星の王子と花の姫君 作:百合魔神
ノーブルパーティーが終わってから、はるかは以前にも増して、きららのそばへ来るようになった。
昼休みになれば、弁当を抱えて隣の席へやってくる。廊下で姿を見つければ、遠くからでも名前を呼ぶ。放課後には、その日の撮影が何時に終わるのかまで尋ねてくる。
「今日もお仕事?」
「雑誌の撮影。夕方には終わるけど」
「じゃあ、帰ってきたら一緒にお茶しようね」
「なんで決定事項なの?」
そう返しながらも、きららは断っていなかった。
たった一度、パーティーで一緒に踊っただけだ。それ以前からはるかは馴れ馴れしかったし、今さら何かが変わったわけではない。
そう思っているのに、あの夜から、はるかに手を取られるたびに紺色のドレスと桃色の花びらが頭へ浮かぶようになった。
「最近、二人はずいぶん仲良くなったね」
昼休み。向かいに座っていたゆいが、柔らかく笑った。
はるかは弁当箱から顔を上げる。
「うん。きららちゃんとは、ずっと会いたかったから」
「ずっと?」
ゆいが首を傾げる。
はるかは何の警戒もなく口を開いた。
「きららちゃんはね、昔――」
「はるか」
思ったより強い声が出た。
はるかの肩が小さく跳ねる。ゆいも驚いて、きららを見る。
「な、なに?」
「次、移動教室でしょ。のんびり食べてたら遅れるよ」
「えっ。もうそんな時間?」
壁の時計を見たはるかが、残っていたおかずを慌てて口へ運ぶ。ゆいも急いで弁当箱を片づけ始めた。
それ以上、ゆいは尋ねなかった。
ただ、教室を出る直前、きららへ一度だけ視線を向けた。その目には疑いよりも、何かを気遣うような色があった。
放課後、三人は第二生徒会室へ集まった。
テーブルの上に置かれたプリンセスレッスンパッドが淡い光を放ち、空中へカナタの姿を映し出す。
『三人とも、聞こえるかい?』
「カナタ!」
はるかが身を乗り出す。先ほどまできららの隣にいたのに、今度は画面の中の王子へ満面の笑顔を向けていた。
胸の奥に、小さな針が刺さったような気がした。
きららはそれを無視して、椅子の背へ身体を預ける。
「何か分かったの?」
『ああ。ホープキングダムから失われた九つのドレスアップキー。そのうち、新たな三つが目覚めようとしている』
「本当ですか?」
みなみの問いに、カナタが頷く。
『反応があるのは、君たちがいるノーブル学園だ』
「この学園にキーがあるの?」
はるかが周囲を見回す。生徒会室の棚や机の下に隠れているとでも思ったのか、腰を浮かせてきょろきょろし始めた。
『正確な場所までは分からない。ただ、学園の中でも、特に多くの夢が集まる場所にあるようだ』
「夢が集まる場所……」
みなみが考え込む。
「図書室かな?」
はるかが最初に挙げた。
「絵本も小説も、いろんな人の夢が詰まってるから!」
「それなら、美術室や音楽室も当てはまるわ。運動場や各部の練習場所も外せないでしょうね」
「学園じゅうってことじゃん」
きららは頬杖をついた。
頭の奥で、何かが引っかかっていた。
ノーブル学園。新しいドレスアップキー。たくさんの夢が残された場所。
風車。
古びた壁に書かれた、いくつもの言葉。
断片的な映像がつながり、薔薇に囲まれた小屋の姿が浮かぶ。
そこにキーがある。
だが、学園のどこに風車があるのかは思い出せない。そこへ至るまでの細かな流れも曖昧だった。
『頼んだよ、プリンセスプリキュア。キーを狙い、ディスダークも動き出すかもしれない』
カナタの姿が消える。
はるかが振り返った。
「よし。みんなで探そう!」
「あてはあるわけ?」
「ないけど、探さなきゃ見つからないよ」
勢いだけで立ち上がるはるかを見て、きららは小さく息を吐いた。
それでも、風車のことは口にしなかった。
前世の記憶で知ったことを、どう説明すればいいのか分からない。それに、原作の展開へ余計な手を加えることへの恐れも、まだ消えてはいなかった。
未来は知っているだけなら安全網になる。
使い方を間違えなければ。
そう自分へ言い聞かせ、きららも椅子から立った。
三人は、学園内の心当たりを順番に回った。
図書室では、司書を目指している上級生が古い本を丁寧に修復していた。音楽室では、演奏家になりたいという生徒が一人で同じ小節を何度も弾いている。
美術室にはコンクール用の絵が並び、運動場では部員たちが日暮れまで走っていた。
「どこも夢でいっぱいだね」
窓から運動場を見下ろし、はるかが言った。
「これじゃ、どこにキーがあってもおかしくないよ」
「夢があるのは、あたしたちだけじゃないってことね」
きららは、走り続ける生徒たちを眺めた。
前世で見た物語では、彼らの多くは名前も与えられていなかった。画面の端に映り、主人公たちの日常を形作る背景だった。
だが、この世界では違う。
一人一人に名前があり、今日まで過ごしてきた日々があり、物語の先へ続く夢がある。
自分の知っている『Go!プリンセスプリキュア』は、この世界のほんの一部分にすぎない。
それでも、風車小屋にキーがあることだけは、間違っていないはずだった。
「みんな、何か探してるの?」
背後から声をかけられ、三人がそろって振り返る。
ゆいがスケッチブックを抱えて立っていた。
「さっきから学園じゅうを回ってるでしょう?」
「えっとね、大切な鍵を落としちゃって」
はるかが答えた。
みなみときららの顔が、同時に引きつる。
「三人で?」
「三人で……使う鍵なの!」
「それは大変だね」
ゆいは納得したように頷いた。
あまりに素直に信じられたため、今度はきららの方が申し訳なくなる。
「どんな鍵?」
「それが、見つけたことないから分からなくて」
「落としたのに?」
「はるか、もう黙ってた方がいいんじゃない?」
きららが止めると、はるかは口を両手で押さえた。
ゆいは困ったように三人を見比べる。少し考えた後、何かを思い出したように顔を上げた。
「鍵といえば、白金さんが持っていたよ」
「寮母の白金さんが?」
みなみが聞き返す。
「うん。寮の鍵とは違う、大きくて古そうな鍵。昔の物語に出てきそうな形だった」
「どこで見たの?」
きららは思わず立ち上がっていた。
ゆいが目を丸くする。
「日曜日の朝。白金さんが裏門の方へ歩いていく時に持ってたよ」
古びた鍵。白金さん。学園の裏手。
記憶の中の風車小屋とつながった。
「それかもしれない」
きららが呟くと、はるかの顔が輝いた。
「じゃあ、今度の日曜日、白金さんの後をついていってみよう!」
「尾行するってこと?」
「ちゃんと、見つからないようにするよ」
はるかには最も向いていない役割だった。
次の日曜日の朝、寮の玄関前には四人が集まっていた。
「どうしてゆいっちまでいるの?」
きららは、ゆいの姿を見て眉を寄せた。
「白金さんのことを教えてくれたのは、ゆいちゃんだから。一緒に探そうって」
はるかが答える。
「ゆいっちは来なくていいよ。あとは、あたしたちで調べるから」
「でも、白金さんを見つけたのはわたしだよ?」
「危ない場所かもしれないし」
ゆいの表情から、わずかに笑みが消えた。
「何が危ないの?」
「それは……」
答えられなかった。
風車小屋がゼツボーグにされる。崩れた梁の近くにいたゆいが転び、足を痛める。
それを知っているから、連れて行きたくない。
しかし、その理由を話すことはできなかった。
「何も説明しないで、危ないから来ないでっていうのは違うよ」
はるかが、ゆいを庇うように一歩前へ出た。
「説明できない事情があるの」
「それでも、ゆいちゃんが決めることまで取っちゃだめだよ」
「怪我するかもしれないんだよ?」
声が強くなる。
はるかが目を瞬いた。その顔を見て、きららは言いすぎたと気づく。
だが、もう遅かった。
「きららちゃん、何か知ってるの?」
「……知らない。ただ、何があるか分からないから言ってるだけ」
嘘ではない。
全部を知っているわけではない。覚えているのは断片だけで、何が起こるかを完全に予測できるわけでもない。
それでも、はるかは納得していない顔をしていた。
「だからこそ、一人で決めちゃだめだよ」
その言葉に、幼い頃の記憶が蘇る。
女の子だから、その服を着る。女の子だから、その名前で呼ばれる。女の子だから、そんな話し方をする。
自分が選ぶより前に、周囲が正しい答えを決めていた。
嫌だったはずなのに、今の自分はゆいが選ぶ前から答えを取り上げようとしている。
きららは息を吐いた。
「危なくなったら、絶対にあたしたちの言うことを聞くこと」
「うん」
「勝手に一人で動かない」
「分かった」
「本当に分かってる?」
「きららちゃん、心配性なんだね」
ゆいが笑う。
「誰のせいだと思ってるの」
白金さんが寮から出てきたため、話はそこで終わった。
四人は植え込みや木の陰へ隠れながら、白金さんの後をつけた。
はるかは木の幹へ身体を寄せているものの、右半分が完全に見えている。パフの尻尾も茂みの上から飛び出していた。
「はるか、もっと隠れて」
「隠れてるよ?」
「どこが。パフも尻尾を下げる」
「分かったパフ」
「声!」
「今、パフちゃん……しゃべった?」
ゆいが足を止めた。
「パ、パフ!」
パフは慌てて犬のように吠える。だが、どう聞いても犬らしくなかった。
「この子、変わった鳴き方をするのよ」
みなみが穏やかに取り繕う。
その横で、アロマが額を翼で押さえていた。
尾行と呼ぶにはあまりに騒がしかったが、白金さんは一度も振り返らなかった。
やがて林の中へ入る。曲がりくねった道を進むうち、先を歩いていたはずの白金さんの姿が見えなくなった。
「見失った……」
はるかが肩を落とす。
代わりに、木々の隙間から鮮やかな色が見えた。
薔薇だった。
幾重にも重なった薔薇のアーチが、林の奥へ続いている。四人がその下をくぐると、突然視界が開けた。
そこには、学園の表側からは見えない広いローズガーデンがあった。
赤、白、桃色。色とりどりの薔薇に囲まれた中央で、古びた風車が静かに回っている。
「ここ……」
記憶にある場所だった。
細部までは同じではない。前世で見た画面よりずっと広く、薔薇の香りも、風車が軋む音も鮮明だった。
それでも間違いない。
「きららちゃん、知ってたの?」
隣にいたはるかが尋ねる。
「知らない。なんとなく、ここだと思っただけ」
はるかはまだ何か言いたそうだったが、風車小屋の扉が開いていたことに気づき、そちらへ駆けていった。
小屋へ入った瞬間、四人は足を止めた。
壁一面に、文字と絵が残されていた。
『医者になって、多くの人を助けたい』
『父の店を継いで、町で一番のパンを焼く』
『世界中の海を研究する』
『誰かの心に残る歌を作る』
大きな文字、小さな文字。真っ直ぐ書かれたものもあれば、迷いながら何度もなぞられたものもある。
数え切れないほどの夢が、古い風車小屋を埋め尽くしていた。
「すごい……」
はるかが壁へ近づく。
「これ、全部夢なの?」
「そのとおりです」
背後から声がした。
振り返ると、いつの間にか白金さんが立っている。その手には、ゆいが見たという古びた鍵が握られていた。
尾行は最初から気づかれていたらしい。
「この風車小屋は、ノーブル学園を卒業する生徒だけが訪れる場所です。卒業する前に、自分の夢を書き残していくのですよ」
「どうして秘密にしているんですか?」
みなみが尋ねる。
「まだ学園で学んでいる途中の皆さんには、卒業するまで自分の夢と向き合ってほしいからです」
白金さんは壁を見上げた。
「夢は、いつも同じ形とは限りません。途中で変わることも、立ち止まることもあります。それでも、ここへ書いた時の思いは、その人が迷った時に帰ってこられる場所になるのです」
ゆいは、空いている壁の一角へ視線を向けた。
「わたしも、いつかここに書けるのかな」
「絵本作家になるんでしょ?」
はるかが当然のように言う。
ゆいは小さく笑った。
「うん。でも、夢って書いてしまったら、叶えられなかった時が怖いなって思うこともあるよ」
きららは、壁に残された文字を見た。
この中には、叶わなかった夢もあるだろう。別の夢へ変わった人も、書いたこと自体を忘れた人もいるかもしれない。
それでも、その時に信じたものまで嘘になるわけではない。
「叶わなかった夢だってあると思うよ」
ゆいが、きららを見る。
「でも、書いた時に本気だったなら、嘘にはならないんじゃない?」
それは、自分自身にも向けた言葉だった。
前世で男だった自分が持っていた夢。天ノ川きららとしてモデルになりたいと思った夢。
どちらかが本物で、どちらかが偽物というわけではない。
「うん。そうだね」
ゆいが頷く。
その時、風車の軋む音に重なって、別の記憶が蘇った。
入口。落ちてくる梁。逃げ遅れたゆい。
きららは周囲を見回した。
記憶の中でゆいが怪我をしたのは、扉の近くだった。
「ゆいっち」
「なに?」
「こっちから見た方が、壁の夢がよく見えるよ」
きららは、ゆいを小屋の奥へ連れていく。分厚い柱に囲まれ、天井の梁からも離れた場所だった。
「本当だ。ここ、いろんな夢が一度に見えるね」
ゆいは疑わず、壁を見上げた。
これなら大丈夫だ。
クローズが現れても、落ちてくる梁には当たらない。
記憶どおりに動けば、守れる。
そう確信した瞬間、風車小屋の中へ黒い羽根が舞い込んだ。
「夢、夢、夢……どいつもこいつも、くだらねえもんばっかり残しやがって!」
低い声が響く。
黒いコートをまとったクローズが、風車の太い軸の上へ降り立った。
「クローズ!」
はるかが身構える。
「壁に願いを書きゃあ、夢が叶うってのか? 笑わせるぜ!」
クローズが片手を掲げる。
壁に残された文字から黒い光が立ち上り、風車小屋全体へまとわりついた。
「クローズ・ユア・ドリーム!」
いくつもの夢が黒い檻へ閉じ込められる。
風車が激しく回り始めた。小屋の壁が歪み、柱が巨大な腕へ変わる。回転する羽根を背負ったゼツボーグが、地面を突き破って立ち上がった。
「ゼツボーグ!」
轟音とともに、小屋の入口付近の梁が崩れ落ちる。
記憶どおりだった。
ゆいがいたはずの場所を、太い木材が押し潰した。
だが、ゆいは小屋の奥にいる。驚いて座り込んではいるものの、怪我はない。
間に合った。
未来を知っていたから、変えられた。
きららの胸に、強い安堵が広がった。
「みんな、早く外へ!」
白金さんが叫ぶ。
しかし、崩れた梁が出口を塞いでいる。窓も黒い蔓に覆われ、開かない。
ゼツボーグが腕を振り上げる。はるかがゆいの前へ立ち、飛んできた木片から庇った。
「ゆいちゃん、大丈夫?」
「う、うん。でも、あれは……」
ゆいはゼツボーグを見上げ、言葉を失っている。
きららはパフュームへ手を伸ばした。だが、ゆいの存在に気づき、動きを止める。
ここで変身すれば、全て知られる。
はるかやみなみだけではない。モデルである天ノ川きららがプリキュアだと漏れれば、自分だけでなく事務所やステラにも影響が及ぶ。
「きららちゃん!」
はるかが呼ぶ。
迷っている間にも、ゼツボーグは夢の文字を黒い紙片へ変えて吐き出した。鋭い紙片が、小屋の壁や床へ突き刺さる。
はるかは、怯えるゆいへ視線を向けた。
「ゆいちゃんに隠すために、ゆいちゃんを置いて逃げるなんてできない」
みなみもパフュームを取り出す。
「今は、彼女を守ることを優先しましょう」
二人の視線が、きららへ向く。
きららは一度だけ目を閉じた。
正体を隠すことと、目の前の誰かを守ること。考えるまでもなく、答えは決まっていた。
「ゆいっち。あとでちゃんと説明するから」
ゆいが、きららを見る。
「今は、絶対にあたしたちから離れないで」
「……うん」
三人はパフュームを掲げた。
「プリキュア・プリンセスエンゲージ!」
光が小屋を満たす。
「咲き誇る花のプリンセス! キュアフローラ!」
「澄みわたる海のプリンセス! キュアマーメイド!」
「きらめく星のプリンセス! キュアトゥインクル!」
三人が並び立つ。
「強く、優しく、美しく! Go!プリンセスプリキュア!」
ゆいは目を見開いたまま、声も出せずにいた。
つい先ほどまで隣にいた三人が、色鮮やかなドレスをまとった戦士へ変わっている。
「パフ、アロマ! ゆいさんをお願い!」
マーメイドの声で、ゆいが我に返る。
「こっちへ来るロマ!」
「やっぱり、しゃべれるんだ……」
「驚くのはあとにするロマ!」
アロマに急かされ、ゆいはパフとともに頑丈な柱の陰へ走った。
ゼツボーグの風車が高速で回転する。突風が巻き起こり、フローラたちの身体を吹き飛ばした。
トゥインクルは空中で身をひねり、壁へ着地する。そこから一気に跳び、ゼツボーグの胸元へ蹴りを叩き込んだ。
鈍い音が響く。
だが、ゼツボーグはほとんど揺らがない。
「夢が多い分、いつもより頑丈ってわけ?」
「そんな夢、まとめて絶望に変えてやるぜ!」
クローズが叫ぶ。
風車の羽根から、黒い文字が放たれた。
『医者になりたい』という言葉が、鋭い注射器のような槍へ変わる。『音楽家になりたい』という文字から、耳をつんざく衝撃波が放たれた。
夢そのものが、夢を守ろうとするプリキュアへ牙を剥く。
「夢を、こんなことに使わないで!」
フローラが花弁の力で槍を弾く。
「叶うかどうかも分からねえくせに、いつまでもしがみつきやがって!」
「叶うかどうかだけで、夢を持つわけではありません!」
マーメイドが水の渦で衝撃波を受け流した。
「夢へ向かって積み重ねた時間は、誰にも消せないわ!」
トゥインクルは、飛び散る夢の文字を見上げた。
知っている未来。
決められていた役。
原作どおりに進めば、自分はキュアトゥインクルとなり、モデルの夢を追いながら戦う。
けれど、それだけではない。
この世界でステラへ憧れ、初めて撮影現場に立ち、何度も失敗しながら手に入れた夢は、あらかじめ知っていた筋書きではなかった。
「あんたには分かんないだろうけどさ」
トゥインクルは地面を蹴った。
回転する風車の羽根を避け、ゼツボーグの腕を駆け上がる。
「叶うって決まってる夢なんか、ただの予定表じゃん!」
拳を握り、ゼツボーグの顔面へ叩き込む。
「分からないから、自分で追いかけるんでしょ!」
ゼツボーグが大きくのけぞる。
しかし、次の瞬間には風車の羽根が回転し、トゥインクルの身体を弾き飛ばした。
「トゥインクル!」
フローラが駆け寄り、落下する身体を受け止める。
「平気?」
「これくらい平気」
答えながら、トゥインクルは顔をしかめた。右手首が壁へ擦れ、薄く血が滲んでいる。
それでも、ゆいが無傷でいることを確認すると、不思議と痛みは気にならなかった。
一方、柱の陰へ隠れていたゆいは、飛んできた一冊の帳面に気づいた。
古びた革表紙には、ノーブル学園の紋章が刻まれている。白金さんが風車小屋の歴史を記していた帳面だった。
ゼツボーグの足が、その上へ迫る。
「ゆいちゃん、危ないパフ!」
パフが止めるより早く、ゆいは柱の陰から飛び出していた。
地面を滑るようにして帳面へ手を伸ばす。抱きかかえた直後、巨大な足が頭上から降ってきた。
「ゆいさん!」
マーメイドが水の奔流を放つ。ゼツボーグの足がわずかに逸れ、ゆいのすぐ脇へ叩きつけられた。
床が揺れ、ゆいは帳面を抱いたまま転がる。
トゥインクルが駆けつけ、その身体を抱えて柱の陰へ戻った。
「勝手に動かないって言ったよね?」
「ご、ごめんなさい。でも、これ……」
ゆいは胸へ抱えた帳面を見せる。
「白金さんや、卒業生の人たちが守ってきたものだから」
戦えないゆいにも、守りたいものがある。
危険から遠ざけておくだけでは、その意志まで守ったことにはならない。
「次は絶対に、一人で飛び出さないで」
「うん」
トゥインクルはゆいを立たせると、再びゼツボーグへ向き直った。
三人で攻撃を重ねても、夢を閉じ込めた黒い膜を破れない。
ゼツボーグが風車の羽根を大きく広げる。小屋に残された夢の文字が、次々に壁から剥がれ始めた。
「全部消してやるぜ! 叶わねえ夢なんざ、最初からなかった方がましなんだよ!」
「そんなことない!」
叫んだのは、ゆいだった。
抱えていた帳面が開く。最後のページだけが、何も書かれていない白紙だった。
ゆいは制服のポケットから鉛筆を取り出す。震える手で、そのページへ文字を書き始めた。
ゼツボーグが暴れるたび、床が揺れる。
それでも鉛筆を止めなかった。
『わたしは、誰かが夢を信じられるような絵本を作りたい』
書き終えたゆいが、帳面を胸の前に掲げる。
「夢は、ここに書いてあるものだけじゃないよ!」
ゆいの声が、風車小屋に響いた。
「今から始まる夢だってある!」
白紙だったページから、柔らかな光があふれ出す。
壁から剥がれかけていた言葉が、光を取り戻した。卒業生たちの夢が一つずつ輝き、黒い膜を内側から押し返していく。
三つの光が、風車の軸から飛び出した。
薔薇をかたどった桃色の鍵。
氷の結晶が輝く青い鍵。
三日月を宿した黄色い鍵。
「新しいドレスアップキー!」
フローラが手を伸ばす。
ローズ、アイス、ルナ。三つのキーが、それぞれのプリキュアのもとへ飛ぶ。
手にした途端、トゥインクルの身体へ強い力が流れ込んだ。だが、今のパフュームへ差し込もうとしても反応しない。
「まだ使えないの?」
「でも、キーの光がゼツボーグを覆う絶望を弱めています!」
マーメイドの言葉どおり、黒い膜に亀裂が走っていた。
三人は互いの顔を見る。
言葉を交わさなくても、何をするべきか分かった。
「舞え、花よ!」
「高鳴れ、海よ!」
「きらめけ、星よ!」
三人のパフュームが同時に輝く。
「プリキュア・フローラル・トルビヨン!」
「プリキュア・マーメイド・リップル!」
「プリキュア・トゥインクル・ハミング!」
花びらと水の渦、無数の星が一つに重なる。
三つの光は黒い膜を突き破り、ゼツボーグの巨体を包み込んだ。
「エクスチェンジ!」
「モード・エレガント!」
「ごきげんよう!」
ゼツボーグの身体から、黒い力が消えていく。
「ドリーミング……」
巨大な風車が光へ変わり、元の小屋へ戻った。
壁には、卒業生たちの夢が一つも欠けずに残されている。
「くそっ。次こそ、てめえらの夢を閉じてやる!」
クローズは黒い羽根を撒き散らしながら姿を消した。
空を覆っていた雲も消え、風車の窓から朝の光が差し込む。
「終わった……」
ゆいが、その場へ座り込んだ。
変身を解いたはるかたちが集まってくる。
はるかはゆいの前へ座り、両手を膝に置いて頭を下げた。
「ゆいちゃん、ごめんね。ずっと隠してて」
「はるかちゃんたちが、プリキュア……」
「簡単に話せることではなかったの」
みなみが静かに説明する。
「あなたを危険に巻き込みたくなかった。それに、正体が知られれば、学園の皆さんにも影響が及ぶかもしれないわ」
ゆいは、はるか、みなみ、きららを順番に見る。
最後にきららへ視線を止めた。
きららは少し離れて立っていた。
ゆいを疑いたいわけではない。それでも、自分にはモデルとしての顔がある。秘密が漏れた場合、ステラや事務所まで巻き込むことになる。
「誰にも言わないよ」
ゆいが言った。
「簡単に約束していいことじゃないよ」
きららは腕を組む。
「この先、また今日みたいなことに巻き込まれるかもしれない。知らなかったことには、もうできないんだから」
「うん。だから、知らないふりはしない」
ゆいは古い帳面を白金さんへ返した。
「わたしにも、できることがあるなら手伝いたい」
「駄目ロマ!」
アロマが、ゆいの前へ飛び出した。
「ゆいはプリキュアではないロマ! 戦いに巻き込むわけにはいかないロマ!」
「プリキュアになりたいわけじゃないよ」
ゆいはアロマと目線を合わせる。
「わたしは戦えない。でも、みんなが急にいなくなった時の言い訳を考えたり、パフちゃんやアロマくんを隠したり、見たことを伝えたりはできると思う」
「それは……」
「戦えなくても、夢を守る側にはいられるよね?」
はるかが、ゆいの手を取った。
「もちろんだよ!」
「はるか、即答しないの」
きららが止める。
「ゆいっち。危なくなったら、絶対に一人で動かないこと。今日みたいに飛び出すのはなしだからね」
「それ、きららちゃんが言うの?」
ゆいが笑った。
「どういう意味?」
「きららちゃんも、はるかちゃんを守る時は、すぐ飛び出すでしょう?」
「それは、あたしがプリキュアだから」
「変身する前から飛び出してるよ」
はるかとみなみまで笑い始める。
「もう。人が真面目に話してるのに」
頬が熱くなり、きららは顔を背けた。
小屋の外へ出ると、ローズガーデンには穏やかな風が戻っていた。
白金さんは、壊れた箇所を確認している。あれほどのことが起きたにもかかわらず、プリキュアについて何も尋ねなかった。
きららは風車を振り返る。
記憶の中では、ゆいは梁から逃げようとして転び、足を痛めていた。
今回は違う。
自分が先に安全な場所へ移動させたから、怪我をしなかった。
風車がゼツボーグになることも、三つのキーが現れることも、クローズが退くことも、覚えていた流れから大きく外れてはいない。
必要な部分だけ先回りすれば、未来を壊さずに被害を防げる。
知っているとおりに動けば、皆を守れる。
胸の中を覆っていた不安が、少しだけ薄れた。
「きららちゃん」
隣を歩いていたはるかが、突然きららの右手をつかんだ。
「なに?」
「怪我してる!」
手首の擦り傷を見つけたらしい。戦っている間は気にならなかったが、変身を解いた今はじわじわと痛み始めていた。
「これくらい平気だって」
「平気じゃないよ。ちゃんと手当てしなきゃ」
「寮に帰ってからでいいってば」
はるかは聞かずに鞄を開いた。ハンカチ、裁縫道具、使いかけの糸。その奥から、小さな救急用品の袋を取り出す。
「なんで持ち歩いてるの?」
「きららちゃんにもらった絆創膏を使ってから、わたしも持つようにしてるの」
幼い頃のことを言っている。
ゆいがそばにいるのを思い出し、きららは周囲を見た。
「その話、今しなくてもいいでしょ」
「でも、ちゃんと役に立ったよ」
はるかはきららの手首を水で洗い、絆創膏を貼った。
みなみの腕にも小さな傷がある。それでも、はるかは真っ先にきららの傷へ気づいた。
眉尻を下げ、痛みを自分のことのように心配している。
「きららちゃんが無事でよかった」
「大げさだって」
「大げさじゃないよ」
きららは、その顔を見ていられなくなった。
視線を逸らした先で、ゆいと目が合う。
ゆいは、ノーブルパーティーで二人が踊った時と同じ、穏やかな目でこちらを見ていた。
「はるかちゃんは、きららちゃんのことが本当に大切なんだね」
「うん。すごく大切」
はるかは迷わず答えた。
心臓が跳ねる。
昔の友達だから。
大切な約束をした相手だから。
何度もそう言い聞かせてきたはずなのに、今の言葉はそれだけでは収まらないように聞こえた。
「……そういうの、人前で簡単に言わないでよ」
「どうして?」
「どうしても」
きららははるかの手を振りほどこうとした。だが、絆創膏を押さえていた指が離れると、それはそれで落ち着かない。
結局、寮へ戻るまで、はるかはきららの袖をつかんだままだった。
「そういえば」
帰り道で、ゆいが尋ねた。
「はるかちゃんときららちゃんは、昔からの知り合いなの?」
きららの足が止まりかける。
「うん。きららちゃんは、子どもの頃――」
はるかも途中で口を閉じた。
それから、きららを見る。
「ごめん。これは、わたしだけで話していいことじゃなかったね」
ようやく分かってくれたらしい。
ほっとしたのと同時に、わずかな寂しさが湧く。はるかが昔のことを話したがっているのを知りながら、自分が止めているからだ。
「きららちゃんとは、大切な約束があるの」
はるかは、ゆいへそれだけ伝えた。
「でも、今はまだ、わたしだけでは話せない」
ゆいは頷いた。
「じゃあ、話せる時でいいよ」
「気にならないの?」
「気にはなるよ」
ゆいは笑う。
「でも、一つ秘密を知ったからって、ほかの秘密まで全部教えてもらえるわけじゃないでしょう?」
きららは思わず、ゆいを見た。
秘密を知った相手が、必ずしもその奥まで暴こうとするわけではない。
話せるまで待つと言ってくれる人もいる。
「……ありがと、ゆいっち」
「どういたしまして」
翌朝。
はるかが教室へ入ると、ゆいは窓際の席でスケッチブックを広げていた。
「何描いてるの?」
「昨日、風車小屋で見た夢を忘れないように」
見せてもらったページには、花と海と星をまとった三人の少女が描かれていた。
その少し後ろには、本を胸に抱え、三人の背中を見守る少女がいる。
「これ、ゆいちゃん?」
「うん。まだ途中だけどね」
「すごい。完成したら、きららちゃんにも見せよう!」
はるかは教室を見回す。
その時、廊下を歩くきららの姿を見つけた。
「きららちゃん!」
はるかの表情が、一瞬で明るくなる。
スケッチブックを置き、廊下へ駆けていく。
「走らないの!」
きららはそう言いながらも足を止め、はるかが追いつくのを待っていた。
二人が並んで歩いていく。
ゆいは、その後ろ姿をしばらく見つめていた。
やがてスケッチブックへ目を戻し、ページの隅へ小さな花を描く。その花を見守るように、少し離れた場所へ一番星を添えた。
けれど、二人には何も言わず、静かにスケッチブックを閉じる。
秘密を知ったゆいは、それを暴く物語ではなく、大切に守る物語を選んだ。