星の王子と花の姫君 作:百合魔神
終業式を終えた日の午後、ノーブル学園の寮はいつもより騒がしかった。
廊下では大きな鞄を抱えた生徒たちが行き交い、玄関の前には迎えの車が次々と停まっている。夏休みを家族と過ごすため、皆がそれぞれの家へ帰っていくのだ。
窓辺に立つトワは、その光景を静かに見つめていた。
嬉しそうに両親へ駆け寄る生徒。久しぶりに会った姉妹と手を取り合う生徒。どの顔にも、帰る場所へ向かう安堵が浮かんでいる。
「トワちゃん!」
開け放たれた扉から、はるかが勢いよく顔を出した。後ろにはみなみとゆいもいる。
「夏休み、一緒に私の家へ行こう!」
「はるかのお宅へ、ですか?」
「うん。お父さんもお母さんも、みんなでおいでって。ももかも楽しみにしてるよ」
トワは驚いたように目を瞬かせ、それから同じ部屋にいるきららへ視線を向けた。
机の上で仕事の予定表を閉じたきららは、その視線の意味に気づいて肩をすくめる。
「あたしも行くよ。明日は休み」
「モデルのお仕事はよろしいのですか?」
「この前、編集さんと予定を組み直したでしょ。休む日も仕事のうちってことで、明日は最初から空けてあるの」
本当は、少しだけ落ち着かなかった。
はるかの家へ遊びに行くこと自体は初めてではない。けれど今回は、先日の一件以来ずっと自分たちの指輪へ意味ありげな視線を送ってくるトワが一緒なのだ。
「何?」
「いいえ。きららがご一緒なら、心強く思います」
「そういう顔には見えないんだけど」
トワは穏やかに微笑むだけだった。
はるかは二人の間にあるものへまるで気づかず、楽しそうに手を合わせた。
「じゃあ決まり! みんなでお泊まりしよう!」
翌朝、駅へ集まった五人の中で、ひときわ目立っていたのはみなみの荷物だった。
大小の鞄がきれいに並び、その一つには帽子が崩れないよう専用の箱まで収められている。
「みなみ、何泊するつもり?」
「必要になりそうなものを、少し用意しただけよ」
「少しって量じゃないでしょ」
「着替えと洗面用具、それに皆さんへの手土産、お借りした本、念のための救急用品……」
「もういい。聞いたあたしが悪かった」
きららが片手を上げると、トワは自分の白いバイオリンケースと小さな鞄を見下ろした。
「わたくしの支度は、足りなかったのでしょうか」
「トワはそれで大丈夫」
「ですが、みなみはこれほど周到に――」
「みなみを基準にしない方がいいよ」
きららの即答に、みなみがわずかに眉を上げる。ゆいは笑いを堪えながら、みなみの小さな鞄を一つ持った。
「みなみさんの荷物には、きっとみんなの分も入っているんだよ」
「もちろんよ。何か必要になったら言ってちょうだい」
「ほらね」
列車とバスを乗り継ぎ、はるかの家へ着く頃には、夏の日差しが高く昇っていた。
玄関先には、はるかの父いぶきと母もえ、妹のももかが揃って待っている。
「お姉ちゃん、おかえり!」
ももかが真っ先にはるかへ飛びついた。はるかは笑いながら妹を受け止め、そのまま両親へ友人たちを紹介していく。
トワの番になると、本人は鞄を足元へ置き、背筋を伸ばした。
スカートの端へ指を添え、王城の謁見の間に立つような優雅な礼をする。
「初めてお目にかかります。紅城トワと申します。本日はこのような機会を賜り、心より――」
「『お世話になります』でいいから」
きららが小声で止めると、トワは一度姿勢を正した。
「本日は、お世話になります」
「はい、よくできました」
「きららは、わたくしを幼子のように扱っていませんか?」
「気のせい」
はるかは前もって、トワが長く海外で暮らし、日本の生活にまだ慣れていないと伝えていたらしい。
そのため春野家の三人は、少し堅苦しい挨拶にも驚くことなく、二人のやり取りを柔らかな笑顔で見守っていた。やがて、もえが優しく声をかける。
「遠いところから来たんでしょう? ここでは自分の家だと思って、ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
歓迎の言葉を受けたトワの表情が、ほんの少しだけ揺れた。
だが、すぐに嬉しそうな笑みへ変わる。きららは何も言わず、その横顔を見守った。
春野家は、昔ながらの和菓子屋を営んでいた。
店先のガラスケースには色とりどりの菓子が並び、奥からは餡と蒸した米の甘い香りが漂ってくる。
昼時を過ぎても客足は途切れず、はるかは荷物を置くとすぐに前掛けを身につけた。
「みんなは休んでてね。私、ちょっとお店を手伝ってくるから」
「あたしもやる」
きららも迷わず髪をまとめる。何度か手伝ったことがあるため、店の勝手は分かっていた。
はるかが注文を聞けば、きららは必要な箱を選ぶ。きららが包装紙を広げれば、はるかは頼まれる前に紐を差し出す。二人の手はぶつかりそうでぶつからず、言葉が少なくても次に何をするか分かっていた。
みなみとゆいも手伝い始め、トワはもえから教わりながら菓子を載せた盆を運んだ。
最初こそ一歩ごとに慎重だったが、王城で身につけた所作は接客にもよく馴染み、客から褒められるたびに丁寧な礼を返している。
やがて客足が落ち着き、五人は店の奥で冷たい麦茶をいただくことになった。
トワは隣り合って座るはるかときららを見て、感心したように口を開く。
「お二人は、まるで長く連れ添ったご夫婦のようでした」
「どうしてそうなるのよ」
きららは麦茶を置き、即座に否定した。
「相手の考えていることを、言葉にせずとも理解しておられます」
「お店の手順を知ってるだけ」
「きららちゃん、私が紐を落としそうになった時も、見ないで受け止めてくれたよね」
「はるかが落としそうな顔してたからでしょ」
「そのようなお顔があるのですか?」
「あるの」
トワは納得しかねる様子だったが、追及はしなかった。
きららが安堵しかけた時、向かいに座るももかが声を上げる。
「お姉ちゃん、その指輪、出てるよ」
はるかの襟元から、細い鎖がこぼれていた。
先に下がる花の指輪が、店の明かりを受けてきらりと光る。
「本当だ。ありがとう、ももか」
はるかが指輪を手のひらへ載せると、もえは懐かしそうに目を細めた。
「その指輪、本当に大切にしているわね。小さい頃から、なくさないようにって、ずっと自分でしまっていたもの」
「うん。大事な約束の指輪だから」
隣から、はっきりと視線を感じた。
きららが顔を向けると、トワは花の指輪ときららの胸元を交互に見ている。予想していたはずなのに、その真剣さに背中が冷たくなった。
「はるか。その約束について、お聞きしてもよろしいですか?」
「もちろん」
「もちろんじゃなくてもいいんだけど」
きららの抵抗は、はるかの明るい声に簡単に押し流された。
「私が小さい頃、森で迷子になったことがあったの。その時に助けてくれたのが、キラくんだったんだ」
幼い日に交わした言葉を思い出すように、はるかは花の指輪を指先でなぞった。
「キラくんは、私にプリンセスの夢を諦めないでって言ってくれた。それで、いつか私が本物のプリンセスになったら、迎えに来てくれるって約束したの」
「その証しとして、対になる指輪を?」
「うん。私が花で、キラくんが星」
トワの視線が、ゆっくりときららへ移った。
逃げ道を探しても、ここははるかの家である。しかも今日は、仕事を理由に席を立つこともできない。
「ねえ、トワ。その顔やめて」
「まだ何も申し上げておりません」
「言う前から分かる」
しかし、トワはきららの制止を聞かず、春野家の人々へ向き直った。
「わたくしの故郷では、対となる装身具を贈り、将来迎えに行くと誓うことは、生涯を共にする意思を示す行いです」
全員の視線が、きららとはるかへ集まった。
トワは祝いの席に臨むように、丁寧に頭を下げる。
「はるか、きらら。ご婚約、おめでとうございます」
「婚約ではありません!」
飲みかけた麦茶が気管へ入り、きららは激しくむせた。
ゆいが慌てて背中をさすり、はるかは真っ赤になって花の指輪を握る。いぶきともえは驚いた顔を見合わせ、ももかだけが目を輝かせた。
「お姉ちゃん、結婚するの?」
「しない! 少なくとも今の話じゃないから!」
「きららちゃん、私が答えるところだよ」
「だったら早く否定して!」
混乱の中でも、みなみだけは落ち着いていた。
「トワ。こちらでは、幼い頃にそのような約束をしても、それだけで婚約になるわけではないの」
「では、お二人は将来を誓ってはいないのですか?」
「誓ってない!」
きららの声が店の奥まで響く。
トワは少し考えてから、今度ははるかへ尋ねた。
「はるかは、きららに迎えに来てほしくないのですか?」
「えっ」
はるかの顔がさらに赤くなった。
助けを求めるように周囲を見回すが、家族も友人たちも答えを代わってはくれない。
「婚約じゃないよ。でも、きららちゃんとの約束が大切なのは本当だよ」
「はるか、そこは先に婚約を否定して!」
「今、否定したよ?」
「順番の問題!」
ももかが声を上げて笑い、つられるように大人たちも笑い始めた。
からかわれているというより、二人の慌てぶりが微笑ましいらしい。それが分かるからこそ、きららは余計に居たたまれなかった。
「もう、昔の約束でしょ。子どもの頃の話なんだから」
どうにか終わらせようと、きららはぶっきらぼうに言った。
笑いの残っていた場が、わずかに静かになる。
はるかは手の中の花を見つめ、それからきららへ顔を向けた。
「私は、昔だけの約束だとは思ってないよ」
その声は小さかったが、冗談ではなかった。
きららの胸元で、服の下に隠した星が急に重くなったような気がする。
今のはるかにとって、それがどんな意味なのか。
幼い日の約束を守りたいだけなのか、今も一緒に夢を追う相手でいたいのか。あるいは、自分が考えないようにしている別の何かなのか。
「あたしは――」
店先の鈴が鳴り、客の訪れを告げた。
もえが立ち上がり、はるかも反射的に続く。答える機会を失ったきららは、ほっとしたのか残念だったのか、自分でも分からなかった。
午後になると、春野家の庭には長い竹が据えられた。
いぶきが水を流し、上流から白いそうめんを放つ。箸を構えたトワは、流れてくる食事を目にして真剣な顔になった。
「これは、逃げる前に捕らえるという鍛錬でしょうか」
「お昼ご飯だよ、トワちゃん」
「食べ物が逃げる点は否定しないけどね」
きららが箸でそうめんをすくってみせる。
トワもそれにならい、一度目は逃したものの、二度目にはきれいに受け止めた。
「取れました!」
「うん、上手!」
「次が来るよ。喜んでないで、つゆにつけて食べなさい」
一方のみなみは、最初から落ち着いた手つきで一口分をすくっていた。
「みなみさん、初めてなのにすごいね」
「流れをよく見れば、難しくはないわ」
そう言った直後、上流から予想以上の量が流れてくる。
みなみが目を見開き、皆が一斉に箸を伸ばした。庭には笑い声が響き、最後の一本まで競うように食べ終えた。
午後は井戸水で冷やした西瓜を割り、近くの温泉へ出かけた。
広い湯船へ足を入れたトワは、最初こそ人前で湯に浸かる習慣へ戸惑っていたが、肩まで沈む頃には頬をゆるめていた。
「温かいお湯に浸かるだけで、これほど心が落ち着くのですね」
「日本の夏は、暑くなって涼しくなって、また熱くなるんだね」
ゆいの言葉に、きららは笑った。
みなみも髪をまとめ、湯気の向こうで静かに息をついている。いつも整っている横顔が少しだけ無防備に見え、きららは何となく安心した。
家へ戻ると、畳の部屋に薄い布団が並べられていた。
夜の花火大会まで身体を休めることになり、五人は扇風機の風を受けながら横になる。
蝉の声と、規則正しく首を振る扇風機の音。
きららは横向きになり、壁際に置いた鞄から予定表が覗いているのを見た。だが、今日は開かないと決め、目を閉じる。
どれほど眠ったのか分からない。
遠くから、苦しそうな息遣いが聞こえてきた。
「お兄さま……行かないで……」
トワだった。
額には汗が浮かび、握りしめた手が震えている。
「トワ」
すぐ隣にいたみなみが身を起こし、肩へそっと手を置いた。
トワは息を呑んで目を開く。夕暮れの薄暗い部屋を見回し、自分がどこにいるのか確かめるまで、しばらく時間がかかった。
「夢を見ていたのね」
「……申し訳ありません。起こしてしまいましたか」
「謝ることではないわ」
みなみの声は、眠りの残る部屋に静かに溶けた。
きららは目を閉じたまま、寝返りを打つふりをする。今は自分が割って入るより、二人だけで話す方がいい気がした。
「夜が来ると、思うことがあります」
トワは膝を抱え、窓の外へ沈みかけた光を見つめた。
「あの闇が、まだわたくしの中に残っているのではないかと。いつか再び、わたくしがわたくしでなくなってしまうのではないかと……」
「怖いと思うことと、闇へ戻ることは同じではないわ」
「ですが、わたくしは一度――」
「一度迷ったからこそ、今は戻る道を知っているのでしょう?」
みなみは急がず、一つずつ言葉を渡していく。
「不安になった時は、私たちに話して。誰かの力を借りることは、弱さではないわ」
「みなみ……」
「あなたが一人で抱え込まないように、私たちはそばにいるのよ」
長い沈黙の後、トワが小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
その声から、震えが少しだけ消えていた。
きららは布団の中で肩の力を抜く。トワには、もう自分だけでなく、はるかもみなみもゆいもいる。それを寂しいとは思わなかった。むしろ、嬉しかった。
日が暮れると、川辺には屋台の明かりが並んだ。
浴衣姿の人々が行き交い、焼きとうもろこしや甘い蜜の香りが夜風に混じる。
春野家の面々と五人は、堤防に近い場所へ敷物を広げた。
ももかは綿あめを片手に、いつ始まるのかと何度も空を見上げている。
最初の一発が上がると、夜空いっぱいに金色の花が咲いた。
遅れて腹へ響く音が届き、トワは驚きながらも目を輝かせる。
「空に、あれほど大きな花を咲かせることができるのですね」
「きれいだよね、トワちゃん」
「はい。とても」
赤、青、緑。光の花が次々と開き、川面へ揺れる色を落としていく。
トワの横顔には、昼間の悪夢の影はなかった。
その笑顔を、遠く離れた木の上から見つめる者がいた。
「かつての誇り高きトワイライトが、人間どもの祭りに心を奪われるとは……嘆かわしいのみ!」
シャットは扇を閉じ、川辺を見渡した。
視線の先では、地域の消防団員が見回りを続けている。打ち上げ場所の周辺を確認し、子どもたちが危険な場所へ近づかないよう声をかけていた。
「みんなが安心して花火を楽しめるように、この町を守り続けたい」
その言葉を聞いたシャットの口元が歪む。
「夢など、闇へ沈むのみ!」
黒い錠前が放たれ、消防団員の夢を閉じ込めた。
地面から巨大な影が立ち上がる。太い消防ホースを何本も腕のようにうねらせ、頭には歪んだ防火帽をかぶったゼツボーグだった。
「ゼツボーグ!」
ホースの先から黒い煙が噴き出し、観客たちの間へ広がる。
悲鳴が上がり、人の流れが一斉に乱れた。
「みんな、こっち!」
ゆいがすぐに立ち上がった。
はるかときららは、転びかけた子どもたちの手を取り、人波から離れる方向へ導く。
「ゆいちゃん、お父さんたちとももかをお願い!」
「分かった。はるかちゃんたちも気をつけて!」
ゆいは春野家の人々を連れ、煙の届かない堤防の裏側へ向かう。
周囲の人々もそちらへ誘導され、木立と土手が戦いの場を隠した。
黒煙を前に、トワの足が止まった。
視界を覆う闇。胸へ入り込む冷たい感覚。夢の中で何度も聞いた声が、すぐそばから呼んでいるようだった。
「おやおや。闇を恐れるとは、トワイライトも堕ちたものですな」
煙の向こうからシャットが姿を現す。
その名を聞いた瞬間、トワの指が強く握られた。
みなみは一歩だけ前へ出たが、トワを庇って視界から隠すことはしなかった。
ただ、すぐ届く場所へ手を差し出す。
トワはその手を見つめた。
夕暮れの部屋で受け取った言葉を思い出し、自分からみなみの手を取る。
「わたくしはトワイライトではありません。紅城トワです」
声はわずかに震えていた。それでも、目は逸らさなかった。
「みなみ。わたくしと共に、あの闇を退けてください」
「ええ。もちろんよ」
二人は手を離し、それぞれのプリンセスパフュームを構えた。
海の青と真紅の炎が闇を押し返し、キュアマーメイドとキュアスカーレットが並び立つ。
ゼツボーグのホースが地面を打ち、黒煙をまとった水流が襲いかかった。
マーメイドが前へ出て、渦巻く水の盾で受け止める。ぶつかった水が霧となり、辺りを白く覆った。
「右側が空きます。そこから進んで!」
「はい!」
マーメイドが水流の向きを逸らし、スカーレットが開いた道を駆ける。
だが、黒煙が生き物のようにまとわりつき、炎を包もうとした。
耳元で、シャットの声が重なる。
「闇こそがお前の居場所。戻るのみ、トワイライト!」
スカーレットの足が、一瞬だけ鈍った。
その前へ、澄んだ水の輪が走る。
「プリキュア・バブル・リップル!」
青い泡が黒煙を包み込み、視界を開いた。
煙の向こうに立つマーメイドが、まっすぐスカーレットを見ている。
「あなたは一人ではないわ、スカーレット」
「……はい!」
スカーレットの炎が再び高く燃え上がった。
闇に触れた過去を消すのではない。その記憶ごと抱えて、それでも自分の足で進むための炎だった。
「プリキュア・スカーレット・スパーク!」
真紅の火線が走り、黒煙だけを焼き払う。
しかしゼツボーグは別のホースを振り回し、二人を左右から囲んだ。
その時、夜空に花と星の光が弾けた。
「お待たせ!」
「ここからは、あたしたちも一緒よ!」
避難を終えたフローラとトゥインクルが、堤防を越えて降り立つ。
ゼツボーグがホースを二人へ向けるが、フローラの蔓が先端へ絡みついた。
「プリキュア・リィス・トルビヨン!」
花の輪がホースを縛り、黒い水流の狙いを空へ逸らす。
そこへトゥインクルが跳び上がった。
「プリキュア・フルムーン・ハミング!」
満月の光が黒煙を貫き、ゼツボーグの巨体を後ろへ押し戻す。
四本のホースが暴れ、地面を砕く。マーメイドは水の流れを読み、一番太いホースの根元へ両手を向けた。
「スカーレット、今よ!」
「お任せください!」
マーメイドの水がホースを幾重にも包み、動きを封じる。
スカーレットは炎の弓を引き絞り、闇の力が集まる防火帽の印へ狙いを定めた。
「燃えよ、炎! プリキュア・フェニックス・ブレイズ!」
不死鳥となった炎が夜空を駆ける。
真紅の翼は黒煙を焼き、歪んだ防火帽とホースを光の中へ溶かしていった。
「ごきげんよう」
夢の檻が砕け、消防団員が解放される。
ゼツボーグが消えた後には、夜風と川の音だけが残った。
「今日のところは退くのみ。ですがトワイライト、闇は必ずお前を――」
「その名で呼ばないでください」
スカーレットは静かに言い切った。
「わたくしは、キュアスカーレットです」
シャットは悔しげに扇を噛み、闇の中へ消えていった。
戦いが終わり、四人の変身が解ける。
意識を取り戻した消防団員を安全な場所まで運ぶと、止まっていた花火大会も、周囲の確認を終えて再開されることになった。
ゆいと春野家の人々も戻り、五人は再び敷物へ腰を下ろした。
騒ぎについて尋ねられたはるかたちは、煙が出て避難が必要だったのだとだけ説明する。いぶきたちも、無事を確かめることを優先し、それ以上は聞かなかった。
次の花火を待つ間、トワはみなみの隣へ座った。
「みなみ。先ほどは、ありがとうございました」
「私は道を開いただけよ。進んだのはトワ自身だわ」
「それでも、一人では進めなかったと思います」
トワは、闇の消えた夜空を見上げた。
「わたくしが恐れていたのは、闇だけではなかったのですね。もう一度、あの中で独りになることが怖かったのです」
「それなら、もう心配はいらないわ」
みなみも同じ空を見上げる。
「トワは、独りになる必要などないもの」
大きな音と共に、空へ赤い花が咲いた。
その光に照らされたトワの笑顔を見て、きららは胸の奥が温かくなるのを感じた。
隣では、はるかが夢中で花火を見上げている。
襟元に隠した花の指輪が、動くたびに鎖だけをのぞかせていた。
夜遅く春野家へ戻ると、畳の部屋には五組の布団が並べられていた。
はるかは何の迷いもなく、自分の布団をきららの隣へ敷き直す。
「きららちゃん、ここでいいよね?」
「別に、どこでも同じでしょ」
きららが枕を置くと、トワが二人の布団の間隔を確認した。
「婚約者同士は、隣でお休みになるのですね」
「婚約ではありません!」
本日二度目の叫びに、隣の部屋からももかの笑い声が聞こえた。
みなみは困ったように微笑み、ゆいは布団へ顔を伏せて肩を震わせている。
「トワ、みなみから、この世界じゃ婚約にならないって教わったでしょ」
「はい。ですが、婚約でないのなら、どのようなご関係なのでしょう」
「友達!」
「大切な約束を交わし、互いに対の指輪を身につけ、将来迎えに行くことを誓ったお友達、ですか?」
「説明を長くしないで!」
はるかまで笑い出したため、きららは掛け布団を頭まで引き上げた。
やがて明かりが消され、部屋には五人分の気配だけが残った。
窓の外では虫が鳴き、遠くから祭りの片づけをする音がかすかに届いている。
「ねえ、きららちゃん」
隣から、はるかの囁き声がした。
「何?」
「迎えに来てくれる約束、まだなくなってないよね?」
暗闇の中で、きららは胸元へ手を伸ばした。
指先に触れた星の輪郭は、幼い日に渡された時と変わらない。
約束の意味を、昔のままだと言い切ることも、今すぐ別の名前へ変えることもできなかった。
トワが婚約と呼んだから決まるものでも、自分が昔の話と片づければ消えるものでもない。二人でこれから育てていくうちに、いつか答えが見つかるのかもしれない。
ただ、なくなったとは思わなかった。
「……はるかが本物のプリンセスになったら、考えてあげる」
「うん。じゃあ、絶対なるね」
弾んだ声の後、反対側の布団から静かな声が届いた。
「それを婚約の誓いというのでは?」
「トワはもう寝なさい!」
暗い部屋に笑い声が広がった。
きららは顔まで熱くなるのを感じながらも、隣の布団から離れようとはしなかった。