星の王子と花の姫君 作:百合魔神
その明日は、何事もなくやって来た。
次の日も、その次の日も、きららとはるかは公園で遊んだ。はるかは昨日と同じように笑い、きららも昨日と同じように応じた。ただ一人、胸の内で残りの日数を数えながら。
終わりが正式に告げられたのは、それから三日後だった。
「撮影、予定より早く終わることになったわ」
夕食を終えた後、ステラは宿泊先の机に予定表を広げた。赤い線が引かれた日付を指先で示す。
「一週間後の朝に、ここを出るわ。お仕事が早く終わったから、きららも自分のお部屋に帰れるわよ」
「……そっか」
驚いたふりをする必要はなかった。廊下で話を聞いていたことを、ステラには言っていない。それでも、いつか決まると分かっていた期限が数字になった途端、一週間という時間がひどく短く見えた。
「仲良くなったお友達がいるんでしょう?」
「はるかのこと?」
「ええ。急にいなくなったら驚くでしょうから、明日にでも教えてあげなさい」
きららは予定表から目を逸らした。
「分かってる」
翌日、公園ではるかに会った。
はるかは両腕いっぱいに赤や黄色の葉を抱え、ベンチの上へ広げていった。破れていないもの、大きなもの、色が混じってきれいなもの。自分なりの基準で仕分けながら、楽しそうに説明する。
「もっと集めたらね、葉っぱのドレスを作るの。キラくんは王子様のマントね!」
「俺の分まで作るのかよ」
「だって、二人で着た方がステキだもん」
言うなら今だった。
きららは口を開いた。だが、はるかが葉を肩へ当てて「この色が似合うかな」と尋ねた瞬間、喉まで出かかった言葉が引っ込んだ。
「そっちより、赤い方」
「ほんと? じゃあ赤にする!」
今日でなくてもいい。まだ六日ある。そう考えて、その日は帰った。
次の日も言えなかった。さらに翌日、残りは四日になった。
「商店街のお祭り、来月なんだって!」
はるかは公園へ着くなり、弾んだ声で告げた。両手を広げ、通りに並ぶという飾りや屋台を説明する。
「お菓子屋さんも、いつもとちがうお菓子を作るんだって。キラくんと半分こする!」
「来月は……」
声が途切れた。はるかが首を傾げる。もう別の話へ逃げることはできなかった。
「俺、その頃にはいない」
「いないって、どこに?」
「帰るんだよ。ママの仕事が終わるから」
はるかの笑顔が止まった。広げていた両腕が、ゆっくりと下がる。
「いつ帰るの?」
「四日後」
「……今日、決まったの?」
きららは答えられなかった。その沈黙だけで、はるかには伝わったらしい。
「いつから知ってたの?」
「少し前」
「少しって、いつ?」
「ちゃんと決まったのは三日前。でも、早くなるかもしれないっていうのは、その前から……」
はるかの目に涙が溜まった。別れることを告げれば泣くだろうと思っていた。だから黙っていたのだと、きららは自分へ言い聞かせてきた。
けれど、はるかの顔に浮かんでいるのは悲しみだけではなかった。
「どうして言ってくれなかったの?」
「言ったって、帰る日は変わらないだろ」
「そうじゃないもん!」
「じゃあ、言ってどうするんだよ」
声が強くなった。はるかの肩が揺れたのを見ても、引き返せなかった。
「わたしも、いっしょにさみしくなりたかった!」
思ってもいなかった言葉だった。
きららは、はるかを悲しませないために隠したつもりでいた。だが、はるかは悲しむことまで二人で分けたかったのだ。
「そんなの、意味ないだろ」
間違えたと気づきながら、口だけが動いた。
「子どもの約束なんて、離れたらすぐ忘れる。俺たち、お互いの名字も家も知らないだろ。そんなの、友達って言えるのかよ」
「言えるよ!」
はるかは涙を零しながら叫んだ。
「キラくんは、わたしの大事な友達だもん。わたし、ぜったい忘れない!」
「今はそう思ってるだけだ。いつか忘れるって」
はるかの顔から、怒りが消えた。残ったのは、きららが初めて見るほど深い悲しみだった。
唇を震わせたまま、はるかは背を向ける。きららの前ではもう何も言わず、公園の出口へ走り出した。
「走るな」と呼び止めかけた。
声にはならなかった。最初に会った日は転んだはるかを助けられたが、今度泣かせたのは自分だった。
公園に一人残されてからも、きららはしばらく動けなかった。
間違ったことを言ったわけではない。名字も住所も知らない。離れれば会う方法もなく、幼い頃の記憶など、成長するうちに薄れていく。
十七歳だった自分なら、それくらい分かっている。
そうやって理屈を並べるほど、胸の奥が痛んだ。
子どもの約束だから意味がないというのなら、五歳の身体で過ごしたこの数か月も、全部ままごとだったことになる。キラという名前が偽物なら、はるかと笑った自分も偽物なのか。
違う。
鳥の巣のような花冠を載せて追いかけたことも、雨の音を聞きながら絵本を読んだことも、会えなかった一日の話を聞くのが惜しいと思ったことも、誰かに決められた感情ではなかった。
忘れると決めたのは、はるかではない。自分だった。
連絡先を聞くことはできる。はるかの名字と住所を教えてもらい、こちらも滞在先ではない本当の住所を渡せばいい。ステラに頼めば、手紙のやり取りくらいできるだろう。
だが、差出人には何と書けばいい。
キラと書けば、嘘を続けることになる。天ノ川きららと書けば、男の子ではないことも、名前まで隠していたことも説明しなければならない。
はるかは怒るだろうか。気持ち悪いと思うだろうか。それとも、何も気にせず笑うのか。
どの答えも怖かった。
きららは膝を抱え、誰もいなくなった公園で俯いた。自分は、はるかが泣くから黙っていたのではない。自分の嘘を知られるのが怖くて、別れを利用して逃げようとしていた。
謝らなければならない。
何を渡したところで、言ったことが消えるわけではない。それでも、離れた後にも残るものが欲しかった。
撮影拠点へ戻ると、きららは小さな財布を持ってステラを探した。衣装の確認を終えたステラを廊下でつかまえ、財布ごと差し出す。
「ママ。買いたいものがある」
「珍しいわね。何が欲しいの?」
「俺のじゃない。……友達にあげる」
ステラは財布ときららの顔を順番に見た。
「はるかちゃん?」
「泣かせた」
それだけで、おおよその事情を察したらしい。ステラは仕事用の鞄を持ち直した。
「プレゼントを渡しただけで、ごめんなさいまで終わったことにしちゃ駄目よ」
「分かってる。ちゃんと言う」
「なら、お店が閉まる前に行きましょう」
商店街のアクセサリー店には、大人用のきらびやかな品に混じって、子ども向けの棚があった。色のついたビーズの腕輪や、花を模した髪留めが並んでいる。
棚の端には、同じ形の輪へ異なる飾りをつけた子ども用の指輪が並んでいた。きららは淡い黄色の星と、五枚の花びらを持つ薄桃色の花を一つずつ選ぶ。輪の後ろが途切れた作りで、小さな指に合わせて広げられるようになっていた。
値札を確かめ、財布の中身を数える。何度か使わずに貯めていた硬貨を全部出せば、ぎりぎり足りた。
「これにする」
会計台へ背伸びして硬貨を並べた。店員は二つの指輪を小さな透明の箱へ並べ、星と花が見えるようにリボンを結んでくれた。
店を出たところで、ステラが尋ねた。
「その子のお母さんに、連絡先を渡しておきましょうか?」
簡単な方法を、大人はすぐに見つける。
きららは箱を握り締めた。
「いらない」
「でも、離れてからもお話ししたいでしょう?」
「手紙じゃなくて、俺がまた会いに行く」
ステラはしばらく何も言わなかった。やがて、きららの頭を一度だけ撫でる。
「そう。なら、まずは今日、会えるといいわね」
公園へ着いた頃には、空が茜色に染まり始めていた。
いつも待つのは、はるかだった。今日はきららが入口のベンチへ座り、何度も道の先を見た。
時計の長い針が進む。遊んでいた子どもが親に呼ばれ、一人、また一人と帰っていく。ステラは約束どおり、公園の外に停めた車の中で待っていた。
来ないかもしれない。
そう思い始めた時、道の向こうに小さな影が見えた。
はるかだった。
いつものように走っては来なかった。一歩ずつ歩いて公園へ入り、きららから少し離れたところで立ち止まる。
きららはベンチから下りた。逃げたくなる足を動かし、自分からはるかの前まで歩く。
「言わなくて、ごめん」
はるかは答えず、靴の先を見た。
「忘れるって決めつけたのも、ごめん。はるかがどう思うか、勝手に決めた」
「……キラくん、わたしに言ったら泣いちゃうって思ったの?」
「それもある。でも、本当は……俺が言いたくなかっただけだ」
はるかが顔を上げた。泣き腫らした目の周りが、まだ少し赤い。
「キラくんも、さみしかったの?」
「俺は……」
また格好をつけようとした。帰るだけだ。大したことではない。そう言えば、今までどおりのキラでいられる。
けれど、それでは何のために戻ってきたのか分からない。
「……うん。寂しかった」
認めると、喉の奥が熱くなった。
「俺、本当は――」
女なんだ。名前も違う。
言わなければならない言葉が、胸の中で形になる。だが、口から出たのは別の本音だった。
「おまえと別れたくない」
はるかの目から、新しい涙が一粒落ちた。
「わたしも」
泣きながら、それでも少しだけ笑った。
きららは肩掛け鞄から小さな箱を取り出した。リボンを解き、蓋を開く。
「これ、はるかに」
「ゆびわ?」
「同じ形なんだ。星が俺で、花がおまえ」
はるかは二つの飾りを交互に見た。
「どうして、わたしが花なの?」
「花が好きで、花のプリンセスになりたいんだろ。だから花」
「じゃあ、キラくんは?」
「キラだから、星」
そのままの理由に、はるかが小さく吹き出した。
きららは花の指輪を取り、はるかの左手へ近づけた。どの指にすればよいか迷い、人差し指にはめる。輪を少し狭めると、幼い指に収まった。
はるかも星の指輪を持ち、きららの左手を取った。同じように人差し指へはめ、落ちないか確かめるように手を揺らす。
「おそろいだね」
「なくすなよ」
「なくさないもん。ずっと大事にする」
はるかは指輪を夕日に透かした。薄桃色の花が、橙色の光を受けて輝く。
「キラくんのおうち、教えて。わたし、お手紙かく」
予想していた言葉だった。それでも胸が詰まった。
住所を教えるだけなら簡単だ。そこへ届いた手紙を、天ノ川きららとして受け取る覚悟がないだけだった。
「手紙はいらない」
はるかの顔が曇る前に、きららは続けた。
「俺が会いに来る」
「ほんとに?」
「うん。はるかが本物のプリンセスになったら、この星を持って迎えに行く」
言葉にした途端、どこかで聞いた王子様の台詞のようだと思った。だが、もう止められなかった。
「どこにいても、絶対に見つける」
はるかは目を大きく見開いた。それから、花の指輪を胸へ抱く。
「うん。わたし、ぜったいプリンセスになる。だから、キラくんもぜったい会いにきてね」
「約束する」
「この花を見つけてね」
「見つける。何年かかっても」
秋の公園で、星と花が並んだ。
それがどれほど大変な約束なのか、二人とも分かっていなかった。ただ、もう会えないかもしれないという言葉より、いつか会えるという言葉を信じたかった。
残された三日間、二人は新しい予定を増やさなかった。
集めていた落ち葉を紐へ挟み、はるかのドレスときららのマントを作った。歩けば葉が落ち、最後には紐ばかりになったが、二人で笑って拾い直した。
商店街では、丸い焼き菓子を半分に割った。大きさが違うとはるかが訴え、きららは自分の方をさらに割って渡した。
公園の木の根元には、木の実と小石で小さな庭を作った。形に残したものは、風や雨ですぐに崩れる。それでも、作っている間に交わした言葉までなくなるわけではないと、今度のきららは知っていた。
はるかは毎日、花の指輪をつけてきた。きららも星の指輪を外さなかった。
出発日の朝、公園には薄い霜が降りていた。
撮影拠点の前では、スタッフが車へ荷物を積み込んでいる。きららはステラに少しだけ時間をもらい、道を渡った。
はるかはいつものベンチで待っていた。落ち葉をつないだ短い飾りを肩へかけ、花の指輪をはめた手を膝の上で握っている。
「葉っぱのドレス、できたんだな」
「うん。プリンセスに見える?」
何枚か葉が曲がり、紐も不揃いだった。それでも、はるかは背筋を伸ばして立っている。
「見えるよ」
きららが答えると、はるかは嬉しそうに笑った。すぐに目が潤んだが、隠そうとはしなかった。
建物の前から、ステラがきららを呼んだ。
もう行かなければならない。
「じゃあな、はるか」
「さようならじゃないよ」
はるかは首を横に振った。
「またね、キラくん」
きららは星の指輪をはめた手を上げた。
「うん。またな、はるか」
車へ乗り込んでからも、きららは窓の外を見続けた。
ゆっくりと車が動き出す。公園の前を通る時、はるかが花の指輪をはめた手を高く掲げた。
きららも窓へ星の指輪を押し当てる。
小さくなっていくはるかは、いつまでも手を振っていた。公園も、色の剥げた滑り台も、真っ直ぐ伸びる道も、曲がり角の向こうへ消えていく。
姿が見えなくなった途端、視界が滲んだ。
十七歳だった自分なら、こんな別れで泣いたりしない。そう言い聞かせても、涙は次々に頬を伝った。息を飲み込もうとするたびに胸が震え、堪えきれない嗚咽がこぼれた。
ステラは理由を聞かなかった。ただ隣へ座るきららの肩を抱き、自分の方へ引き寄せた。
きららは星の指輪を握り締めた。
キラは、あの町に置いていくはずだった。
天ノ川きららとして生きる場所へ戻れば、もう誰も自分をそう呼ばない。いつかこの数か月も、前世の記憶と同じように薄れていくのだと思っていた。
それでも、星の指輪だけは捨てられなかった。