星の王子と花の姫君 作:百合魔神
不完全な扉
帰りの列車が一定の音を刻みながら、夏の日差しに照らされた町並みを抜けていく。
昨夜は花火の後もなかなか眠れなかった。窓の外を眺めていたきららの肩へ、いつの間にか柔らかな重みが寄りかかっている。
はるかだった。
規則正しい寝息を立て、きららの肩へ頬を預けている。起こそうと身体を動かしかけた時、襟元から細い鎖がのぞいた。
その先に隠れている花の指輪を思い出す。
迎えに来てくれる約束、まだなくなってないよね。
昨夜の囁きが耳の奥へよみがえり、きららは動くのをやめた。
向かいの席では、トワが二人を見つめている。何かを言う前から、その顔には聞きたいことがいくつも浮かんでいた。
「今は何も言わないで。起きるから」
「わたくしは、まだ何も申し上げておりません」
「言いそうな顔してるの」
きららが声を落とすと、トワは口元へ手を添え、静かにうなずいた。
隣ではるかが小さく身じろぎする。きららは息を止めたが、はるかは目を覚まさず、先ほどより近くへ寄ってきただけだった。
斜め向かいに座るゆいが笑いを堪えている。みなみは目を閉じているものの、その口元にはかすかな微笑みがあった。
「みんな、寝たふりしないでよ」
返事はない。
きららは窓へ顔を向け、到着まで肩を動かさないことにした。
夢ヶ浜駅へ着いた頃には、昼を少し過ぎていた。
夏休み中の駅は、大きな鞄を持った家族連れや旅行客で賑わっている。その一角に撮影機材とスタッフの姿を見つけ、トワが驚いたようにきららを見た。
「これからお仕事なのですか?」
「うん。駅の旅行キャンペーン。帰りの時間に合わせてもらったの」
「昨日はお休みでしたのに、今日はもう……」
「休んだから働けるの。前みたいな無茶な予定じゃないから、心配しないで」
きららはスタッフへ挨拶し、用意された衣装へ着替えた。
白い帽子と薄い水色のワンピース。小さな旅行鞄を手に、発車案内板の前へ立つ。
撮影の題材は、大切な場所へ帰る夏だった。
きららは鞄を持ち直し、カメラの向こうへ視線を送る。歩き出す瞬間、列車を待つ横顔、久しぶりの町へ降り立った時の笑顔。求められた場面を、一つずつ形にしていった。
「最後に、誰か大切な人を待っている感じでお願い」
カメラマンの注文を受け、きららは改札の向こうへ目を向けた。
そこでは、はるかが両手を振っている。きららと目が合うと、周囲の迷惑にならないよう、途中から小さな手振りへ変わった。
きららの口元が、自然に緩む。
すぐにシャッターが連続して鳴った。
「今のいいね。待っていた人を見つけたって感じがする」
「……ありがとうございます」
視線の先に誰がいたのかは、あえて言わなかった。
撮影が終わると、はるかが真っ先に駆け寄ってくる。
「きららちゃん、すごくきれいだったよ!」
「仕事なんだから、当然でしょ」
「でも、最後の顔はいつもより優しかった」
「気のせい」
きららは衣装の帽子を深くかぶり直した。
トワが何かに納得したようにうなずいたため、そちらへ目を向けないことにする。
その少し離れた場所で、若い駅員が旅行客を案内していた。
迷子になった子どもを家族のもとへ送り届け、重い荷物を抱えた老人へ手を貸す。忙しそうに動きながらも、その顔には仕事への誇りがあった。
「この駅から出かける人にも、帰ってくる人にも、安心して使ってもらえる場所にしたいんです」
同僚へそう話す声を、柱の上からロックが聞いていた。
手の中には、黒い錠前がある。以前の戦いから持ち帰った絶望の残滓が、その内部で濁った光を放っていた。
「出ていく人と、帰ってくる人をつなぐ場所、か」
ロックは錠前を軽く振る。
その背後に、輪郭の欠けた黒い扉が一瞬だけ現れ、すぐに崩れた。
「壁の向こうなら、壊せば会える。でも、どこにもつながっていない扉なら、どうするんだろうね」
黒い光が、駅員の夢へ打ち込まれた。
「クローズ・ユア・ドリーム」
悲鳴と共に、駅の床が大きく揺れる。
改札機がねじれながら膨れ上がり、路線図と自動扉を全身へまとったゼツボーグが立ち上がった。胸元の表示板には、夢を閉じ込められた駅員の姿が映っている。
「ゼツボーグ!」
改札の遮断棒を模した腕が振り下ろされ、床を砕いた。
発車案内板の表示が一斉に乱れ、構内の矢印がでたらめな方向を指し始める。避難しようとした人々が、閉じた自動扉の前で立ち往生した。
「表示は見ないでください! 駅員さんの案内に従って、こちらへ!」
ゆいが近くの係員と共に声を張る。
はるかは人の流れに押されて転びかけた子どもを抱き起こし、みなみは閉じた扉の手動レバーを動かした。きららとトワも左右から旅行客を誘導し、バスロータリーへ続く通路を開けていく。
「パフたちは、残っている人がいないか見てきて!」
「分かったパフ!」
「任せるロマ!」
パフとアロマが小さな身体で構内を飛び回る。
最後の旅行客が曲がり角の向こうへ消えたのを確認し、ゆいも駅員たちと避難する。閉じた扉と停止した列車が、駅の一角を外から隠した。
四人は顔を見合わせ、プリンセスパフュームを構えた。
重なる光が構内を照らし、四人のプリキュアが並び立つ。
ゼツボーグは胸元の路線図を明滅させ、無数の遮断棒を床から突き出した。
フローラが花の蔓を伸ばし、四人の間を閉ざそうとする棒へ絡ませる。
マーメイドは床を走る黒い光を水流で押し戻し、スカーレットが出口を塞ぐ扉だけを炎で焼き切った。トゥインクルは高く跳び、全員の位置を見渡す。
「スカーレット、後ろ!」
「承知しました!」
スカーレットが振り返り、迫っていた遮断棒を炎の弓で撃ち落とす。
今度はフローラの横から黒い切符が飛ぶが、マーメイドの水の輪が包み込み、床へ落とした。
互いの死角を補いながら、四人は離れない。
ゼツボーグが作る通路の壁も、蔓と水と炎と星の光を重ねれば、すぐに崩すことができた。
「前と同じ手は通じないよ!」
フローラが声を上げる。
ロックは構内の時計の上へ腰かけ、頬杖をついて戦いを見下ろしていた。
「やっぱり、同じ場所にいれば助け合えるんだね」
悔しがる様子もなく、指先で黒い錠前を回す。
「だったら、一人だけ違う場所へ送ろうか」
マーメイドの背後に、音もなく黒い扉が開いた。
扉の枠はところどころ欠け、内側では黒い波が渦を巻いている。
「マーメイド!」
フローラの声にマーメイドが振り返る。
水流を床へ叩きつけて踏みとどまろうとするが、扉の内側から伸びた闇が足首へ絡みついた。
フローラが腕を伸ばす。
二人の指先が触れる直前、マーメイドの身体は扉の中へ引き込まれた。
黒い扉が閉じる。
輪郭まで霧のように消え、そこには何も残らなかった。
「マーメイド!」
呼びかけても返事はない。
魔力の気配すら、完全に途絶えていた。
マーメイドは、暗闇の中へ投げ出されていた。
足元に地面はなく、身体が落ちているのか浮いているのかも分からない。
遠くには無数の扉が浮かんでいる。どれも閉ざされ、近づこうとすれば、さらに遠ざかっていった。
仲間たちの声が聞こえる。
だが、前後左右のどこから届いているのか分からない。すぐそばで呼ばれたように感じた次の瞬間には、海の向こうより遠くなる。
どれほど時間が過ぎたのだろう。
ほんの数秒だった気も、何十分も闇をさまよっている気もした。
自分が誰を待っているのか。
誰が自分の名を呼んでいたのか。
考えようとするたび、思考の輪郭が薄れていく。
マーメイドは両手を胸元へ重ね、目を閉じた。
「私は、キュアマーメイド」
自分の声を、自分で確かめる。
「皆と共に、夢を守る者」
言葉にした名前が、暗闇へ小さな波紋を広げた。
外では、扉が消えてから数秒も経っていなかった。
トゥインクルは何もない空間へ駆け寄り、手を伸ばす。指先が触れたのは、冷たい空気だけだった。
こんな力は知らない。
記憶になかったのか、それとも、自分たちが未来を変えたことで生まれたのか。今は考えても答えが出ない。
「どこにいるの……!」
星のキーが、プリンセスパフュームの中で震えた。
それに引かれるように、衣装の下で星の指輪を下げた鎖が胸元へ触れる。指輪まで熱を持ったように感じ、トゥインクルは反射的にその場所を握った。
マーメイドを戻したい。
今は、それだけを強く願う。
星のキーから細い光が伸び、何もない空間へ突き刺さった。
光は途中で折れ曲がり、消えたはずの扉の輪郭を淡く浮かび上がらせる。
「いた……!」
トゥインクルは星の光が揺れる場所を見つめた。
扉の外枠には、三つの黒い接点がある。中央には欠けた錠前が埋め込まれ、不安定に明滅していた。
「扉は消えたんじゃない。見えなくなってるだけ!」
ゼツボーグが再び腕を振り上げる。
スカーレットが前へ出て炎の矢を放ち、遮断棒の攻撃を押し返した。
「こちらはお任せください!」
「フローラ、扉の上を固定して! あたしが真ん中を狙う!」
「分かった!」
フローラの蔓が、淡い輪郭の上部へ巻きついた。
触れた場所から花びらが弾かれるが、フローラは両足を踏ん張って離さない。
「スカーレット、右側!」
「はい!」
スカーレットの炎が、右端の黒い接点を焼く。
扉の輪郭が大きく歪み、内部の闇が一瞬だけ外へあふれた。
その光は、マーメイドのいる暗闇にも届いた。
閉ざされた無数の扉の中で、一つだけに星の筋が走る。
遠くから、仲間の声が重なって聞こえた。
「そこにいるのね」
マーメイドは両手を広げ、水の力を集めた。
「プリキュア・バブル・リップル!」
青い泡の波が、星の走る扉へ打ちつけられる。
外側では、トゥインクルが星のキーを掲げていた。
「今、戻すから!」
星の光が中央の錠前を貫く。
内側の水と外側の光が同時にぶつかり、不完全な扉へ亀裂が走った。
大きな音と共に闇が砕ける。
マーメイドの身体が空中へ投げ出され、フローラが蔓を解いて受け止めた。
「マーメイド!」
「心配をかけたわね」
マーメイドはフローラの腕を借りて立ち上がり、全員の姿を順番に確かめた。
「皆さんの声は、届いていたわ。とても遠く感じたけれど」
仲間を取り戻した四人へ、ゼツボーグがすべての遮断棒を向ける。
胸元の路線図が真っ黒に染まり、駅の自動扉が一斉に閉じ始めた。
「また閉じ込めるつもりね」
トゥインクルが立ち上がり、星のキーを握り直す。
「今度は、誰も離さない!」
マーメイドの水流が床を走り、黒く染まった路線を洗い流した。
スカーレットの炎が改札腕を焼き払い、フローラの花の蔓がゼツボーグの巨体を中央へ縛りつける。
動きを封じられた胸元で、駅員の夢を閉じ込めた錠前が露出した。
「トゥインクル、お願い!」
「うん!」
トゥインクルは星のキーを高く掲げる。
夜空を切り取ったような光が構内へ広がり、無数の星が軌道を描いた。
「プリキュア・ミーティア・ハミング!」
降り注ぐ星々が錠前を砕き、ゼツボーグを光の中へ包み込む。
歪んだ改札機と路線図がほどけ、閉じていた自動扉が次々と開いていった。
「ごきげんよう」
駅員の夢が解放され、その身体が静かに床へ降りる。
ロックは崩れた扉の欠片を一つだけ拾い上げた。
「失敗じゃないよ」
黒い欠片の中には、星の光が細く残っている。
「扉を完成させる鍵が、見つかったんだから」
問い返す間もなく、ロックは闇の中へ姿を消した。
駅員がまだ意識を取り戻していないうちに、四人は閉ざされたホームの陰へ移動した。
戦いが終わり、四人の変身が解除される。それから駅員をほかの職員へ引き渡し、きららたちは駅を離れた。
夏休み中のノーブル学園は、生徒の姿もまばらだった。
寮のレッスンルームへ集まると、ゆいが戦闘中に描いたスケッチを机へ広げる。
「扉が消える前に見えたのは、こんな形だったと思う」
黒い扉の輪郭。途中で欠けた枠。中央に埋め込まれた錠前。
慌ただしい避難の最中に描いたものだが、特徴は細かく記録されている。
「ありがとう、ゆい。後で写させて」
「うん。思い出したことがあったら、また書き足すね」
ミス・シャムールは星のキーときららの指輪を、プリンセスレッスンパッドの上へ並べた。
扇状に光を当て、角度を変えながら何度も確認する。
「チェック完了よ。スターキーには、いつもと違うスペースマジックの残り香があるわ」
「指輪は?」
「リングからマジックの反応はゼロ。これはどこまでいっても、二人のプロミスを形にしたジュエリーね」
ミス・シャムールは星の指輪を持ち上げ、きららへ返した。
「あの時に反応したのは、あなたの想いとスターキー。リングを握ったことで、助けたいという気持ちが一つにフォーカスされたのでしょう」
「じゃあ、指輪が扉を開けたわけじゃないんだ」
「イエス。けれど、スターキーがあの空間へ強く反応したのは確かよ」
きららは指輪を鎖へ通し直し、制服の下へ戻した。
思い出が魔法へ変わったわけではない。そのことに安堵しながらも、星のキーに残ったという力の方が気にかかる。
「あの中では、どれほどの時間が経ったの?」
トワの問いに、みなみは考え込んだ。
「正確には分からないわ。こちらでは、どれくらいだったのかしら」
「扉が消えてから、壊れるまで十秒もなかったよ」
はるかが答えると、みなみはわずかに目を見開いた。
「私には、少なくとも数分以上に感じられたわ。皆の声も、最初は誰に呼ばれているのか分からなくなるほど遠かった」
「それほど、時間の流れが異なっているのですね」
トワは、ゆいの描いた扉へ指を伸ばす。
中央の錠前に触れる直前で止め、その手を握り直した。
「トワイライトだった頃、ディスピアが闇の狭間を渡る気配を感じたことがあります。あの扉は、それに似ていました」
部屋が静かになる。
トワは過去を口にしたことへ迷うように、目を伏せた。
「ですが、わたくし自身が扉を使った記憶はございません。お役に立てるほどのことでは――」
「トワが知ってることなら、何でも言って」
きららは遮るのではなく、続きを促すために言った。
「今は、手掛かりが多い方がいい。似てたってだけでも十分だから」
「わたくしの過去も、皆さまを守るために使えるのでしょうか」
「使えるものは使えばいいでしょ。過去をなかったことにはできないんだから」
トワは少しだけ驚いた後、静かにうなずいた。
「思い出せることを、すべて書き出します」
「私も中で見たものを整理するわ」
「ゆいちゃんの絵と合わせれば、もっと分かるかもしれないね」
はるかの言葉に、みなみとゆいがうなずく。
きららは机の上の星のキーを見た。
あの扉は、覚えている物語にはなかった。
自分が忘れているだけかもしれない。介入によって生まれた出来事かもしれない。どちらにしても、もう頭の中の記憶だけで答えを決めることはできなかった。
「知らないなら、分かるところから調べるしかない」
きららは星のキーを手に取った。
「次にあの扉が出た時は、一人で近づかない。気づいたことは、すぐ全員に言う」
「ええ。それがいいわ」
みなみが答え、ゆいはスケッチブックを抱える。
「私も今日の絵を整理しておくね」
「わたくしは、闇の狭間について思い出せることを調べます」
「じゃあ私は、また扉が出ても全員を見失わない方法を考える!」
はるかが力強く手を挙げる。
その真っ直ぐさに、きららは肩の力を少しだけ抜いた。
夕方、きららがレッスンルームを出ると、はるかも後を追ってきた。
夏休みの渡り廊下には二人以外の姿がなく、傾いた日差しが長い影を作っている。
「きららちゃん」
「何?」
はるかはすぐには話さず、きららの手を見た。
「扉が消えた時、中に入ろうとしてたよね」
「みなみが閉じ込められてたんだから、放っておけないでしょ」
「でも、きららちゃんまでいなくなったら嫌だよ」
いなくなる。
その言葉だけが、耳の奥へ残った。
「入ろうとしたんじゃない。扉を探してただけ」
「本当に?」
「本当。あたしだって、あんなわけの分からないところへ飛び込みたくないって」
軽く答えたつもりだったが、はるかの表情は晴れなかった。
花の指輪がある場所を、制服の上から押さえている。
「きららちゃんだけが前へ出るのは禁止だよ」
「それ、はるかにも同じだからね」
「うん。だから――」
はるかは、きららへ小指を差し出した。
「どっちか一人だけが守るのは禁止。勝手にいなくならない。二人で約束しよう」
幼い頃とは違う。
王子様がプリンセスを迎えに行く約束でも、どちらか一人が守られる約束でもない。
きららは差し出された小指を見つめた。
「はるかも、ちゃんと守るのよ」
「うん」
「危ない時に、一人で突っ込まない」
「きららちゃんもね」
「……分かった」
二人の小指が絡む。
はるかが嬉しそうに笑い、きららも目をそらしながら指を離さなかった。
ディスダークの城では、ロックが砕けた扉の欠片を宙へ浮かべていた。
欠片の周囲へ星の光が走り、黒い空間の座標を細い線で結んでいく。
「扉を壊した力が、外と中をつなぐ目印になる」
ロックは、戦いの光景を闇の鏡へ映し出した。
マーメイドが消えた直後、真っ先に扉へ駆け寄ったのはトゥインクルだった。
映像が切り替わる。
これまでの戦いでフローラが攻撃された時も、トゥインクルは誰より早く手を伸ばしている。
「星は、花が危なくなると必ず手を伸ばす」
ロックは新しい黒い錠前へ、集めた絶望を注ぎ込んだ。
その背後に現れた扉は、先ほどのものより輪郭がはっきりしている。
「だったら次は、花の後ろに扉を開けばいいんだね」
錠前の中央へ、星形の亀裂が刻まれる。
「鍵は、扉を開けるもの。あの星のキーなら、今度こそ向こう側まで運んでくれるかな」
黒い扉が、低い音を立てて閉じた。