星の王子と花の姫君   作:百合魔神

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もう一度、はじめまして

 

夜の窓へ、車内の明かりが淡く映っていた。

 

はるかは座席へ深く腰を下ろし、制服の襟元から花の指輪を取り出した。指先で花びらの形を確かめてから、隣に座るトワへ聞こえないほどの声で言葉を繰り返す。

 

幼い頃に出会ったこと。

 

星と花の指輪を交換したこと。

 

ノーブル学園で再会したこと。

 

一緒に夢を追い、プリキュアとして戦ってきたこと。

 

そして、はるかを助けるために、きららが黒い扉へ消えたこと。

 

列車を降りた後、舘響子が手配した車へ乗り換えてからも、はるかは何度も話す順番を確かめていた。

 

「一度にすべてをお話しになるおつもりですか?」

 

トワに尋ねられ、はるかは指輪を握った。

 

「何か一つでも、きららちゃんが思い出すかもしれないから」

「ですが、わたくしたちにとって大切な思い出も、今のきららにとっては初めて聞くお話です」

「分かってる。でも……」

 

はるかは窓へ目を向けた。暗闇の向こうに、遠くの町明かりが流れていく。

 

「きららちゃん、一人で知らない場所にいるんだよ。自分の名前も分からないまま、私たちを待ってるの。早く全部教えてあげたい」

「ええ」

 

トワは否定せず、はるかの手へ自分の手を重ねた。

 

「ですから、きららが受け取れる分だけ、少しずつお渡ししましょう」

「……うん」

 

返事をしても、はるかは花の指輪を手放せなかった。

 

車の前方では、ステラが一言も発さずに座っている。黒い帽子もサングラスも外していたが、窓に映る横顔からは、何を考えているのか読み取れない。

 

その手だけが、膝の上で強く組まれていた。

 

病室では、きららが一枚の紙と向き合っていた。

 

天ノ川きらら。

 

看護師から教わった名前を、最初は見本どおりに、その次は見本を隠して書いた。文字の形は崩れず、二度目も同じ名前を書くことができた。

 

「天ノ川、きらら」

 

声に出しても、自分の名前を読んでいる実感はなかった。

 

病院へ運ばれてから出会った人のことは覚えている。岩場で助けてくれた漁師。救急隊員。診察した医師。何度も様子を見に来てくれた看護師。

 

夕食に出たものも、次の診察時間も覚えていた。

 

それより前だけがない。

 

きららは紙から目を離し、ベッド脇の台へ置かれた星の指輪を手に取った。香水瓶に似た道具と星形の鍵は、母親が到着した後に返却されると聞いている。

 

指輪だけは、どうしても手放したくないと伝えた。

 

理由は分からない。

 

鎖へ通して首にかけると、胸の奥が少しだけ落ち着いた。

 

「お母さんとお友達、もうすぐ到着するそうですよ」

 

看護師からそう告げられ、きららは指輪を握り直した。

 

「何人ですか?」

「お母さんのほかに、付き添いの方と、お友達が四人です」

「四人……」

 

六人もの人が、自分を知っている。

 

その全員に知らない顔を向けなければならない。

 

「会えば、本当に何か思い出すんでしょうか」

「それは、今は分かりません」

「思い出せなかったら、がっかりさせますよね」

 

看護師はすぐに否定しなかった。

 

「皆さんがどんなお気持ちになるかは、私には決められません。でも、天ノ川さんが悪いわけではありませんよ」

「天ノ川さん……」

「まだ、その呼ばれ方には慣れませんか?」

「自分じゃない人の名前を借りてるみたいです」

 

そう答えてから、きららは胸元の指輪へ目を落とした。

 

「でも、一つだけ、借り物じゃない気がする言葉があるんです」

「はるか、でしたね」

「はい」

 

それが人の名前だと教えられたのは、つい先ほどのことだった。

 

けれど、どんな顔をしているのかは分からない。

 

自分にとって、どのような人なのかも分からない。

 

「忘れちゃいけないと思ったのに、何を忘れたのかも分からないんです」

 

窓の外には、夜の海が広がっていた。

 

きららは指輪を握ったまま、知らない人々が来るのを待った。

 

病院へ到着したのは、消灯時間を過ぎてからだった。

 

ステラと響子が医師の説明を受ける間、はるかたちは待合室に残された。長い移動を終えたはずなのに、誰も椅子へ深く座ろうとしない。

 

しばらくして診察室へ呼ばれると、医師は検査結果を机へ並べた。

 

「現時点で、身体に大きな異常は認められません。血液検査と画像検査でも、記憶障害を説明できる明らかな異常は見つかっていません」

「では、どうして何も覚えていないのですか?」

 

ステラが尋ねる。

 

「原因は断定できません。発見された経緯にも不明な点が多く、通常の医学だけでは説明しきれない可能性もあります」

 

医師は一度言葉を切り、全員を見渡した。

 

「自分の名前や家族、学校など、発見前の個人的な記憶を失っています。一方で、言葉や一般的な知識は保たれています。発見後に出会った人や、ここで説明されたことも覚えています」

「これからのことは、覚えられるんですか?」

「今のところ、その能力は保たれていると考えています。ただ、失った記憶がいつ戻るか、あるいは戻るかどうかは分かりません」

 

はるかの膝の上で、花の指輪が揺れた。

 

「思い出のものを見せれば、戻るかもしれませんよね?」

「刺激がきっかけになる可能性は否定できません。ですが、答えを求めて何度も質問したり、大勢で一度に話しかけたりすることは避けてください」

 

医師の言葉に、はるかは口を閉じた。

 

「今夜の面会は、保護者であるステラさんだけにしてください。ほかの方は明日、本人の状態を見ながら一人ずつ、短い時間でお願いします」

「私が、最初では駄目ですか?」

 

はるかは立ち上がりかけた。

 

医師は手元の記録を確認する。

 

「天ノ川さんは、保護された時から『はるか』という言葉だけを覚えていました」

「私のことを……」

「ただし、それが誰の名前なのか、自分とどういう関係なのかは分かっていません。今の彼女にとって、最も強い反応を起こす可能性があります」

 

胸に期待が広がった直後、それを喜んでよいのか分からなくなる。

 

みなみが、はるかの手を取った。

 

「まずは、きららの負担が少ない人から会いましょう」

「……うん」

 

病院から返却された星形の鍵と香水瓶は、人気のない場所でステラからトワへ渡された。指輪だけは、きららが自分で持っているという。

 

その夜、病室へ入ることを許されたのはステラだけだった。

 

扉の前へ立ち、ステラは深く息を吸う。

 

何度もステージへ立ち、世界中のカメラを前にしてきた。どれほど大きな会場でも、足がすくんだことはない。

 

今は、扉を開く手が震えていた。

 

二度ノックすると、中から小さな返事があった。

 

「入ってもいい?」

「はい」

 

ステラは扉を開けた。

 

白いベッドの上に、きららがいる。

 

頬には血色が戻り、身体に大きな傷もない。失踪する前と同じ髪、同じ目、同じ声だった。

 

ただ、その目だけがステラを知らなかった。

 

ステラはすぐには近づかず、ベッドから離れた椅子を示した。

 

「ここに座ってもいいかしら」

「どうぞ」

 

腰を下ろしても、言葉が出てこなかった。

 

きららも何も言わず、ステラの顔を見ている。その視線には、知っている人を確かめる温かさではなく、初対面の相手を観察する慎重さがあった。

 

「天ノ川ステラよ」

 

ステラは、自分から名乗った。

 

「あなたの母親」

「お母さん……」

 

きららは、ステラの髪と目元を見比べた。

 

「似ていますね」

「そうね。あなたがもう少し大きくなったら、もっと似るかもしれないわ」

「お母さんと、呼んだ方がいいですか?」

 

ステラの胸の奥で、何かが崩れた。

 

すぐに答えれば声が震える。そう分かり、膝の上で両手を握り直した。

 

「呼びたくなった時でいいわ。今は、ステラで構わない」

「それは、変じゃないですか?」

「母親だからって、知らない相手に呼び方まで決められたくないでしょう?」

 

きららは少し目を見開いた後、ゆっくりとうなずいた。

 

「……ステラさん」

「ええ」

 

自分の娘から、初めて名字も関係もない名前で呼ばれた。

 

それでもステラは笑った。

 

きららの前で泣けば、また謝らせてしまう気がした。

 

「思い出せなくて、ごめんなさい」

 

予想していた言葉が、やはりきららの口から出た。

 

ステラは椅子を少しだけ近づけた。

 

「謝らなくていい」

「でも、会いに来てくれたのに」

「私は、思い出してもらうために来たんじゃないわ。きららが生きていることを、この目で確かめに来たの」

 

抱きしめたかった。

 

髪へ触れ、腕の中にいることを確かめたかった。

 

けれど、今のきららにとっては、知らない人から突然抱きしめられることになる。

 

伸ばしかけた手を、ステラは自分の膝へ戻した。

 

「今日は、それだけで十分よ」

「聞かないんですか? 何か覚えているか」

「聞きたいことは、数えきれないほどあるわ」

 

ステラは笑みを崩さず、立ち上がった。

 

「でも、今夜はもう休みなさい。明日また、会いに来てもいい?」

「はい」

 

扉を閉めるまで、ステラはまっすぐ歩いた。

 

廊下へ出た途端、壁へ手をつく。

 

少し離れた場所で待っていた響子が、無言で隣へ立った。

 

「私の顔を見ても、何も思い出さなかった」

 

ステラの声が震える。

 

「ええ」

「ステラさん、だって」

 

響子は何も言わず、ステラの肩を抱いた。

 

ステラは口元を押さえ、それ以上の声を飲み込んだ。

 

翌朝、響子が病室を訪れた。

 

きららは朝食を終え、前日に書いた自分の名前を読み返していた。響子が名乗ると、きららは紙の余白へその名前を書き加える。

 

「舘響子さん」

「あなたが所属しているモデル事務所の代表よ」

「あたし、モデルだったんですね」

「ええ」

 

響子は鞄から一枚の写真を取り出した。

 

駅の改札で撮られた、失踪前のきららの写真だった。作られたポーズではなく、誰かの到着を待ちながら、自然に笑っている。

 

きららは写真を受け取り、長い間見つめた。

 

「これが、あたし……」

「直近に撮られた写真の一つよ」

「誰を見て笑ってたんですか?」

「それは、私にも分からないわ」

 

記憶は何も浮かばない。

 

それでも、きららは無意識に写真を少し遠ざけた。

 

「カメラは、たぶん少し下からですね」

「分かるの?」

「背景の線が上へ向かってるから。それに、あたし……撮られることを意識してないみたい。正面を向いてないのに、顔へちゃんと光が入ってる」

 

説明しながら、きらら自身が戸惑っていく。

 

なぜ写真の見方が分かるのか。

 

なぜ、光や角度が気になるのか。

 

「何も覚えてないのに」

「できることと、覚えていることは同じではないわ」

 

響子は写真を取り上げず、きららの手の中へ残した。

 

「仕事はすべて延期か調整をしています。戻る時期も、続けるかどうかも、今決める必要はないわ」

「あたしを待ってる人も、いるんじゃないですか?」

「いるでしょうね」

「だったら――」

「その人たちのために、知らない仕事へ戻るの?」

 

響子の問いに、きららは答えられなかった。

 

「前のあなたが大切にしていた夢だからこそ、今のあなたへ押しつけたくないの。知りたいと思った時に、改めて考えればいいわ」

 

きららは写真へ視線を落とす。

 

知らない自分は、楽しそうに笑っていた。

 

その笑顔を演じなくてもよいと言われ、胸の奥にあった緊張が少しだけ薄れた。

 

響子が病室を出ると、友人たちの面会が始まった。

 

最初に選ばれたのは、みなみだった。

 

扉を開けたみなみは、いつもどおり背筋を伸ばしていた。だが、きららと目が合った瞬間だけ、足が止まる。

 

「入ってもよいかしら」

「はい」

 

みなみは椅子へ座り、自分から名乗った。

 

「海藤みなみです。あなたと同じノーブル学園へ通っていました」

「友達、だったんですか?」

「ええ」

 

現在形ではなく、過去形になった。

 

そのことを意識し、みなみの胸が痛む。

 

「以前のあたしは、どんな人でしたか?」

 

みなみは、すぐには答えなかった。

 

優しい。明るい。努力家。

 

きれいな言葉だけなら、幾つも並べられる。だが、それだけを伝えれば、きららはその人物になろうとするかもしれない。

 

「自分の夢に関わることには、とても厳しい人だったわ。できないことがあれば、人に見せないところで何度でも練習していた」

「真面目だったんですね」

「真面目というより、負けず嫌いね」

 

きららの眉がわずかに動く。

 

「無理をしていても隠すところがあったわ。大丈夫ではない時ほど、大丈夫だと言うの」

「面倒な人ですね」

「そうね」

 

みなみが迷わずうなずくと、きららは少し驚いた顔をした。

 

「ですが、誰かが困っている時は、自分のことより早く気づく人でもあったわ。言い方は厳しくても、最後まで放っておけないの」

「それが、天ノ川きらら……」

「私たちが知っている、きららよ」

 

みなみは静かに言葉を続けた。

 

「でも、以前のあなたは、自分の進む道を自分で決める人だった。だから、これから何をするかも、あなた自身が決めていいの」

「あたしが決めても、いいんですか?」

「もちろんよ」

 

きららは胸元の指輪へ触れた。

 

周囲が知る自分へ戻ることだけが、選べる道ではない。

 

その考えを初めて与えてくれた相手の名前を、忘れないように心の中で繰り返した。

 

海藤みなみ。

 

次に病室へ入ったゆいは、大きなスケッチブックを胸へ抱えていた。

 

その中には、きららを捜すために描いた何枚もの絵が入っている。だが、ゆいが開いたのは一枚だけだった。

 

暗闇を歩く星へ、朝日が差し込んでいる。

 

「七瀬ゆいです」

「絵を描く人ですか?」

「うん。絵本作家になるのが私の夢なの」

 

ゆいは絵をきららへ渡した。

 

「これは、きららちゃんを捜している時に描いた絵。ほかにもたくさんあるけど、今日はこれだけにするね」

「どうしてですか?」

「きららちゃんのことを描いたからって、全部見せていいとは限らないと思ったの。見たくなった時に、きららちゃんが決めて」

 

きららは絵を両手で持った。

 

暗闇の中にいる星は小さい。

 

朝日はまだ遠い。それでも、差し込む光の先へ星は確かに歩いている。

 

「物語の途中みたい」

「途中?」

「この星、まだ朝日に届いてないから。でも、歩くのをやめてない」

 

ゆいの目から、涙が一粒こぼれた。

 

「ごめんなさい。嫌でしたか?」

「違うよ」

 

ゆいは慌てて涙を拭く。

 

「きららちゃんが、この絵を見てくれたことが嬉しかったの」

「思い出してないですよ」

「うん。それでもいいの」

 

ゆいが笑う。

 

きららはもう一度、絵へ目を落とした。

 

「ゆいさんは、この星の続きも描くんですか?」

「……名前、覚えてくれたんだね」

「さっき聞いたばかりですから」

 

当然のように答えた後、きららは自分でも気づく。

 

昨日からの出来事は、消えずに残っている。

 

ゆいの名前も、この絵も、今交わしている言葉も、明日になっても覚えていられるかもしれない。

 

「続きを描くなら、見てみたいです」

「うん。必ず持ってくるね」

 

ゆいは泣きながら笑い、きららもわずかに口元を緩めた。

 

その様子を見届けてから、ゆいは病室を出た。

 

廊下の奥では、パフとアロマが鞄の隙間から病室の扉を見ていた。

 

「パフも、きららに会いたいパフ……」

「僕だって会いたいロマ。でも、今のきららが僕たちを見たら、きっと驚くロマ」

「きらら、パフのことも忘れたパフ?」

「それは、まだ分からないロマ」

 

アロマも声を震わせていた。

 

「会いたい気持ちと、今会わせていいかは別ロマ。きららが受け止められる時まで、待つロマ」

「……分かったパフ」

 

パフは涙を拭き、鞄の奥へ身体を戻した。

 

最後にはるかが会う予定だった。

 

その前に、トワが病室へ入った。

 

手には小さな水筒と、二人分の紙のカップがある。食事の制限がないことを看護師へ確認し、宿泊先から持ってきた茶葉で淹れたものだった。

 

「紅城トワと申します」

「トワさん」

「はい」

 

自分の名前へ「さん」がついた。

 

分かっていたはずなのに、トワの胸が締めつけられる。

 

「わたくしは、きららと同じ部屋で暮らしておりました」

「じゃあ、あたしのことを一番知ってるんですか?」

「知っているつもりでした」

 

トワは紙のカップへ紅茶を注いだ。

 

「ですが今は、知らなかったことの方が多かったのだと思っております」

「どういう意味ですか?」

「きららは、悩んでいてもお一人で抱え込むことがありました。わたくしは同じ部屋にいながら、それへ気づけないこともあったのです」

 

きららは差し出されたカップを受け取った。

 

香りを確かめてから、一口飲む。

 

「少し薄いかも」

 

トワの目が見開かれた。

 

きららはその変化を見逃さなかった。

 

「今の、昔のあたしと同じだった?」

「……はい」

 

期待が浮かんだことを隠せなかった。

 

トワはカップを両手で包み、頭を下げた。

 

「申し訳ありません。わたくしも、以前のきららを探してしまいました」

「別に、謝らなくても」

「ですが、きららへ思い出すことを求めるつもりはありませんでした。それでも、同じ言葉を聞いた途端、期待してしまったのです」

 

きららは自分の舌へ意識を向けた。

 

紅茶の味は分かる。少し薄いことも分かる。

 

だが、いつ味を覚えたのかは分からない。

 

「前のあたしは、トワさんに優しかったですか?」

「はい。ただし、いつも優しい言い方だったわけではありません」

「どんな感じです?」

「分からないことは尋ねるように言われました。尋ねすぎると、少しお待ちくださいとも言われました」

「勝手ですね」

「ええ。ため息も、よくつかれました」

「それ、本当に優しかったんですか?」

 

きららが堪えきれずに笑う。

 

トワは答えようとして、言葉を止めた。

 

以前のきららも同じ顔で笑った。

 

けれど、今はそのことを伝えなかった。

 

「わたくしにとっては、優しい方でした」

「そうですか」

 

きららはもう一口、紅茶を飲んだ。

 

「次は、もう少し濃くしてください」

「次も、淹れてよろしいのですか?」

「同じ部屋だったんでしょ。前のあたしが何を教えたのか、少し興味があります」

 

トワの瞳へ涙がにじむ。

 

それをこぼす前に、トワは深くうなずいた。

 

「承知しました」

 

トワが病室を出ると、廊下の椅子からはるかが立ち上がった。

 

「どうだった?」

「以前のことは、何も思い出しておりません」

「そっか……」

「ですが、わたくしの淹れたお茶を、また飲んでくださるそうです」

 

はるかは、トワの泣きそうな笑顔を見た。

 

記憶が戻らなくても、新しく約束することはできる。

 

そう理解したはずなのに、胸元の花の指輪へ触れると、期待を捨てられなかった。

 

自分の名前だけは残っていた。

 

自分を見れば、何かが戻るかもしれない。

 

はるかは病室の前へ立ち、扉をノックした。

 

「どうぞ」

 

聞き慣れた声だった。

 

扉を開ける。

 

きららはベッドの上から、まっすぐにはるかを見た。

 

二人の視線が重なる。

 

「……はるか?」

 

名前を呼ばれた。

 

「きららちゃん!」

 

はるかは考えるより早く、ベッドへ駆け寄った。

 

きららの肩がわずかに揺れる。はるかは抱きしめようと伸ばした腕を止め、それでもすぐ近くへ立った。

 

「私のこと、分かるの?」

「あなたが、はるかなんですか?」

「うん。春野はるか。きららちゃんと同じノーブル学園に通ってて、ずっと一緒に――」

 

はるかは花の指輪を取り出した。

 

「これ、見て。きららちゃんが持ってる星の指輪と同じ時に作ってもらったの。私たち、小さい頃に出会ってたんだよ」

「小さい頃……」

「きららちゃんはその時、キラって名乗ってたの。私は男の子だと思ってて、学園で再会しても気づけなかったけど、きららちゃんはずっと覚えててくれた」

 

星と花の指輪を交換し、互いの夢を応援すると約束した。

 

大きくなって再会し、同じ学園で過ごした。

 

きららがプリキュアになり、一緒に戦った。

 

はるかへ近づかれるたびに逃げ、昔のことを知られるたびに顔を赤くした。

 

伝えたいことが、次々に口からあふれた。

 

きららは黙って聞いている。

 

その表情が少しずつ硬くなっていることに、はるかは気づかなかった。

 

「この前だって、きららちゃんは私を助けてくれた。黒い扉に入るはずだった私を押しのけて、代わりに――」

「待って」

 

きららが声を上げた。

 

はるかの言葉が止まる。

 

「その話、本当なんですか?」

「うん」

「あたしが、あなたを助けた?」

「そうだよ。だから、今度は私がきららちゃんを――」

 

きららは胸元の星の指輪を握った。

 

知らない少女が、自分を大切な相手として見つめている。

 

知らない自分は、この少女のために危険な扉へ飛び込んだ。

 

そこまで大切にしていた相手なのに、何一つ思い出せない。

 

「指輪を見たら、何か思い出さない?」

 

はるかが、花の指輪を近づける。

 

「私のことも、約束のことも。少しだけでも――」

「分かりません」

 

きららは首を横へ振った。

 

「でも、名前は覚えてたんだよ。暗いところでも、はるかって――」

「それだけです」

 

声が強くなった。

 

はるかはようやく、きららの指が震えていることに気づく。

 

「ごめんなさい」

 

きららは指輪を握ったまま、うつむいた。

 

「あたしは、どうすればいいんですか?」

「どうって……」

「昔のあたしみたいに話せばいい? 前と同じ呼び方をして、あなたを大切だって言えば、安心しますか?」

 

はるかは答えられなかった。

 

きららは苦しそうに息を吸う。

 

「何も思い出せないんです。あなたが知ってる人の話を聞いても、その人があたしだと思えない」

「きららちゃん……」

「あたしは、その人になれない」

 

その言葉に、はるかの胸が冷えた。

 

病室の扉が開き、看護師が入ってくる。

 

「今日はここまでにしましょう」

「でも――」

「春野さん」

 

穏やかだが、拒めない声だった。

 

はるかは花の指輪を握り、椅子から立った。

 

「ごめんね」

「謝るのは、あたしの方です」

 

また謝らせた。

 

何も言えないまま、はるかは病室を出た。

 

扉が閉じる。

 

廊下で待っていたみなみたちが立ち上がったが、はるかは誰の顔も見られなかった。

 

「私、きららちゃんを苦しませた」

「はるか……」

「きららちゃんに会いに行ったのに、私を知ってるきららちゃんに戻ってほしくて、私のことばっかり話した」

 

花の指輪を握った手から、力が抜ける。

 

「何も思い出せないって言ったきららちゃんに、もう一度思い出さないかって聞いた。私、きららちゃんに何回も答えを求めた」

 

ステラが、はるかの隣へ座った。

 

「私も同じよ」

「ステラさんも?」

「ママって呼んでくれるかもしれないと思ってた。私を見れば、きららの中に何か戻るんじゃないかって」

 

ステラは、病室の扉へ目を向けた。

 

「思い出さなくていいと言いながら、本当は期待してたの」

「でも、ステラさんはきららちゃんに無理に話さなかった」

「最初に会えたから我慢できただけよ。何度も会っていたら、私も昔の話を並べていたかもしれないわ」

 

みなみは、はるかの反対側へ座った。

 

「過去を教えることは必要よ。きらら自身が望むなら、これまでの人生を知る権利があるわ」

「うん……」

「でも、知ったとおりに振る舞う義務はない。私たちが、それを忘れてはいけないのだと思う」

 

ゆいは胸へ抱えていたスケッチブックを開いた。

 

そこには、前日に描いた幾つものきららがいる。

 

笑う顔。

 

照れた顔。

 

怒った顔。

 

仕事へ向かう顔。

 

助けを求める顔。

 

「私たちが覚えてるきららちゃんは、どれも本物だよ」

「だったら、どうして……」

「でも、今のきららちゃんを、この絵の答え合わせにしちゃいけないんだと思う」

 

ゆいは新しい白紙を開いた。

 

「今のきららちゃんがどんな顔で笑うのかは、これから知っていくことだから」

「これから……」

 

はるかがつぶやく。

 

トワは、はるかの前へしゃがんだ。

 

「今のきららがどうしたいのか、尋ねましょう」

「でも、もう会ってくれないかもしれない」

「それも、きららが決めることです」

 

以前、きららがトワへ言った言葉が、今度ははるかへ向けられる。

 

一人で決めない。

 

相手のことまで、自分だけで決めてはいけない。

 

はるかは花の指輪を見た。

 

幼い頃、二人で交わした約束は、相手を思いどおりの姿へ導くものではなかった。

 

互いの夢を応援する。

 

相手が選んだ道を信じるための約束だった。

 

病室では、きららが新しいノートへ名前を書いていた。

 

天ノ川ステラ。

 

舘響子。

 

海藤みなみ。

 

七瀬ゆい。

 

紅城トワ。

 

今日出会った人々の顔と、話した内容は思い出せる。ゆいから見せてもらった絵も、トワが淹れた少し薄い紅茶の味も残っている。

 

最後の一行へ、春野はるかと書く。

 

文字にした瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。

 

「やっぱり、この名前だけ違う」

 

きららは星の指輪を握った。

 

はるかの顔を見ても、思い出は戻らなかった。

 

それなのに、泣きそうな顔をさせたことが苦しい。

 

以前の自分が大切にしていたからなのか。それとも、今の自分が、あの顔を悲しませたくないと思ったのか。

 

その違いさえ分からない。

 

「天ノ川さん」

 

看護師が病室へ入ってきた。

 

「春野さんが、もう一度お話ししたいそうです。もちろん、会わなくても大丈夫ですよ」

「はるかは、何て言ってますか?」

「先ほどのことを謝りたいと。それから、今度は昔の話をするためではないと言っていました」

 

きららはノートの名前を見つめた。

 

自分で決めていい。

 

みなみに言われた言葉を思い出す。

 

「会います」

「よろしいですか?」

「はい。思い出すためじゃありません」

 

きららは星の指輪から手を離した。

 

「どうしてこの名前だけ残ってたのか、今のあたしが知りたいんです」

 

しばらくして、扉が控えめに叩かれた。

 

「入ってもいい?」

 

先ほどと同じ声だった。

 

「どうぞ」

 

はるかは病室へ入っても、すぐには近づかなかった。

 

花の指輪も制服の内側へ戻したまま、ベッドから少し離れた椅子へ座る。

 

「さっきは、ごめんなさい」

「今度は、何を思い出してほしいんですか?」

「何も」

 

はるかは、まっすぐきららを見た。

 

「私は、今のきららちゃんに会おうとしてなかった。私が知ってるきららちゃんに、早く戻ってきてほしかったの」

「戻ってほしいと思うのは、普通じゃないんですか?」

「思うことは止められない。でも、それをきららちゃんにかなえてもらおうとするのは違うと思う」

 

はるかは膝の上で手を握った。

 

「もし、昔のあたしに戻らなかったら?」

 

きららは、最も聞くのが怖かったことを口にした。

 

「がっかりしますか?」

 

はるかはすぐに否定しなかった。

 

その沈黙に、きららの肩へ力が入る。

 

「悲しいと思う」

「……そうですか」

「きららちゃんと一緒に覚えていたかったことが、たくさんあるから。きららちゃんだけが忘れて、私だけが覚えてるのは、やっぱり悲しいよ」

 

はるかの声が震える。

 

「でも、それはきららちゃんのせいじゃない。私が悲しいからって、昔と同じ人になってって言いたくない」

「じゃあ、どうしてもう一度来たんですか?」

「はじめましてを、言い直すため」

 

きららが顔を上げる。

 

「前のきららちゃんを待つだけじゃなくて、今ここにいるきららちゃんのことを知りたい。きららちゃんが嫌じゃなければ」

 

はるかは、そこで言葉を止めた。

 

返事を急かさない。

 

知っているきららなら何と答えるかを考えず、目の前の少女が選ぶのを待っている。

 

「きららちゃんって、呼んでもいいですか?」

 

今度は、はるかから尋ねた。

 

きららは自分の名前が書かれた紙を見る。

 

「それが、あたしの名前なんですよね」

「うん」

「なら、いいです」

 

はるかの顔へ、わずかに笑みが戻る。

 

「ありがとう、きららちゃん」

 

許された呼び名を確かめるように、はるかはもう一度その名を口にした。

 

「それと、無理にとは言わないけど、私には敬語じゃなくていいよ。前のきららちゃんも、私には使ってなかったから」

「また前のあたしの話ですか?」

「あっ」

 

はるかが慌てて口元を押さえる。

 

その反応がおかしくて、きららの口元が緩んだ。

 

「冗談です。すぐには無理ですけど、話し方くらいは自分で決めます」

「うん。きららちゃんが決めて」

 

きららは胸元から星の指輪を取り出した。

 

「この指輪、はるかがくれたんですか?」

「うん」

 

はるかも、今度はきららに求められてから花の指輪を取り出した。

 

星と花。

 

並べると、色も細かな模様もよく似ている。けれど、どちらも光らず、失った記憶を呼び起こすこともなかった。

 

「小さい頃、私たちはお互いの夢を応援するって約束したの。それで、この指輪を交換した」

「あたしの夢は?」

「世界で活躍するトップモデルになること」

「はるかは?」

「素敵なプリンセスになること」

 

きららは、はるかの制服姿を見つめた。

 

「プリンセス?」

「今、笑わなかった?」

「少しだけ」

 

はるかは頬を膨らませかけたが、すぐに二人で笑った。

 

笑いが収まると、きららは花の指輪へ目を戻した。

 

「以前のあたしは、はるかをどんなふうに見てたんですか?」

 

はるかの胸が強く鳴る。

 

友達。

 

大切な人。

 

幼い頃から忘れられなかった相手。

 

どこまで言えばよいのか迷い、最後には首を横へ振った。

 

「それは、私が決めちゃいけないと思う」

「分からないんですか?」

「私は、きららちゃんを大切だと思ってる。でも、きららちゃんが私をどう思ってたのかは、きららちゃんの気持ちだから」

「ずるい答え」

「ごめん」

「でも、正直ですね」

 

きららは星の指輪を指先でなぞった。

 

「はるかは、あたしにとって大切な人だった?」

「うん。少なくとも、私はそう思ってる」

「なら、昔と同じあたしにならなきゃいけませんか?」

「ならなくていい」

 

今度は迷わなかった。

 

「以前のあたしを覚えていなくても?」

「うん」

「モデルをやめても?」

「寂しいけど、それもきららちゃんが決めることだよ」

「プリキュアじゃなくなっても?」

 

はるかの表情が止まる。

 

きららは首を傾げた。

 

「さっき、自分で言ってましたよ。一緒にプリキュアとして戦ったって」

「あ……」

 

話さないように言われていたことを、最初の面会ですでに口走っていた。

 

はるかの目が泳ぐ。

 

「それは、その……」

「あと、香水瓶と星形の鍵も持ってたそうです。あれと関係あるんですか?」

「えっと……関係はあるけど、今説明するともっとややこしくなるというか……」

「はるか、隠し事が下手ですね」

「きららちゃんにもよく言われた」

 

また以前の話を出したと気づき、はるかが固まる。

 

きららは今度こそ声を上げて笑った。

 

「そこまで気にしなくていいです。以前のあたしの話を聞きたくないわけじゃありません」

「でも、苦しくならない?」

「一度に全部は困ります」

 

きららは、先ほどのはるかの言葉を返すように続けた。

 

「知りたいと思った時に、少しずつ教えてください」

「うん」

「その代わり、聞いても同じようにできるとは限りません」

「分かってる」

 

はるかは花の指輪を握り、ゆっくりとうなずいた。

 

きららはベッドの上から右手を差し出した。

 

「天ノ川きらら、らしいです」

 

はるかは差し出された手を見る。

 

「今はまだ、“らしい”としか言えないけど」

「春野はるかです」

 

はるかも手を伸ばした。

 

二人の指が触れ、星と花の指輪がわずかに重なる。

 

それでも、何も起こらない。

 

光も、音も、失われた記憶も戻らなかった。

 

「……はるか」

 

きららが名前を呼ぶ。

 

はるかの手が震えた。

 

「名前だけは、暗いところでも覚えてた。だから、そう呼んでみてもいい?」

「うん」

 

はるかは涙をこぼしながら笑った。

 

「もう一度、はじめまして。きららちゃん」

「はじめまして、はるか」

 

二人は初めて会った者同士として、手を握った。

 

面会を終えた後、きららはノートの最初のページを開いた。

 

窓から差し込む夕方の光が、白い紙を淡く染めている。少し考えてから、きららは自分の字で書き始めた。

 

天ノ川きらら。

 

今日、はるかに会った。

 

はるかは、あたしのことを知っている。

 

あたしは、これからはるかを知っていく。

 

書き終えた内容を、最初から読み返す。

 

昨日までの自分は分からない。

 

それでも、今日出会った人々のことは覚えている。明日また会えば、今日より少しだけ多く知ることができる。

 

きららはノートを閉じ、星の指輪を胸元へ戻した。

 

それは、失った過去を書き直すための記録ではない。

 

天ノ川きららが、自分の手で選んだ最初の明日だった。

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