星の王子と花の姫君 作:百合魔神
朝の光が、閉じたカーテンの隙間から部屋へ差し込んでいた。
トワは目を開けた。
身体を起こす前に、向かいのベッドを見る。乱れていない掛け布団と、使われなかった枕。昨夜から何度も確認した光景は、朝になっても変わっていなかった。
きららは帰っていない。
ほとんど眠れないまま朝を迎えたはずなのに、長く続けてきた習慣がトワの身体を動かした。
制服へ着替え、机に茶器を並べる。教わった量の茶葉を入れ、沸かしたお湯を注いだ。
一つは自分の前へ。
もう一つは、きららが使っていた椅子の前へ。
湯気が立ち上り、誰もいない場所で静かに消えていく。
トワは二つ目の茶器へ手を伸ばした。片づけなければならないと思うのに、指が触れる直前で止まる。
机には、きららが作った予定表が残されていた。
仕事で不在になる時間。トワがみなみやゆいへ尋ねてよい時間。帰宅後に二人で確認すること。その下には、秋のオーディションへ向けた予定まで、細かな字で書き込まれている。
扉が控えめに叩かれた。
「トワちゃん、起きてる?」
「はい」
トワが扉を開けると、きららの鞄を抱えたはるかが立っていた。
目元は赤い。別荘から学園へ戻る車の中でも、ほとんど眠っていなかったのだろう。
「きららちゃん、帰ってきた時に鞄がないと困ると思って」
「ありがとうございます」
鞄を受け取り、きららの机の横へ置く。
はるかは部屋へ入り、二つ並んだ茶器を見た。何かを言おうとして、唇を結ぶ。
「お茶、二人分淹れたんだね」
「はい。いつものように用意してから、きららがいないことを思い出しました」
「そっか……」
トワは、まだ湯気の残る茶器を見つめた。
「きららが戻るまで、こちらのベッドも机も、そのままでよろしいでしょうか」
「うん」
「ですが、今はもう一つ困っております」
「何?」
「一人分だけのお茶を淹れることに、まだ慣れておりません」
はるかはうつむいた。
しばらくして、空いている椅子を避け、トワの隣へ座る。
「だったら、今日は私が飲んでもいい?」
「もちろんです」
「きららちゃんの代わりじゃなくて、きららちゃんが帰るまで一緒に待つ人として」
「はい」
トワは二つ目の茶器を、はるかの前へ動かした。
茶はすでに少し冷めていた。
それでも二人は、きららが帰った時に話すことを一つずつ挙げながら、最後まで飲んだ。
午前中、望月学園長のもとへ二人の女性が訪れた。
一人は、黒い帽子とサングラスを身につけた天ノ川ステラ。もう一人は、きららの所属事務所を経営する舘響子だった。
撮影先から最短の便で戻ったステラは、学園長室へ入るとすぐにサングラスを外した。
普段なら人目を引く華やかな笑顔を浮かべているはずの顔に、今は何の表情もない。
部屋には、はるか、みなみ、ゆい、トワも呼ばれていた。
「分かっていることを、最初から聞かせて」
ステラの声は落ち着いていた。
望月学園長は、海辺で起きたことを順番に説明した。
怪物が現れ、海水浴客を避難させている最中に、黒い扉が出現したこと。扉は最初からきららを狙っていたこと。きららがはるかを助け、代わりに扉の中へ消えたこと。
周辺の海岸、道路、建物、防犯映像はすでに調べられている。きららの電話と鞄は別荘へ残され、海へ転落した痕跡もない。
扉へ入った後の足取りだけが、どこにも存在しなかった。
「警察には、怪物の襲撃と黒い扉による失踪として伝えています」
望月学園長が続ける。
「通常の事故とは考えにくい状況ですが、きららさんが未成年である以上、現実でできる捜索もすべて行います」
「お願いします」
ステラは短く答えた。
はるかは膝の上で握っていた手をほどき、立ち上がった。
「ステラさん」
「何?」
「きららちゃんは、私を助けたから……」
喉が詰まる。
それでも、言わなければならなかった。
「私が扉の前にいたから、きららちゃんが代わりに……。ごめんなさい」
はるかは深く頭を下げた。
ステラは何も答えない。
沈黙が長くなり、はるかの肩が震え始める。
やがて、ステラが椅子から立った。
「それで、あなたが謝ったら、きららは喜ぶと思う?」
「でも、私がいなかったら――」
「あの子が戻ってきた時、あなたがそんな顔をしていたら怒るわよ」
ステラは、はるかの肩へ手を置いた。
「『助けた意味ないじゃん』って」
「きららちゃんが、戻った時……」
「戻るわ」
迷いのない声だった。
ステラは、きららの鞄から取り出された予定表を手に取った。
明日の撮影。来週の衣装合わせ。学校の課題。トワへ生活を教える時間。十月のオーディション。
きららが思い描いていた未来が、小さな文字で詰め込まれている。
「明日も来週も十月も、予定がいっぱい」
「はい」
トワがうなずく。
「きららが自分から全部すっぽかすわけないわ。帰れなくなっているなら、迎えに行くだけよ」
ステラは笑おうとした。
だが、予定表を持つ指は震えていた。
舘響子が静かに立ち上がり、ステラの手から予定表を受け取る。
「事務所の方は、私が対応します。決まっている仕事については先方へ事情を説明し、必要なものは延期か代役を立てます」
「きららちゃんの仕事が……」
ゆいが小さくつぶやく。
「今は、きらら自身の安全が最優先よ」
舘響子は鞄の中から、きららが駅で撮影した写真を取り出した。
改札の向こうを見つめ、自然に笑っている一枚だった。
「報道や捜索には、加工していない直近の顔写真を提供します。ただし、この件を宣伝や憶測へ利用させるつもりはありません」
「私の娘だからじゃなくて、一人の行方不明の子として扱って」
ステラが言う。
「分かっています」
舘響子はうなずき、連絡を取るため学園長室を出た。
現実側の捜索は、その日のうちに範囲を広げた。
海藤家の協力により、海辺へ続く道路と周辺施設の映像が調べられる。港や船舶の記録、海上の捜索結果、近隣の駅やバスの利用状況も確認された。
だが、どこにもきららの姿は映っていなかった。
砂浜へ向かう姿はある。
戻ってくる姿がない。
電話は別荘へ残されており、位置情報も使えない。財布にも交通機関を利用した記録はなく、海へ落ちた痕跡も見つからなかった。
途中だけが抜け落ちている。
通常の方法で移動していないことは明らかだった。
みなみは兄から受け取った捜索状況を、レッスンルームに集まったはるかたちへ伝えた。
「現実側からは、まだ有力な情報がないわ」
「魔法の方はどうパフ?」
「黒い欠片から、扉の出口を調べているところよ」
ミス・シャムールが、プリンセスレッスンパッドの上へ黒い錠前の欠片を置く。
光を当てると無数の細い線が現れるが、どれも途中で分かれ、すぐに消えてしまう。
「入口のマジックは残っているけれど、出口を示すシグナルが弱すぎるわ。これだけでは、どのラインがきららの通った道なのか判断できない」
「もう一度、扉を開くことはできませんの?」
トワの問いに、ミス・シャムールは首を振った。
「無理に開けば、別の場所へつながる危険があるわ。行き先を確認できないまま入るのはノーよ」
「でも、待っていたら……」
はるかは黒い欠片を見つめた。
ロックの言葉が耳から離れない。
扉の向こうでは、時間も名前も同じままとは限らない。
「きららちゃんは、今も一人で歩いてるかもしれない」
「だからこそ、確実な道を探す必要があるわ」
みなみが、はるかの手へ自分の手を重ねた。
「焦って別の扉へ入ったら、きららを捜す人までいなくなってしまう」
「分かってる。でも……」
「一人だけが守るのは禁止、なのでしょう?」
トワの言葉に、はるかは胸元の花の指輪を押さえた。
「うん」
声に出して答える。
「だから、みんなで探す」
その頃、きららは暗闇の奥に見えた光へ手を伸ばしていた。
あと一歩。
そう思って踏み出した瞬間、身体が前へ投げ出される。
眩しさに目を閉じた。
次に感じたのは、頬へぶつかる冷たい風と、身体の下にある硬い岩だった。
波の音が聞こえる。
塩の匂いがする。
きららは両手をつき、身体を起こそうとした。腕に力が入らず、すぐに岩場へ倒れ込む。
空は薄い青へ変わり始めていた。
夜明け前の海岸。
見覚えのない白い灯台が、遠くに立っている。二つ並んだ防波堤の間から、小さな漁船が沖へ進んでいった。
どこなのか分からない。
どれほど歩いたのかも分からない。
自分がなぜここにいるのか、考えようとしても、頭の中には白い霧しかなかった。
足音が近づいてくる。
「おい! 誰か倒れてるぞ!」
作業着を着た男性が、岩場を駆けてきた。
きららの近くへしゃがみ込み、呼吸と意識を確かめる。
「聞こえるか? どこか痛いところは?」
「……聞こえて、ます」
「よかった。今、救急車を呼ぶからな」
男性は仲間へ電話を頼み、きららへ上着をかけた。
「名前は言えるか?」
「名前……」
質問の意味は分かる。
自分を呼ぶための言葉。
誰にでもあるもの。
「あたしは……」
続きが出てこない。
暗闇の中で、何度も繰り返していたはずなのに。
自分は誰だったのか。
どこから来たのか。
誰に会いたかったのか。
何も思い出せない。
きららは震える手で胸元を押さえた。
鎖の先に、星を模した指輪がある。
指輪を握ると、一つの音だけが胸の奥へ浮かんだ。
はるか。
けれど、それが何を意味するのか分からない。
人の名前なのか。
場所なのか。
自分の名前なのか。
「言えないか?」
「……分かりません」
きららは首を横へ振った。
遠くから、救急車の音が近づいてきた。
レッスンルームでは、ゆいが何枚目になるか分からない扉を描いていた。
中央の黒い錠前。星形のくぼみ。扉の奥へ続く暗い通路。
描き終えるたび、何かが違う気がして新しい紙へ移る。鉛筆を握る指には力が入り、同じ場所を何度もなぞった紙は黒く潰れていた。
「ゆい」
トワに呼ばれても、手を止めない。
「もう少しで思い出せそうなの。扉が閉じる前、何か見えた気がして」
「少し休んだ方がよいのではありませんか」
「休んでる間にも、きららちゃんの時間は進んでるかもしれないから」
ゆいの声が震えた。
「私は、描くことしかできなかった」
「ゆい……」
「きららちゃんが消えるところを見ていたのに、止められなかった。今だって、同じ扉ばかり描いて、居場所は何も分からない」
鉛筆の芯が折れた。
ゆいは動きを止め、黒く潰れた紙を見つめる。
トワは床へ落ちた芯を拾い、最初に描かれたスケッチを手に取った。
戦闘中、扉が閉じる直前に描いたもの。
「こちらを見てください」
「最初の絵?」
「後から描いたものとは、異なる部分があります」
トワは、扉の下部を指で示した。
最初の絵にだけ、細い黒い線が描かれている。扉から地面へ落ちた線は、途中で折れ曲がり、海とは反対の方向へ伸びていた。
中央の錠前にも、後の絵にはない小さな星形が残っている。
「これ、描いたことを覚えてない……」
「戦いの最中に見たものを、そのまま手が記録したのでしょう」
「でも、これが何を意味するかは分からないよ」
「分からないことが一つ減りました」
ゆいが顔を上げる。
「ゆいの絵がなければ、わたくしたちは完成した扉の形も、光の向かった方向も知ることができませんでした」
「それでも、きららちゃんの居場所は……」
「きららは、分からないことが一つ減るだけでも手掛かりになると、わたくしへ教えてくださいました」
トワは、黒く潰れていない最初のスケッチを机へ置いた。
「今度は、わたくしがゆいへお伝えする番です」
ゆいはスケッチを見つめた。
扉を描くことばかり考えていた。
けれど、本当に探したいのは扉ではない。
「私たちは、きららちゃんを探してるんだよね」
「はい」
「だったら、扉だけ描いていても駄目なのかもしれない」
ゆいは新しい紙を取り出した。
中央に描いたのは、黒い扉ではなかった。
笑っているきららだった。
最初に描いた顔は、雑誌の中で見たモデルの笑顔に近かった。
きれいで、整っている。
だが、ゆいの知っているきららは、それだけではない。
「はるかちゃんは、きららちゃんのどんな顔を覚えてる?」
「私?」
はるかは問い返し、しばらく考えた。
「笑ってる顔も好きだけど、照れた時に目をそらす顔」
「照れた時?」
「本当は嬉しいのに、『別に』って言ってる時の顔。あと、私が近づくとすぐ逃げようとする顔」
「そのようなお顔もなさるのですか?」
トワが尋ねる。
「トワちゃんも見てると思うよ」
「わたくしには、呆れたお顔をなさることが多いような……」
「それも描いておくね」
ゆいは笑い、鉛筆を走らせた。
みなみが覚えているのは、仕事の話をする時の真剣な横顔だった。
「きららは、自分の夢に関わる時、とても厳しい顔をするわ。でも、誰かが困っている時は、自分のことより先に気づくの」
「きららちゃんらしいね」
トワは、二人で茶を飲んだ時のことを話した。
茶葉の量を少し間違えた自分へ、おいしいと言ってくれたこと。人間界の生活を教えながら、何度もため息をついていたこと。それでも最後には、分からないことを一緒に考える時間を作ってくれたこと。
ゆいは、話に出た表情を一つずつ描いた。
午後、ステラにも同じ質問をした。
「きららの顔?」
ステラは、昔の写真を何枚か見せてくれた。
幼いきららが大きな雑誌を抱え、鏡の前でモデルのポーズを取っている。別の写真では、慣れない靴で転び、悔しそうに床をにらんでいた。
「小さい頃から、失敗するとすぐ一人で練習し直す子だったわ」
「頑張っているところを、見られたくなかったんですか?」
「できたところを最初に見せたかったのよ。格好つけだから」
ステラは写真を指先でなぞった。
「でも、本当に困った時は一人でどうにもならないこともある。最近は、それを少しずつ分かってきたみたいだけど」
「はい。きららちゃん、自分から相談できるようになってました」
ゆいは、予定表を開いて相談するきららの姿も描き加えた。
舘響子は、撮影現場でのきららを教えてくれた。
求められた表情を作るだけでなく、自分で納得できない写真には何度でも挑むこと。疲れを隠して失敗した後、初めて周囲と予定を調整できたこと。
「完成した写真だけでは分からない顔も、モデルには必要なのよ」
「きれいな顔だけが、きららちゃんじゃないんですね」
「ええ。迷って、失敗して、それでも次の一枚へ立つ。それも、あの子の顔よ」
ゆいの紙には、幾つものきららが並んだ。
笑うきらら。
照れるきらら。
怒るきらら。
夢を語るきらら。
仲間へ手を伸ばすきらら。
疲れて助けを求めるきらら。
どれか一つではない。
その全部が、天ノ川きららだった。
「きららちゃんは、私を助けるためだけにいたんじゃない」
はるかが絵を見つめながら言う。
「夢も仕事も、好きなものも苦手なこともいっぱいあるの」
「うん。全部、きららちゃんだよね」
ゆいは描いた絵を床へ並べた。
その中心に、黒い扉の絵を置く。
暗い通路を、一つの星が歩いている。
星は、自分の名前を何度も繰り返す。けれど、歩くたびに光が少しずつ薄くなっていく。
扉の外では、花、海、炎、妖精、母親、そして絵を描く少女が、それぞれの覚えている星を掲げていた。
「でも、このままじゃ届かない」
ゆいは最後の紙を取り出した。
暗闇そのものを消すのではない。
遠く離れた星が、進む道を見失わないための光。
ゆいは、暗い空へ昇る朝日を描いた。
「私の夢は、絵本作家になること」
鉛筆を動かしながら、声に出す。
「読んでくれる人が暗い場所にいるなら、そこまで届く絵を描きたい」
「ゆいさん……」
「きららちゃんが自分を忘れそうなら、私たちが覚えているきららちゃんを届けたい」
描き終えた朝日が、金色に輝いた。
紙の上から光があふれ、並べられたすべてのきららを照らす。
光は一か所へ集まり、小さな鍵へ形を変えた。
太陽を象ったドレスアップキーが、ゆいの手の中へ落ちる。
「新しいキー……」
「太陽のドレスアップキーですわ」
トワがキーを見つめる。
「ゆいの夢が、暗闇を照らす力へ変わったのですね」
「これなら、きららちゃんへ届くのかな」
「試してみましょう」
その時、レッスンルームに置かれていた黒い欠片が大きく震えた。
机の上から浮かび、黒い光を放つ。
窓の外で、何かが閉じる音がした。
一つではない。
二つ、三つと音が重なり、学園の森に無数の黒い扉が現れた。
「この気配は……」
「ロックだわ」
みなみが黒い欠片を布へ包む。
「ここでは危険よ。森へ移動しましょう」
「ゆいちゃんは、私たちの後ろにいて」
「うん!」
はるかたちはレッスンルームを飛び出し、森へ向かった。
木々の間には、前回より小さな黒い扉が並んでいた。どれも輪郭が不安定で、開いた内側から人影のような闇があふれている。
一番大きな扉の上に、ロックが腰かけていた。
「扉を描くだけなら、放っておこうと思ったんだけど」
ロックの視線が、ゆいの持つサンキーへ向く。
「本当に向こう側を照らしそうなら、消しておかないとね」
「きららちゃんの居場所を知っているの?」
はるかが尋ねる。
「知らないよ。あの扉は、向こう側まで送るために作ったんだから」
「それなら、どうして邪魔をするの!」
「星が戻ってきたら、せっかく離した意味がないでしょう?」
黒い扉から、闇の腕が伸びる。
三人はプリンセスパフュームを構えた。
「プリキュア・プリンセスエンゲージ!」
三つの声が重なり、光が森を照らす。
花、海、炎のプリンセスが並ぶ。
いつも星が立っていた場所だけが空いていた。
わずかな沈黙を狙い、黒い腕がフローラへ迫る。マーメイドの水流が横から打ちつけ、スカーレットの炎が残った闇を焼き払った。
「今は、目の前の敵に集中しましょう」
「うん!」
フローラは蔓を伸ばし、黒い扉を閉じようとする。
だが、別の扉が開き、中から黄色い光があふれた。
現れたのは、トゥインクルの姿をした影だった。
「フローラ」
聞き慣れた声で呼びかける。
「こっちだよ。早く助けて」
「トゥインクル……?」
フローラが一歩踏み出す。
影は扉の奥から手を伸ばした。
「一人で来て。ここから出られないの」
「今、行く!」
走り出しかけた足を、フローラは止めた。
一人で来て。
本物のトゥインクルが、そんなことを言うだろうか。
二人で交わした約束を、自分から破らせようとするだろうか。
「マーメイド」
フローラは影から目を離さず、隣へ呼びかけた。
「あの声が本物か、確かめて」
「分かったわ」
マーメイドが水の輪を作り、影のいる扉へ放つ。
水が扉の中へ触れる。
みなみが閉じ込められた時には、内側から力が返り、波紋が広がった。
今は何も起きない。
水は影をすり抜け、そのまま闇へ消えた。
「違うわ! あれはトゥインクルではない!」
「きららちゃんの姿を使わないで!」
フローラの蔓が影の身体へ巻きついた。
影は笑顔のまま崩れ、黒い霧へ戻る。
ロックは扉の上で足を揺らした。
「前より慎重になったんだね」
「一人で答えを出さないって、トゥインクルと約束したから!」
フローラとマーメイドが、左右からロックへ向かう。
その間に別の扉がゆいの背後へ開いた。
「ゆい、後ろです!」
スカーレットが炎を放つ。
伸びてきた闇の腕を焼き、ゆいの前へ降り立った。
「キーを渡すんだね」
ロックの声と共に、複数の扉がスカーレットを囲む。
闇の腕が四方から押し寄せ、スカーレットの炎を少しずつ押し返した。
「スカーレット!」
「こちらはお任せください!」
スカーレットは踏みとどまり、ゆいを背後へかばう。
しかし、闇は焼いても次々と扉から現れる。フローラとマーメイドも別の影に阻まれ、すぐには近づけない。
ゆいは、手の中のサンキーを見た。
きららへ届けるために生まれた光。
ここで守られているだけでは、届かない。
「スカーレット!」
「何です?」
「このキーを使って!」
ゆいはサンキーを差し出した。
「これは、きららちゃんへ届けるものだから!」
「はい!」
スカーレットはキーを受け取り、スカーレットバイオリンへ差し込んだ。
太陽の紋様が輝く。
深紅のドレスへ金色の光が重なり、背後に大きな太陽の輪郭が現れた。
スカーレットが弓を引く。
奏でられた音色は炎ではなく、夜明けのような光へ変わった。
金色の光が森を走り、無数の黒い扉を透かしていく。
偽物の影が次々に消える。
扉の奥に隠されていた魔力の道筋だけが、細い線となって浮かび上がった。
ほとんどの線は途中で途切れている。
その中に、一つだけ黄色い光が残っていた。
星の残光。
「見つけました!」
スカーレットが弓の先で示す。
「一つだけ、星の力が向こう側まで続いています!」
「それって……」
「きららは、すでに闇の通路から出ています!」
フローラの目が見開かれる。
「生きてる……」
「ええ。現実のどこかへ戻っているわ!」
マーメイドが答える。
ロックも、浮かび上がった星の線を見ていた。
「もう向こう側へ出たんだ」
「あなたも知らなかったのね」
「どこへ出るかは、扉が決めるからね」
ロックは肩をすくめた。
スカーレットの光が強まり、黒い扉が一斉に砕ける。
足場を失ったロックの身体が闇へ沈み始めた。
「待ちなさい!」
フローラが蔓を伸ばすが、ロックはその先から逃れる。
「見つけられるといいね」
「絶対に見つける!」
「でも、会えたとしても――」
ロックの帽子だけが、暗闇の中に残る。
「君たちの知っている星のままとは限らないよ」
黒い霧が消え、森に静けさが戻った。
フローラは追わなかった。
今は、ロックを捕まえることより、浮かび上がった星の道を残す方が大切だった。
戦いが終わり、三人の変身が解除される。
サンキーの光は弱くなったが、黒い欠片へかざすと再び細い星の線を浮かべた。
レッスンルームへ戻り、ミス・シャムールが光を記録する。
欠片の周囲へ、断片的な映像が現れた。
夜明け前の海。
白い灯台。
二つ並んだ防波堤。
赤い屋根の建物。
岩場の向こうへ進む漁船。
「ここが、きららの出た場所なのね」
「でも、灯台だけでは場所を決められないわ」
みなみは映像を一つずつ記録し、兄へ連絡した。
海藤家が所有する港湾資料と、国内の灯台や防波堤の形を照合する。似た場所は多く、すぐに一つへ絞ることはできなかった。
候補地域を整理し、警察と海上の捜索機関へ照会する。
魔法で分かったのは、きららが異空間から現実へ戻ったこと。そして、遠く離れた海岸へ出たことだけだった。
正確な場所は、現実の人々が探す必要がある。
時間だけが過ぎていく。
夕方になり、窓の外が赤く染まり始めた。
はるかは何度も電話を見た。
連絡はない。
ゆいは描いたきららの絵を並べ直し、トワは空になった茶器を洗っている。みなみは兄から届く候補地の情報を、一つずつ確認していた。
学園長室の電話が鳴った。
全員の動きが止まる。
望月学園長が応答し、相手の話を聞く。
「はい。年齢は十三歳です。髪の色は……ええ。その特徴で間違いありません」
はるかは立ち上がった。
学園長の表情が、少しずつ変わっていく。
「意識は戻っているのですね。分かりました。保護者へすぐに伝えます」
電話が切れる。
望月学園長は、はるかたちを見た。
「候補地域の一つにある病院から、身元不明の少女について連絡がありました」
「その子は……」
「年齢、容姿、制服が一致しています。首には星を模した指輪を下げ、鍵の形をした装飾品と香水瓶を持っていたそうです」
トワが口元を押さえる。
はるかは声を出せない。
「確認のため送られてきた写真を、ステラさんと舘さんが見ています」
廊下から、急ぐ足音が聞こえた。
扉が開き、ステラが入ってくる。
いつもなら崩さない姿勢が乱れ、息を切らしていた。
「きららが見つかったわ」
「本当に……?」
はるかの声は、かすれていた。
「ええ」
ステラはうなずく。
その瞬間、張りつめていた声が震えた。
「生きてる。ちゃんと、生きてるわ」
はるかの膝から力が抜ける。
みなみが身体を支えた。
ゆいはスケッチブックを抱いたまま泣き、トワは顔を両手で覆った。パフとアロマも泣きながら、はるかたちへ飛びつく。
「きらら……よかったパフ……!」
「本当によかったロマ……!」
まだ会っていない。
詳しい状態も分からない。
それでも、生きている。
きららは、現実へ戻ってきている。
「病院は、ここからかなり離れた町にあります」
舘響子が入ってくる。
「車と列車を手配しました。ステラさんと私はすぐに向かいます」
「私たちも行きます!」
はるかが顔を上げる。
「お願い。きららちゃんを迎えに行かせてください」
「もちろんよ」
ステラが答える。
みなみ、ゆい、トワも立ち上がった。
はるかは制服の下から、花の指輪を取り出した。
指輪は光らない。
きららの居場所を示したわけでもない。
それでも、幼い頃から続く約束が、そこに形として残っている。
「迎えに行こう」
はるかは花の指輪を握った。
「今度は、みんなで」
遠く離れた町の病院では、きららが白いベッドの上で窓の外を見ていた。
身体に大きな異常はない。
会話もできる。文字も読める。窓の向こうに見えるものが海であり、夕方の空が赤くなることも分かる。
だが、医師から尋ねられた自分の過去には、何一つ答えられなかった。
家族の名前。
通っている学校。
住んでいた町。
好きだったもの。
将来の夢。
どれも、自分の中に存在しない。
ベッド脇の台には、病院で預かられていた持ち物が並んでいる。
星の指輪。
香水瓶に似た道具。
星を模した鍵。
どれも自分が持っていたらしい。
それを見ても、何に使うものなのか分からなかった。
病室の扉が開き、看護師が入ってくる。
「天ノ川さん」
きららは窓の外を見たまま動かなかった。
看護師がベッドの近くまで来る。
「天ノ川きららさん」
「……あたしですか?」
きららは、ようやく振り返った。
「ええ。身元が確認できたそうです」
「それが、あたしの名前なんですか?」
「はい。お母さんとお友達が、こちらへ向かっていますよ」
お母さん。
友達。
言葉の意味は分かる。
しかし、顔は一人も浮かばない。
「会えば、思い出せますか?」
「それは、今は何とも言えません。でも、皆さん、あなたが無事だと分かってとても喜んでいるそうです」
「そう、ですか」
自分のことなのに、遠い誰かの話を聞いているようだった。
きららは星の指輪を手に取った。
指先で縁をなぞる。
誰から受け取ったのか分からない。
なぜ首にかけていたのかも分からない。
それでも、手放してはいけない気がした。
胸の奥へ、一つの音が浮かぶ。
「はるか……」
看護師が振り返る。
「お友達のお名前ですか?」
「分かりません」
きららは首を横へ振った。
「でも、忘れちゃいけない気がするんです」
星の指輪を握り、窓の外へ目を向ける。
夕暮れの空に、一番星が浮かんでいた。
その名前が、今まさに自分を迎えに来ようとしている少女のものだとは、きららにはまだ分からなかった。