへ突き刺さる。

 

次の球は反対側。はるかが必死に駆けてラケットを伸ばすと、ボールは縁へ当たり、かろうじてネットを越えた。

 

「やった!」

「喜ぶのはEarlyよん。Next ball!」

「まだ来るの!?」

「本番のRallyは、ユーの準備を待ってくれないわねん」

 

シャムールの声と同時に、きららの次の一球が飛んでくる。

 

はるかは再びコートを走らされた。何度転んでも起き上がり、落としたラケットを握り直す。

 

休憩に入る頃には、はるかはベンチから立てないほど疲れていた。隣では、きららが腕時計を確認し、撮影先へ向かう準備をしている。

 

「きららちゃん、今日ちょっと厳しくない?」

「本番の相手は待ってくれないよ」

「もしかして、ゆうきくんに怒ってる?」

「別に。あいつが何を言おうと、あたしには関係ないし」

 

そこまで言ってから、きららは自分の言葉に眉を寄せた。

 

会ったこともない相手を、いつの間にか「あいつ」と呼んでいた。

 

「とにかく、そんなボロボロのグリップじゃ手を痛めるから。これ、替えておきなよ」

 

きららは鞄から新品のグリップテープを取り出し、はるかの膝へ置く。

 

「ありがとう、きららちゃん」

「仕事の時間だから行くね。無理してケガしないでよ」

「うん。撮影、頑張ってね!」

 

はるかに見送られ、きららはコートを後にした。

 

自分には関係ないと言ったばかりなのに、帰りが遅くなれば、はるかが無茶をしていないか気になった。撮影中も、ラケットを振るはるかの姿が頭から離れなかった。

 

「プリンセスはるか。本日のLessonはここまでねん」

 

シャムールが手を叩く。

 

「ユーのフォームは、まだまだPerfectには遠いわ。でも、昨日より今日、今日より明日。努力を重ねた分だけ、ボールはちゃんとAnswerを返してくれるのよん」

「はい!」

「Don’t rush。急いで結果を欲しがるより、今の一球を大切にすることねん」

「ありがとうございました!」

 

はるかが深く頭を下げる。

 

「Good luck、プリンセスはるか。本番で、ユーらしい花を咲かせていらっしゃい」

 

シャムールは片目を閉じ、プリンセスレッスンパッドへ戻っていった。

 

数日後、はるかは日が傾いたコートで、一人練習を続けるゆうきを見つけた。

 

右手にはテーピングが巻かれている。それでもゆうきは、同じ場所から何度もサーブを放っていた。

 

「まだ練習してたの?」

「春野こそ、こんな時間に何してる」

「忘れ物を取りに来たの。手、痛いんじゃない?」

「これくらい、何でもない」

 

放たれたボールが、コートの隅へ鋭く入る。

 

それでも納得できなかったのか、ゆうきは首を横に振った。

 

「次の大会では全国まで行きたいんだ。球技大会だからって、適当にやるつもりはない」

「全国……」

「笑うか?」

「笑わないよ」

 

はるかは強く首を横へ振った。

 

「夢を笑われるのがどんな気持ちか、知ってるから」

 

ゆうきが気まずそうに口を閉じる。

 

はるかはネット越しに、ゆうきの立つコートを見た。

 

「わたし、ゆうきくんに勝ちたいんじゃない。一緒に勝てる人になりたい」

「お前が?」

「今はまだ下手だけど、もっと練習する。だから、最初からいないみたいに扱わないで」

 

しばらく答えはなかった。

 

やがて、ゆうきが足元のボールをラケットで拾い上げる。

 

「グリップ、握りすぎだ」

「え?」

「力を入れすぎるから、ラケットが遅れる。もう少し手首を柔らかくしろ」

 

ゆうきはネットを回り込み、はるかの持つラケットへ手を添えた。

 

「こうだ。親指はそこじゃない」

「こう?」

「違う。だから――」

 

ちょうどその時、撮影を終えたきららがコートへ戻ってきた。

 

冷たいスポーツドリンクを二本持っていた。一人で残っているかもしれないはるかへ、差し入れるつもりだった。

 

コートでは、ゆうきがはるかの手を取り、ラケットの角度を直している。はるかも真剣な顔で、その説明を聞いていた。

 

きららは足を止める。

 

声をかける理由が見つからないまま、スポーツドリンクを鞄へ戻した。

 

翌朝、体育館ではバスケットボールの練習が行われていた。

 

きららの放ったボールが、リングへ触れずにネットを通る。続くシュートも、その次も、一度も外れない。

 

「きらら、今日は随分と力が入っているのね」

 

サッカーの練習を終えたみなみが、体育館の入口に立っていた。

 

「普通だけど」

「そう? ゴールが壊れてしまいそうよ」

「壊れないでしょ、このくらいで」

 

きららは床で弾んだボールを拾い、再び構える。

 

みなみは少し考えた後、穏やかな声で尋ねた。

 

「はるかが藍原くんと親しくなるのが、気になるの?」

「は?」

 

ボールが手から滑り、足元へ落ちた。

 

「そんなんじゃない。昔のことを喋られたら困るだけ」

「はるかは、あなたの秘密を守ると言ったわ」

「分かってる」

「なら、何が気になるのかしら」

 

答えは浮かばなかった。

 

はるかが誰と話そうと、誰と練習しようと、自分には関係ない。それなのに、二人が並ぶ光景を思い出すだけで、胸の奥に小さな棘が刺さる。

 

「……知らない」

「そう」

 

みなみは追及しなかった。ただ、わずかに微笑む。

 

「今は、そういうことにしておきましょう」

「みなみ、その分かったような顔やめて」

 

きららは照れ隠しのようにシュートを放つ。今度のボールはリングの縁へ強く当たり、大きく跳ね返った。

 

球技大会当日、ノーブル学園は朝から歓声に包まれた。

 

校庭ではサッカー、体育館ではバスケットボール、テニスコートではダブルスの試合が同時に進んでいる。普段とは違う生徒たちの熱気が、学園中を満たしていた。

 

みなみはサッカーコートの中央から的確な指示を送り、自らも鮮やかなシュートを決める。生徒会長らしい統率力に、敵味方を問わず歓声が上がった。

 

きららも負けてはいない。

 

相手選手の間を軽やかに抜け、味方からのパスを受けて跳び上がる。指先から離れたボールが弧を描き、ゴールへ吸い込まれた。

 

「きゃー! きららちゃん!」

「さすが天ノ川さん!」

 

観客席から声が飛ぶ。きららは片手を上げて応えながら、壁の時計を確認した。

 

はるかの試合開始まで、あと五分。

 

試合終了の笛が鳴ると同時にタオルを掴み、きららは体育館を飛び出した。

 

テニスコートへ着いた時には、はるかとゆうきが入場するところだった。少し遅れて、サッカーの試合を終えたみなみもやってくる。

 

「間に合ったわね」

「別にはるかを見に来たわけじゃないけど」

「では、戻る?」

「みなみは見なくていいの?」

 

きららはフェンスの前から動かない。みなみは笑みを深めるだけで、それ以上は何も言わなかった。

 

最初のサーブは、はるかだった。

 

ボールを高く上げ、膝を曲げる。何度も繰り返した動きを思い出しながら、ラケットを振り抜いた。

 

軽快な音が響く。

 

ボールはネットを越え、相手コートのサービスエリアへ入った。

 

「入った!」

 

思わず喜ぶはるかへ、ゆうきが鋭く声を飛ばす。

 

「春野、次が来るぞ!」

「うん!」

 

返されたボールを、ゆうきが打ち返す。相手ペアが逆側を狙うと、はるかが懸命に走り、ラケットを伸ばした。

 

ボールがふわりとネットを越える。

 

ゆうきがすぐに前へ出て、浮いた球を打ち込んだ。ポイントが決まり、観客から歓声が上がる。

 

「今の、悪くなかった」

「ほんと?」

「一球で喜ぶな。次を見ろ、春野!」

「分かってるよ!」

 

言い合いながらも、二人はそれぞれの位置へ戻る。

 

試合が進むにつれ、ゆうきは一人で全てを打とうとしなくなった。はるかも無理に決めようとせず、ゆうきが動きやすい場所へ球をつなぐ。

 

二人の動きが噛み合うたび、きららの胸の棘は妙に深くなった。

 

「随分、上達したわね」

「……あたしが練習相手したんだから、当然でしょ」

 

みなみへ答えながら、きららはフェンスを握る指へ力を込めた。

 

次のラリーが始まろうとした時、空気を切り裂くような笑い声が響いた。

 

「何と泥臭い。たった一球を追いかけ、汗にまみれるなど、美しさの欠片もありませんね」

 

コートの上へ、黒い羽根が舞い落ちる。

 

赤い薔薇を手にしたシャットが、審判台の上に立っていた。

 

「何だ、お前。今は試合中だぞ!」

 

ゆうきがラケットを握ったまま叫ぶ。

 

「俺たちは、この日のために練習してきたんだ。邪魔をするな!」

「ほう。その瞳……夢をお持ちのようですね」

 

シャットが不気味に微笑む。

 

「言ってみなさい。あなたの夢を」

「誰にも負けないテニスプレイヤーになることだ。全国へ行って、その先にも!」

 

ゆうきの胸元へ、黒い鍵穴が浮かび上がった。

 

「クローズ・ユア・ドリーム!」

 

茨がゆうきの身体へ絡みつき、絶望の檻へ閉じ込める。ラケットやボール、ネットを巻き込み、巨大なテニス選手の姿をしたゼツボーグが立ち上がった。

 

「ゼツボーグ!」

 

悲鳴を上げ、生徒たちがコートから逃げ出す。

 

みなみときららは混乱する観客を安全な場所へ誘導する。はるかも転んだ生徒を助けてから、コート脇の建物へ駆け込んだ。

 

誰も見ていないことを確かめ、ドレスアップキーを取り出す。

 

「プリキュア・プリンセスエンゲージ!」

 

光のドレスが身体を包む。

 

「咲き誇る花のプリンセス! キュアフローラ!」

 

フローラがコートへ戻ると、ゼツボーグが巨大なボールを宙へ投げ上げた。

 

打ち下ろされた一球が地面へ突き刺さり、コートを大きく陥没させる。フローラは横へ跳んでかわし、落ちていたラケットを拾った。

 

次のボールが飛んでくる。

 

腕だけで振らない。足を動かし、腰を回し、最後までボールを見る。

 

シャムールから教わった言葉を思い出し、フローラはラケットを振り抜いた。

 

「はあっ!」

 

巨大なボールが打ち返され、ゼツボーグの胸へ直撃する。

 

「ゼツ、ボーグ!」

 

よろめいた怪物が、何本ものネットを放つ。フローラは一度はかわしたものの、背後から迫った網に捕まり、地面へ引き倒された。

 

ラケットが手から離れる。

 

絶望の檻の中で、ゆうきが拳を握っている。その手には、練習でできた傷が幾つも残っていた。

 

フローラは網を掴み、震える足へ力を込める。

 

「夢を本気で追いかけている人を……笑ったり、踏みにじったりさせない!」

 

幼い頃、何度笑われても捨てられなかった自分の夢。

 

一人きりでもラケットを振り続けていた、ゆうきの夢。

 

形は違っても、どちらも同じように大切なものだった。

 

「ゆうきくんは、一人でここまで頑張ってきた。でも、今はわたしも一緒にコートへ立ってる!」

 

フローラが網を引き裂き、立ち上がる。

 

ゼツボーグがとどめの一球を打とうとした瞬間、星形の光がその腕へ命中した。

 

「そこまで!」

 

人のいなくなった校舎裏で変身を終えた、マーメイドとトゥインクルが駆け込んでくる。

 

「澄みわたる海のプリンセス! キュアマーメイド!」

「きらめく星のプリンセス! キュアトゥインクル!」

 

トゥインクルはフローラの前へ出ようとした。

 

しかし、ラケットを拾い上げたフローラの目には、迷いがなかった。

 

トゥインクルは足を止める。

 

守りたいからといって、いつも自分が代わりに戦えばいいわけではない。幼い頃に差し出した手を握りながらも、はるかは自分の足で立ち上がった。

 

今も同じだった。

 

「マーメイド、コートを空けるよ!」

「ええ!」

 

マーメイドの水流がゼツボーグの足元へ絡みつき、動きを封じる。トゥインクルは星の光で巨大なボールを弾き、フローラが打ち返せる高さへ軌道を変えた。

 

「はるか、決めて!」

「うん!」

 

フローラがコートを蹴る。

 

飛んできた一球へ、全身を使ってラケットを振り抜いた。

 

打ち返されたボールがゼツボーグを貫き、その巨体を大きく揺らす。フローラはプリンセスパフュームを構え、ドレスアップキーを差し込んだ。

 

「エクスチェンジ! モードエレガント!」

 

花びらが舞い上がり、フローラのドレスが大きく広がる。

 

「舞え、花よ! プリキュア・フローラル・トルビヨン!」

 

無数の花びらがゼツボーグを包み込む。

 

「ドリーミング……」

 

浄化された怪物が消え、ゆうきの身体が絶望の檻から解放された。シャットは悔しげに薔薇を噛み、黒い羽根とともに姿を消した。

 

目を開けたゆうきが見たのは、風に揺れる花びらと、こちらを振り返るフローラの姿だった。

 

その光景も、すぐに白い光へ溶けていった。

 

騒ぎが収まり、安全が確認されると、球技大会は再開された。

 

何が起きたのかをはっきり覚えている者は少ない。ゆうきも、長い夢から覚めたような顔でラケットを見つめていた。

 

試合前、ゆうきがはるかへ声をかける。

 

「俺、花みたいなプリンセスを見た気がする」

「えっ?」

「俺の夢を守るって言ってた。あんなのが本当にいるなら……お前の夢も、全部が作り話ってわけじゃないのかもな」

 

はるかの顔が明るくなる。

 

「それ、わた――」

「はるか、秘密ロマ!」

 

鞄の中から、アロマの小さな声が飛ぶ。はるかは慌てて口を閉じた。

 

「何だ?」

「な、何でもない!」

「変なやつ」

 

ゆうきは呆れながらも、以前のようには笑わなかった。

 

「サーブも、少しは形になったしな」

「少しだけ?」

「プリンセスになるよりは早いかもな。まあ、あと百年くらい練習すれば――」

「やっぱりいじわる!」

 

はるかが勢いよくサーブを打つ。

 

ラケットの中心へ当たったボールは真っ直ぐ飛び、避ける間もなく、ゆうきの額へ命中した。

 

「痛っ!」

「ご、ごめん、ゆうきくん!」

「どこ狙ってるんだ、春野!」

「わざとじゃないよ!」

 

フェンスの外にいたきららが、誰より早くコートへ入ってくる。

 

「ちょっと、はるかに何言ったの?」

「いや、ボールを当てられたのは俺なんだけど」

「きららちゃん、わたしが悪いの!」

「……紛らわしいことしないでよ」

 

きららは気まずそうに足を止める。みなみは口元へ手を添え、笑いを堪えていた。

 

試合が終わり、ゆうきは額を冷やしながら帰り支度を始めた。

 

ふと、思い出したようにはるかへ振り返る。

 

「そういえば、キラってやつも、お前がここまでできるようになったって知ったら驚くだろうな」

「ううん」

 

はるかは少し離れた場所に立つきららを見る。

 

「きっと、もう見てくれてるよ」

 

ゆうきもその視線を追った。そこにいたのは、バスケットボールのユニフォームを着た有名モデルで、幼い頃に公園で見かけた少年とは似ても似つかない。

 

「何で天ノ川?」

「秘密」

「またそれかよ」

 

ゆうきは理解できないまま、ラケットバッグを肩へ掛ける。

 

「次に組むことがあったら、今度は最初から足を引っ張るなよ」

「ゆうきくんこそ、ちゃんとわたしを頼ってよね!」

 

最後まで言い合いながら、二人は別れた。

 

はるかが手を振って見送っていると、きららが近づき、その手からラケットを取り上げる。

 

「まだフォームが崩れてる」

「きららちゃん?」

「次の仕事まで少し時間あるから、もう一回だけ付き合ってあげる」

「ほんと? ありがとう!」

 

はるかが嬉しそうにボールを拾いに走る。

 

きららはラケットを回しながら、その背中を目で追った。

 

「藍原くんに勝てないままじゃ、あたしが気に入らないだけだから」

「うん! 今度はきららちゃんから一本取るね!」

「言ったじゃん。簡単には取らせないよ」

 

ネットを挟み、二人はそれぞれのコートへ立つ。

 

はるかが誰とペアになろうと、自分には関係ない。

 

そう思いながら、きららは最後まで一度も、はるかのいるコートから目を離せなかった。

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