星の王子と花の姫君 作:百合魔神
知らない町の公園は、想像していたより普通だった。
色の剥げた滑り台に、低い鉄棒。砂場の端には誰かが忘れた赤いバケツが転がり、風が吹くたび木々の葉が乾いた音を立てる。公園の入口から道を挟んだ建物では、ステラの撮影が続いていた。
地方へ来て三日目。午前の撮影が終わるまで暇を持て余していたきららは、入口のベンチにいるスタッフから見える範囲で遊ぶことを許されていた。
公園の外へ出ないこと。時計の長い針が上を向いたら戻ること。何かあれば、すぐベンチの大人へ伝えること。
約束を頭の中で繰り返しながら、きららは薄青いシャツの裾を引っ張った。動きやすい短パンに、短く整えた明るい茶色の髪。すれ違う子どもたちは誰も振り返らず、ステラの娘だと騒ぐ大人もいない。
ここでは、まだ誰も天ノ川きららを知らない。
だからといって、自分から話しかけたい相手がいるわけでもなかった。きららは木陰のベンチへ腰掛け、持ってきた水筒を膝の間に挟んだ。
その時、公園の反対側で、同じ動きを繰り返している子どもが目に入った。
茶色い髪の女の子が、花壇を囲む低い縁石の上を歩いている。背筋を伸ばし、両手を身体の前で重ね、一歩ずつ慎重に足を運んでいた。
五歩進んだところで足を踏み外す。女の子は地面へ降りると、首を横に振って最初の位置へ戻った。
「ちがう。もっと、まっすぐ……」
誰に言うでもなく呟き、また縁石へ上がる。今度は七歩。次は端までたどり着いたものの、振り返る時にぐらついて両手を広げた。
近くのベンチには、花の描かれた絵本が置かれていた。どうやら遊んでいるのではなく、何かの練習をしているらしい。
変なやつだと思った。転ばないようにするなら、最初から腕を広げればいい。それでも女の子は、失敗するたびに服の裾を払い、同じ場所からやり直した。
四度目。端まで歩いた女の子が、今度こそと慎重に向きを変える。その足元で、小さな靴が砂を踏んだ。
身体が傾き、両手をつくより先に膝が砂利へ落ちる。鈍い音がして、女の子はその場にうずくまった。
ベンチのスタッフは書類に目を落としていて、まだ気づいていない。きららは立ち上がり、数歩進んだところで一度足を止めた。
自分には関係ない。そう思った直後、女の子が震える足で立とうとした。
「おい」
声をかけると、女の子が顔を上げた。大きな瞳には涙が溜まっていたが、一滴もこぼすまいと唇を固く結んでいる。
「だいじょうぶ」
「血、出てるぞ」
「へいきだもん」
膝には砂がつき、擦れた皮膚から赤い血がにじんでいた。大きな傷ではなさそうだが、そのまま立てば痛むに決まっている。
「泣きそうじゃん」
「泣かないもん」
女の子は手の甲で目元をこすった。
「プリンセスは、こんなことで泣かないもん」
その言葉に、きららは眉を寄せた。
少し前まで、自分も同じようなことを考えていた。十七歳だった自分は、水をこぼした程度で泣いたりしない。そう言い聞かせて、余計に涙が止まらなくなった。
泣かないことが強さなら、あの時の自分は弱かったことになる。だが、泣いた後も自分で着替えを探し、ステラと話し、キラという名前を選んだ。その全部を「弱かった」の一言で片づけるのは、どうにも気に入らない。
「そこ座れ」
「でも……」
「立ったら、もっと痛くなるぞ」
きららが縁石を指差すと、女の子は渋々腰を下ろした。小さな肩掛け鞄を開き、ハンカチと絆創膏を取り出す。
「洗うぞ。しみるかもしれない」
「わたし、へいき」
「そういうの、いいから」
水筒の水を少しずつ膝へかける。砂が流れ落ちた瞬間、女の子の身体がびくりと震えた。
「いたっ……」
溜めていた涙が、とうとう頬を伝った。一滴落ちると、次の涙は止められなかった。女の子は声を殺そうとしたが、喉の奥から小さなしゃくり上げが漏れる。
きららは何も言わず、傷の水が乾くのを待った。絆創膏を貼り終えてから、汚れていないハンカチを差し出す。
「痛いなら、泣いていいだろ」
「でも……プリンセスじゃ、なくなっちゃう」
「誰が決めたんだよ」
「だって、プリンセスは強いから……」
女の子はハンカチで目元を押さえた。ベンチに置かれた花の絵本へ、ちらりと視線を向ける。
「泣いても、また立てばいい」
きららは絆創膏を指で軽く押さえた。
「そっちの方が、ずっとかっこいい」
「……プリンセスでも?」
「プリンセスでも」
女の子はしばらく泣いた。きららは隣に立ったまま、泣き止めとも、もう大丈夫だとも言わなかった。
やがて、しゃくり上げる声が小さくなる。女の子は自分で涙を拭き、縁石へ両手をついた。
きららが手を差し出すと、その手を握りながらも、女の子は自分の足で立ち上がった。負傷した方の膝を慎重に伸ばし、身体を支えられると分かると、泣き腫らした顔で笑う。
「立てた」
「見れば分かる」
「泣いたけど、立てたよ」
「うん」
それでいい、と言う代わりに、きららは一度だけ頷いた。
女の子は握っていた手を離すと、ハンカチをきれいに畳もうとした。端と端がうまく合わず、何度かやり直してから両手で差し出す。
「ありがとう。わたし、はるか」
ひらがなにすれば三文字の、珍しくもない名前だった。きららは濡れたハンカチを受け取りながら答える。
「俺は、キラ」
「キラくん!」
あまりにも迷いなく呼ばれたせいで、返事が遅れた。たった一度呼ばれただけなのに、「キラ」が借り物ではなくなった気がした。
同時に、喉の奥へ小さな棘が引っかかった。
自分は男の子ではない。少なくとも、今の身体はそうではない。訂正するなら今しかないと口を開きかけたが、はるかの方が先に頭を下げた。
「キラくん、ありがとう!」
また言えなかった。
はるかは膝の絆創膏を眺めた後、目を輝かせてきららを見る。
「キラくんって、王子さまみたい!」
「どこが」
「やさしくて、かっこいいところ!」
「手当てしただけだろ」
「でも、泣いてもいいって言ってくれたもん」
きららは返す言葉を失った。自分が王子様だとは思わない。しかし、真正面から喜ぶはるかを相手に、それ以上否定するのも違う気がした。
「おまえは、プリンセスなのか?」
問い返すと、はるかの笑顔が少しだけ曇った。
「まだ、ちがうの」
「まだ?」
「……うん。まだ」
何か言いかけた唇が閉じる。先ほどまで何度転んでも練習していたはるかが、プリンセスの話だけは怯えるように目を伏せた。
きららは追及しなかった。なりたいならなればいいとも、そんなものにはなれないとも言わない。ただ、ベンチに残された絵本を指差した。
「あれ、忘れるぞ」
「あっ!」
はるかは走り出そうとして、傷めた膝に顔をしかめた。きららは咄嗟に腕をつかむ。
「走るな」
「だって、絵本が……」
「逃げないだろ」
一緒にベンチまで戻り、花の絵本を拾う。表紙は何度も開かれたらしく、角が丸く擦れていた。きららが手渡すと、はるかは大事そうに胸へ抱える。
「家、近いのか?」
「うん。あっち」
はるかが指差した先には、公園から真っ直ぐ伸びる道があった。突き当たりに並ぶ家々まで、入口のベンチからでも見渡せる距離だ。
きららはスタッフのところへ戻り、転んだ子を家の近くまで送ると伝えた。スタッフははるかの膝と道の先を確認してから、公園の出口を指す。
「入口から見えるお家までよ。ここで見ているから、寄り道しないで戻ってきて」
「分かった」
きららとはるかは、歩幅を合わせてゆっくりと道を進んだ。はるかは時々膝を気にしたが、痛いとは言わない。それでも先ほどのように無理に笑うことはなく、痛むたび素直に顔をしかめていた。
「キラくん、この町に住んでるの?」
「ちがう。ママの仕事で来ただけ」
「いつまでいるの?」
「何か月か」
「じゃあ、いっぱい遊べるね!」
すでに一緒に遊ぶことが決まっているらしい。きららは否定しようとしたが、はるかは絵本を抱えて楽しそうに先の予定を並べ始めた。
公園で遊ぶこと。商店街のお菓子屋を教えること。雨が降ったら、軒下で絵本を読むこと。どれも、きららの返事を待たずに増えていく。
「まだ遊ぶって言ってないぞ」
「遊ばないの?」
振り向いたはるかの顔が、分かりやすく曇った。
「……撮影がない時なら」
「やった!」
その笑顔に押し切られたことが悔しくて、きららは前を向いた。だが、不思議と嫌ではなかった。
家の門が見えるところまで来ると、庭の方から女性の声がした。
「はるかー? そろそろ戻っておいで」
「ママ!」
はるかが大きく手を振る。門の向こうへ走りそうになり、きららに腕を押さえられて、今度は自分から歩き直した。
「キラくんも来て。ママに紹介する!」
「俺は戻らないと」
「すぐだよ?」
「スタッフが待ってる」
公園の入口を見ると、スタッフがこちらを見守っている。はるかもその姿に気づき、残念そうに唇を尖らせた。
「じゃあ、明日は?」
「撮影があるから、分かんない」
「わたし、待ってる!」
「待つなよ」
「キラくんが来るまで待ってる!」
転んでも最初へ戻り、何度でも歩き直していた子だ。きっと本当に待つのだろう。
「……来られたら来る」
「うん。また明日!」
約束したつもりはなかった。きららは手を振るはるかへ小さく手を上げ、公園へ引き返した。
翌朝。撮影は昼からだった。
きららはステラへ公園に行くと告げ、昨日と同じ肩掛け鞄を持って建物を出た。中身を確かめる必要などないのに、絆創膏がもう一枚残っていることを確認してから道を渡る。
公園の時計は、昨日よりずっと早い時刻を指していた。
それでも、はるかはもう来ていた。花の絵本を膝に載せ、縁石へは上がらず、入口の方を何度も見ている。
きららを見つけた瞬間、はるかは立ち上がった。絆創膏の貼られた膝を庇いながら、それでも満開の花のように笑って手を振る。
「キラくん!」
昨日まで誰も自分を知らなかった町に、もうキラを待っている子がいた。