星の王子と花の姫君   作:百合魔神

31 / 31
星へ届く絵

 

 

朝の光が、閉じたカーテンの隙間から部屋へ差し込んでいた。

 

トワは目を開けた。

 

身体を起こす前に、向かいのベッドを見る。乱れていない掛け布団と、使われなかった枕。昨夜から何度も確認した光景は、朝になっても変わっていなかった。

 

きららは帰っていない。

 

ほとんど眠れないまま朝を迎えたはずなのに、長く続けてきた習慣がトワの身体を動かした。

 

制服へ着替え、机に茶器を並べる。教わった量の茶葉を入れ、沸かしたお湯を注いだ。

 

一つは自分の前へ。

 

もう一つは、きららが使っていた椅子の前へ。

 

湯気が立ち上り、誰もいない場所で静かに消えていく。

 

トワは二つ目の茶器へ手を伸ばした。片づけなければならないと思うのに、指が触れる直前で止まる。

 

机には、きららが作った予定表が残されていた。

 

仕事で不在になる時間。トワがみなみやゆいへ尋ねてよい時間。帰宅後に二人で確認すること。その下には、秋のオーディションへ向けた予定まで、細かな字で書き込まれている。

 

扉が控えめに叩かれた。

 

「トワちゃん、起きてる?」

「はい」

 

トワが扉を開けると、きららの鞄を抱えたはるかが立っていた。

 

目元は赤い。別荘から学園へ戻る車の中でも、ほとんど眠っていなかったのだろう。

 

「きららちゃん、帰ってきた時に鞄がないと困ると思って」

「ありがとうございます」

 

鞄を受け取り、きららの机の横へ置く。

 

はるかは部屋へ入り、二つ並んだ茶器を見た。何かを言おうとして、唇を結ぶ。

 

「お茶、二人分淹れたんだね」

「はい。いつものように用意してから、きららがいないことを思い出しました」

「そっか……」

 

トワは、まだ湯気の残る茶器を見つめた。

 

「きららが戻るまで、こちらのベッドも机も、そのままでよろしいでしょうか」

「うん」

「ですが、今はもう一つ困っております」

「何?」

「一人分だけのお茶を淹れることに、まだ慣れておりません」

 

はるかはうつむいた。

 

しばらくして、空いている椅子を避け、トワの隣へ座る。

 

「だったら、今日は私が飲んでもいい?」

「もちろんです」

「きららちゃんの代わりじゃなくて、きららちゃんが帰るまで一緒に待つ人として」

「はい」

 

トワは二つ目の茶器を、はるかの前へ動かした。

 

茶はすでに少し冷めていた。

 

それでも二人は、きららが帰った時に話すことを一つずつ挙げながら、最後まで飲んだ。

 

午前中、望月学園長のもとへ二人の女性が訪れた。

 

一人は、黒い帽子とサングラスを身につけた天ノ川ステラ。もう一人は、きららの所属事務所を経営する舘響子だった。

 

撮影先から最短の便で戻ったステラは、学園長室へ入るとすぐにサングラスを外した。

 

普段なら人目を引く華やかな笑顔を浮かべているはずの顔に、今は何の表情もない。

 

部屋には、はるか、みなみ、ゆい、トワも呼ばれていた。

 

「分かっていることを、最初から聞かせて」

 

ステラの声は落ち着いていた。

 

望月学園長は、海辺で起きたことを順番に説明した。

 

怪物が現れ、海水浴客を避難させている最中に、黒い扉が出現したこと。扉は最初からきららを狙っていたこと。きららがはるかを助け、代わりに扉の中へ消えたこと。

 

周辺の海岸、道路、建物、防犯映像はすでに調べられている。きららの電話と鞄は別荘へ残され、海へ転落した痕跡もない。

 

扉へ入った後の足取りだけが、どこにも存在しなかった。

 

「警察には、怪物の襲撃と黒い扉による失踪として伝えています」

 

望月学園長が続ける。

 

「通常の事故とは考えにくい状況ですが、きららさんが未成年である以上、現実でできる捜索もすべて行います」

「お願いします」

 

ステラは短く答えた。

 

はるかは膝の上で握っていた手をほどき、立ち上がった。

 

「ステラさん」

「何?」

「きららちゃんは、私を助けたから……」

 

喉が詰まる。

 

それでも、言わなければならなかった。

 

「私が扉の前にいたから、きららちゃんが代わりに……。ごめんなさい」

 

はるかは深く頭を下げた。

 

ステラは何も答えない。

 

沈黙が長くなり、はるかの肩が震え始める。

 

やがて、ステラが椅子から立った。

 

「それで、あなたが謝ったら、きららは喜ぶと思う?」

「でも、私がいなかったら――」

「あの子が戻ってきた時、あなたがそんな顔をしていたら怒るわよ」

 

ステラは、はるかの肩へ手を置いた。

 

「『助けた意味ないじゃん』って」

「きららちゃんが、戻った時……」

「戻るわ」

 

迷いのない声だった。

 

ステラは、きららの鞄から取り出された予定表を手に取った。

 

明日の撮影。来週の衣装合わせ。学校の課題。トワへ生活を教える時間。十月のオーディション。

 

きららが思い描いていた未来が、小さな文字で詰め込まれている。

 

「明日も来週も十月も、予定がいっぱい」

「はい」

 

トワがうなずく。

 

「きららが自分から全部すっぽかすわけないわ。帰れなくなっているなら、迎えに行くだけよ」

 

ステラは笑おうとした。

 

だが、予定表を持つ指は震えていた。

 

舘響子が静かに立ち上がり、ステラの手から予定表を受け取る。

 

「事務所の方は、私が対応します。決まっている仕事については先方へ事情を説明し、必要なものは延期か代役を立てます」

「きららちゃんの仕事が……」

 

ゆいが小さくつぶやく。

 

「今は、きらら自身の安全が最優先よ」

 

舘響子は鞄の中から、きららが駅で撮影した写真を取り出した。

 

改札の向こうを見つめ、自然に笑っている一枚だった。

 

「報道や捜索には、加工していない直近の顔写真を提供します。ただし、この件を宣伝や憶測へ利用させるつもりはありません」

「私の娘だからじゃなくて、一人の行方不明の子として扱って」

 

ステラが言う。

 

「分かっています」

 

舘響子はうなずき、連絡を取るため学園長室を出た。

 

現実側の捜索は、その日のうちに範囲を広げた。

 

海藤家の協力により、海辺へ続く道路と周辺施設の映像が調べられる。港や船舶の記録、海上の捜索結果、近隣の駅やバスの利用状況も確認された。

 

だが、どこにもきららの姿は映っていなかった。

 

砂浜へ向かう姿はある。

 

戻ってくる姿がない。

 

電話は別荘へ残されており、位置情報も使えない。財布にも交通機関を利用した記録はなく、海へ落ちた痕跡も見つからなかった。

 

途中だけが抜け落ちている。

 

通常の方法で移動していないことは明らかだった。

 

みなみは兄から受け取った捜索状況を、レッスンルームに集まったはるかたちへ伝えた。

 

「現実側からは、まだ有力な情報がないわ」

「魔法の方はどうパフ?」

「黒い欠片から、扉の出口を調べているところよ」

 

ミス・シャムールが、プリンセスレッスンパッドの上へ黒い錠前の欠片を置く。

 

光を当てると無数の細い線が現れるが、どれも途中で分かれ、すぐに消えてしまう。

 

「入口のマジックは残っているけれど、出口を示すシグナルが弱すぎるわ。これだけでは、どのラインがきららの通った道なのか判断できない」

「もう一度、扉を開くことはできませんの?」

 

トワの問いに、ミス・シャムールは首を振った。

 

「無理に開けば、別の場所へつながる危険があるわ。行き先を確認できないまま入るのはノーよ」

「でも、待っていたら……」

 

はるかは黒い欠片を見つめた。

 

ロックの言葉が耳から離れない。

 

扉の向こうでは、時間も名前も同じままとは限らない。

 

「きららちゃんは、今も一人で歩いてるかもしれない」

「だからこそ、確実な道を探す必要があるわ」

 

みなみが、はるかの手へ自分の手を重ねた。

 

「焦って別の扉へ入ったら、きららを捜す人までいなくなってしまう」

「分かってる。でも……」

「一人だけが守るのは禁止、なのでしょう?」

 

トワの言葉に、はるかは胸元の花の指輪を押さえた。

 

「うん」

 

声に出して答える。

 

「だから、みんなで探す」

 

その頃、きららは暗闇の奥に見えた光へ手を伸ばしていた。

 

あと一歩。

 

そう思って踏み出した瞬間、身体が前へ投げ出される。

 

眩しさに目を閉じた。

 

次に感じたのは、頬へぶつかる冷たい風と、身体の下にある硬い岩だった。

 

波の音が聞こえる。

 

塩の匂いがする。

 

きららは両手をつき、身体を起こそうとした。腕に力が入らず、すぐに岩場へ倒れ込む。

 

空は薄い青へ変わり始めていた。

 

夜明け前の海岸。

 

見覚えのない白い灯台が、遠くに立っている。二つ並んだ防波堤の間から、小さな漁船が沖へ進んでいった。

 

どこなのか分からない。

 

どれほど歩いたのかも分からない。

 

自分がなぜここにいるのか、考えようとしても、頭の中には白い霧しかなかった。

 

足音が近づいてくる。

 

「おい! 誰か倒れてるぞ!」

 

作業着を着た男性が、岩場を駆けてきた。

 

きららの近くへしゃがみ込み、呼吸と意識を確かめる。

 

「聞こえるか? どこか痛いところは?」

「……聞こえて、ます」

「よかった。今、救急車を呼ぶからな」

 

男性は仲間へ電話を頼み、きららへ上着をかけた。

 

「名前は言えるか?」

「名前……」

 

質問の意味は分かる。

 

自分を呼ぶための言葉。

 

誰にでもあるもの。

 

「あたしは……」

 

続きが出てこない。

 

暗闇の中で、何度も繰り返していたはずなのに。

 

自分は誰だったのか。

 

どこから来たのか。

 

誰に会いたかったのか。

 

何も思い出せない。

 

きららは震える手で胸元を押さえた。

 

鎖の先に、星を模した指輪がある。

 

指輪を握ると、一つの音だけが胸の奥へ浮かんだ。

 

はるか。

 

けれど、それが何を意味するのか分からない。

 

人の名前なのか。

 

場所なのか。

 

自分の名前なのか。

 

「言えないか?」

「……分かりません」

 

きららは首を横へ振った。

 

遠くから、救急車の音が近づいてきた。

 

レッスンルームでは、ゆいが何枚目になるか分からない扉を描いていた。

 

中央の黒い錠前。星形のくぼみ。扉の奥へ続く暗い通路。

 

描き終えるたび、何かが違う気がして新しい紙へ移る。鉛筆を握る指には力が入り、同じ場所を何度もなぞった紙は黒く潰れていた。

 

「ゆい」

 

トワに呼ばれても、手を止めない。

 

「もう少しで思い出せそうなの。扉が閉じる前、何か見えた気がして」

「少し休んだ方がよいのではありませんか」

「休んでる間にも、きららちゃんの時間は進んでるかもしれないから」

 

ゆいの声が震えた。

 

「私は、描くことしかできなかった」

「ゆい……」

「きららちゃんが消えるところを見ていたのに、止められなかった。今だって、同じ扉ばかり描いて、居場所は何も分からない」

 

鉛筆の芯が折れた。

 

ゆいは動きを止め、黒く潰れた紙を見つめる。

 

トワは床へ落ちた芯を拾い、最初に描かれたスケッチを手に取った。

 

戦闘中、扉が閉じる直前に描いたもの。

 

「こちらを見てください」

「最初の絵?」

「後から描いたものとは、異なる部分があります」

 

トワは、扉の下部を指で示した。

 

最初の絵にだけ、細い黒い線が描かれている。扉から地面へ落ちた線は、途中で折れ曲がり、海とは反対の方向へ伸びていた。

 

中央の錠前にも、後の絵にはない小さな星形が残っている。

 

「これ、描いたことを覚えてない……」

「戦いの最中に見たものを、そのまま手が記録したのでしょう」

「でも、これが何を意味するかは分からないよ」

「分からないことが一つ減りました」

 

ゆいが顔を上げる。

 

「ゆいの絵がなければ、わたくしたちは完成した扉の形も、光の向かった方向も知ることができませんでした」

「それでも、きららちゃんの居場所は……」

「きららは、分からないことが一つ減るだけでも手掛かりになると、わたくしへ教えてくださいました」

 

トワは、黒く潰れていない最初のスケッチを机へ置いた。

 

「今度は、わたくしがゆいへお伝えする番です」

 

ゆいはスケッチを見つめた。

 

扉を描くことばかり考えていた。

 

けれど、本当に探したいのは扉ではない。

 

「私たちは、きららちゃんを探してるんだよね」

「はい」

「だったら、扉だけ描いていても駄目なのかもしれない」

 

ゆいは新しい紙を取り出した。

 

中央に描いたのは、黒い扉ではなかった。

 

笑っているきららだった。

 

最初に描いた顔は、雑誌の中で見たモデルの笑顔に近かった。

 

きれいで、整っている。

 

だが、ゆいの知っているきららは、それだけではない。

 

「はるかちゃんは、きららちゃんのどんな顔を覚えてる?」

「私?」

 

はるかは問い返し、しばらく考えた。

 

「笑ってる顔も好きだけど、照れた時に目をそらす顔」

「照れた時?」

「本当は嬉しいのに、『別に』って言ってる時の顔。あと、私が近づくとすぐ逃げようとする顔」

「そのようなお顔もなさるのですか?」

 

トワが尋ねる。

 

「トワちゃんも見てると思うよ」

「わたくしには、呆れたお顔をなさることが多いような……」

「それも描いておくね」

 

ゆいは笑い、鉛筆を走らせた。

 

みなみが覚えているのは、仕事の話をする時の真剣な横顔だった。

 

「きららは、自分の夢に関わる時、とても厳しい顔をするわ。でも、誰かが困っている時は、自分のことより先に気づくの」

「きららちゃんらしいね」

 

トワは、二人で茶を飲んだ時のことを話した。

 

茶葉の量を少し間違えた自分へ、おいしいと言ってくれたこと。人間界の生活を教えながら、何度もため息をついていたこと。それでも最後には、分からないことを一緒に考える時間を作ってくれたこと。

 

ゆいは、話に出た表情を一つずつ描いた。

 

午後、ステラにも同じ質問をした。

 

「きららの顔?」

 

ステラは、昔の写真を何枚か見せてくれた。

 

幼いきららが大きな雑誌を抱え、鏡の前でモデルのポーズを取っている。別の写真では、慣れない靴で転び、悔しそうに床をにらんでいた。

 

「小さい頃から、失敗するとすぐ一人で練習し直す子だったわ」

「頑張っているところを、見られたくなかったんですか?」

「できたところを最初に見せたかったのよ。格好つけだから」

 

ステラは写真を指先でなぞった。

 

「でも、本当に困った時は一人でどうにもならないこともある。最近は、それを少しずつ分かってきたみたいだけど」

「はい。きららちゃん、自分から相談できるようになってました」

 

ゆいは、予定表を開いて相談するきららの姿も描き加えた。

 

舘響子は、撮影現場でのきららを教えてくれた。

 

求められた表情を作るだけでなく、自分で納得できない写真には何度でも挑むこと。疲れを隠して失敗した後、初めて周囲と予定を調整できたこと。

 

「完成した写真だけでは分からない顔も、モデルには必要なのよ」

「きれいな顔だけが、きららちゃんじゃないんですね」

「ええ。迷って、失敗して、それでも次の一枚へ立つ。それも、あの子の顔よ」

 

ゆいの紙には、幾つものきららが並んだ。

 

笑うきらら。

 

照れるきらら。

 

怒るきらら。

 

夢を語るきらら。

 

仲間へ手を伸ばすきらら。

 

疲れて助けを求めるきらら。

 

どれか一つではない。

 

その全部が、天ノ川きららだった。

 

「きららちゃんは、私を助けるためだけにいたんじゃない」

 

はるかが絵を見つめながら言う。

 

「夢も仕事も、好きなものも苦手なこともいっぱいあるの」

「うん。全部、きららちゃんだよね」

 

ゆいは描いた絵を床へ並べた。

 

その中心に、黒い扉の絵を置く。

 

暗い通路を、一つの星が歩いている。

 

星は、自分の名前を何度も繰り返す。けれど、歩くたびに光が少しずつ薄くなっていく。

 

扉の外では、花、海、炎、妖精、母親、そして絵を描く少女が、それぞれの覚えている星を掲げていた。

 

「でも、このままじゃ届かない」

 

ゆいは最後の紙を取り出した。

 

暗闇そのものを消すのではない。

 

遠く離れた星が、進む道を見失わないための光。

 

ゆいは、暗い空へ昇る朝日を描いた。

 

「私の夢は、絵本作家になること」

 

鉛筆を動かしながら、声に出す。

 

「読んでくれる人が暗い場所にいるなら、そこまで届く絵を描きたい」

「ゆいさん……」

「きららちゃんが自分を忘れそうなら、私たちが覚えているきららちゃんを届けたい」

 

描き終えた朝日が、金色に輝いた。

 

紙の上から光があふれ、並べられたすべてのきららを照らす。

 

光は一か所へ集まり、小さな鍵へ形を変えた。

 

太陽を象ったドレスアップキーが、ゆいの手の中へ落ちる。

 

「新しいキー……」

「太陽のドレスアップキーですわ」

 

トワがキーを見つめる。

 

「ゆいの夢が、暗闇を照らす力へ変わったのですね」

「これなら、きららちゃんへ届くのかな」

「試してみましょう」

 

その時、レッスンルームに置かれていた黒い欠片が大きく震えた。

 

机の上から浮かび、黒い光を放つ。

 

窓の外で、何かが閉じる音がした。

 

一つではない。

 

二つ、三つと音が重なり、学園の森に無数の黒い扉が現れた。

 

「この気配は……」

「ロックだわ」

 

みなみが黒い欠片を布へ包む。

 

「ここでは危険よ。森へ移動しましょう」

「ゆいちゃんは、私たちの後ろにいて」

「うん!」

 

はるかたちはレッスンルームを飛び出し、森へ向かった。

 

木々の間には、前回より小さな黒い扉が並んでいた。どれも輪郭が不安定で、開いた内側から人影のような闇があふれている。

 

一番大きな扉の上に、ロックが腰かけていた。

 

「扉を描くだけなら、放っておこうと思ったんだけど」

 

ロックの視線が、ゆいの持つサンキーへ向く。

 

「本当に向こう側を照らしそうなら、消しておかないとね」

「きららちゃんの居場所を知っているの?」

 

はるかが尋ねる。

 

「知らないよ。あの扉は、向こう側まで送るために作ったんだから」

「それなら、どうして邪魔をするの!」

「星が戻ってきたら、せっかく離した意味がないでしょう?」

 

黒い扉から、闇の腕が伸びる。

 

三人はプリンセスパフュームを構えた。

 

「プリキュア・プリンセスエンゲージ!」

 

三つの声が重なり、光が森を照らす。

 

花、海、炎のプリンセスが並ぶ。

 

いつも星が立っていた場所だけが空いていた。

 

わずかな沈黙を狙い、黒い腕がフローラへ迫る。マーメイドの水流が横から打ちつけ、スカーレットの炎が残った闇を焼き払った。

 

「今は、目の前の敵に集中しましょう」

「うん!」

 

フローラは蔓を伸ばし、黒い扉を閉じようとする。

 

だが、別の扉が開き、中から黄色い光があふれた。

 

現れたのは、トゥインクルの姿をした影だった。

 

「フローラ」

 

聞き慣れた声で呼びかける。

 

「こっちだよ。早く助けて」

「トゥインクル……?」

 

フローラが一歩踏み出す。

 

影は扉の奥から手を伸ばした。

 

「一人で来て。ここから出られないの」

「今、行く!」

 

走り出しかけた足を、フローラは止めた。

 

一人で来て。

 

本物のトゥインクルが、そんなことを言うだろうか。

 

二人で交わした約束を、自分から破らせようとするだろうか。

 

「マーメイド」

 

フローラは影から目を離さず、隣へ呼びかけた。

 

「あの声が本物か、確かめて」

「分かったわ」

 

マーメイドが水の輪を作り、影のいる扉へ放つ。

 

水が扉の中へ触れる。

 

みなみが閉じ込められた時には、内側から力が返り、波紋が広がった。

 

今は何も起きない。

 

水は影をすり抜け、そのまま闇へ消えた。

 

「違うわ! あれはトゥインクルではない!」

「きららちゃんの姿を使わないで!」

 

フローラの蔓が影の身体へ巻きついた。

 

影は笑顔のまま崩れ、黒い霧へ戻る。

 

ロックは扉の上で足を揺らした。

 

「前より慎重になったんだね」

「一人で答えを出さないって、トゥインクルと約束したから!」

 

フローラとマーメイドが、左右からロックへ向かう。

 

その間に別の扉がゆいの背後へ開いた。

 

「ゆい、後ろです!」

 

スカーレットが炎を放つ。

 

伸びてきた闇の腕を焼き、ゆいの前へ降り立った。

 

「キーを渡すんだね」

 

ロックの声と共に、複数の扉がスカーレットを囲む。

 

闇の腕が四方から押し寄せ、スカーレットの炎を少しずつ押し返した。

 

「スカーレット!」

「こちらはお任せください!」

 

スカーレットは踏みとどまり、ゆいを背後へかばう。

 

しかし、闇は焼いても次々と扉から現れる。フローラとマーメイドも別の影に阻まれ、すぐには近づけない。

 

ゆいは、手の中のサンキーを見た。

 

きららへ届けるために生まれた光。

 

ここで守られているだけでは、届かない。

 

「スカーレット!」

「何です?」

「このキーを使って!」

 

ゆいはサンキーを差し出した。

 

「これは、きららちゃんへ届けるものだから!」

「はい!」

 

スカーレットはキーを受け取り、スカーレットバイオリンへ差し込んだ。

 

太陽の紋様が輝く。

 

深紅のドレスへ金色の光が重なり、背後に大きな太陽の輪郭が現れた。

 

スカーレットが弓を引く。

 

奏でられた音色は炎ではなく、夜明けのような光へ変わった。

 

金色の光が森を走り、無数の黒い扉を透かしていく。

 

偽物の影が次々に消える。

 

扉の奥に隠されていた魔力の道筋だけが、細い線となって浮かび上がった。

 

ほとんどの線は途中で途切れている。

 

その中に、一つだけ黄色い光が残っていた。

 

星の残光。

 

「見つけました!」

 

スカーレットが弓の先で示す。

 

「一つだけ、星の力が向こう側まで続いています!」

「それって……」

「きららは、すでに闇の通路から出ています!」

 

フローラの目が見開かれる。

 

「生きてる……」

「ええ。現実のどこかへ戻っているわ!」

 

マーメイドが答える。

 

ロックも、浮かび上がった星の線を見ていた。

 

「もう向こう側へ出たんだ」

「あなたも知らなかったのね」

「どこへ出るかは、扉が決めるからね」

 

ロックは肩をすくめた。

 

スカーレットの光が強まり、黒い扉が一斉に砕ける。

 

足場を失ったロックの身体が闇へ沈み始めた。

 

「待ちなさい!」

 

フローラが蔓を伸ばすが、ロックはその先から逃れる。

 

「見つけられるといいね」

「絶対に見つける!」

「でも、会えたとしても――」

 

ロックの帽子だけが、暗闇の中に残る。

 

「君たちの知っている星のままとは限らないよ」

 

黒い霧が消え、森に静けさが戻った。

 

フローラは追わなかった。

 

今は、ロックを捕まえることより、浮かび上がった星の道を残す方が大切だった。

 

戦いが終わり、三人の変身が解除される。

 

サンキーの光は弱くなったが、黒い欠片へかざすと再び細い星の線を浮かべた。

 

レッスンルームへ戻り、ミス・シャムールが光を記録する。

 

欠片の周囲へ、断片的な映像が現れた。

 

夜明け前の海。

 

白い灯台。

 

二つ並んだ防波堤。

 

赤い屋根の建物。

 

岩場の向こうへ進む漁船。

 

「ここが、きららの出た場所なのね」

「でも、灯台だけでは場所を決められないわ」

 

みなみは映像を一つずつ記録し、兄へ連絡した。

 

海藤家が所有する港湾資料と、国内の灯台や防波堤の形を照合する。似た場所は多く、すぐに一つへ絞ることはできなかった。

 

候補地域を整理し、警察と海上の捜索機関へ照会する。

 

魔法で分かったのは、きららが異空間から現実へ戻ったこと。そして、遠く離れた海岸へ出たことだけだった。

 

正確な場所は、現実の人々が探す必要がある。

 

時間だけが過ぎていく。

 

夕方になり、窓の外が赤く染まり始めた。

 

はるかは何度も電話を見た。

 

連絡はない。

 

ゆいは描いたきららの絵を並べ直し、トワは空になった茶器を洗っている。みなみは兄から届く候補地の情報を、一つずつ確認していた。

 

学園長室の電話が鳴った。

 

全員の動きが止まる。

 

望月学園長が応答し、相手の話を聞く。

 

「はい。年齢は十三歳です。髪の色は……ええ。その特徴で間違いありません」

 

はるかは立ち上がった。

 

学園長の表情が、少しずつ変わっていく。

 

「意識は戻っているのですね。分かりました。保護者へすぐに伝えます」

 

電話が切れる。

 

望月学園長は、はるかたちを見た。

 

「候補地域の一つにある病院から、身元不明の少女について連絡がありました」

「その子は……」

「年齢、容姿、制服が一致しています。首には星を模した指輪を下げ、鍵の形をした装飾品と香水瓶を持っていたそうです」

 

トワが口元を押さえる。

 

はるかは声を出せない。

 

「確認のため送られてきた写真を、ステラさんと舘さんが見ています」

 

廊下から、急ぐ足音が聞こえた。

 

扉が開き、ステラが入ってくる。

 

いつもなら崩さない姿勢が乱れ、息を切らしていた。

 

「きららが見つかったわ」

「本当に……?」

 

はるかの声は、かすれていた。

 

「ええ」

 

ステラはうなずく。

 

その瞬間、張りつめていた声が震えた。

 

「生きてる。ちゃんと、生きてるわ」

 

はるかの膝から力が抜ける。

 

みなみが身体を支えた。

 

ゆいはスケッチブックを抱いたまま泣き、トワは顔を両手で覆った。パフとアロマも泣きながら、はるかたちへ飛びつく。

 

「きらら……よかったパフ……!」

「本当によかったロマ……!」

 

まだ会っていない。

 

詳しい状態も分からない。

 

それでも、生きている。

 

きららは、現実へ戻ってきている。

 

「病院は、ここからかなり離れた町にあります」

 

舘響子が入ってくる。

 

「車と列車を手配しました。ステラさんと私はすぐに向かいます」

「私たちも行きます!」

 

はるかが顔を上げる。

 

「お願い。きららちゃんを迎えに行かせてください」

「もちろんよ」

 

ステラが答える。

 

みなみ、ゆい、トワも立ち上がった。

 

はるかは制服の下から、花の指輪を取り出した。

 

指輪は光らない。

 

きららの居場所を示したわけでもない。

 

それでも、幼い頃から続く約束が、そこに形として残っている。

 

「迎えに行こう」

 

はるかは花の指輪を握った。

 

「今度は、みんなで」

 

遠く離れた町の病院では、きららが白いベッドの上で窓の外を見ていた。

 

身体に大きな異常はない。

 

会話もできる。文字も読める。窓の向こうに見えるものが海であり、夕方の空が赤くなることも分かる。

 

だが、医師から尋ねられた自分の過去には、何一つ答えられなかった。

 

家族の名前。

 

通っている学校。

 

住んでいた町。

 

好きだったもの。

 

将来の夢。

 

どれも、自分の中に存在しない。

 

ベッド脇の台には、病院で預かられていた持ち物が並んでいる。

 

星の指輪。

 

香水瓶に似た道具。

 

星を模した鍵。

 

どれも自分が持っていたらしい。

 

それを見ても、何に使うものなのか分からなかった。

 

病室の扉が開き、看護師が入ってくる。

 

「天ノ川さん」

 

きららは窓の外を見たまま動かなかった。

 

看護師がベッドの近くまで来る。

 

「天ノ川きららさん」

「……あたしですか?」

 

きららは、ようやく振り返った。

 

「ええ。身元が確認できたそうです」

「それが、あたしの名前なんですか?」

「はい。お母さんとお友達が、こちらへ向かっていますよ」

 

お母さん。

 

友達。

 

言葉の意味は分かる。

 

しかし、顔は一人も浮かばない。

 

「会えば、思い出せますか?」

「それは、今は何とも言えません。でも、皆さん、あなたが無事だと分かってとても喜んでいるそうです」

「そう、ですか」

 

自分のことなのに、遠い誰かの話を聞いているようだった。

 

きららは星の指輪を手に取った。

 

指先で縁をなぞる。

 

誰から受け取ったのか分からない。

 

なぜ首にかけていたのかも分からない。

 

それでも、手放してはいけない気がした。

 

胸の奥へ、一つの音が浮かぶ。

 

「はるか……」

 

看護師が振り返る。

 

「お友達のお名前ですか?」

「分かりません」

 

きららは首を横へ振った。

 

「でも、忘れちゃいけない気がするんです」

 

星の指輪を握り、窓の外へ目を向ける。

 

夕暮れの空に、一番星が浮かんでいた。

 

その名前が、今まさに自分を迎えに来ようとしている少女のものだとは、きららにはまだ分からなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。