星の王子と花の姫君 作:百合魔神
はるかは、あの日から本当に毎日公園へ来た。
ステラの撮影が朝からある日は、入口のベンチで絵本を読んで待っていた。夕方になってようやく顔を出せば、待ちくたびれたと怒るより先に、その日見つけた花や、商店街に新しく並んだお菓子の話をした。
最初のうち、きららはスタッフに本名を呼ばれないかと気を張っていた。だが、はるかの前ではキラで通したいと頼むと、スタッフは子ども同士の愛称だと思ったらしい。「かわいいお友達ね」と笑い、公園ではキラと呼んでくれた。
助かったはずなのに、後戻りする道まで塞がれたような気もした。
休みの日には、はるかの母親とスタッフに許可をもらい、近所の商店街を案内された。少し離れてついてくるスタッフを何度も振り返りながら、はるかは八百屋の角を曲がり、動物の形をしたパンを売る店や、色とりどりの飴が瓶に詰められた店を得意げに教えた。
公園では、花壇の外側に生えた小さな花で冠を作った。はるかの冠は形こそ歪んでいたものの、白と黄色の花が交互に並んでいた。きららの方は途中から茎が絡まり、丸くなるどころか妙な塊になった。
「キラくんの、鳥の巣みたい」
「じゃあ、おまえの頭に載せてやる」
逃げるはるかを追いかけて、二人で息が切れるまで笑った。
雨の日は、公園の小さなあずまやに並んで座った。はるかは『花のプリンセス』の絵本を膝に広げ、何度も読んだはずのページを、初めて見るもののように説明した。
膝の傷が治る頃には、はるかは縁石の端から端まで落ちずに歩けるようになった。両手を身体の前で重ね、最後にくるりと振り返る。今度はぐらつきもしなかった。
「できたよ!」
「見れば分かる」
「でも、キラくんに言いたかったの!」
何かあればキラに話す。そんな決まりを、はるかはいつの間にか作っていた。
一日会えなかった翌日は、二日分の話が待っていた。三毛猫が塀から落ちそうになったこと。雲がケーキの形に見えたこと。見たことのない虫が、花壇の葉の裏にいたこと。
どれも自分には関係のない出来事だった。それでも、はるかが身振りを交えて話すうちに、きららもその猫や雲を見損ねたことが、少しだけ惜しくなった。
きららの方も、撮影が早く終われば公園へ向かうのが当たり前になった。待っているやつがいるから行くだけだと、自分には言い訳していた。
蝉の声が少しずつ遠のき、きららも五歳になった頃、公園の木々には色づきの早い葉が混じり始めた。
その日、滑り台は城になっていた。
近所の子どもたちが、砂場から運んだ砂を階段の下へ盛り、枝を旗のように突き立てている。上の踊り場が王様の部屋で、鉄棒が城門らしい。
はるかは昨日作り直した花冠を持って、子どもたちの輪へ入っていった。
「わたし、プリンセスになる!」
城主を決める相談をしていたらしい。はるかは胸を張り、花冠を頭へ載せた。
少し年上の男の子が、はるかを上から下まで眺める。
「はるかは本当のプリンセスじゃないじゃん」
「でも、わたし、プリンセスになるんだよ」
「お城も国もないのに?」
別の子が笑った。それにつられて、周りからも小さな笑い声が上がる。
「プリンセスはお話の中だけだよ」
「はるかには無理だって」
花冠の下で、はるかの眉が下がった。きららは少し離れたベンチから、その様子を見ていた。
すぐに口を挟むことはしなかった。はるかは転んだ時も、差し出した手に全部を預けず、自分の足で立った。今も、俯きかけた顔を自分で上げようとしている。
「無理じゃないもん」
はるかは花冠を両手で押さえた。
「わたし、本物のプリンセスになるんだよ! なるって決めたの! いっぱい練習するもん!」
笑い声が止まった。だが、年上の男の子は納得せず、腕を組んだ。
「練習したって、なれないものはなれないよ」
一人に言い返せても、同じ顔がいくつも並べば、五歳のはるかには壁のように見えるのだろう。握り締めた花冠から、小さな花が一輪落ちた。
きららはベンチから立ち上がり、はるかの隣へ歩いた。
夢が叶うと断言できるほど、きららは無責任ではない。だが、叶わないと決めつける権利が、笑っている子どもたちにないことだけは分かった。
「なれるかどうかなんて、まだ誰にも分かんないだろ」
「でも、プリンセスなんてお話の中だけだよ」
「やってもないのに無理って決める方が、かっこ悪い」
男の子が言葉に詰まる。きららは落ちた花を拾い、はるかの花冠へ差し戻した。
「行こう。俺たちで別の城を作ればいい」
はるかは一度だけ滑り台の城を見た。それから、花冠が落ちないようにしっかり押さえて頷いた。
二人は花壇のそばにある大きな木の根元へ移った。枝を地面へ立て、落ち葉を屋根にして、木の実を窓の代わりに並べる。手のひらほどの城は、少し風が吹いただけで屋根が崩れた。
「キラくん、お城がたいへん!」
「王子が直せばいいだろ」
「わたしはプリンセスだもん」
「じゃあ、プリンセスが直せ」
はるかは頬を膨らませたが、すぐに落ち葉を拾い始めた。きららも隣で枝を立て直す。
滑り台の子どもたちは、しばらくこちらを気にしていた。やがて遊びへ戻り、家から呼ぶ声が聞こえる頃には、一人ずつ公園を出ていった。
木の根元に残った城へ、夕方の長い影が落ちる。
「前にもね、笑われたことがあるの」
はるかが、木の実の窓を指で直しながら言った。
「プリンセスになりたいって言ったら、なれないよって。変だって」
「そいつらが決めることじゃないだろ」
「うん。でも、その時は今よりずっと悲しくなったの」
一度言葉を切ると、はるかの顔に笑みが戻った。
「そのあと、カナタに会ったから」
知らない名前だった。きららが聞き返すより先に、はるかは嬉しそうに続ける。
「カナタはね、本物の王子様なの。森の近くで会ったんだよ」
「本物?」
「うん。とっても優しくて、きれいな服を着てたの。カナタがね、夢は自分で信じるものだって教えてくれたの」
話だけ聞けば、絵本に影響された子どもの空想にしか思えない。あるいは、王子の格好をした誰かに会ったのか。そちらの方がありそうで、少し心配になった。
「そいつ、本当に王子なのか?」
「本当だよ。大事なものもくれたの。でも、なくしたくないから、おうちに置いてあるの」
「知らないやつから物をもらったのか」
「知らない人じゃないよ。カナタだもん」
答えになっていない。だが、はるかの中では、それで十分なのだろう。
「カナタが信じてくれたから、わたしも信じようって思ったの。でも、このお話はあんまり人に言わないの」
「どうして」
「また笑われるかもしれないから」
はるかは膝の上で両手を組んだ。それから、隣にいるきららをまっすぐに見上げる。
「キラくんなら笑わないって分かったから、言えたの」
その一言で、胸の奥がむず痒くなった。きららは誤魔化すように、半分倒れかけた城の枝へ手を伸ばす。
はるか。カナタ。プリンセス。
三つの言葉が並んだ瞬間、頭の奥で何かが瞬いた。
桃色の花びら。澄んだ青。星のような黄色い光をまとった少女。華やかな服と、香水瓶に似た玩具の輪郭。
どれも一瞬で消え、顔も声も思い出せない。日曜の朝に見ていた子ども向け番組か、店頭で見かけた玩具の宣伝か。前の人生の記憶は、こうして肝心なところだけ霧の向こうへ逃げていく。
まさか、と思った。
けれど、見回してもあるのは古びた遊具と、砂だらけの小さな城だけだった。空から妖精が降りてくることもなければ、怪物が町を壊したこともない。自分が知っているのは、はるかという珍しくもない名前と、絵本じみた単語が二つだけだ。
偶然だ。似たものを、どこかで見たのだろう。
そう結論づけても、胸に残った引っかかりまでは消えなかった。
「キラくん?」
黙り込んだきららの顔を、はるかが下から覗き込む。
「なんでもない。おまえの王子様が、変なやつじゃないか考えてただけ」
「カナタは変じゃないもん!」
はるかは立ち上がり、花冠を揺らして抗議した。かと思えば、何かを思いついたように両手を合わせる。
「そうだ。カナタとキラくん、二人ともわたしの王子様!」
「は?」
「二人とも、わたしの夢を笑わなかったから!」
あまりにも嬉しそうに言うので、きららは一拍遅れて顔をしかめた。
「そいつと一緒にするな。カナタは本物の王子なんだろ。俺は、ただの友達だ」
「じゃあ、王子様みたいな友達!」
「それ、ほとんど同じじゃん」
「でもキラくんは、ずっと一緒に遊んでくれるもん」
カナタは、はるかが夢を信じ始めた時の王子様。キラは、今日も隣で泥だらけの城を直す友達。はるかの中では、どちらも大切で、けれど同じではないらしい。
遠くにいても夢の始まりを照らす人と、同じ目線でしゃがみ込み、崩れた屋根を一緒に直す人。その二つを同じ言葉で呼ぶのが、いかにもはるからしかった。
「ずっとかどうかは、知らないけど」
きららは小さく呟いた。はるかには聞こえなかったようで、完成した城へ花びらを飾っている。
友達という言葉を否定しなかったことには、自分でも気づかないふりをした。
その日の夕方、撮影に使っている建物へ戻ると、廊下の向こうからステラとスタッフの声が聞こえた。
「この調子なら、予定より何週間か早く終われそうですね」
「そうね。きららには、決まってから話しましょう。期待させて延びたら、かわいそうだもの」
きららの足が止まった。
早く帰れる。それは本来なら喜ぶ話のはずだった。慣れない町での長い滞在が終わり、自分の部屋へ戻れる。
それなのに最初に浮かんだのは、入口のベンチで待つはるかの姿だった。
胸の中にできた重さに、きららはすぐ名前をつけられなかった。帰りたくないわけではない。ただ、この町から自分が消えた翌日も、はるかが同じ場所で待つのだと考えると、足の裏が床へ縫いつけられたように動かなかった。
声をかけずに踵を返し、別の廊下から部屋へ戻った。まだ決まったわけではない。明日知らせる必要などないと、自分に言い聞かせた。
翌日の公園で、はるかは両腕いっぱいに落ち葉を抱えていた。
「もっと赤くなったら、葉っぱのドレスを作ろうね。それから、商店街のお祭りにも行こう。寒くなったらね、お菓子屋さんであったかいのを食べられるんだって!」
一つの予定が終わらないうちに、次の予定が重なっていく。どれも数週間先か、もっと先の話だった。
撮影が早く終わることは、まだ決まっていない。言えば、はるかはきっと悲しむ。昨日ようやく笑わずに夢を聞ける友達だと言われたのに、キラとして過ごす日々が終わると認めるのは、自分だって嫌だった。
「キラくん、明日も来る?」
はるかが抱えた落ち葉の向こうから尋ねた。
「……うん」
初めて会った翌日は、来られたら来ると答えた。今度は逃げ道をつけなかった。
風にさらわれた赤い葉が一枚、二人の間へ落ちる。はるかは明日を疑わずに笑っていた。
きららだけが、その明日があといくつ残っているのか、胸の内で数え始めていた。