星の王子と花の姫君 作:百合魔神
似ているだけの世界
返事をしなければならない。そう気づいても、きららの喉は塞がったままだった。応接室の机に落ちたパンフレットを、ステラが向かい側から覗き込んでいる。
「きらら?」
「……なに」
「顔色が悪いわよ」
事務所の担当者まで立ち上がりかけたため、きららは慌ててパンフレットを拾った。折れた角を指で伸ばし、何でもないようにほかの学校案内へ重ねる。
「急に立ったから、ちょっとくらっとしただけ」
「座ったままだったでしょう」
「細かいことはいいの」
声が上ずった。ステラの目が細くなる前に、きららは机の水を飲んだ。冷たいはずの水が、味も温度も分からないまま喉を落ちていく。胸元では、鎖に通した星の指輪が、早鐘を打つ心臓へ何度も当たっていた。
ノーブル学園。
前世で見た物語に登場する学校。春野はるかが入学し、海藤みなみと出会い、天ノ川きららが通っていた場所。その最後の名前が、今の自分と同じだった。
同じなのは名前だけではない。世界で活躍するモデルを母に持ち、自身も子どもの頃からモデルの仕事を始める。明るい茶色の髪も、誕生日も、星が好きなことも一致している。
違うと言い切れる材料を探そうとして、何一つ浮かばなかった。
「そのパンフレット、持って帰る?」
担当者に尋ねられ、きららは反射的に頷いた。
「うん。見る」
本当は、二度と見たくなかった。
その日の夜、きららは自室の机にノーブル学園のパンフレットを広げた。
白い表紙の校章を見ているだけで、記憶が勝手に浮かんでくる。桃色の花をまとった少女。海のように青い衣装の少女。そして、黄色い星の光を背負って笑う少女。
きららはノートを開き、鉛筆を握った。
『Go!プリンセスプリキュア』
そう書いた文字を、しばらく見つめる。前世で見たアニメだった。全話の台詞を覚えるほど詳しかったわけではない。それでも、主要な登場人物と物語の大筋くらいなら知っている。
春野はるか。海藤みなみ。天ノ川きらら。
カナタ王子。ホープキングダム。ディスピア。パフとアロマ。プリンセスパフューム。
思い出した名前を並べていくほど、鉛筆を持つ手に力が入った。最後に、天ノ川きららの名前を丸で囲む。この少女は、星のプリンセス、キュアトゥインクルになる。
きららは机の横にある鏡を見た。映っているのは、寝間着姿の八歳の少女だった。撮影のために伸ばし始めた明るい茶色の髪が頬へかかっている。
最近は鏡の中の姿を見ても、前ほど動揺しなくなっていた。これも自分だと、少しずつ思えるようになっていたはずだった。それなのに、今は知らない少女を見ているようだった。
俺が、キュアトゥインクルになる?
久しく使っていなかった一人称が、頭の中へ戻ってきた。華やかな黄色いドレス。高く結い上げられた髪。星を散らしたような飾り。前世では画面越しに見ていた姿が、今の身体へ重なっていく。
椅子を蹴るように立ち上がり、鏡を伏せた。乱れた息を押さえようと胸へ触れると、指先が服の下の星へ行き着く。そこで、ノートに書いたもう一つの名前が目に入った。
春野はるか。
「……はるか」
公園の縁石から落ちても、涙を堪えて立とうとした子。葉っぱのドレスを着て、本物のプリンセスになると笑った子。別れの日には薄桃色の花の指輪を掲げ、何年かかっても見つけてもらうのだと信じていた子。
名前が同じだけなら、まだ偶然だと思えたかもしれない。だが、はるかはプリンセスになることを夢見ていた。前世の記憶にある春野はるかも、幼い頃にカナタと出会い、夢を諦めないと約束していた。
別人であるはずがなかった。
きららは椅子へ座り直し、額を机につけた。固い木の感触が、熱くなった額に心地よかった。自分は、未来のキュアフローラと何か月も遊んでいた。
だが、前世で見た物語に、幼いはるかと天ノ川きららが友達だったという話はなかった。星と花の指輪も、キラという王子様も知らない。
「違う……?」
胸を締めつけていたものが、わずかに緩んだ。自分の知っている物語とは違う。ならば、名前や学校が似ているだけの別の世界かもしれない。
しかし、すぐに別の考えが浮かぶ。描かれていなかっただけではないのか。物語が始まるより何年も前の出来事だ。画面に映らなかったからといって、存在しなかった証明にはならない。
自分で見つけた逃げ道を、自分の考えが塞いでいく。きららは顔を上げた。ノートに並ぶ名前の中で、春野はるかだけが、画面の中の人物ではなかった。
泣いた顔も、怒った声も、握った手の温度も知っている。あのはるかが、いずれ怪物に襲われる。
戦わなければならなくなる。
自分は、そんなはるかへ言ったのだ。おまえなら本物のプリンセスになれる。そう言って、夢を諦めるなと背中を押した。
もし、あの言葉がはるかを戦いへ近づけたのだとしたら。
「違う」
きららは声に出して否定した。自分と出会わなくても、はるかは何度でも立つ子だった。夢を諦めない強さは、誰かから与えられたものではない。
全部が自分のせいだと思うのは、はるかを馬鹿にしている。それでも、何も関係ないとは思えなかった。
そして、襲われるのは、はるかだけではない。記憶が正しければ、自分もプリキュアになり、怪物と戦うことになる。
画面の中の少女たちは、地面へ叩きつけられても、壁を壊すほど吹き飛ばされても立ち上がっていた。前世では、最後には勝つと分かっていたから見ていられた。だが、今は傷つく身体が自分のものになる。転んで擦りむけば痛み、骨が折れれば仕事どころでは済まない。物語の筋書きが少しでも変われば、死なない保証さえなかった。
前世の自分は、喧嘩に強かったわけでも、誰かのために命を懸けられる英雄だったわけでもない。モデルとして人前に立てるようになったことと、怪物の前に立てることは別だった。
それでも、自分だけ逃げれば、その分まではるかや海藤みなみが戦うことになる。逃げたいのに、二人へ押しつける未来も選べない。どちらを考えても胃の奥が冷たく縮み、答えは出なかった。
翌朝、きららは家のパソコンを起動した。
最初に調べたのは、ノーブル学園だった。検索結果の一番上に、学校の公式ページが表示される。パンフレットと同じ校章。歴史ある校舎。寮を備え、勉強だけでなく生徒の夢を育てることを大切にしている学校。
記憶と一致する情報が増えるたび、息が浅くなった。次に、ホープキングダムと入力する。該当する国は見つからなかった。海外旅行の記事にも、世界地図にも、その名を持つ国は存在しない。
カナタ王子。ディスピア。プリンセスパフューム。
どれも記憶と結びつく結果は出なかった。似た名前の店や創作物が表示されるだけで、魔法の国や王子の存在を示すものはない。最後に、プリキュアと入力した。
検索結果は、ほとんど空だった。文字を間違えたのではないかと確かめても、前世にあったアニメの公式ページも、玩具も、映画も出てこない。この世界には、プリキュアという作品そのものが存在していなかった。
きららは椅子の背へ身体を預けた。長く止めていた息が、少しずつ抜けていく。
「ほら。やっぱり違うじゃん」
誰もいない部屋で呟くと、言葉は思ったより頼りなく聞こえた。魔法の国が、普通の検索で見つかるはずがない。プリキュアが実在する世界なら、アニメとして放送されていないことも当然だった。
証拠が見つからないことは、存在しない証明にはならない。分かってしまう自分が、腹立たしかった。
それから数日、きららは調査を続けた。
図書館から世界地図と国名事典を借り、ニュースも普段より注意して見るようになった。怪物が暴れた事件も、人の夢が奪われたという噂もない。空から喋る妖精が落ちてきたという記事も、当然見つからなかった。
春野はるかの名前も調べた。だが、検索結果には同姓同名の大人が何人か表示されるだけで、まだ子どものはるかへつながる情報は見つからなかった。ステラや昔の撮影スタッフへ頼めば、住んでいた町から探せたかもしれない。
そうしなかったのは、本物のプリンセスになったら迎えに行くという約束があるからだ。少なくとも、きららはそういうことにした。調べても、結論は出ない。眠る時間だけが減り、撮影中に一度、あくびを噛み殺すことに失敗した。
「最近、夜更かししているでしょう」
帰りの車で、ステラに見抜かれた。
「してない」
「今朝、机に突っ伏して寝ていたのは誰かしら」
「見たなら聞かないでよ」
きららが窓の外へ顔を向けると、隣から小さなため息が聞こえた。
「ノーブル学園のことを調べているの?」
肩が揺れそうになるのを堪えた。ステラには、学校の公式ページを開いているところを一度見られている。
「候補にするなら、調べるくらいするでしょ」
「そうね。だったら、一度見に行きましょうか」
予想していなかった提案に、きららは振り返った。
「行けるの?」
「見学できる日があるか、事務所から問い合わせてもらうわ。まだ入学は先だけど、仕事との両立を考えるなら早すぎることもないでしょう」
断るべきだった。
もし本当に記憶と同じ場所なら、近づかない方がいい。そう考えたのに、自分の目で確かめたい気持ちが勝った。
「……行く」
数週間後、きららはステラとともにノーブル学園の門をくぐった。
石造りの門柱。その先へ伸びる並木道。手入れされた庭と、古い城館のような校舎。パンフレットより広く見える敷地の一つ一つが、前世の記憶を刺激する。
案内役の職員が、学園の教育方針や寮生活について説明してくれた。きららは頷きながら、話とは別のものを探していた。木陰に小さな白い生き物が隠れていないか。校舎の奥に、不自然に閉ざされた部屋がないか。古い像や噴水に、鍵穴のようなものが刻まれていないか。
風で茂みが揺れるたび、足が止まった。
「どうしたの?」
「今、何かいた」
職員が茂みを覗くと、灰色の猫が迷惑そうな顔で飛び出した。ステラが口元を押さえる。
「笑わないで」
「笑っていないわ」
「目が笑ってる」
恥ずかしさで頬が熱くなったが、張りつめていたものも少し緩んだ。授業を受けている生徒も、廊下ですれ違う教師も普通の人間だった。寮では洗濯や門限について説明され、食堂からは昼食の匂いが流れてくる。
妖精も、怪物も、魔法の痕跡もない。見学を終える頃には、きららは自分が何を恐れていたのか分からなくなり始めていた。前世の記憶と共通するところは確かにある。だが、同じ名前の人や学校が存在するだけで、魔法まで存在すると決めつける方がおかしい。
自分は、転生などというあり得ない経験をした。だから、別のあり得ないことまで起きると思い込んでいるだけかもしれない。無理のある理屈だった。それでも、きららはその考えへ縋った。
帰りの車へ乗る前、ステラが校舎を振り返った。
「どうだった?」
「思ってたより普通」
「学校なんだから、普通でしょう」
「もっと、変なところかと思ってた」
ステラは理由を尋ねず、校門の外へ歩き出した。きららもその隣へ並ぶ。
「候補には入れる」
「あれだけ怖い顔でパンフレットを見ていたのに?」
「見間違い。寮なら仕事と学校を両立しやすいし、自分のことも自分でできるようになるから」
「全部、本当の理由?」
きららは答えられなかった。もし記憶どおりなら、はるかは中学生になった春、この学園へ来る。自分から探しに行かなくても、ここにいれば再会できる。怪物が現れるとしても、知らない場所で待つよりは、何が起きるか少しでも覚えている場所にいた方がいい。
だが、それを口にすることはできない。ステラは足を止め、きららを見下ろした。
「今すぐ話したくないなら、無理には聞かないわ」
「……うん」
「でも、自分で行きたい場所を選びなさい。行かなきゃいけないと思った場所じゃなくてね」
きららは校門の向こうを見た。この場所へ来れば、はるかに会えるかもしれない。前世で見た物語が始まるかもしれない。どちらも、今は認めたくない未来だった。
それでも、自分が何も知らない場所へ逃げる姿は想像できなかった。
「あたしが選ぶ」
ステラへ向き直り、もう一度言う。
「ここにするかどうかは、あたしが決める」
「なら、いいわ」
ステラはそれ以上何も言わず、きららの歩幅に合わせて歩き出した。
その夜、きららは調査に使ったノートを開いた。
確かに存在するものとして、自分とステラ、はるか、ノーブル学園の名前を書く。確かめられなかったものとして、ホープキングダム、カナタ王子、ディスピア、妖精、プリンセスパフューム、そしてプリキュアを並べる。確かめられたものより、見つからないものの方が多かった。
きららはページの一番下に書いていた『同じ世界』という文字を消しゴムで擦った。紙が薄く毛羽立つまで消してから、その上へ新しい言葉を書く。
『似ているだけの世界』
それが一番まともな答えだった。
春野はるかと天ノ川きららが幼い頃に出会っていた。前世にはなかった記憶を持ち、今の自分は物語の筋書きまで知っている。すでに違うことはいくつもある。
ならば、この先も違うかもしれない。怪物は現れず、はるかは危険な戦いなどせず、ただ自分の夢を追いかける。いつか再会した時には、プリンセスになったはるかを迎えに来たのだと笑えばいい。
「プリキュアなんて、いるわけない」
声に出してみる。
「ここは、似てるだけだから」
二度目は、一度目よりうまく言えた。きららはノートを閉じ、ノーブル学園のパンフレットを机の引き出しへ入れた。捨てるつもりには、どうしてもなれなかった。
寝る前に外した鎖を、パンフレットの表紙へ一度置く。小さな星の指輪が、ノーブル学園の校章に重なった。それを見なかったことにするように、きららは引き出しを閉じた。
信じていないはずの未来へ進む準備だけが、音もなく始まっていた。