星の王子と花の姫君 作:百合魔神
消灯時間を過ぎても、きららは机に向かっていた。
開いた手帳には、予定表とは別の細かな文字が並んでいる。クローズの攻撃方向。絶望の檻が現れた位置。ゆいが倒れていた場所。そして、その横には赤いペンで何度も丸をつけた一行があった。
――結果は同じ。過程は変化。
倒せた。ロッドも手に入った。クローズは姿を消し、ゆいの怪我も数日で治ると診断された。
ならば、まだ大丈夫だ。
少しずれただけなら、次から修正すればいい。誰がどこに立ち、どの攻撃を避け、どの順番で動くべきか。記憶が曖昧なところは、起きた出来事を重ねて補えばいい。
そうやって考えている間だけ、白い包帯を巻いたゆいの足を思い出さずに済んだ。
きららは次の頁を開き、これから起きるはずの出来事を書こうとした。
黒いドレス。仮面。冷たいバイオリン。
ペン先が紙の上で止まる。名前まで書くことはできなかった。
その時、夜の静けさを切り裂くように、細い音が響いた。
窓の外から聞こえてくる、バイオリンの音色だった。
美しい。けれど、聴いていると胸の内側から体温を奪われていく。花が咲く前に凍りつき、夢を見ることさえ忘れてしまうような旋律。
きららの指からペンが落ちた。
早すぎる。
記憶の中でも、この出会いは近かった。だが、ゆいが怪我をした翌日の夜ではなかったはずだ。
椅子を蹴るように立ち上がり、カーディガンだけを羽織って廊下へ飛び出す。音は寮の外、校舎の方角から聞こえていた。
夜露に濡れた芝生を走り、渡り廊下へ差しかかる。その先に、白い寝間着姿のはるかが立っていた。
「きららちゃん?」
「はるか、部屋に戻って」
「でも、この音……」
「いいから。あたしが見てくる」
きららが腕を取ろうとすると、はるかは一歩だけ下がった。拒むほど強くはない。それでも、その一歩には昨日の問いが残っていた。
わたしたちじゃなくて、違う何かを見ていた。
何をそんなに怖がっているのか。
まだ答えを出せないまま、きららははるかの前へ立った。
旋律が途切れる。
月明かりの差し込む音楽室で、一人の少女が窓辺に立っていた。長い赤髪を夜風に揺らし、黒いドレスに身を包んでいる。目元を覆う仮面の奥から、冷ややかな視線が二人へ向けられた。
その姿を、きららは知っていた。
敵として立ちはだかったことも。その仮面の下で、失った家族を思い続けていたことも。炎の中で新しい名前を得て、自分たちの隣に立つようになることも。
知っているのに、今ここでどんな言葉をかければ届くのかは、何一つ分からなかった。
「あなた……」
少女の弓がゆっくり下がる。
「わたくしを知っているのかしら?」
「知らない」
答えが早すぎた。
少女の唇に薄い笑みが浮かぶ。
「そう。では、なぜそのような目でわたくしを見るの?」
「どんな目よ」
「失くしたものを見つけたような――ひどく哀れな目」
きららは息を詰めた。
隣ではるかがこちらを見る。少女はそれ以上追及せず、バイオリンを肩へ戻した。
「夢に心を奪われる者の音は、なんと不格好なのでしょう。気高く、尊く、麗しい者だけが、真のプリンセスを名乗る資格を持つのですわ」
「そんなの、あなたが決めることじゃない!」
はるかが声を上げると、少女は初めて彼女へ視線を移した。
「夢を追うだけのつぼみが、わたくしに口答えを?」
「わたしは、まだつぼみかもしれない。でも、だからこそ咲きたいって思うの!」
いつものはるかだった。理屈より先に心が走り、それでも不思議と人を動かす声。
きららは安堵しかけ、すぐにその感情を打ち消した。少女が弓を一閃すると、黒い風が音楽室を駆け抜ける。きららははるかを抱き寄せ、床へ伏せた。
譜面台が倒れ、窓硝子が細かく震える。
顔を上げた時、少女の姿は消えていた。残された一音だけが、冷たく長く夜へ溶けていった。
「きららちゃん、今の人を知ってるの?」
「知らないって言ったでしょ」
「でも……」
「寮に戻ろ。先生に見つかったら面倒じゃん」
きららは先に立ち上がり、はるかへ手を差し出さなかった。
差し出せば、握られる。握られたら、もう一度問われる。その温かさを前にして、平気な顔で嘘をつける自信がなかった。
翌朝、はるかは朝食の席でもどこか上の空だった。
パンをちぎる手を止め、空中で指を動かしている。昨夜の少女が弓を引く姿を思い出しているらしい。
「バイオリンを弾いてみたい?」
みなみに尋ねられ、はるかは我に返った。
「えっ、分かりました?」
「指がずっと弓を持っているわ」
言われて自分の手を見ると、はるかは照れくさそうに笑った。
「あの人の音は冷たくて、ちょっと怖かったです。でも、すごくきれいで……。わたしも弾けたら、何か分かるのかなって」
「ちょうど今日、学園へバイオリン職人の錦戸さんがいらっしゃるの。見学をお願いしてみましょうか」
「本当ですか、みなみさん!」
はるかの顔が一気に明るくなる。きららは牛乳のグラスへ目を落とした。
錦戸。バイオリン。昨夜の出会い。
知っている流れへ戻っている。
胸を撫で下ろした自分に気づき、きららは唇を噛んだ。はるかが新しいものへ興味を持ったことより、出来事が記憶と一致したことを喜んでいる。
それでも、今は正しい順番を確かめる方が先だった。
放課後、三人は学園の特別教室を訪れた。
机の上には、艶のある完成品だけでなく、削りかけの板や細い工具が並んでいる。木とニスの甘い匂いの中で、白髪交じりの男性が一本のバイオリンを布で磨いていた。
「これが、ひとつずつ手で作られているんですね」
はるかが目を輝かせると、錦戸は嬉しそうに頷いた。
「同じ木から作っても、同じ音にはならない。持つ人、弾く人、その日の心でも音は変わる。バイオリンは正直なんだよ」
その言葉が、きららの胸へ引っかかった。
はるかは許可をもらい、借りたバイオリンを恐る恐る肩へ載せた。昨夜の少女を思い出しているのか、顎を引き、背筋を伸ばし、できるだけ優雅に弓を構える。
鳴ったのは、猫が飛び上がりそうな音だった。
「ひゃあっ!」
「はるか、力を入れすぎよ」
「うう……もう一回です!」
二度目は低く震え、三度目は途中で裏返る。それでもはるかは諦めず、昨夜見た指の形と腕の角度を懸命に再現しようとした。
やがて、錦戸が静かに手を上げる。
「上手に弾こうとしすぎているね」
「え?」
「君が追いかけているのは、君の音じゃない。誰かの正しい形へ自分を押し込めようとしているように聞こえる」
はるかが弓を下ろした。
「心がない、ってことですか?」
「心がないんじゃない。心を置き去りにして、先に正解へ行こうとしているんだよ」
きららは手帳の入った鞄を押さえた。
聞かれているのは、はるかの音の話だ。分かっているのに、昨夜書き連ねた攻撃位置や順番が頭へ浮かんだ。
「正解を知ることは、悪いことじゃないでしょ」
気づけば、口を挟んでいた。
錦戸は驚かず、きららを見る。
「もちろん。道に迷わないための地図は大切だ。けれど、地図に書いていない花を見つけても、踏まないように歩けるかどうかは、持っている人の心次第だよ」
きららは答えられなかった。
窓の外から、一筋の音が流れ込んだ。昨夜と同じ、冷たいバイオリンだった。
教室の扉が開く。
黒いドレスの少女が、今度は仮面をつけずに立っていた。赤い髪の上に小さな冠を戴き、手にしたバイオリンには黒薔薇の飾りが絡んでいる。
「心に任せた不完全な音など、聴く価値もありませんわ」
少女は滑らかに弓を引いた。
一音目から、教室の空気が変わった。どこにも濁りがなく、指先まで計算された完璧な旋律。それなのに、聴く者の心へ手を伸ばす代わりに、周囲の音をすべて従わせていく。
はるかの失敗した音まで、初めから存在しなかったように塗り潰されていく。
「わたくしはトワイライト。気高く、尊く、麗しい、唯一無二のプリンセス」
その名を聞いた瞬間、きららの胸が痛んだ。
トワイライト。
本当の名を知らず、母と呼ぶ者の言葉だけを信じていた少女。いつか自分たちは、その手を取る。取れるはずなのだ。
「おやおや。トワイライト様のお耳を煩わせるとは、なんと罪深い音のみ」
窓辺から、シャットが姿を現した。錦戸の手にある削りかけのバイオリンへ目を留め、扇を口元へ添える。
「一人一人の心を映す楽器を作りたい――実に青臭く、眩しい夢のみ!」
錦戸の瞳に鍵穴が浮かんだ。
「クローズ・ユア・ドリーム!」
絶望の檻が教室を覆い、作りかけのバイオリンと工具が渦を巻く。木目の身体に弦の腕を持つゼツボーグが床を踏み抜き、耳障りな咆哮を上げた。
「みんな、行くよ!」
はるかの声に、三人はプリンセスパフュームを掲げる。
「プリキュア・プリンセスエンゲージ!」
花びらと海の光、星の輝きが教室を包む。
「咲き誇る花のプリンセス、キュアフローラ!」
「澄みわたる海のプリンセス、キュアマーメイド!」
「きらめく星のプリンセス、キュアトゥインクル!」
「強く、優しく、美しく! Go! プリンセスプリキュア!」
ゼツボーグの弦が鞭のようにしなる。フローラが跳び、マーメイドが左右から伸びる弦を弾き、トゥインクルは天井近くまで舞い上がった。
ここまでは、覚えている。
次は右から来る。トゥインクルは身体を捻り、予想どおり迫った弓の刃を蹴り返した。
「フローラ、三歩下がって! マーメイドは左!」
二人が反射的に動く。直後、二人のいた場所を黒い音の波が切り裂いた。
避けられた。
今度は間違っていない。
「まあ。少しは踊れるようですわね」
トワイライトが手の中で黒いキーを回す。
記憶より早い。
その事実に気づいた時には、キーがゼツボーグの胸へ差し込まれていた。
「お行きなさい。黒き力を見せておあげ」
黒い薔薇の紋様が広がり、ゼツボーグの身体が二倍近く膨れ上がる。先ほどまで一本ずつだった弦が無数に枝分かれし、三人の予測を越えて教室中へ伸びた。
「そんな……!」
マーメイドが弦に捕らえられ、壁へ叩きつけられる。フローラが助けに向かうが、その前へ黒い旋律が壁のように立ちはだかった。
トゥインクルは星の光を足場にし、一直線にトワイライトへ迫る。
黒いキーを奪えばいい。今の彼女は敵だ。攻撃を止めなければ、はるかもみなみも傷つく。
分かっている。
それでも、拳を振り抜く先にある顔へ、別の少女の笑顔が重なった。
不器用に仲間の輪へ入り、バイオリンを抱え、炎のようなドレスで戦う少女。もう一度家族の名を呼べるようになる、救われるはずの少女。
拳が止まった。
トワイライトの弓がトゥインクルの脇腹を打つ。
「きらら!」
マーメイドの声が遠くなる。トゥインクルは床を転がり、棚へ背中を打ちつけた。
「その程度の覚悟で、わたくしへ手を伸ばしたの?」
トワイライトが見下ろしている。
「あなたの目には、先ほどからわたくしではない誰かが映っているようですわ」
「……あんたに、何が分かるのよ」
「分かりませんわ。分かる必要もありませんもの」
黒い弓が振り上げられる。
「偽りの夢も、偽りのプリンセスも、美しく散ればそれで十分」
「やめて!」
フローラが薔薇の壁を突き破り、トワイライトへ飛び込んだ。
記憶の中の順番が、また崩れる。
フローラはまだ、ここで彼女へ届いてはいけない。黒いキーの力がどこまで強まっているかも分からない。
「待って、フローラ!」
トゥインクルの叫びに、フローラの動きが一瞬鈍った。
その隙を、トワイライトは逃さなかった。弓から放たれた黒い光が、フローラの胸元へ迫る。
考えるより早く、トゥインクルはその前へ身を投げ出した。
衝撃が背中を貫く。床へ倒れ込んだトゥインクルを、フローラの腕が受け止めた。
「きららちゃん!」
「平気……これくらい」
「どうして止めたの? あの人を知ってるから?」
「今は、そんなこと聞いてる場合じゃないでしょ」
強く言ったつもりだった。けれど、声は痛みと焦りで震えていた。
ゼツボーグが弦をかき鳴らす。
黒い音の波が幾重にも重なり、フローラたちの身体を押さえつけた。立ち上がろうとするたび、夢を嘲笑う言葉が耳元へ流れ込む。
正しい音だけが美しい。
選ばれた者だけがプリンセスになれる。
間違えたつぼみに、咲く価値はない。
フローラの手が床を掴んだ。そのすぐそばに、さきほどはるかが使っていたバイオリンが転がっている。
「違う……」
フローラは震える腕を伸ばした。
「間違えたって、上手にできなくたって……それで、夢がなくなるわけじゃない!」
バイオリンを肩へ載せ、弓を握る。
「フローラ、無理よ!」
マーメイドの制止にも、フローラは首を振った。
「これは、わたしの音だから!」
弓が弦を擦る。
鳴り響いたのは、完璧からはほど遠い音だった。かすれ、震え、最後には少し裏返る。それでも朝日の中で花が開くような、温かく真っ直ぐな一音だった。
冷たい旋律に、細い亀裂が入る。
錦戸を閉じ込めた檻の中から、淡い光がこぼれた。作りかけの楽器たちがフローラの音へ応えるように震え、黒い音の波を内側から押し返していく。
「不完全な音が、わたくしの旋律を……?」
初めて、トワイライトの表情が揺れた。
「今よ、トゥインクル!」
はるかの声だった。
記憶の中の台詞でも、決めていた合図でもない。けれど、迷う必要はなかった。
トゥインクルはフローラの腕から立ち上がり、マーメイドと並ぶ。三本のクリスタルプリンセスロッドへ、それぞれのドレスアップキーを差し込んだ。
「エクスチェンジ! モードエレガント!」
花、泡、星の光が黒い弦をほどいていく。
「プリキュア・トリニティ・リュミエール!」
三つの光が一つとなり、ゼツボーグを包み込む。黒い薔薇が砕け、巨大な身体が元のバイオリンと工具へ戻っていった。
絶望の檻が開き、錦戸が床へ倒れ込む。
シャットが悲鳴を上げて退く中、黒いキーだけが光の中から弾き出された。トワイライトはそれを片手で受け止める。
「今日は、つぼみの雑音に免じて退いてさしあげますわ」
彼女は背を向けかけ、もう一度だけトゥインクルを振り返った。
「けれど、星のプリンセス。次に会う時までに、その哀れな目をどうにかなさい」
「……何のことよ」
「今のわたくしを見ずに、救われた後の誰かを見ている。そんな視線で手を伸ばされるほど、わたくしは落ちぶれていませんわ」
きららの心臓が止まりそうになった。
トワイライトは答えを待たず、黒い花びらの中へ消える。冷たい香りだけが、しばらく教室に残った。
戦いの後、錦戸は壊れた机へ腰掛け、はるかの手からバイオリンを受け取った。
「ごめんなさい。勝手に使って、それに変な音を出しちゃって……」
「変な音だったね」
錦戸が笑うと、はるかは肩を落とした。
「でも、君の音だった。さっきより、ずっといい」
「本当ですか?」
「ああ。上手になるのはこれからでいい。自分の心まで、誰かの真似にしないことだ」
はるかは嬉しそうに頷いた。
その横で、きららは壊れた譜面台を起こしていた。身体を動かしていれば、誰とも目を合わせずに済む。
「きららちゃん」
逃げ道を塞ぐように、はるかが正面へ回り込んだ。
「怪我、見せて」
「大したことないって」
「大したことあるかどうかは、見てから決めるの」
いつになく強い口調だった。きららが渋々背を向けると、制服の下に赤く腫れた跡ができている。
はるかの指が触れないぎりぎりの場所で止まった。
「痛そう」
「変身してたんだから、すぐ治るよ」
「そういうことじゃないよ」
きららは振り返れなかった。
「昨夜も、今日も。きららちゃん、あの人を怖がってたんじゃない」
背後から聞こえる声は、責めるものではなかった。それが余計に苦しい。
「悲しそうに見てた。もう会えないと思ってた人に、会っちゃったみたいに」
「はるかの思い込みでしょ」
「うん。そうかもしれない」
否定されても、はるかは引かなかった。
「でも、わたしにはそう見えたの。きららちゃんが何を知ってるのか、今は言えないなら待つよ」
幼い頃と同じ言葉に、きららの指が震えた。
公園で、正体を言えなかった自分を待った少女。来られたら来る、という曖昧な返事だけで、本当に翌朝から待っていた少女。
「いつか、話してくれる?」
約束すれば、はるかは信じる。
だからこそ、きららは頷けなかった。
「……先のことなんて、分かんない」
それだけ答えて、床に落ちた工具を拾う。はるかは寂しそうに目を伏せたが、それ以上は聞かなかった。
その夜、きららは再び手帳を開いた。
トワイライトの登場は、記憶より早かった。黒いキーの使い方も、ゼツボーグの強さも違っていた。自分が止めたせいで、はるかは攻撃を受けかけた。
原因は、判断が遅れたことだ。
迷う前に決めておけばいい。誰が敵を引きつけ、誰が夢を守り、誰がとどめを刺すか。はるかが勝手に飛び出さないよう、みなみが孤立しないよう、先に全員へ伝えておけばいい。
きららは新しい頁へ線を引いた。
フローラ――前衛。単独行動禁止。
マーメイド――防御、避難経路の確保。
トゥインクル――全体指揮。トワイライトとは交戦しない。
書き終えると、胸のざわめきが少しだけ静まった。
救われるはずの少女を救うため、きららは手帳の中で、仲間たちの立つ場所を一つずつ決めていった。