星の王子と花の姫君 作:百合魔神
東の空が白み始めても、きららの右手には、つかめなかった感触が残っていた。
目を閉じれば、カナタの腕へ伸ばした指が空を切る。代わりに押しつけられた白いバイオリンの重さまで、何度でも蘇った。
眠れるはずもなく、きららは寮の廊下へ出た。向かった先は、客室として使われている空き部屋だった。
二度ノックしても返事はない。
静かに扉を開けると、窓辺にトワが座っていた。膝の上に白いバイオリンを載せ、夜明け前の空を見つめている。
「眠れなかった?」
トワはゆっくり振り返った。
「きららこそ」
「まあね」
軽く返しながら、きららは部屋へ入った。トワの顔には疲労が残り、目元はうっすらと赤い。それでも背筋だけは、王女としての形を崩さず伸びていた。
「お兄さまは、どこへ消えてしまったのでしょう」
答えを求めている声ではなかった。
きららは右手を握る。指先に残る感触を押し潰してから、トワの隣まで歩いた。
「まだ、見つかってないだけよ」
「ですが、あの崩壊の中で――」
「見つかってないのと、もういないのは違う」
言い切った自分の声に、きらら自身がいちばん驚いた。
カナタが生きている未来を、きららは知っている。ただし、そこへ至る道筋まで同じとは限らない。知っていた結末は、すでに何度も形を変えていた。
それでも、今はその可能性へすがるしかなかった。
「みんなで捜す。パフもアロマもいるし、ミス・シャムールだっている。何か手掛かりが見つかるかもしれない」
「これ以上、皆さまを巻き込むわけにはまいりません」
トワの指が、バイオリンの縁を強くつかんだ。
「これは、わたくしとホープキングダムの問題です。お兄さまが消えたのも、王国の民が絶望に閉ざされたのも、すべてはわたくしが――」
「全部一人でやるつもり?」
「それが、わたくしの責任です」
きららの口から反論は出なかった。
一人で抱え込むなと言えば、そのまま自分へ返ってくる。未来を知っていることも、皆を物語の中の人物として見ていたことも、まだ誰にも話していない。
トワはそんなきららの沈黙を、肯定と受け取ったらしい。伏せていた目を窓の外へ戻した。
「わたくしは、皆さまに助けていただくために、キュアスカーレットになったのではありません」
きららは何も言えないまま、隣の椅子へ腰を下ろした。
昇り始めた朝日が、白いバイオリンの表面へ細い光を落とす。それを挟んで座る二人の間には、慰めでは埋められない沈黙だけが残った。
やがて廊下を駆けてくる足音が聞こえた。
「トワちゃん、おはよう!」
勢いよく開いた扉から、はるかが顔を出す。その後ろには、朝食を載せた盆を持つみなみと、服を抱えたゆいが続いていた。
「はるか、廊下は走らない方がいいわ」
「ご、ごめんなさい、みなみさん」
「反省は後。まずはそれ、こっちに置いて」
きららが立ち上がり、みなみから盆を受け取る。焼きたてのパンとスープの香りが、冷えていた部屋へ広がった。
ゆいが抱えていた服をベッドの上へ置く。
「白金さんに相談して、寮の予備と、みんなが貸せそうなものを集めたの。きららちゃんにも選んでもらったんだよ」
「トワには、あんまり飾りが多いのより、これくらいの方が似合うと思って」
きららが選んだのは、淡い色のブラウスと、落ち着いた赤色のスカートだった。王女のドレスほど華美ではないが、トワの品位を損なわない組み合わせにしている。
トワは服を見つめたまま、手を伸ばそうとしなかった。
「申し訳ありません。わたくしには、お返しできるものがありません」
「貸すだけよ。返すかどうかは、後で決めればいいから」
「ですが――」
「今の服じゃ、町を歩くのも大変でしょ。必要なものを借りるのは、甘えるのとは違う」
きららが押しつけるように服を差し出すと、トワは戸惑いながら受け取った。
「……お借りします」
着替えを終えたトワが姿を見せると、はるかの顔が明るくなった。
「すごく似合ってるよ、トワちゃん!」
「ええ。落ち着いた色合いが、トワの髪にも合っているわ」
「さすがきららちゃんだね」
「ま、これくらいはね」
褒められたトワの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
だが、その笑みはすぐに消えた。借りた服の袖口を見下ろし、何かを数えるように指でなぞる。
服も、食事も、眠るための部屋も、皆が自分へ使っている時間も。トワの中では、受け取るものすべてが返せない借りへ変わっている。
そのことに気づいたのは、きららだけではなかった。
はるかは一度みなみと目を合わせてから、トワの前へ進んだ。
「必要なものを揃えに、これから町へ行かない?」
「町、ですか」
「うん。ずっと部屋にいるより、少し外を歩いた方がいいと思うの。無理に楽しくしなくてもいいから」
トワは迷っていた。
やがて白いバイオリンをケースへ収め、その取っ手を握る。
「分かりました。ご一緒いたします」
夢ヶ浜の町は、朝から多くの人で賑わっていた。
車道を走る自動車、信号に従って動く人々、店先に並ぶ色とりどりの商品。ホープキングダムとは何もかも違う光景に、トワは何度も足を止めた。
「赤い光の時は、道を渡ってはいけないのですね」
「そうだよ。それで、青になったら――」
「でも、青というより緑色ですわ」
「そこは、そういうものなの」
ゆいが苦笑しながら説明する。はるかは隣で大きくうなずいていたが、本当に理解しているのかは怪しい。
「私も最初は、どうして青っていうのかなって思ったよ」
「はるか。あなたは人間界で生まれ育ったでしょう」
「そうだけど、疑問に思う時はあるよ!」
トワが目を瞬かせる。
その直後、前を歩いていた小さな子どもが帽子を落とした。風に飛ばされた帽子をトワが素早く拾い、しゃがんで差し出す。
「こちらを落としましたよ」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
母親にも頭を下げられ、トワはしばらくその場に立ち尽くしていた。
王女とも、プリキュアとも知らない相手から向けられた感謝。それをどう受け取ればよいのか、分からないようだった。
「今の、格好よかったよ」
はるかが笑う。
「当然のことをしたまでです」
そう答えたトワの声は、先ほどよりわずかに柔らかかった。
必要な服や日用品を揃えた後、一行はマーブルドーナツへ入った。
トワは目の前に置かれたドーナツを、未知の道具でも見るように観察している。
「これは、どのようにいただくのです?」
「普通に手で持って食べればいいよ。こうやって」
はるかが実演し、大きく一口かじった。クリームが頬についたことには気づいていない。
「はるか、ついてるわよ」
みなみに指摘され、はるかが慌てて口元を拭う。その反対側にも粉砂糖がつき、ゆいが思わず吹き出した。
きららも耐えきれずに笑う。
「はるか、増えてるから」
「えっ、どこ? きららちゃん、取って!」
「自分で取りなさいよ」
「見えないよ!」
騒ぐ二人を見て、トワの口元が緩んだ。
押さえようとしても間に合わず、小さな笑い声が漏れる。
はるかが振り向いた。
「トワちゃん、笑った!」
その言葉に、トワの表情が凍りついた。
手にしていたドーナツを、そっと皿へ戻す。
「……いけません」
「トワちゃん?」
「ホープキングダムの民は、今も絶望の檻に閉ざされています。お兄さまも、わたくしを救うために行方が分からなくなりました。それなのに、わたくしだけが楽しい時間を過ごすなど」
「笑ったからって、忘れたことにはならないよ」
はるかが身を乗り出す。
「私たちだって、カナタのことも、ホープキングダムのことも忘れてない。それでも――」
「皆さまは、国を絶望へ落とした者ではありません」
はるかの言葉が止まった。
トワは膝の上で両手を握り締める。
「わたくしがキュアスカーレットになれたのは、償う機会を与えられたからです。皆さまと同じように、楽しむためではありません」
みなみはすぐには否定しなかった。
「償おうとする気持ちは、大切だと思うわ。でも、自分を苦しめ続けることだけが償いなのかしら」
「それを決める資格も、今のわたくしにはありません」
トワは立ち上がった。
「少し、外の空気を吸ってまいります」
「私も行くよ」
「いいえ。一人にしてください」
はるかも立とうとしたが、きららが腕をつかんだ。
「今追ったら、余計に逃げる。少しだけ待とう」
「でも……」
「五分だけ。戻らなかったら、すぐ捜す」
はるかは不安そうに入口を見つめながら、ゆっくり座り直した。
五分が過ぎた。
トワは戻らなかった。
きららたちは店の外へ飛び出した。左右へ伸びる通りのどこにも、赤い髪は見当たらない。
トワが座っていた席へ戻ると、皿の下に折り畳まれた紙が挟まっていた。
『お兄さまは、わたくしが捜します。ホープキングダムも、わたくしの責任で必ず救います。これ以上、皆さまを巻き込むわけにはまいりません。今まで本当にありがとうございました』
はるかの手が、紙の端を震わせた。
「巻き込まれたんじゃないよ」
小さな声が、次第に強くなる。
「私たちが、一緒にいるって決めたのに」
みなみは店内を見回し、落ち着いた声で指示を出した。
「手分けしましょう。トワはこの世界のお金も、通信手段も持っていないわ。遠くへは行けないはずよ」
「私、駅の方を見てくる。パフちゃんとアロマは、トワちゃんの気配を探せる?」
「やってみるパフ!」
「任せるロマ!」
きららは書き置きを見つめていた。
誰も巻き込まない。自分の責任で解決する。今までありがとう。
どれも、いつか自分がはるかの前から離れるなら、使ってしまいそうな言葉だった。
「きららちゃん」
顔を上げると、はるかがまっすぐこちらを見ていた。
「きららちゃんは、トワちゃんを放っておける?」
胸元に隠した星の指輪が、急に重くなった気がした。
きららは書き置きを折り畳み、ポケットへ押し込む。
「放っておけるわけないでしょ。行くよ、はるか」
* * *
一人になったトワは、町の案内板の前で立ち尽くしていた。
カナタを捜すと決めたものの、どこから始めればよいのか分からない。名前と容姿以外、手掛かりになるものを何も持っていなかった。
遠くまで捜しに行こうとバスへ乗りかけ、運賃が必要だと知った。働いて旅費を得ようにも、住所も身分を証明するものもない。
一人で生きるという言葉が、どれほど現実から遠いものだったのか。町を歩くほど思い知らされた。
「わたくしは、何と無力なのでしょう」
公園のベンチへ座り、白いバイオリンのケースを抱き締める。
皆へ迷惑をかけないために離れたはずだった。それなのに離れた途端、今日を生きることさえできない。
「お嬢さん」
顔を上げると、数冊の本を抱えた女性が立っていた。
「もしよければ、少し手伝っていただけないかしら」
「わたくしに、ですか?」
「ええ。一人では少し重くて」
女性は柔らかく笑った。
トワは立ち上がり、本の半分を受け取った。近くの書店まで運ぶと、女性は礼として甘味処へ誘った。
「ですが、わたくしはこの世界のお金を持っておりません」
「本を運んでくれたお礼よ。働いた分を受け取るのは、おかしなことではないでしょう?」
そう言われ、トワはようやく席へ着いた。
女性の名は、望月ゆめといった。
運ばれてきたあんみつを一口食べると、身体の奥へ甘さが染み込んだ。空腹だったことを、その時になって初めて自覚する。
「おいしい?」
「……はい」
「よかった」
ゆめは満足そうにうなずいた。
トワは匙を置く。
「この世界の方々は、なぜ見ず知らずのわたくしに、これほど親切になさるのです」
「私も助けてもらったもの。お互いさまよ」
「ですが、わたくしは、多くの方々を傷つけました。大切な国も、家族も失わせました。そのような者が、温かいものを受け取ってよいのでしょうか」
ゆめは、すぐに答えなかった。
湯呑みに手を添え、しばらく考えてから口を開く。
「身体が空っぽになれば、動けなくなるでしょう?」
「はい」
「心も同じではないかしら。温かいものは、頑張った人だけがもらえるご褒美ではないと思うの。また立って、次にできることを考えるための力にもなるから」
トワは胸へ手を当てた。
そこには、はるかの手の温度も、みなみの静かな声も、きららが隣へ座ってくれた時間も残っている。
「わたくしには、それを受け取る資格がありません」
「資格があるかどうかは、私には決められないわ」
ゆめの声は穏やかだったが、曖昧な慰めではなかった。
「でも、一人になることで、あなたが傷つけた人たちへ何かを返せるのかしら」
答えは出なかった。
その時、辺りの空気が冷たく淀んだ。
「へえ。こんなところで優雅にお茶してたんだ」
聞き覚えのある声に、トワは立ち上がった。
店の外、街灯の上にロックが立っている。その手には、禍々しい黒の錠前が握られていた。
「ロック!」
「随分きれいになったね、トワイライト。みんなに迷惑をかけないよう、一人で逃げてきたんだ?」
トワはゆめを庇うように前へ出る。
「この方には手を出させません」
「そう言われると、出したくなるんだね」
ロックの手から放たれた闇が、ゆめの胸を貫いた。
光の中に、子どもたちへ本を読み聞かせるゆめの姿が浮かぶ。子どもたちが自分の夢を見つけ、未来へ歩いていくことを願う、強い夢だった。
「子どもたちに、輝く未来を……」
夢が結晶の檻へ閉じ込められる。
周囲の陳列棚や本が闇に包まれ、巨大な結晶のゼツボーグへ姿を変えた。さらにロックが黒い錠前を差し込むと、結晶の全身へ鋭い棘が生える。
「また、わたくしのせいで……」
「ほらね。あんたと関わった人間は、みんな不幸になるんだ」
トワは目を閉じかけた。
だが、結晶の中で苦しむゆめの姿を見て、白いバイオリンのケースを開く。
「それでも、今度は逃げません」
赤い光がトワの身体を包んだ。
炎がドレスとなって広がり、その中心からスカーレットが姿を現す。白いバイオリンは赤く染まり、弓を構えたスカーレットの周囲で炎が渦を巻いた。
ゼツボーグが放った結晶弾を、炎の障壁が受け止める。
スカーレットは一気に距離を詰め、回転を加えた蹴りを叩き込んだ。巨体が揺らぐが、砕けた結晶は黒い錠前から流れる力によって再生する。
「一人でどこまでできるかな?」
ロックの蹴りを弓で受け止める。横から迫った結晶弾を避けきれず、スカーレットの身体が地面を転がった。
それでも立ち上がり、ゆめの檻の前へ戻る。
「わたくしが、必ず助けます」
「誰を?」
ロックの声が耳元へ滑り込む。
「ホープキングダムも守れなかった。カナタもあんたを助けて消えた。今度はこの人間だ。次は、この世界全部かな?」
スカーレットの炎が揺らいだ。
「不幸しか連れてこないなら、最初から誰にも近づかなければいい。そう思ったから、一人になったんでしょう?」
否定できなかった。
その一瞬を狙い、ゼツボーグが巨大な結晶弾を作り出す。
スカーレットは弓を構えようとした。だが、指が動かない。
「わたくしが、いなければ――」
放たれた結晶弾が、視界を覆った。
直撃する寸前、花びらをまとった蹴りが結晶弾を横から打ち砕く。
砕けた光の向こうに、フローラが立っていた。
「大丈夫、スカーレット?」
「フローラ……」
上空から降り注いだ結晶を、マーメイドの水流が押し流す。ロックが再び錠前へ力を送ろうとした瞬間、星の光弾がその手元を撃ち抜いた。
「こっちのことも忘れないでよね」
トゥインクルがスカーレットの隣へ降り立つ。
「マーメイド、トゥインクル……」
「ちぇ。もう見つけたんだ」
ロックが不満そうに口を尖らせた。
フローラは結晶の檻を見て息を呑む。
「あの人は……ゆめ先生!」
「かわいそうだよね。スカーレットと一緒にいたせいで、こんな目に遭ったんだ」
スカーレットの肩が震えた。
「やはり、わたくしは――」
「傷つけたことは、なくならないよ」
フローラの言葉に、スカーレットが顔を上げる。
「フローラ?」
「スカーレットが苦しめた人も、ホープキングダムで今も待っている人もいる。なかったことにはできない」
フローラはまっすぐスカーレットを見つめていた。
「だから、これから助けられる人まで置いていかないで」
「ですが、わたくしにそのような資格が――」
「あたしたちが誰と一緒にいるかまで、あんたが一人で決めないで」
トゥインクルの声が、戦場を切り裂いた。
スカーレットが息を呑む。
「あんたが自分を許せないのは、あんたの気持ち。でも、あたしたちが一緒にいたいと思うかは、あたしたちが決める」
「もし、わたくしが再び間違えたら」
「その時は止める。勝手なことをしたら怒る」
トゥインクルは、ゼツボーグから目を離さないまま答えた。
「あたしたちが間違った時は、あんたが止めればいい。それが仲間ってことでしょ」
自分の言葉が、胸の奥へ返ってくる。
未来を知っているから。秘密を抱えているから。はるかたちが傷つく前に離れた方がいい。
きらら自身も、同じようなことを何度も考えてきた。
それでも今、トゥインクルはスカーレットへ手を差し出している。
マーメイドが二人の前へ立ち、押し寄せる結晶を水の壁で受け止めた。
「話は後にしましょう。今は、あの方を助けることが先よ」
フローラもうなずく。
「一緒に戦おう、スカーレット」
スカーレットは差し出された手を見つめた。
誰かに引き上げてもらうだけではない。自分からその手を求めなければならない。
震えていた指が、ゆっくりと動く。
「どうか、わたくしに力を貸してください」
トゥインクルがその手を強く握った。
「最初からそのつもりよ」
四人は並んでゼツボーグへ向き直った。
マーメイドの水流が結晶弾の軌道を狭める。そこへトゥインクルが星の光を撃ち込み、黒い錠前をゼツボーグの身体から弾き出した。
「今よ、フローラ!」
「うん!」
フローラの光が結晶の棘を押し広げ、ゆめが閉じ込められた檻まで一本の道を作る。
スカーレットはその道を駆け抜けた。
ゼツボーグが腕を振り下ろす。マーメイドとトゥインクルが左右から受け止め、フローラが花びらをまとった一撃で巨体を後退させる。
スカーレットは赤いバイオリンへキーを差し込んだ。
弓が弦を滑り、炎の旋律が響き渡る。四人が作った道の先に、巨大な火の鳥が翼を広げた。
「プリキュア・フェニックス・ブレイズ!」
炎の鳥がゼツボーグを包み込む。
黒い結晶が次々と砕け、赤い光の中で浄化されていった。最後に檻が開き、解放されたゆめの身体をフローラが受け止める。
ロックは地面に落ちた錠前を拾い上げた。その内部には、わずかな絶望の力が残っている。
「まあ、今日はこれくらいでいいかな」
「待ちなさい!」
マーメイドが追おうとするが、ロックの身体は闇へ溶け始めていた。
「四人でまとまってるなら、ばらばらにすればいいだけだよね」
黄色い目を細め、ロックは姿を消した。
残された四人の間に、その言葉だけが不穏に響いた。
戦いが終わり、変身が解除される。
トワは目を覚ましたゆめの前へ進み、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。わたくしと関わったために、あなたを危険へ巻き込んでしまいました」
「確かに、怖かったわ」
ゆめは、何もなかったようには笑わなかった。
「あなたのことを、私はまだよく知らない。だから、あなたの過去をすべて許すとは言えないわ」
トワは顔を上げる。
「でも、今日あなたが逃げずに私を助けようとしたことは分かる。三人に助けを求めたこともね」
「わたくしは、一人では何もできませんでした」
「一人で何でもできる人なんて、いるのかしら」
ゆめの問いに、トワは答えられなかった。
きららが腕を組み、トワの前へ立つ。
「一人で決めて消えるのが、一番迷惑」
「きらら……」
「帰ってこないかもしれないって、残された方に考えさせるんだから。次からは、せめて言いたいことを全部言ってからにして」
厳しい言葉だった。
だが、きららの声は怒りだけではなく、わずかに震えている。
トワは、きららが自分と同じように何かを恐れていることへ気づいた。それでも今は、問いたださなかった。
「申し訳ありませんでした」
「謝る相手は、あたしだけじゃないでしょ」
トワが振り返る。
はるかは泣きそうな顔で、それでもトワを責めるように見つめていた。
「巻き込まれたんじゃないよ。私たちは、自分でトワちゃんと一緒にいたいって決めたの。勝手にその気持ちまで決めないで」
「はるか……」
「心配したんだから」
「はい。本当に、申し訳ありません」
トワが頭を下げると、はるかはようやく息を吐いた。
みなみもトワの前へ進む。
「これから間違えないとは、誰にも約束できないわ。私たちも同じよ。だからこそ、話し合って、止め合う必要があるのだと思う」
「私も、できることなら手伝うよ」
ゆいが続ける。
「町のことも、学園のことも、分からないことは一緒に調べよう。戦うことはできないけど、それ以外ならきっと力になれるから」
パフとアロマも、トワの足元へ駆け寄った。
「ずっと一緒パフ!」
「もう一人で行ってはいけないロマ!」
皆の言葉を受け止め、トワは目を閉じた。
笑う資格があるとは、まだ思えない。すぐに自分を許すこともできない。
それでも、一人で消えることが償いではないとは分かった。自分が離れることで、仲間が傷つく可能性を考えていなかった。
はるかが手を差し出す。
「帰ろう、トワちゃん」
トワはその手を見つめた。
今度は、引き上げてもらうのを待たない。
自分から手を伸ばし、はるかの手を握る。
「皆さまのお力を、お借りしてもよろしいでしょうか」
「もちろん!」
はるかの笑顔に、トワはまだ小さくしか応えられなかった。
それでも、その手を離すことはなかった。
* * *
夕方、トワたちは白金に呼ばれ、ノーブル学園の学園長室を訪れた。
重い扉の向こうで待っていた人物を見て、はるかとゆいが同時に声を上げる。
「ゆめ先生!?」
「どうしてこちらに?」
ゆめは机の前で立ち上がり、いたずらっぽく笑った。
「改めまして。私がノーブル学園の学園長、望月ゆめです」
「ええっ!?」
はるかの声が部屋中に響いた。
みなみも驚きを隠せず、きららは目を丸くしている。トワだけが状況をのみ込めないまま、皆の顔を見比べていた。
ゆめはトワへ向き直る。
「あなたの事情は、白金さんや皆さんから聞きました。しばらく人間界で暮らすのなら、学ぶ場所が必要でしょう」
「学ぶ場所……」
「人間界のことを知り、カナタさんを捜し、あなたがこれから何をしたいのか考える場所。ノーブル学園の生徒として、ここで暮らしてみない?」
トワは言葉を失った。
「ですが、わたくしのような者を受け入れれば、学園へ危険が及ぶかもしれません」
「今日、すでに危険から私を守ってくださったでしょう?」
「それだけで、過去が消えるわけではありません」
「消す必要はないわ」
ゆめは静かに答えた。
「学校は、間違いのない人だけが入る場所ではないもの。これから何を学び、どのような自分になりたいのか。その答えを探す場所よ」
トワは三人を振り返った。
はるかは期待に満ちた目で見つめている。みなみは穏やかにうなずき、きららは選択を急かさず待っていた。
誰も、罪が消えたとは言わない。
誰も、すぐに笑えとは言わない。
それでも、ここにいてよいと手を差し出している。
トワは自分の胸へ手を当てた。
「わたくしは、ここで学びたいです」
一言ずつ、確かめるように続ける。
「皆さまのお力を借りながら、わたくしにできる償いを探したい。そしていつの日か、必ずホープキングダムを救いたいです」
ゆめは柔らかく微笑んだ。
「ようこそ、ノーブル学園へ」
その夜、トワは再び客室の前へ戻ってきた。
朝には、誰にも告げず立ち去ろうとしていた場所だった。
扉の前には、はるかたちが待っている。
トワは一度だけ息を整えた。
「戻りました」
はるかが真っ先に笑う。
「おかえり、トワちゃん」
みなみとゆいも続き、パフとアロマがトワへ飛びついた。
きららは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
トワを止めた言葉が、まだ胸の内に残っている。
一人で決めて消えるのが、一番迷惑。
服の下に隠した星の指輪へ、無意識に手が触れる。トワの視線が一瞬そこへ落ちたが、何も尋ねることなく部屋へ入った。
廊下の奥から歩いてきたゆめが、楽しそうに手を合わせる。
「入学が決まったのなら、次は部屋を考えなくてはいけないわね」
「そうですね。空いている部屋を確認しませんと」
みなみが答えると、ゆめはなぜか、きららへ視線を向けた。
「ちょうど、一人分空いている部屋があったはずよ」
嫌な予感がした。
「……なんで、あたしを見るんですか?」
ゆめは答えず、にこりと微笑む。
きららの問いを残したまま、客室の扉が静かに閉じた。