星の王子と花の姫君 作:百合魔神
ゆいのスケッチブックに描かれた黒い扉を、五人は黙って見つめていた。
途中で欠けた枠。中央に埋め込まれた黒い錠前。外側には、星の光によって浮かび上がった三つの接点が記されている。
ノーブル学園のレッスンルームでは、ミス・シャムールがプリンセスレッスンパッドへ星のキーをかざしていた。扇状の光が表面を何度も往復した後、空中へ検査結果が映し出される。
「前回のゲートは、現実のすぐ隣に作られた未完成のスペースよ。内側と外側が同じ場所につながっていたから、両方から攻撃して壊すことができたの」
ミス・シャムールは、ゆいの描いた扉を扇の先で示した。
「でも、ネクストゲートも同じ構造とは限らないわ。むしろロックは、前回の失敗を必ず修正してくるでしょうね」
「完成した場合、どうなるのですか?」
トワが尋ねると、ミス・シャムールは少し考え込んだ。
「それは、まだ分からないわ。別の場所へ通じる本当の扉になるのか、もっと深い闇の中へ閉じ込めるのか。今ある情報だけでは判断できない」
「だったら、出てきた時に調べるしかないわね」
きららは机の上の星のキーを手に取った。
以前なら、記憶の中に答えがないことを焦っていた。だが今は、自分が知らないと認めたうえで、仲間と調べられる。
「そのためにも、動き方を決めておきましょう」
みなみが立ち上がり、スケッチの横へ一枚の紙を置いた。
変身後は、フローラとトゥインクル、マーメイドとスカーレットで組む。誰かが引き込まれそうになった場合は、近くの一人が身体を支え、残る二人が扉の接点を攻撃する。
ゆいは扉の形と出現位置を記録し、パフとアロマは魔力の流れを確認する。
そして、誰も一人で扉へ入らない。
「これで異論はないかしら」
「うん」
「承知しました」
「あたしも大丈夫」
きららは全員の顔を見回した。
「知らない相手だからって、今度は一人で答えを出さない。気づいたことは全部言う」
「きららちゃん」
向かいに座っていたはるかが、机の陰で小指を立てた。
「二人の約束も、忘れてないよね」
「そっちこそ。危ない時に一人で飛び出さないでよ」
「うん」
きららも小指を伸ばし、机の下で一度だけ触れ合わせた。
互いに守られることも受け入れる。そのための約束だった。
二人とも、守れない可能性など考えていなかった。
数日後、はるかたちは海藤家の別荘を訪れた。
白い壁と青い屋根を持つ建物は、海を見渡せる丘の上に建っている。窓の向こうには、夏の日差しを反射する青い海がどこまでも広がっていた。
「海だー!」
荷物を置いたはるかが、真っ先に窓へ駆け寄る。
「早く着替えよう! おもいっきり泳ぐぞー!」
「はるかちゃん、まだ荷物が片づいてないよ」
「後でやる!」
「先にやらないと、きっと忘れるロマ」
ゆいとアロマに止められ、はるかは名残惜しそうに海から離れた。
その隣で、トワが静かに手を挙げる。
「皆さま。その前に、申し上げておくことがあります」
「どうしたの、トワちゃん?」
「わたくしは――泳ぐことができません」
室内が静かになる。
トワは制服のスカートを握り、はるかたちの反応を待っていた。
「そうだったんだ」
はるかは驚いたものの、すぐに笑った。
「じゃあ、足がつくところから一緒にやろう。怖かったら、今日は見てるだけでもいいよ」
「私も最初は浜辺にいるから、トワちゃんと一緒にいるね」
「浮き輪も用意してあるわ。無理に沖へ出る必要はないから、安心して」
ゆいとみなみも、当然のように続けた。
トワは目を瞬かせた後、胸元へ手を重ねる。
「ありがとうございます。泳げないと申し上げれば、皆さまを落胆させてしまうのではないかと……」
「遊びに来たのに、隠して苦しくなってたら意味ないでしょ」
きららがトワの肩を軽く叩く。
「ちゃんと聞けたじゃん」
「きららが、苦手なことも分からないことも、一人で抱えないよう教えてくださいましたから」
「そこまで立派なこと言った覚えはないけど」
「おっしゃっていたことの意味は、同じです」
真面目に返され、きららは苦笑した。
それから荷物を片づけていると、テーブルに置いたきららの電話が震えた。
画面には、雑誌編集者からのメッセージが届いている。先日、夢ヶ浜駅で撮影した写真から、誌面に使う一枚が決まったという。
添付された画像を開く。
旅行鞄を手に、改札の向こうを見つめている自分。視線の先には写っていないが、そこには両手を振るはるかがいた。
頼まれて作った笑顔ではない。
待っていた人を見つけた瞬間の表情だった。
続けて届いた文章には、秋に行われる大きなオーディションへ、きららを推薦したいと書かれている。
「やった……!」
思わず声が出た。
きららはすぐに予定表を取り出し、知らされた日付を書き込む。まだ推薦の段階だが、合格すれば世界でも知られているブランドの誌面へ載る機会が得られる。
夢へ近づくための、新しい一歩だった。
「きららちゃん、何見てるの?」
はるかが背後から画面を覗き込む。
「ちょっと、急に後ろから来ないでよ」
「この写真、前に駅で撮ってた時のだよね」
「そう。これが使われることになったの」
はるかは画面の中のきららをじっと見つめた。
「私、この写真のきららちゃん、好きだな」
「モデルの写真としてって意味よね?」
「うん。それもあるけど、きららちゃんが本当に楽しそうだから」
きららは返事に詰まり、予定表へ視線を落とした。
「あの時は、撮影がうまくいっただけ」
「そうかな?」
「そうなの」
予定表へ書き込んだ文字を、必要もないのになぞる。
十月、オーディション。
その先に、まだ見たことのない仕事が待っている。
「決まったら、みんなにも教えてね」
「当然。受かったら盛大にお祝いしてもらうから」
「任せて!」
はるかの明るい声に、きららも笑った。
窓の外では、太陽に照らされた海が星のように輝いていた。
海辺では、赤と黄色の旗を持った若いライフセーバーが、遊泳区域を確認していた。
浅瀬から沖へ視線を動かし、子どもが一人で水へ近づけばすぐに声をかける。浮き輪の空気が抜けて困っていた家族には、新しいものを貸し出していた。
「いつか、もっと救助の技術を身につけたいんです」
休憩へ入った仲間に、青年は海を見ながら話す。
「ここへ遊びに来た人が、全員笑って帰れるようにしたくて」
その言葉を、高台の監視塔よりも上からロックが聞いていた。
手の中には、新しい黒い錠前がある。
前回のものとは違い、表面に欠けた部分はない。その中央には、星の形をした小さなくぼみが刻まれていた。
「全員を帰したいんだ」
ロックが錠前を掲げる。
「だったら、一人だけ帰れなくなったら、どんな顔をするのかな」
黒い光が、ライフセーバーの胸へ打ち込まれた。
「クローズ・ユア・ドリーム」
悲鳴と共に、海面が黒く染まる。
監視塔が大きく歪み、救命浮輪と無数のロープを全身へ巻きつけたゼツボーグへ変わった。片腕には巨大な錨が下がり、胸元の結晶には夢を閉じ込められたライフセーバーが映っている。
ゼツボーグが両腕を広げると、黒い波が浜辺へ押し寄せた。
「何、あれ……!」
水着へ着替えたばかりのはるかたちが、別荘から飛び出す。
海水浴客が悲鳴を上げ、丘へ向かって逃げ始めていた。黒いロープが砂浜を走り、逃げ遅れた人々の足へ絡みつこうとしている。
「ゆいは皆さんを高台へ! パフとアロマは、浜辺に残っている方がいないか確認して!」
「分かった!」
「任せるパフ!」
「行くロマ!」
みなみの指示を受け、ゆいたちが駆け出す。
はるかは転んだ子どもを抱き起こし、きららは黒いロープを踏みつけて進路を変えた。トワは別荘の職員と共に、遊泳区域の奥に人が残っていないか確認する。
最後の海水浴客が丘へ上がる。
四人は互いにうなずき、プリンセスパフュームを構えた。
重なった光が黒い波を押し返す。
花、海、星、炎。
四人のプリキュアが、海を背に並び立った。
ゼツボーグが無数のロープを放つ。
フローラとトゥインクルが右へ、マーメイドとスカーレットが左へ跳ぶ。事前に決めた組み合わせを崩さず、互いの位置を声に出して確認する。
「トゥインクル、上!」
「分かってる!」
トゥインクルが星の光を投げ、頭上から迫るロープを弾く。
フローラの蔓が別のロープへ絡みつき、ゼツボーグの腕を横へ引いた。その隙にマーメイドが黒い波を水流で押し返し、スカーレットが炎の矢で足元を射抜く。
ゼツボーグの巨体が揺れた。
「前より動きが揃ってきましたわ」
「気を抜かないで。ロックがまだ何もしていないわ」
マーメイドが周囲を見回す。
ロックは監視塔の上へ腰かけ、戦いを眺めていた。攻撃を指示する様子もなく、頬杖をついて四人の動きを追っている。
トゥインクルは、ロックの手元にある黒い錠前へ気づいた。
「あれ……前の扉に使ってたものと似てる」
「みんな、扉が来るよ!」
フローラが声を上げた直後、マーメイドの背後に黒い輪郭が現れた。
欠けた枠が組み上がり、中央へ不完全な錠前が浮かぶ。
「マーメイド!」
スカーレットがマーメイドの腕をつかむ。
扉の内側から闇が伸びるが、マーメイドは水流を地面へ叩きつけて踏みとどまった。フローラの蔓も腰へ巻きつき、身体を支える。
「接点は前と同じ!」
トゥインクルが扉を見据える。
「フローラは上! スカーレットは右! あたしが中央を狙う!」
「分かった!」
「承知しました!」
花の蔓が上部へ食い込み、スカーレットの炎が右端を焼く。
トゥインクルの星が中央の錠前を貫いた。
三つの接点が同時に砕け、扉が黒い霧へ変わる。引き込む力が消え、マーメイドはスカーレットに支えられながら体勢を立て直した。
「成功した……」
「ええ。事前に決めておいたとおりに動けたわ」
マーメイドが安堵の息をつく。
ロックは監視塔の上で、小さく拍手した。
「ちゃんと練習してきたんだね」
「残念だったわね。同じ手はもう通じないから」
トゥインクルが言い返す。
ロックは笑顔を崩さず、手の中の錠前を回した。
「でも、それは前の扉だよ」
トゥインクルの背筋を、冷たいものが走る。
今壊した扉の錠前には、星形のくぼみがなかった。
ロックが持っているものとは、違う。
「みんな、離れないで!」
トゥインクルが叫んだ瞬間、ゼツボーグが両腕を砂浜へ叩きつけた。
地中から太いロープが飛び出し、戦場を幾重にも横切る。マーメイドとスカーレットの前へロープの壁が立ち上がり、フローラたちから引き離した。
「マーメイド! スカーレット!」
「こちらは大丈夫よ! 二人は離れないで!」
壁の向こうからマーメイドの声が届く。
フローラとトゥインクルは背中を合わせ、押し寄せるロープを花と星の光で弾き続けた。
二人の距離は離れていない。
決めたことも守っている。
それでも、ロックは二人がこの位置へ来るのを待っていた。
ゼツボーグが巨大な錨を持ち上げる。
狙われているのはフローラだった。
「させない!」
フローラは両手から蔓を伸ばし、振り下ろされた錨へ巻きつけた。
轟音と共に砂が舞い上がる。
蔓が軋み、フローラの足が砂へ沈む。後ろへ避ければ錨に押し潰され、力を緩めれば横にいるトゥインクルまで巻き込まれる。
「トゥインクル、今のうちに錨を!」
「分かった!」
トゥインクルが星の光を集める。
その時、フローラの背後に黒い線が走った。
扉の枠が、音もなく完成する。
先ほどとは違い、どこにも欠けた部分がない。中央にはロックが持っていたものと同じ錠前が埋まり、その向こうには果ての見えない黒い通路が続いていた。
「フローラ、後ろ!」
フローラが振り返る。
扉から吹き出した闇が、髪とドレスを強く引いた。錨を支えたままの身体が、少しずつ後ろへ滑り始める。
トゥインクルが放つはずだった星を錨へ叩きつけた。
光が弾け、錨の軌道がわずかにずれる。その隙にトゥインクルはフローラへ飛びついた。
助けなければ。
その感情に、プリンセスパフュームの中の星のキーが震える。
星の光が、黒い扉へ伸びた。
中央のくぼみへ光がはまり、黒い錠前に星形の紋様が完成する。
「やっと見つけた」
ロックが笑った。
「扉を向こう側まで運ぶ、本当の鍵」
吸い込む力が一気に強まった。
トゥインクルはフローラの腕をつかむ。だが、錨と扉の間に挟まれた状態では、二人とも逃げられない。
考える時間などなかった。
トゥインクルはフローラの身体を横へ突き飛ばした。
「え――」
フローラが扉の正面から外れる。
代わりに、トゥインクルの身体が黒い通路へ入った。
足元が消える。
手を伸ばせば、フローラもすぐに腕を伸ばした。
「トゥインクル!」
「フローラ、手を!」
二人の指先が触れる。
一瞬だけ、つながった。
だが、扉の奥から伸びた闇がトゥインクルの身体へ巻きつく。
その指が離れた。
「トゥインクル!」
マーメイドとスカーレットがロープの壁を破り、こちらへ走ってくる。
間に合わない。
トゥインクルは黒い通路の奥へ引き込まれた。
最後に見えたのは、自分へ手を伸ばし続けるフローラの顔だった。
黒い扉が閉ざされる。
音が途絶えた。
扉の枠も、中央の錠前も、そこに存在した痕跡さえ消えていく。
星の魔力が、完全に途絶えた。
「トゥインクル……?」
フローラは何もない空間へ手を伸ばした。
触れたのは、夏の熱を残した風だけだった。
「トゥインクル! 返事をして!」
拳で空間を叩く。
前回のような扉の輪郭は浮かばない。接点も、錠前も、星の光も、何一つ残っていなかった。
「返して……」
フローラは振り返り、監視塔の上のロックをにらみつけた。
「トゥインクルを返して!」
ロックは、空になった手のひらを見せた。
「もうここにはいないよ」
「最初から、トゥインクルを狙っていたのね」
マーメイドがフローラの隣へ立つ。
「うん。星のキーは、扉の向こうを見つけられる。だから鍵を持った星ごと、向こうへ送ったんだよ」
「わたくしたちが壊した扉は、囮だったのですね」
「一度成功したら、次も同じ方法で助けられるって思うでしょう?」
ロックの顔が、スカーレットへ向く。
「完成した扉は、鍵と一緒に向こうへ行く。外側には、もう壊す場所なんて残らない」
「それでは、どうしてフローラを狙ったのです!」
フローラの問いに、ロックは楽しそうに首を傾けた。
「花が危なくなれば、星は必ず手を伸ばすから」
自分が囮だった。
その事実が、フローラの胸へ突き刺さった。
フローラは地面を蹴り、ロックへ向かおうとする。
その腕を、マーメイドがつかんだ。
「離して!」
「今、あなたまで見失うわけにはいかないわ」
「でも、トゥインクルが……私を助けたから……!」
「だからこそよ!」
マーメイドの声が、黒い波の音を越えて響いた。
「トゥインクルは、あなたまでいなくなることを望んでいないわ」
フローラの動きが止まる。
ゼツボーグが咆哮し、巨大な錨を再び持ち上げた。
スカーレットは炎の弓を構え、フローラとマーメイドの前へ立つ。
「扉の痕跡を残すためにも、まずはこの怪物を止めなければなりません」
「でも……」
「きららは、気づいたことをすべて伝え、皆で答えを探すと言いました」
変身している今、スカーレットはその名を口にしたことに気づき、唇を結んだ。それでも、伝えなければならない言葉は変わらない。
「今度は、わたくしたちがそれを守る番です」
高台では、ゆいが震える手でスケッチブックを押さえていた。
閉じる直前の扉。完成した錠前。中央へ刻まれた星の形。
涙で線を見失いそうになりながらも、見たものを一つずつ紙へ残していく。
「私も、覚えておくから……」
ゆいは何度も瞬きをし、鉛筆を動かした。
「きららちゃんが戻るために、必要になるかもしれないから」
パフとアロマも、扉が消えた場所から離れず、残った気配を探していた。
「きららの匂いが、途中でなくなったパフ……」
「スターキーの気配も、どこにも続いていないロマ」
フローラは、星が消えた空間をもう一度見た。
今は何もできない。
それでも、ここで立ち止まれば、閉じ込められた夢も救えない。
フローラは涙を拭い、ゼツボーグへ向き直った。
「終わらせよう」
「ええ」
「必ず、トゥインクルを捜し出します」
三人が並ぶ。
マーメイドの水流が黒い波を押し返し、ゼツボーグの足元を崩した。フローラは花の蔓を両腕へ絡ませ、巨大な錨ごと地面へ縛りつける。
「スカーレット、今!」
「はい!」
深紅のバイオリンが炎をまとった。
スカーレットが弓を走らせるたび、力強い音色が海辺へ広がる。背後に現れた炎の翼が、一羽の大きな不死鳥へ姿を変えた。
「プリキュア・フェニックス・ブレイズ!」
不死鳥がゼツボーグを包み込む。
歪んだ監視塔と錨、黒い救命浮輪が炎の中でほどけていった。
「ごきげんよう」
夢の檻が開き、ライフセーバーの身体が砂浜へ降りる。
ロックは戦いを見届けると、完成した扉の残滓へ手を伸ばした。
その指先へ、スカーレットが炎の矢を放つ。
ロックが手を引いた直後、黒い錠前の外殻が一片だけ砕けた。欠片は砂浜を転がり、ゆいの足元で止まる。
ゆいはすぐに拾い上げ、ハンカチへ包んだ。
「それだけで、星までたどり着けるかな」
ロックは取り戻そうとしなかった。
「扉の向こうでは、時間も名前も同じままとは限らないよ」
「どういう意味!」
フローラが問い返す。
ロックは答えず、帽子の陰で笑った。
その身体が黒い霧へ変わり、海風の中へ消えていく。
残された三人は変身を解除した。
はるかは、きららが消えた場所へ歩み寄る。
砂浜には、きららの足跡が残っていた。
その足跡は途中で途切れ、どこにも続いていなかった。
きららは、暗闇の中を落ち続けていた。
上も下も分からない。
身体が落ちているのか、空間の方が流れているのかさえ判断できなかった。
変身した身体から、星の光が少しずつ剥がれていく。闇を照らそうと手を伸ばしても、放った光は遠くへ吸い込まれ、何も映さないまま消えた。
周囲には、無数の扉が浮かんでいる。
一つの扉に、見覚えのない男子高校生の教室が映った。
見覚えがないはずなのに、知っている。
窓際の席。退屈な授業。男子として呼ばれていた声。
前世の自分だ。
別の扉には、幼い天ノ川きららがいた。母の雑誌を抱え、鏡の前で同じポーズを取ろうとしている。
二つの人生が、隣り合う扉に映っていた。
どちらも自分の記憶であるはずなのに、眺め続けていると、どちらが先だったのか分からなくなっていく。
「見ちゃ駄目」
きららは扉から目をそらした。
「あれが本物とは限らない」
遠くから、はるかの声が聞こえた。
きららちゃん。
呼びかける声に顔を上げると、幾つもの扉が同時に開く。
どの扉の向こうにも、はるかが立っていた。
幼いはるか。
ノーブル学園の制服を着たはるか。
キュアフローラの姿で手を伸ばすはるか。
「きららちゃん、こっちだよ」
同じ声が、違う方向から重なる。
きららは一歩踏み出しかけ、足を止めた。
声だけを頼りに近づかない。
前もって、そう決めた。
「本物なら、あたしが勝手についていかなくても待ってくれるでしょ」
強がるように言ったが、返事はない。
扉の中のはるかたちは、同じ笑顔のまま手を伸ばし続けている。
星の光が消え、きららの変身が解除された。
制服姿へ戻った身体が、暗闇の中へ投げ出される。
きららは胸元を押さえた。
鎖の先にある星の指輪が、掌へ触れる。
光ってはいない。
温かくもない。
魔法の気配は何もなかった。
それでも、指輪の硬さと形だけは確かだった。
きららは強く握り、声に出す。
「あたしは、天ノ川きらら」
自分の声が、暗闇へ小さな波紋を作る。
「夢は、世界で活躍するトップモデル」
その言葉の近くへ、一つの星が浮かんだ。
「ノーブル学園に通ってる。ルームメイトはトワ」
「みなみ、ゆい、パフ、アロマ」
名前を口にするたび、星が一つずつ増えていく。
最後の名前だけが、喉の奥へ引っかかった。
大切な名前だ。
何度も呼んだ。
この指輪をくれた相手。
「あたしが――」
星と花の指輪。
迎えに来るという約束。
どちらか一人だけが守るのは禁止。
「はるか」
その名を口にすると、周囲の星が一斉に明るくなった。
しかし、光は長く続かなかった。
一つずつ闇へ溶け、再び何も見えなくなる。
きららは指輪を握ったまま、見えない地面へ足を伸ばした。
どれほど歩いたのか分からない。
数分かもしれない。
何時間も経っているのかもしれない。
同じ名前と夢を何度も繰り返しているうちに、最初に何を言ったのかが曖昧になっていく。
それでも、きららは口を止めなかった。
夕暮れを迎えた海藤家の別荘では、望月学園長とミス・シャムールが、ゆいの描いたスケッチと黒い欠片を調べていた。
はるか、みなみ、ゆい、トワは、テーブルを囲んで結果を待っている。
きららが使っていた椅子だけが空いていた。
「残念だけれど、この欠片だけでは、きららさんの居場所を直接追うことはできないわ」
ミス・シャムールは、黒い欠片から浮かび上がった魔力の線を見つめた。
「前回、みなみが閉じ込められたのは、現実のすぐ隣に作られた小さな空間だった。でも今回は違う。このゲートは、幾つもの空間を通過するためのパッセージになっている」
「では、出口があるのですか?」
トワが身を乗り出す。
「可能性は高いわ。扉は、どこかとどこかをつなぐもの。閉じ込めるためだけの箱ではない」
「なら、きららは生きているのね」
「イエス。ただし、どこへ出るのかは分からない。それに――」
ミス・シャムールの表情が曇る。
「みなみが数秒閉じ込められただけでも、内側では数分以上に感じられた。完成した通路を移動するきららには、それより長い時間が流れている可能性があるわ」
「ロックは、時間だけではなく名前も同じままではいられないと言っていました」
ゆいが、スケッチブックを胸へ抱く。
「それは、どういうことなんでしょう」
「空間の中では、自分が誰なのか分からなくなりかけました」
みなみが静かに答えた。
「私は短い時間だったから、名前を声に出すことで戻れた。でも、きららが長くさらされ続けたら……」
「そんな……」
はるかは、膝の上で両手を握りしめた。
望月学園長は、はるかたちを順番に見つめる。
「魔法による捜索と同時に、現実でできる捜索も始めます。きららさんが未成年である以上、行方不明になったことを隠すわけにはいきません」
「お母さまや、モデル事務所へも……」
トワの問いに、学園長がうなずく。
「私から責任を持って連絡します。ただし、魔法の扉については話せません。皆さんは、今日見たことを整理してください。小さな違いが、きららさんへつながる手掛かりになるかもしれません」
ゆいのスケッチ。
みなみが経験した異空間。
トワが覚えている闇の狭間。
パフとアロマが感じた魔力。
前回、星のキーへ残った反応。
そして、ロックが落とした黒い欠片。
今ある手掛かりを、誰も無駄にはしない。
話し合いが終わった後、はるかはきららの鞄を抱え、二人で使う予定だった客室へ入った。
ベッドの上へ鞄を置く。
中には電話と化粧道具、読みかけの雑誌、きれいに整理された予定表が入っていた。
予定表を開く。
十月の欄に、秋のオーディションと書かれている。
その先にも撮影、衣装合わせ、学校の課題、トワと予定を確認する時間が並んでいた。
明日以降の予定が、幾つも残っている。
きららは帰るつもりだった。
モデルの夢も、学園での生活も、仲間との時間も、諦めてなどいなかった。
はるかは制服の下から花の指輪を取り出した。
「きららちゃんは、約束を破っていなくなったんじゃない」
誰もいない部屋で、声に出す。
「私を助けた後も、きっと帰ろうとしてる」
開いたままの扉から、みなみたちが入ってきた。
はるかは涙を拭かず、三人を見た。
「だから、今度は私が迎えに行く」
「ええ。必ず見つけましょう」
みなみが、はるかの隣に立つ。
「私も、扉の中で感じたことをすべて書き出すね」
「わたくしは、闇の狭間について思い出せることを調べます」
トワは、きららの予定表へ目を落とした。
「きららは、皆の力を借りるよう、わたくしへ教えてくださいました」
「うん」
「今度は、わたくしたちがその教えを守る番です」
はるかは花の指輪を握り、うなずいた。
一人だけが守るのは禁止。
ならば、一人だけで迎えに行くこともしない。
「見つかるまで、何度でも名前を呼ぶから」
はるかの声が、静かな客室へ響いた。
暗闇の中で、きららは歩き続けていた。
どこにも地面は見えない。それでも一歩進むたび、足元には一瞬だけ星の光が浮かんだ。
「あたしは、天ノ川きらら」
何度目になるか分からない名前を繰り返す。
「夢は、世界で活躍するトップモデル」
言葉の意味は分かる。
だが、誰と一緒にその夢を語ったのか、思い出すまでに少し時間がかかった。
きららは指輪を強く握った。
縁が掌へ食い込み、痛みが走る。
痛みだけは、偽物ではなかった。
「はるか」
名前を呼ぶ。
花のような笑顔を思い出そうとする。
輪郭が浮かびかけ、すぐに闇へ溶けた。
きららはもう一度、同じ名を口にした。
「迎えに来てくれるって、言ったんだから」
暗闇の奥に、細い光が現れた。
出口なのか。
新しい罠なのか。
今のきららには分からない。
それでも、ここへ留まり続けることはできなかった。
「あたしも、帰るから」
星の指輪を握ったまま、きららは光へ向かって歩き出した。
背後で、黒い扉が閉じる音がした。