星の王子と花の姫君 作:百合魔神
夜の窓へ、車内の明かりが淡く映っていた。
はるかは座席へ深く腰を下ろし、制服の襟元から花の指輪を取り出した。指先で花びらの形を確かめてから、隣に座るトワへ聞こえないほどの声で言葉を繰り返す。
幼い頃に出会ったこと。
星と花の指輪を交換したこと。
ノーブル学園で再会したこと。
一緒に夢を追い、プリキュアとして戦ってきたこと。
そして、はるかを助けるために、きららが黒い扉へ消えたこと。
列車を降りた後、舘響子が手配した車へ乗り換えてからも、はるかは何度も話す順番を確かめていた。
「一度にすべてをお話しになるおつもりですか?」
トワに尋ねられ、はるかは指輪を握った。
「何か一つでも、きららちゃんが思い出すかもしれないから」
「ですが、わたくしたちにとって大切な思い出も、今のきららにとっては初めて聞くお話です」
「分かってる。でも……」
はるかは窓へ目を向けた。暗闇の向こうに、遠くの町明かりが流れていく。
「きららちゃん、一人で知らない場所にいるんだよ。自分の名前も分からないまま、私たちを待ってるの。早く全部教えてあげたい」
「ええ」
トワは否定せず、はるかの手へ自分の手を重ねた。
「ですから、きららが受け取れる分だけ、少しずつお渡ししましょう」
「……うん」
返事をしても、はるかは花の指輪を手放せなかった。
車の前方では、ステラが一言も発さずに座っている。黒い帽子もサングラスも外していたが、窓に映る横顔からは、何を考えているのか読み取れない。
その手だけが、膝の上で強く組まれていた。
病室では、きららが一枚の紙と向き合っていた。
天ノ川きらら。
看護師から教わった名前を、最初は見本どおりに、その次は見本を隠して書いた。文字の形は崩れず、二度目も同じ名前を書くことができた。
「天ノ川、きらら」
声に出しても、自分の名前を読んでいる実感はなかった。
病院へ運ばれてから出会った人のことは覚えている。岩場で助けてくれた漁師。救急隊員。診察した医師。何度も様子を見に来てくれた看護師。
夕食に出たものも、次の診察時間も覚えていた。
それより前だけがない。
きららは紙から目を離し、ベッド脇の台へ置かれた星の指輪を手に取った。香水瓶に似た道具と星形の鍵は、母親が到着した後に返却されると聞いている。
指輪だけは、どうしても手放したくないと伝えた。
理由は分からない。
鎖へ通して首にかけると、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
「お母さんとお友達、もうすぐ到着するそうですよ」
看護師からそう告げられ、きららは指輪を握り直した。
「何人ですか?」
「お母さんのほかに、付き添いの方と、お友達が四人です」
「四人……」
六人もの人が、自分を知っている。
その全員に知らない顔を向けなければならない。
「会えば、本当に何か思い出すんでしょうか」
「それは、今は分かりません」
「思い出せなかったら、がっかりさせますよね」
看護師はすぐに否定しなかった。
「皆さんがどんなお気持ちになるかは、私には決められません。でも、天ノ川さんが悪いわけではありませんよ」
「天ノ川さん……」
「まだ、その呼ばれ方には慣れませんか?」
「自分じゃない人の名前を借りてるみたいです」
そう答えてから、きららは胸元の指輪へ目を落とした。
「でも、一つだけ、借り物じゃない気がする言葉があるんです」
「はるか、でしたね」
「はい」
それが人の名前だと教えられたのは、つい先ほどのことだった。
けれど、どんな顔をしているのかは分からない。
自分にとって、どのような人なのかも分からない。
「忘れちゃいけないと思ったのに、何を忘れたのかも分からないんです」
窓の外には、夜の海が広がっていた。
きららは指輪を握ったまま、知らない人々が来るのを待った。
病院へ到着したのは、消灯時間を過ぎてからだった。
ステラと響子が医師の説明を受ける間、はるかたちは待合室に残された。長い移動を終えたはずなのに、誰も椅子へ深く座ろうとしない。
しばらくして診察室へ呼ばれると、医師は検査結果を机へ並べた。
「現時点で、身体に大きな異常は認められません。血液検査と画像検査でも、記憶障害を説明できる明らかな異常は見つかっていません」
「では、どうして何も覚えていないのですか?」
ステラが尋ねる。
「原因は断定できません。発見された経緯にも不明な点が多く、通常の医学だけでは説明しきれない可能性もあります」
医師は一度言葉を切り、全員を見渡した。
「自分の名前や家族、学校など、発見前の個人的な記憶を失っています。一方で、言葉や一般的な知識は保たれています。発見後に出会った人や、ここで説明されたことも覚えています」
「これからのことは、覚えられるんですか?」
「今のところ、その能力は保たれていると考えています。ただ、失った記憶がいつ戻るか、あるいは戻るかどうかは分かりません」
はるかの膝の上で、花の指輪が揺れた。
「思い出のものを見せれば、戻るかもしれませんよね?」
「刺激がきっかけになる可能性は否定できません。ですが、答えを求めて何度も質問したり、大勢で一度に話しかけたりすることは避けてください」
医師の言葉に、はるかは口を閉じた。
「今夜の面会は、保護者であるステラさんだけにしてください。ほかの方は明日、本人の状態を見ながら一人ずつ、短い時間でお願いします」
「私が、最初では駄目ですか?」
はるかは立ち上がりかけた。
医師は手元の記録を確認する。
「天ノ川さんは、保護された時から『はるか』という言葉だけを覚えていました」
「私のことを……」
「ただし、それが誰の名前なのか、自分とどういう関係なのかは分かっていません。今の彼女にとって、最も強い反応を起こす可能性があります」
胸に期待が広がった直後、それを喜んでよいのか分からなくなる。
みなみが、はるかの手を取った。
「まずは、きららの負担が少ない人から会いましょう」
「……うん」
病院から返却された星形の鍵と香水瓶は、人気のない場所でステラからトワへ渡された。指輪だけは、きららが自分で持っているという。
その夜、病室へ入ることを許されたのはステラだけだった。
扉の前へ立ち、ステラは深く息を吸う。
何度もステージへ立ち、世界中のカメラを前にしてきた。どれほど大きな会場でも、足がすくんだことはない。
今は、扉を開く手が震えていた。
二度ノックすると、中から小さな返事があった。
「入ってもいい?」
「はい」
ステラは扉を開けた。
白いベッドの上に、きららがいる。
頬には血色が戻り、身体に大きな傷もない。失踪する前と同じ髪、同じ目、同じ声だった。
ただ、その目だけがステラを知らなかった。
ステラはすぐには近づかず、ベッドから離れた椅子を示した。
「ここに座ってもいいかしら」
「どうぞ」
腰を下ろしても、言葉が出てこなかった。
きららも何も言わず、ステラの顔を見ている。その視線には、知っている人を確かめる温かさではなく、初対面の相手を観察する慎重さがあった。
「天ノ川ステラよ」
ステラは、自分から名乗った。
「あなたの母親」
「お母さん……」
きららは、ステラの髪と目元を見比べた。
「似ていますね」
「そうね。あなたがもう少し大きくなったら、もっと似るかもしれないわ」
「お母さんと、呼んだ方がいいですか?」
ステラの胸の奥で、何かが崩れた。
すぐに答えれば声が震える。そう分かり、膝の上で両手を握り直した。
「呼びたくなった時でいいわ。今は、ステラで構わない」
「それは、変じゃないですか?」
「母親だからって、知らない相手に呼び方まで決められたくないでしょう?」
きららは少し目を見開いた後、ゆっくりとうなずいた。
「……ステラさん」
「ええ」
自分の娘から、初めて名字も関係もない名前で呼ばれた。
それでもステラは笑った。
きららの前で泣けば、また謝らせてしまう気がした。
「思い出せなくて、ごめんなさい」
予想していた言葉が、やはりきららの口から出た。
ステラは椅子を少しだけ近づけた。
「謝らなくていい」
「でも、会いに来てくれたのに」
「私は、思い出してもらうために来たんじゃないわ。きららが生きていることを、この目で確かめに来たの」
抱きしめたかった。
髪へ触れ、腕の中にいることを確かめたかった。
けれど、今のきららにとっては、知らない人から突然抱きしめられることになる。
伸ばしかけた手を、ステラは自分の膝へ戻した。
「今日は、それだけで十分よ」
「聞かないんですか? 何か覚えているか」
「聞きたいことは、数えきれないほどあるわ」
ステラは笑みを崩さず、立ち上がった。
「でも、今夜はもう休みなさい。明日また、会いに来てもいい?」
「はい」
扉を閉めるまで、ステラはまっすぐ歩いた。
廊下へ出た途端、壁へ手をつく。
少し離れた場所で待っていた響子が、無言で隣へ立った。
「私の顔を見ても、何も思い出さなかった」
ステラの声が震える。
「ええ」
「ステラさん、だって」
響子は何も言わず、ステラの肩を抱いた。
ステラは口元を押さえ、それ以上の声を飲み込んだ。
翌朝、響子が病室を訪れた。
きららは朝食を終え、前日に書いた自分の名前を読み返していた。響子が名乗ると、きららは紙の余白へその名前を書き加える。
「舘響子さん」
「あなたが所属しているモデル事務所の代表よ」
「あたし、モデルだったんですね」
「ええ」
響子は鞄から一枚の写真を取り出した。
駅の改札で撮られた、失踪前のきららの写真だった。作られたポーズではなく、誰かの到着を待ちながら、自然に笑っている。
きららは写真を受け取り、長い間見つめた。
「これが、あたし……」
「直近に撮られた写真の一つよ」
「誰を見て笑ってたんですか?」
「それは、私にも分からないわ」
記憶は何も浮かばない。
それでも、きららは無意識に写真を少し遠ざけた。
「カメラは、たぶん少し下からですね」
「分かるの?」
「背景の線が上へ向かってるから。それに、あたし……撮られることを意識してないみたい。正面を向いてないのに、顔へちゃんと光が入ってる」
説明しながら、きらら自身が戸惑っていく。
なぜ写真の見方が分かるのか。
なぜ、光や角度が気になるのか。
「何も覚えてないのに」
「できることと、覚えていることは同じではないわ」
響子は写真を取り上げず、きららの手の中へ残した。
「仕事はすべて延期か調整をしています。戻る時期も、続けるかどうかも、今決める必要はないわ」
「あたしを待ってる人も、いるんじゃないですか?」
「いるでしょうね」
「だったら――」
「その人たちのために、知らない仕事へ戻るの?」
響子の問いに、きららは答えられなかった。
「前のあなたが大切にしていた夢だからこそ、今のあなたへ押しつけたくないの。知りたいと思った時に、改めて考えればいいわ」
きららは写真へ視線を落とす。
知らない自分は、楽しそうに笑っていた。
その笑顔を演じなくてもよいと言われ、胸の奥にあった緊張が少しだけ薄れた。
響子が病室を出ると、友人たちの面会が始まった。
最初に選ばれたのは、みなみだった。
扉を開けたみなみは、いつもどおり背筋を伸ばしていた。だが、きららと目が合った瞬間だけ、足が止まる。
「入ってもよいかしら」
「はい」
みなみは椅子へ座り、自分から名乗った。
「海藤みなみです。あなたと同じノーブル学園へ通っていました」
「友達、だったんですか?」
「ええ」
現在形ではなく、過去形になった。
そのことを意識し、みなみの胸が痛む。
「以前のあたしは、どんな人でしたか?」
みなみは、すぐには答えなかった。
優しい。明るい。努力家。
きれいな言葉だけなら、幾つも並べられる。だが、それだけを伝えれば、きららはその人物になろうとするかもしれない。
「自分の夢に関わることには、とても厳しい人だったわ。できないことがあれば、人に見せないところで何度でも練習していた」
「真面目だったんですね」
「真面目というより、負けず嫌いね」
きららの眉がわずかに動く。
「無理をしていても隠すところがあったわ。大丈夫ではない時ほど、大丈夫だと言うの」
「面倒な人ですね」
「そうね」
みなみが迷わずうなずくと、きららは少し驚いた顔をした。
「ですが、誰かが困っている時は、自分のことより早く気づく人でもあったわ。言い方は厳しくても、最後まで放っておけないの」
「それが、天ノ川きらら……」
「私たちが知っている、きららよ」
みなみは静かに言葉を続けた。
「でも、以前のあなたは、自分の進む道を自分で決める人だった。だから、これから何をするかも、あなた自身が決めていいの」
「あたしが決めても、いいんですか?」
「もちろんよ」
きららは胸元の指輪へ触れた。
周囲が知る自分へ戻ることだけが、選べる道ではない。
その考えを初めて与えてくれた相手の名前を、忘れないように心の中で繰り返した。
海藤みなみ。
次に病室へ入ったゆいは、大きなスケッチブックを胸へ抱えていた。
その中には、きららを捜すために描いた何枚もの絵が入っている。だが、ゆいが開いたのは一枚だけだった。
暗闇を歩く星へ、朝日が差し込んでいる。
「七瀬ゆいです」
「絵を描く人ですか?」
「うん。絵本作家になるのが私の夢なの」
ゆいは絵をきららへ渡した。
「これは、きららちゃんを捜している時に描いた絵。ほかにもたくさんあるけど、今日はこれだけにするね」
「どうしてですか?」
「きららちゃんのことを描いたからって、全部見せていいとは限らないと思ったの。見たくなった時に、きららちゃんが決めて」
きららは絵を両手で持った。
暗闇の中にいる星は小さい。
朝日はまだ遠い。それでも、差し込む光の先へ星は確かに歩いている。
「物語の途中みたい」
「途中?」
「この星、まだ朝日に届いてないから。でも、歩くのをやめてない」
ゆいの目から、涙が一粒こぼれた。
「ごめんなさい。嫌でしたか?」
「違うよ」
ゆいは慌てて涙を拭く。
「きららちゃんが、この絵を見てくれたことが嬉しかったの」
「思い出してないですよ」
「うん。それでもいいの」
ゆいが笑う。
きららはもう一度、絵へ目を落とした。
「ゆいさんは、この星の続きも描くんですか?」
「……名前、覚えてくれたんだね」
「さっき聞いたばかりですから」
当然のように答えた後、きららは自分でも気づく。
昨日からの出来事は、消えずに残っている。
ゆいの名前も、この絵も、今交わしている言葉も、明日になっても覚えていられるかもしれない。
「続きを描くなら、見てみたいです」
「うん。必ず持ってくるね」
ゆいは泣きながら笑い、きららもわずかに口元を緩めた。
その様子を見届けてから、ゆいは病室を出た。
廊下の奥では、パフとアロマが鞄の隙間から病室の扉を見ていた。
「パフも、きららに会いたいパフ……」
「僕だって会いたいロマ。でも、今のきららが僕たちを見たら、きっと驚くロマ」
「きらら、パフのことも忘れたパフ?」
「それは、まだ分からないロマ」
アロマも声を震わせていた。
「会いたい気持ちと、今会わせていいかは別ロマ。きららが受け止められる時まで、待つロマ」
「……分かったパフ」
パフは涙を拭き、鞄の奥へ身体を戻した。
最後にはるかが会う予定だった。
その前に、トワが病室へ入った。
手には小さな水筒と、二人分の紙のカップがある。食事の制限がないことを看護師へ確認し、宿泊先から持ってきた茶葉で淹れたものだった。
「紅城トワと申します」
「トワさん」
「はい」
自分の名前へ「さん」がついた。
分かっていたはずなのに、トワの胸が締めつけられる。
「わたくしは、きららと同じ部屋で暮らしておりました」
「じゃあ、あたしのことを一番知ってるんですか?」
「知っているつもりでした」
トワは紙のカップへ紅茶を注いだ。
「ですが今は、知らなかったことの方が多かったのだと思っております」
「どういう意味ですか?」
「きららは、悩んでいてもお一人で抱え込むことがありました。わたくしは同じ部屋にいながら、それへ気づけないこともあったのです」
きららは差し出されたカップを受け取った。
香りを確かめてから、一口飲む。
「少し薄いかも」
トワの目が見開かれた。
きららはその変化を見逃さなかった。
「今の、昔のあたしと同じだった?」
「……はい」
期待が浮かんだことを隠せなかった。
トワはカップを両手で包み、頭を下げた。
「申し訳ありません。わたくしも、以前のきららを探してしまいました」
「別に、謝らなくても」
「ですが、きららへ思い出すことを求めるつもりはありませんでした。それでも、同じ言葉を聞いた途端、期待してしまったのです」
きららは自分の舌へ意識を向けた。
紅茶の味は分かる。少し薄いことも分かる。
だが、いつ味を覚えたのかは分からない。
「前のあたしは、トワさんに優しかったですか?」
「はい。ただし、いつも優しい言い方だったわけではありません」
「どんな感じです?」
「分からないことは尋ねるように言われました。尋ねすぎると、少しお待ちくださいとも言われました」
「勝手ですね」
「ええ。ため息も、よくつかれました」
「それ、本当に優しかったんですか?」
きららが堪えきれずに笑う。
トワは答えようとして、言葉を止めた。
以前のきららも同じ顔で笑った。
けれど、今はそのことを伝えなかった。
「わたくしにとっては、優しい方でした」
「そうですか」
きららはもう一口、紅茶を飲んだ。
「次は、もう少し濃くしてください」
「次も、淹れてよろしいのですか?」
「同じ部屋だったんでしょ。前のあたしが何を教えたのか、少し興味があります」
トワの瞳へ涙がにじむ。
それをこぼす前に、トワは深くうなずいた。
「承知しました」
トワが病室を出ると、廊下の椅子からはるかが立ち上がった。
「どうだった?」
「以前のことは、何も思い出しておりません」
「そっか……」
「ですが、わたくしの淹れたお茶を、また飲んでくださるそうです」
はるかは、トワの泣きそうな笑顔を見た。
記憶が戻らなくても、新しく約束することはできる。
そう理解したはずなのに、胸元の花の指輪へ触れると、期待を捨てられなかった。
自分の名前だけは残っていた。
自分を見れば、何かが戻るかもしれない。
はるかは病室の前へ立ち、扉をノックした。
「どうぞ」
聞き慣れた声だった。
扉を開ける。
きららはベッドの上から、まっすぐにはるかを見た。
二人の視線が重なる。
「……はるか?」
名前を呼ばれた。
「きららちゃん!」
はるかは考えるより早く、ベッドへ駆け寄った。
きららの肩がわずかに揺れる。はるかは抱きしめようと伸ばした腕を止め、それでもすぐ近くへ立った。
「私のこと、分かるの?」
「あなたが、はるかなんですか?」
「うん。春野はるか。きららちゃんと同じノーブル学園に通ってて、ずっと一緒に――」
はるかは花の指輪を取り出した。
「これ、見て。きららちゃんが持ってる星の指輪と同じ時に作ってもらったの。私たち、小さい頃に出会ってたんだよ」
「小さい頃……」
「きららちゃんはその時、キラって名乗ってたの。私は男の子だと思ってて、学園で再会しても気づけなかったけど、きららちゃんはずっと覚えててくれた」
星と花の指輪を交換し、互いの夢を応援すると約束した。
大きくなって再会し、同じ学園で過ごした。
きららがプリキュアになり、一緒に戦った。
はるかへ近づかれるたびに逃げ、昔のことを知られるたびに顔を赤くした。
伝えたいことが、次々に口からあふれた。
きららは黙って聞いている。
その表情が少しずつ硬くなっていることに、はるかは気づかなかった。
「この前だって、きららちゃんは私を助けてくれた。黒い扉に入るはずだった私を押しのけて、代わりに――」
「待って」
きららが声を上げた。
はるかの言葉が止まる。
「その話、本当なんですか?」
「うん」
「あたしが、あなたを助けた?」
「そうだよ。だから、今度は私がきららちゃんを――」
きららは胸元の星の指輪を握った。
知らない少女が、自分を大切な相手として見つめている。
知らない自分は、この少女のために危険な扉へ飛び込んだ。
そこまで大切にしていた相手なのに、何一つ思い出せない。
「指輪を見たら、何か思い出さない?」
はるかが、花の指輪を近づける。
「私のことも、約束のことも。少しだけでも――」
「分かりません」
きららは首を横へ振った。
「でも、名前は覚えてたんだよ。暗いところでも、はるかって――」
「それだけです」
声が強くなった。
はるかはようやく、きららの指が震えていることに気づく。
「ごめんなさい」
きららは指輪を握ったまま、うつむいた。
「あたしは、どうすればいいんですか?」
「どうって……」
「昔のあたしみたいに話せばいい? 前と同じ呼び方をして、あなたを大切だって言えば、安心しますか?」
はるかは答えられなかった。
きららは苦しそうに息を吸う。
「何も思い出せないんです。あなたが知ってる人の話を聞いても、その人があたしだと思えない」
「きららちゃん……」
「あたしは、その人になれない」
その言葉に、はるかの胸が冷えた。
病室の扉が開き、看護師が入ってくる。
「今日はここまでにしましょう」
「でも――」
「春野さん」
穏やかだが、拒めない声だった。
はるかは花の指輪を握り、椅子から立った。
「ごめんね」
「謝るのは、あたしの方です」
また謝らせた。
何も言えないまま、はるかは病室を出た。
扉が閉じる。
廊下で待っていたみなみたちが立ち上がったが、はるかは誰の顔も見られなかった。
「私、きららちゃんを苦しませた」
「はるか……」
「きららちゃんに会いに行ったのに、私を知ってるきららちゃんに戻ってほしくて、私のことばっかり話した」
花の指輪を握った手から、力が抜ける。
「何も思い出せないって言ったきららちゃんに、もう一度思い出さないかって聞いた。私、きららちゃんに何回も答えを求めた」
ステラが、はるかの隣へ座った。
「私も同じよ」
「ステラさんも?」
「ママって呼んでくれるかもしれないと思ってた。私を見れば、きららの中に何か戻るんじゃないかって」
ステラは、病室の扉へ目を向けた。
「思い出さなくていいと言いながら、本当は期待してたの」
「でも、ステラさんはきららちゃんに無理に話さなかった」
「最初に会えたから我慢できただけよ。何度も会っていたら、私も昔の話を並べていたかもしれないわ」
みなみは、はるかの反対側へ座った。
「過去を教えることは必要よ。きらら自身が望むなら、これまでの人生を知る権利があるわ」
「うん……」
「でも、知ったとおりに振る舞う義務はない。私たちが、それを忘れてはいけないのだと思う」
ゆいは胸へ抱えていたスケッチブックを開いた。
そこには、前日に描いた幾つものきららがいる。
笑う顔。
照れた顔。
怒った顔。
仕事へ向かう顔。
助けを求める顔。
「私たちが覚えてるきららちゃんは、どれも本物だよ」
「だったら、どうして……」
「でも、今のきららちゃんを、この絵の答え合わせにしちゃいけないんだと思う」
ゆいは新しい白紙を開いた。
「今のきららちゃんがどんな顔で笑うのかは、これから知っていくことだから」
「これから……」
はるかがつぶやく。
トワは、はるかの前へしゃがんだ。
「今のきららがどうしたいのか、尋ねましょう」
「でも、もう会ってくれないかもしれない」
「それも、きららが決めることです」
以前、きららがトワへ言った言葉が、今度ははるかへ向けられる。
一人で決めない。
相手のことまで、自分だけで決めてはいけない。
はるかは花の指輪を見た。
幼い頃、二人で交わした約束は、相手を思いどおりの姿へ導くものではなかった。
互いの夢を応援する。
相手が選んだ道を信じるための約束だった。
病室では、きららが新しいノートへ名前を書いていた。
天ノ川ステラ。
舘響子。
海藤みなみ。
七瀬ゆい。
紅城トワ。
今日出会った人々の顔と、話した内容は思い出せる。ゆいから見せてもらった絵も、トワが淹れた少し薄い紅茶の味も残っている。
最後の一行へ、春野はるかと書く。
文字にした瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。
「やっぱり、この名前だけ違う」
きららは星の指輪を握った。
はるかの顔を見ても、思い出は戻らなかった。
それなのに、泣きそうな顔をさせたことが苦しい。
以前の自分が大切にしていたからなのか。それとも、今の自分が、あの顔を悲しませたくないと思ったのか。
その違いさえ分からない。
「天ノ川さん」
看護師が病室へ入ってきた。
「春野さんが、もう一度お話ししたいそうです。もちろん、会わなくても大丈夫ですよ」
「はるかは、何て言ってますか?」
「先ほどのことを謝りたいと。それから、今度は昔の話をするためではないと言っていました」
きららはノートの名前を見つめた。
自分で決めていい。
みなみに言われた言葉を思い出す。
「会います」
「よろしいですか?」
「はい。思い出すためじゃありません」
きららは星の指輪から手を離した。
「どうしてこの名前だけ残ってたのか、今のあたしが知りたいんです」
しばらくして、扉が控えめに叩かれた。
「入ってもいい?」
先ほどと同じ声だった。
「どうぞ」
はるかは病室へ入っても、すぐには近づかなかった。
花の指輪も制服の内側へ戻したまま、ベッドから少し離れた椅子へ座る。
「さっきは、ごめんなさい」
「今度は、何を思い出してほしいんですか?」
「何も」
はるかは、まっすぐきららを見た。
「私は、今のきららちゃんに会おうとしてなかった。私が知ってるきららちゃんに、早く戻ってきてほしかったの」
「戻ってほしいと思うのは、普通じゃないんですか?」
「思うことは止められない。でも、それをきららちゃんにかなえてもらおうとするのは違うと思う」
はるかは膝の上で手を握った。
「もし、昔のあたしに戻らなかったら?」
きららは、最も聞くのが怖かったことを口にした。
「がっかりしますか?」
はるかはすぐに否定しなかった。
その沈黙に、きららの肩へ力が入る。
「悲しいと思う」
「……そうですか」
「きららちゃんと一緒に覚えていたかったことが、たくさんあるから。きららちゃんだけが忘れて、私だけが覚えてるのは、やっぱり悲しいよ」
はるかの声が震える。
「でも、それはきららちゃんのせいじゃない。私が悲しいからって、昔と同じ人になってって言いたくない」
「じゃあ、どうしてもう一度来たんですか?」
「はじめましてを、言い直すため」
きららが顔を上げる。
「前のきららちゃんを待つだけじゃなくて、今ここにいるきららちゃんのことを知りたい。きららちゃんが嫌じゃなければ」
はるかは、そこで言葉を止めた。
返事を急かさない。
知っているきららなら何と答えるかを考えず、目の前の少女が選ぶのを待っている。
「きららちゃんって、呼んでもいいですか?」
今度は、はるかから尋ねた。
きららは自分の名前が書かれた紙を見る。
「それが、あたしの名前なんですよね」
「うん」
「なら、いいです」
はるかの顔へ、わずかに笑みが戻る。
「ありがとう、きららちゃん」
許された呼び名を確かめるように、はるかはもう一度その名を口にした。
「それと、無理にとは言わないけど、私には敬語じゃなくていいよ。前のきららちゃんも、私には使ってなかったから」
「また前のあたしの話ですか?」
「あっ」
はるかが慌てて口元を押さえる。
その反応がおかしくて、きららの口元が緩んだ。
「冗談です。すぐには無理ですけど、話し方くらいは自分で決めます」
「うん。きららちゃんが決めて」
きららは胸元から星の指輪を取り出した。
「この指輪、はるかがくれたんですか?」
「うん」
はるかも、今度はきららに求められてから花の指輪を取り出した。
星と花。
並べると、色も細かな模様もよく似ている。けれど、どちらも光らず、失った記憶を呼び起こすこともなかった。
「小さい頃、私たちはお互いの夢を応援するって約束したの。それで、この指輪を交換した」
「あたしの夢は?」
「世界で活躍するトップモデルになること」
「はるかは?」
「素敵なプリンセスになること」
きららは、はるかの制服姿を見つめた。
「プリンセス?」
「今、笑わなかった?」
「少しだけ」
はるかは頬を膨らませかけたが、すぐに二人で笑った。
笑いが収まると、きららは花の指輪へ目を戻した。
「以前のあたしは、はるかをどんなふうに見てたんですか?」
はるかの胸が強く鳴る。
友達。
大切な人。
幼い頃から忘れられなかった相手。
どこまで言えばよいのか迷い、最後には首を横へ振った。
「それは、私が決めちゃいけないと思う」
「分からないんですか?」
「私は、きららちゃんを大切だと思ってる。でも、きららちゃんが私をどう思ってたのかは、きららちゃんの気持ちだから」
「ずるい答え」
「ごめん」
「でも、正直ですね」
きららは星の指輪を指先でなぞった。
「はるかは、あたしにとって大切な人だった?」
「うん。少なくとも、私はそう思ってる」
「なら、昔と同じあたしにならなきゃいけませんか?」
「ならなくていい」
今度は迷わなかった。
「以前のあたしを覚えていなくても?」
「うん」
「モデルをやめても?」
「寂しいけど、それもきららちゃんが決めることだよ」
「プリキュアじゃなくなっても?」
はるかの表情が止まる。
きららは首を傾げた。
「さっき、自分で言ってましたよ。一緒にプリキュアとして戦ったって」
「あ……」
話さないように言われていたことを、最初の面会ですでに口走っていた。
はるかの目が泳ぐ。
「それは、その……」
「あと、香水瓶と星形の鍵も持ってたそうです。あれと関係あるんですか?」
「えっと……関係はあるけど、今説明するともっとややこしくなるというか……」
「はるか、隠し事が下手ですね」
「きららちゃんにもよく言われた」
また以前の話を出したと気づき、はるかが固まる。
きららは今度こそ声を上げて笑った。
「そこまで気にしなくていいです。以前のあたしの話を聞きたくないわけじゃありません」
「でも、苦しくならない?」
「一度に全部は困ります」
きららは、先ほどのはるかの言葉を返すように続けた。
「知りたいと思った時に、少しずつ教えてください」
「うん」
「その代わり、聞いても同じようにできるとは限りません」
「分かってる」
はるかは花の指輪を握り、ゆっくりとうなずいた。
きららはベッドの上から右手を差し出した。
「天ノ川きらら、らしいです」
はるかは差し出された手を見る。
「今はまだ、“らしい”としか言えないけど」
「春野はるかです」
はるかも手を伸ばした。
二人の指が触れ、星と花の指輪がわずかに重なる。
それでも、何も起こらない。
光も、音も、失われた記憶も戻らなかった。
「……はるか」
きららが名前を呼ぶ。
はるかの手が震えた。
「名前だけは、暗いところでも覚えてた。だから、そう呼んでみてもいい?」
「うん」
はるかは涙をこぼしながら笑った。
「もう一度、はじめまして。きららちゃん」
「はじめまして、はるか」
二人は初めて会った者同士として、手を握った。
面会を終えた後、きららはノートの最初のページを開いた。
窓から差し込む夕方の光が、白い紙を淡く染めている。少し考えてから、きららは自分の字で書き始めた。
天ノ川きらら。
今日、はるかに会った。
はるかは、あたしのことを知っている。
あたしは、これからはるかを知っていく。
書き終えた内容を、最初から読み返す。
昨日までの自分は分からない。
それでも、今日出会った人々のことは覚えている。明日また会えば、今日より少しだけ多く知ることができる。
きららはノートを閉じ、星の指輪を胸元へ戻した。
それは、失った過去を書き直すための記録ではない。
天ノ川きららが、自分の手で選んだ最初の明日だった。