星の王子と花の姫君   作:百合魔神

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決められた役

 

 

黒いドレスの少女が去った翌朝、きららはローズガーデンのガゼボへ仲間を集めた。円形のテーブルへ置いたのは、昨夜のうちに書き上げた四枚の紙だった。見出しには大きく「戦闘行動表」とあり、その下には一人ずつ異なる役割と注意事項が並んでいる。

 

「フローラは前衛。ただし、敵を追って単独で動くのは禁止。マーメイドは防御と避難経路の確保。あたしは後ろから全体を見て、二人へ指示を出す」

「作戦会議みたいだね!」

 

はるかは目を輝かせて紙を手に取ったが、読み進めるにつれて声が小さくなった。単独行動禁止、追撃禁止、配置変更にはトゥインクルの許可が必要。そのどれも、フローラの欄だけ二重線で囲まれている。

 

みなみは自分の紙へ目を通し、静かに顔を上げた。

 

「よく考えられているわ。でも、きらら。これは何を想定した配置なの?」

「この前みたいに、敵が急に強くなった場合。最初から役割を決めておけば、迷わなくて済むでしょ」

「状況が変わった時は?」

「あたしが判断する」

 

言い切ると、みなみはそれ以上尋ねなかった。納得したというより、今は続きを聞いても同じ答えしか返らないと判断したようだった。

 

四枚目の紙を読んでいたゆいが、困ったように笑う。

 

「わたしのは、役割というより禁止事項みたい」

 

戦闘区域へ近づかないこと。一人で避難誘導をしないこと。異変を見つけても、必ず三人へ連絡してから動くこと。連絡と情報整理を担うはずの紙には、それ以上に「しないこと」が並んでいた。

 

「怪我、まだ治ってないじゃん」

「もう普通に歩けるよ」

「走れないでしょ。だったら、無理しないで」

 

きららが話を終わらせると、アロマが紙の上へ降りた。

 

「役目を決めておくのは大切ロマ。これなら何かあっても、すぐに動けるロマ!」

「でも、なんだかきゅうくつパフ……」

 

パフの呟きを、きららは聞かなかったことにした。

 

撮影現場では、立つ場所も、顔を向ける角度も、歩き出すタイミングも決められている。そのとおりに動けば、余計な失敗は起きない。誰かが勝手に位置を変えれば、照明もカメラも、周囲のモデルも困る。

 

戦いだって同じだ。少なくとも、きららにはそう思えた。

 

自分の紙だけは、誰にも見せず手帳へ挟んだ。トゥインクル――全体指揮。その下に記した最後の一行を、指先で隠す。

 

トワイライトとは交戦しない。

 

それから数日間、放課後の巡回は作戦表に従って行われた。

 

はるかが物音を確かめようと道を外れれば、きららが呼び戻す。みなみが高台から別の経路を提案しても、記憶にない場所だからという理由を隠し、「人目が多いから」と却下する。ゆいが巡回記録を整理すると申し出ても、きららは自分の手帳へ書くから必要ないと引き取った。

 

最初のうち、はるかは素直に従っていた。

 

「分かった。次は先に聞くね」

「そこから右。曲がったら、あたしが先に見る」

「うん」

 

返事は変わらない。ただ、道端の花を見つけて立ち止まることも、パフと競争して先へ走ることもなくなった。

 

予定どおりの時刻に巡回を終えた時、きららは胸を撫で下ろした。何も起きなかった。それこそ、自分の行動が流れを正しい位置へ戻している証拠に思えた。

 

「前より、みんなが遠いパフ」

 

寮へ戻るはるかの肩で、パフが寂しそうに呟いた。はるかは何も答えず、その頭を指先で撫でた。

 

翌日の昼休み、ゆいは図書室で作戦表を広げていた。窓際の席にいるのは、ゆいときららだけだった。きららが前日の記録へ修正を書き加える横で、ゆいはフローラの欄を何度も読み返している。

 

「きららちゃん」

「なに?」

「この紙に書いてあるフローラって、はるかちゃんと同じ人?」

 

きららのペンが止まった。

 

「同じに決まってるじゃん。フローラは、はるかなんだから」

「でも、はるかちゃんなら、困っている人を見つけたら止まれないと思う」

「だから止めるの。あいつ、自分が危ないこと全然考えないし」

「それでも動くのが、はるかちゃんじゃないかな」

 

ゆいの声に責める響きはなかった。それでも、きららには紙に書いたものを一行ずつ否定されているように聞こえた。

 

「ゆいが怪我したから、こうしてるんだよ」

 

思ったより強い声が出た。ゆいは無意識に、薄い包帯の残る足首へ手を添えた。

 

「あたしがちゃんとしてれば、あんなことにならなかった。だから次は、ちゃんとする。それだけ」

「……うん」

 

ゆいは作戦表を畳んだ。納得した返事ではないことくらい、きららにも分かっていた。

 

放課後の巡回中、三人は校舎裏の花壇で一人の生徒を見つけた。園芸用のエプロンを着た少女が、日陰へしゃがみ込んでいる。手入れしているのは正面からよく見える大輪の花ではなく、壁際に並んだ小さな苗だった。

 

「何を植えてるんですか?」

 

はるかが覗き込むと、少女は土のついた手袋を持ち上げた。

 

「忘れな草よ。ここ、午後になると日が当たらないでしょう? 派手な花は育ちにくいけど、この花なら咲いてくれるから」

「小さくて、かわいい……!」

 

はるかもその場へしゃがみ込む。少女は花壇の端に置いた木製の札を見せた。そこには、まだ鉛筆で薄く『みんなの庭』と書かれている。

 

「いつか、疲れた人がここに来たら、少しだけ元気になれるような庭にしたいの。目立たない場所でも、ちゃんと花が咲いてるって思えるように」

「すてきな夢ですね! わたしも手伝っていいですか?」

 

はるかが手を伸ばすより先に、きららが時計を見た。

 

「巡回の途中でしょ」

「少しだけなら――」

「予定から遅れる。続きは今度にして」

 

はるかは口を閉じた。立ち上がってスカートについた土を払い、少女へ小さく頭を下げる。

 

「ごめんなさい。また来ますね」

 

そのまま歩き出したはるかを、みなみは黙って見つめていた。きららは何も見なかったふりをして、決めた経路へ戻る。

 

背後で、乾いた拍手が響いた。

 

「小さな花で誰かを元気にするなんて、ずいぶん地味な夢だね」

 

黒いフードをかぶった少年が、花壇を囲む煉瓦の上へ腰掛けていた。手の中で錠前を弄びながら、眠たげな目を園芸係の少女へ向けている。

 

「ロック!」

「でも、夢は夢か。だったら閉じておこうかな」

 

少女の瞳に鍵穴が浮かぶ。

 

「クローズ・ユア・ドリーム」

 

黒い檻が少女を閉じ込め、花壇の土が大きく盛り上がった。支柱と蔓、園芸用のスコップが絡み合い、木製の札を額に載せたゼツボーグが立ち上がる。

 

ゆいも異変を聞きつけ、校舎の角から駆けてきた。まだ全力では走れず、僅かに右足を庇っている。

 

「ゆいは戻って」

「でも、校舎に残っている人へ知らせないと」

「アロマと一緒に避難誘導。ここには近づかないで」

 

きららは返事を待たず、プリンセスパフュームを掲げた。はるかとみなみも互いに頷き、ドレスアップキーを差し込む。

 

「プリキュア・プリンセスエンゲージ!」

 

花と海と星の光が、荒れ始めた花壇を照らす。変身を終えた三人の前で、ゼツボーグが無数の蔓を振り上げた。

 

「作戦どおり行くよ。フローラは正面、マーメイドは右から防御。あたしは上から本体を探る!」

「分かった!」

「ええ」

 

フローラが前へ飛び出し、迫る蔓を両腕で受け止める。左右から回り込んだ蔓はマーメイドが水の壁で弾き、その隙にトゥインクルが星の光を足場に空へ上がった。

 

作戦は機能した。

 

フローラが敵の視線を引きつけ、マーメイドが死角を補う。トゥインクルは全体を見渡し、伸びてくる蔓の方向を先回りして二人へ伝えた。

 

「フローラ、右!」

「うん!」

「マーメイド、後ろから二本!」

「任せて!」

 

蔓は一度も三人へ届かない。トゥインクルが放った星の光がゼツボーグの胸へ命中し、巨体が大きく後退した。

 

これなら守れる。

 

その確信が生まれた瞬間、ゼツボーグが両腕を地面へ突き刺した。花壇の土が波打ち、地中から無数の根が伸びて三人の足元を内側から突き崩す。

 

「下よ!」

 

マーメイドの声に、フローラとトゥインクルが跳ぶ。だが、先ほどまで地上で動いていた蔓が囮だったと気づいた時には、黒い根が園芸係の少女を閉じ込めた檻へ絡みついていた。

 

根が檻から光を吸い上げるたび、ゼツボーグの切れた蔓が再生していく。

 

「きらら、根と檻がつながっているわ」

「分かってる。でも、配置は変えないで」

「正面を攻撃しても、吸収した力で回復されるだけよ」

「根を切ったら、敵がどう動くか分からない。まず本体を押さえる!」

 

トゥインクルは空中から敵を見下ろした。記憶の中に、このゼツボーグはいない。次に何が起こるか分からないからこそ、決めた形を崩すことが怖かった。

 

「助けて……。お花が……」

 

檻の中から、か細い声が漏れた。

 

フローラが振り返る。花壇の端では、地中から出た根が忘れな草の苗を押し潰そうとしていた。

 

「わたし、あっちへ行く」

「駄目! フローラは正面!」

「でも、あの根を止めないと!」

「マーメイドがやる。はるかはそこから動かないで!」

 

名前で呼ばれ、フローラの足が止まった。

 

ゼツボーグはその一瞬を逃さなかった。正面から伸びた太い蔓がフローラの腕と胴へ巻きつき、地面から持ち上げる。

 

「フローラ!」

 

マーメイドが助けようとするが、地中から現れた根に足を取られた。配置を守って同じ方向から攻撃し続けたことで、敵にも三人の動きを読まれていた。

 

「だから、動いちゃ駄目だって……!」

 

焦るトゥインクルの耳へ、フローラの声が届く。

 

「違うよ、きららちゃん」

 

蔓に締め上げられながら、フローラは敵ではなく、押し潰されかけた小さな花を見ていた。

 

「わたしは、あの子が大事にしてるものを守りたい」

「守るための作戦でしょ!」

「でも、今はもう、最初と違う!」

 

フローラのドレスアップキーが輝く。全身から広がった花びらが蔓を押し広げ、その隙間から地面へ降り立った。

 

「勝手に動かないで!」

「勝手じゃないよ! わたしも見て、考えたの!」

 

フローラは決められた正面ではなく、花壇の端へ走った。根に押し潰される寸前の苗を抱え込み、そのまま檻へつながる太い根を両手で掴む。

 

「マーメイド! この根を止めて!」

「分かったわ!」

 

マーメイドもトゥインクルの返事を待たなかった。地面へ手をつき、水の力を流し込む。根の表面を氷が走り、檻から力を吸い上げる動きが止まった。

 

「トゥインクル! 上の蔓をお願い!」

 

フローラに呼ばれ、トゥインクルは動けなかった。

 

自分の作戦ではない。ここで合わせれば、二人が勝手に配置を変えたことを認めることになる。けれど、動かなければ凍った根が砕ける前にゼツボーグが立て直す。

 

「きらら!」

 

みなみの声が飛んでくる。マーメイドは敵を押さえながら、真っ直ぐトゥインクルを見上げていた。

 

そこにいる二人は、手帳の中のフローラとマーメイドではなかった。

 

トゥインクルは奥歯を噛み、空を蹴った。

 

「分かった! 二人とも、そのまま押さえてて!」

 

星の光をまとった蹴りが、ゼツボーグの頭上に広がる蔓を断ち切る。フローラが太い根を引き抜き、マーメイドが残った根を凍らせて砕いた。

 

檻とのつながりを失ったゼツボーグの胸から、黒い核が露出する。

 

「今よ、トゥインクル!」

「言われなくても!」

 

星の光が核を撃ち抜いた。ゼツボーグの身体が傾き、地中の根が力を失って崩れていく。

 

三人は互いの顔を見て頷き、クリスタルプリンセスロッドへドレスアップキーを差し込んだ。

 

「エクスチェンジ! モードエレガント!」

「プリキュア・トリニティ・リュミエール!」

 

三つの光が一つになり、花壇を覆っていた黒い根を浄化する。ゼツボーグは元の支柱と道具へ戻り、園芸係の少女を閉じ込めていた檻も開いた。

 

「ずいぶん動きやすい相手だったよ」

 

ロックが錠前を指先で回しながら、トゥインクルへ目を向ける。

 

「決めたとおりにしか動かないなら、次はもっと簡単だね」

「待ちなさい!」

 

マーメイドが声を上げる前に、ロックは黒い穴の中へ姿を消した。

 

変身を解いた三人は、荒れた花壇の前へ立っていた。園芸係の少女に大きな怪我はなく、ゆいとアロマに付き添われて保健室へ向かった。忘れな草の苗も、はるかが抱きかかえたことで折れずに済んでいる。

 

「よかったね、きららちゃん。あの子も、お花も無事で」

 

はるかは泥のついた手で苗を植え直そうとした。しかし、きららはその手を止めるように呼びかけた。

 

「なんで、勝手に配置を変えたの?」

 

はるかの笑顔が消える。

 

「さっきも言ったよ。あのままじゃ、夢もお花も守れなかったから」

「それは結果がよかっただけでしょ。失敗してたらどうするの?」

「でも、変えなかったらフローラは捕まったままだったわ」

 

みなみの言葉にも、きららの苛立ちは収まらなかった。

 

「だから、次の指示を待てばよかったの。あたしが全体を見てたんだから」

「敵も私たちを見ていたわ。決めた動きを繰り返したから、先を読まれたのよ」

「じゃあ、最初から作戦なんていらなかったって言いたいの?」

「そうではないわ」

 

みなみは声を荒らげず、泥に落ちた作戦表を拾った。

 

「最初に誰も傷つかなかったのは、きららの作戦があったからよ。でも、作戦は私たちのためにあるもの。私たちが、作戦を守るためにいるのではないわ」

 

正しいことを言われている。それでも、きららは引き下がれなかった。

 

ここで認めれば、また何かが変わる。次に変わるのが攻撃の位置だけとは限らない。誰かが倒れ、二度と立ち上がらない未来へ変わるかもしれない。

 

「みんながやるべきことを守れば、誰も傷つかないの!」

 

声が花壇へ響いた。

 

はるかは俯いていたが、やがて土の上へ苗を置き、立ち上がった。

 

「きららちゃんだって、全部分かるわけじゃないよ」

 

その言葉に、きららの胸が強く脈打った。

 

「分かってる。だから、ちゃんと考えて――」

「違うよ。きららちゃんは、わたしたちを見てない。頭の中にある正解だけを見てる」

 

はるかの声は震えていた。怒っているのに泣くのを堪えている、幼い頃から変わらない声だった。

 

みなみが二人の間へ視線を動かす。

 

「今は二人とも、少し落ち着いた方がいいわ。私は保健室の様子を見てくる」

 

止めるのではなく、話すための時間を残すように、みなみはその場を離れた。パフもみなみの後を追い、荒れた花壇にはきららとはるかだけが残る。

 

風が吹き、泥に汚れた作戦表の端を揺らした。

 

「あたしが見てないって、どういう意味?」

 

きららから尋ねると、はるかは逃げずに顔を上げた。

 

「きららちゃんは、わたしが危ないところへ行くことも、みなみさんが一人で頑張っちゃうことも、ゆいちゃんが無理することも知ってる」

「だったら――」

「でも、知ってるからって、何をするかまで全部決めていいわけじゃないよ」

 

はるかは制服の胸元を握った。

 

「わたし、きららちゃんが守ろうとしてくれてるのは分かってる。前にゆいちゃんが怪我したことも、トワイライトの攻撃からきららちゃんがわたしを庇ってくれたことも忘れてない」

「なら、言うこと聞いてよ」

「それは違うよ!」

 

はるかの声が初めて強く跳ね返った。

 

「キラくんは、泣いてもまた立てばいいって言ってくれた」

 

幼い呼び名が、きららの奥深くへ突き刺さる。

 

「……今、その話は関係ないでしょ」

「きららちゃんは、わたしが転ぶ前から、歩く道まで決めようとするの?」

 

公園の縁石を歩く、小さなはるかの姿が浮かんだ。何度踏み外しても最初へ戻り、最後には膝を擦りむいて、それでも自分の足で立ち上がった少女。

 

あの時は、転んでも絆創膏を貼れば済んだ。だが、今は違う。

 

「あの頃とは違う!」

 

きららの叫びに、はるかの肩が揺れた。

 

「今度転んだら、傷じゃ済まないかもしれない。もう二度と、立てなくなるかもしれないんだよ!」

「どうして、そんなことが分かるの?」

 

問い返され、きららは息を止めた。本当のことを言えばいい。自分はこの先を知っている。トワイライトの正体も、これから現れる敵も、はるかが何度絶望し、それでも立ち上がることも知っている。

 

だが、その未来はすでに変わり始めている。自分の知識が正しいという保証さえない。それでも告白すれば、前世のことまで問われるかもしれなかった。

 

「あたしは、この先で何が――」

 

喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 

「何でもない」

「きららちゃん」

「分かったようなこと言わないで」

 

はるかの瞳が痛そうに細められた。

 

「分からないよ。きららちゃんが、何も言ってくれないから」

 

何も返せなかった。

 

はるかは怒りをぶつける代わりに、一歩だけ近づいた。手を伸ばせば届く距離で立ち止まり、きららを見つめる。

 

「怖いなら、一緒に怖がってよ」

 

その声は、先ほどまでよりずっと静かだった。

 

「わたしの代わりに全部決めるんじゃなくて、一緒に考えてほしい。わたし、きららちゃんに守られるだけの役になりたくない」

 

はるかの言葉は、きららが本当は欲しかったものに近かった。一人で抱えなくていいと差し出された手なのだと、分かっていた。

 

それでも、その手を取れば、隠しているものまで引き出される気がした。

 

「きららちゃんは、今のわたしを信じられないの?」

 

幼いはるかなら知っている。公園で待ち、何度転んでも立ち上がり、キラを王子様だと信じた少女なら、守り方も分かっていた。

 

だが、目の前にいるはるかが、何を選ぶのかは分からない。

 

きららは鞄を拾い上げた。

 

「明日、朝から撮影だから。こんなことしてる暇ないの」

 

今すぐ出なければ間に合わない仕事ではなかった。はるかもそれを分かっているはずだったが、引き留めなかった。

 

「……分かった」

 

短い沈黙の後、はるかはいつものように笑おうとした。けれど、口元は最後まで上がらなかった。

 

「撮影、頑張ってね」

 

怒鳴られるより、その言葉の方が苦しかった。

 

きららは振り返らず、花壇を離れた。

 

しばらくして、保健室から戻ったゆいは、植え直した苗へ水を与えるはるかを見つけた。傍らには泥で汚れ、端が破れた作戦表が落ちている。ゆいはそれを拾い、破れた部分を指で丁寧に伸ばした。

 

「乾かして書き直せば、まだ使えると思う」

「うん」

 

はるかはじょうろを置き、紙へ目を落とした。そこには誰がどこに立ち、何をするべきかが細かく書かれている。けれど、誰が何を見て、何を感じるのかは一つも書かれていなかった。

 

「でも、書き直してほしいのは、紙だけじゃないの」

 

ゆいは何も尋ねず、はるかの隣へしゃがんだ。二人は折れかけた苗へ土を寄せ、小さな葉がもう一度立つまで静かに支えた。

 

その夜、きららは撮影場所に近いホテルの机で、翌日の進行表を読んでいた。

 

集合時刻、衣装替え、撮影順、立ち位置。そこに書かれた指示に従えば、天ノ川きららというモデルの役はきちんと果たせる。分からないことはスタッフへ聞けばよく、自分以外の誰かが予定を変えても、最終的には監督が決めてくれる。

 

手帳を開くと、フローラ、マーメイド、トゥインクルの配置が残っていた。泥に汚れた紙とは違い、文字は乱れず、三人はきららの決めた場所から一歩も動かない。

 

スマートフォンが震えた。

 

はるかからのメッセージだった。

 

『今度、家族がノーブル学園に来ることになったの。きららちゃんにも会ってほしいな』

 

喧嘩をした直後なのに、はるかは自分を家族へ会わせようとしている。

 

『仕事があるから無理』

 

そこまで入力し、きららは送信ボタンへ指を置いた。だが、押すことはできず、一文字ずつ消していく。

 

新しい言葉も見つからない。返事のできない画面を伏せても、はるかの名前だけは消えてくれなかった。

 

手帳の中では、フローラはもう動かない。けれど画面の向こうのはるかは、きららが決めた役の外から、何度でも手を伸ばしてきた。

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