星の王子と花の姫君 作:百合魔神
きららになる日々
自分の部屋は、出ていった時と何も変わっていなかった。
低い棚に並んだ絵本も、窓際に置かれたぬいぐるみも、畳まれた服も、すべて天ノ川きららのものだった。長く家を空けていたはずなのに、昨日までここで暮らしていたような顔をして待っている。
変わっていたのは、ここにはもう、キラを待っている子がいないということだけだった。
ステラも、家へ荷物を運び入れたスタッフも、当たり前にきららと呼ぶ。そのたび返事はできたが、呼ばれるはずのないもう一つの名前が、耳の奥に残っていた。
きららは星の指輪を左手の人差し指から外した。机の引き出しへ入れようとして、指先が止まる。
薄桃色の花をはめた手を高く掲げ、遠ざかる車を見送っていたはるかが浮かんだ。
本物のプリンセスになったら迎えに行く。まだ、その時ではない。
そう言い訳して、指輪を男児服のポケットへ隠した。翌日にはまた取り出し、夜になると掌へ載せて眺めた。
遊んでいる最中に輪が服へ引っかかると、ステラが細い紐を用意してくれた。星を通して首にかければ、服の下へ隠せる。胸元に小さな重さが増えたことに、きららは少しだけ安心した。
冬が過ぎ、きららが六歳になっても、はるかを探すことはなかった。
約束があるからだ。花の指輪を持つあいつがプリンセスになるまで、こちらから動く必要はない。
そう考えるたび、自分でも分かるほど苦しい言い訳になっていった。
ある日、きららはステラの撮影へ同行した。
白い壁と照明だけのスタジオで、ステラは深い青色のドレスを着ていた。撮影が始まる前には、衣装スタッフと裾の広がりを確かめ、カメラマンが立つ位置から光の当たり方を見ている。
合図が出ると、ステラは一歩前へ出た。それだけで、さっきまで衣装だったものが、彼女のために作られたドレスへ変わる。
顎をほんの少し上げる。肩を引き、目線だけをカメラへ戻す。裾が予定より早く揺れれば、次の動きで何事もなかったように形を整えた。
一度、髪飾りが外れかけた。ステラは撮影を止めず、振り返る動きに合わせて片手で受け止める。そのまま笑った一枚が、カメラマンに今日一番だと褒められた。
きららはモニターの横から、その仕事を黙って見ていた。
きれいに立って笑うだけではない。身体も、服も、光も、偶然起きた失敗まで使って、一枚の中へ見せたいものを作っている。
モデルは見られる仕事だと思っていた。だが、ステラはただ見られているのではない。どう見せるかを、自分で決めていた。
「そんなに面白い?」
休憩へ入ったステラが、水を受け取りながら尋ねた。
「別に。どうやってるのか見てただけ」
「そう。それを面白いって言うのよ」
ステラは笑い、きららの髪を撫でようとした。きららが避けると、追いかけずに水を飲む。
近くで話を聞いていたスタッフが、子ども服のカタログモデルを募集していると教えてくれた。ステラの娘なら採用されるという話ではなく、写真と応募書類を送り、ほかの子どもと同じテストを受ける公開募集だった。
「やらない」
きららは即答した。
女の子向けの服を着て、可愛らしく笑う自分を想像する。身体が女になったと突きつけられるようで、胸の辺りが落ち着かなかった。
それでも、帰宅してから募集用紙を捨てられなかった。
ステラが失敗を一枚へ変えた瞬間を思い出す。自分なら、カメラの前でどこまでできるのか。確かめたい気持ちが、紙を見るたび大きくなった。
三日後、きららは記入欄の空いた応募用紙をステラへ差し出した。
「やる」
「そう」
「ママの名前は使わないで」
「最初からそのつもりよ」
ステラはそれ以上喜ぶ様子を見せず、必要な項目だけを書き始めた。その横顔が少し笑っていることには、気づかないふりをした。
初めてのテスト撮影で用意されたのは、白いブラウスと淡い黄色のスカートだった。
鏡に映る姿を見た瞬間、逃げたくなった。男児服なら曖昧にできた身体の形が、柔らかな色と布によって女の子として整えられている。
ここで帰れば、何も始まらない。
きららは星の指輪を服の上から押さえ、撮影場所へ出た。
ステラの立ち方は何度も見ていた。足の位置、顎の角度、目線を戻す速さ。六歳の身体で再現できる範囲へ直し、合図に合わせて順番どおり動く。
スタッフは感心していた。年齢の割に姿勢がよく、指示もすぐ理解できる。カメラの前で怯えることもない。
それでも、撮影が終わった時、カメラマンは困ったように首を傾げた。
「とても上手だね」
「なら、いいんでしょ」
「うん。でも、上手にポーズを取っているきららちゃんは見えたけど、この服を着て何をしたいのかは、分からなかったかな」
意味が分からず、きららは眉を寄せた。服をきれいに見せるためのポーズなら、ステラと同じようにできていたはずだ。
結果は不採用だった。
「まあ、最初だもの。次もあるわ」
帰りの車でステラに言われ、きららは窓の外を向いた。
「別に。本気じゃなかったし」
その夜、テスト撮影でもらった確認用の写真を何度も見返した。
姿勢は悪くない。笑顔も作れている。だが、写真の中の自分は、子どもの身体へステラの表情を貼りつけただけに見えた。
悔しくないのなら、何が悪かったのかを考え続ける必要はない。布団へ入っても眠れないほど腹が立つことで、きららは自分が本気だったと認めた。
翌日から、雑誌を開く目が変わった。
同じような服でも、立つ人によって軽く見えたり、落ち着いて見えたりする。正面を向かずに服の形を伝える人もいれば、大きく笑うことで色まで明るく見せる人もいた。
きららは気に入った写真へ付箋を貼り、足や腕の向きを紙へ描いた。鏡の前で同じ服を着たまま、照明をつけたり消したりして影を比べた。歩いた時に裾がどう動くか知るため、部屋の端から端まで何度も往復した。
ステラには、すぐ答えを聞かなかった。教えてもらえば早いと分かっていたが、それではまたステラの正解を借りるだけになる。
鏡に映る女の子を、自分だと思えるようになったわけではない。可愛い服を着たいと思ったわけでもなかった。
それでも、着せられた服の中で立ち尽くすだけではなくなった。どう動き、どう見せるかは、自分で決められる。
そう考えれば、この身体にも自分からできることがあった。
七歳になった春、きららは二度目の募集へ応募した。
今度の衣装は、薄い上着と、歩くたび形の変わる軽いスカートだった。撮影場所には春の庭を模した背景が作られ、色とりどりの造花が置かれている。
「じゃあ、かわいく笑ってみようか」
カメラマンに言われ、口角を上げる。前と同じ、作っただけの笑顔になった。
何枚か撮った後、カメラマンが指示を変える。
「その服の中で、一番好きなところを見せてくれる?」
きららは上着の小さなポケットへ手を入れた。次に袖を伸ばし、最後にその場で身体を回す。遅れて広がった裾が、花を模した背景の前で丸い形を作った。
不格好な落ち葉のドレスで、胸を張っていたはるかが浮かんだ。
何枚も葉を落としながら、プリンセスに見えるかと尋ねてきた。見えると答えた時の、嬉しそうな顔まで思い出す。
きららの口元から、力が抜けた。
「今の、もう一回できる?」
カメラマンの声に、きららは首を振った。
「同じのは無理。次は、もっときれいにする」
助走を一歩増やし、今度は反対へ回る。裾が最も広がった瞬間に、カメラの方へ顔を向けた。
撮影が終わると、カメラマンがきららと同じ高さまで屈んだ。
「また撮られたい?」
「今度は、あたしが一番目立つ服で」
口から出た一人称に、自分で驚いた。
誰かに言わされたわけではない。可愛い女の子を演じるために選んだわけでもなかった。今の自分が、次に撮られる時のことを考えて、自然に口にしていた。
訂正はしなかった。
数日後、採用の連絡が届いた。本番の撮影では、テストと同じ動きを再現しようとはしなかった。服を確かめ、歩き、裾が広がった瞬間に、自分が一番いいと思う顔をカメラへ向けた。
数週間後、薄い一冊のカタログが届いた。
きららの写真は、見開きの端に載っていた。大きく扱われているわけではなく、同じ服を着た別の子どもと並んでいる。それでも、裾を広げて振り返る自分の顔は、最初の写真よりずっと楽しそうだった。
写真の下には、小さな文字で名前が印刷されていた。
天ノ川きらら。
与えられただけの名前だった。
女の子の身体と一緒に押しつけられ、可愛らしすぎると反発してきた。公的な場所以外では使わず、キラという別の名前へ逃げていた。
だが、カタログに載った名前は、誰かが勝手につけた札ではない。
不採用になり、悔しがり、写真を調べ、何度も歩き直した。その全部の先に、自分で残した名前だった。
きららは文字の上を、指先でゆっくりとなぞった。
「悪くないわね」
後ろから覗いたステラが言った。
「もっと褒めてもいいんだけど」
「一度載ったくらいで満足するの?」
「しない」
「なら覚えておきなさい。あたしの真似をするだけなら、二番目にしかなれないわよ」
きららはカタログから顔を上げた。
悔しいが、正しい。ステラと同じことができるだけでは、ステラを越えられない。
「じゃあ見てて」
胸元の星が、動きに合わせて小さく揺れた。
「あたしは、ママより先まで行くから」
ステラは一瞬目を丸くした後、楽しそうに笑った。
その日から、きららになる時間が少しずつ増えていった。
小さなカタログ、地域誌の広告、店頭へ置かれる冊子。毎回選ばれるわけではなく、最終候補で落とされる日もあった。学校の宿題を撮影の待ち時間に済ませ、衣装を受け取れば、自分から見せたい部分を確かめた。
仕事の前だけだった「あたし」は、やがてステラとの会話にも混ざった。明るい茶色の髪が少し伸びても、男の子に見える長さへ急いで戻そうとはしなくなった。短くする日もあれば、撮影に合わせて伸ばす日もあった。
女になったことを受け入れたわけではない。前世の自分を忘れたわけでもない。
ただ、どちらか一方だけが本物だと決めることを、少しずつやめていた。
成長して指輪がきつくなると、細い紐を鎖へ替えた。服の下へ隠した星へ、撮影前には必ず一度触れる。願掛けではないと自分には言い聞かせていた。
花柄の衣装を着る日は、薄桃色の指輪を持つはるかを思い出した。仕事がうまくいけば報告したくなり、不採用になれば、あいつなら何と言うだろうと考える。
それでも、探さなかった。
本物のプリンセスになったら迎えに行く。約束はまだ果たす時ではない。
その言葉の裏に、秘密を話すのが怖い気持ちを隠したまま、季節だけが進んだ。
八歳になったある日、事務所の応接机に何冊もの学校案内が積まれていた。
「まだ先の話だけど、今から候補は見ておきましょう」
ステラの向かいに座った事務所の担当者が、学校名の書かれた紙を広げる。仕事と学業を両立しやすいこと。将来、活動範囲が広がっても対応できること。寮があり、自立した生活を学べること。
どれも、きららには気の早い話に思えた。
「あたし、普通に通える学校でいいけど」
「今すぐ決めるわけじゃないわ。選べる時に、知らなかったでは困るでしょう?」
ステラに言われ、きららは仕方なくパンフレットへ手を伸ばした。
一冊目は、芸術教育に力を入れた学校。二冊目は、芸能活動へ理解がある学校。写真だけ眺め、隣へ重ねていく。
三冊目を持ち上げた時、指が止まった。
白い表紙の中央に、見覚えのある校章が印刷されていた。
その下に並ぶ文字を、きららは声に出さず読む。
ノーブル学園。
頭の奥で、何かが弾けた。
桃色の花びら。光を反射する青い海。夜空を切り取ったような黄色い星。香水瓶に似た道具を掲げる、華やかな服の少女たち。
プリンセスを目指す少女。カナタという王子。そして、星の光をまとって笑う、天ノ川きららという名前の少女。
呼吸が止まった。
指先から力が抜け、パンフレットの角が机へ落ちる。きららは反射的に服の下へ手を入れ、鎖に通した星を握った。
はるか。カナタ。プリンセス。天ノ川きらら。
偶然と呼ぶには、揃いすぎていた。
「きらら?」
ステラの声が遠く聞こえる。
パンフレットに印刷された名前を、きららは知っていた。
前世で見た、存在するはずのない学校の名前として。