星の王子と花の姫君 作:百合魔神
ノーブル学園の資料だけが、何度候補の下へ移しても一番上へ戻ってきた。きららが十二歳になった冬、事務所の応接室には三校分の願書と資料が並んでいた。八歳の時より増えたのは、候補の数だけではない。机の端には撮影やファッションショーの予定を書き込んだ手帳が置かれ、空白の日を探す方が難しくなっていた。
初めて載ったカタログでは、きららの写真は見開きの端にあった。それから四年、雑誌で一人のページを任され、ブランドの広告へ選ばれ、名前を呼ばれて舞台を歩くことも増えた。
もちろん、受けた仕事のすべてを取れたわけではない。最終選考で落とされ、帰宅してから写真や歩き方を見直す日もあった。その悔しさまで含めて、モデルはもう、ステラや前世の物語から与えられた役ではない。きらら自身が続けたいと願う夢になっていた。
第一希望にしていた学校は、自宅から通える代わりに、撮影による欠席へ十分な対応ができない。二校目は芸能活動に理解があったが、仕事場から遠く、きららが望む授業も少なかった。
残ったのが、寮制のノーブル学園だった。
仕事先への移動に困らず、学業との両立にも協力的で、生徒がそれぞれの夢を追うことを重視している。条件だけ比べれば、考えるまでもない。
「やっぱり、ここが一番ね」
事務所の担当者がノーブル学園の資料を指した。きららは答えず、制服の写真を見つめる。八歳のあの日から四年、プリキュアも妖精も怪物も現れなかった。
ノーブル学園へ見学に行っても、そこにあったのは普通の学校生活だけだった。似た名前と境遇が重なっただけの世界。そう考えて過ごすうちに、夜中まで何かを調べることもなくなっていた。
それでも、この学校の名を見ると胸の奥が強張った。
「ほかの学校は?」
「仕事を少し減らせば、最初の学校でも通えるわよ」
ステラが静かに答えた。きららは顔を上げる。
「減らすって、どのくらい?」
「地方の撮影と、平日のオーディションをいくつか。学校へ入ってから決めてもいいわ」
「それじゃ、今まで取ってきた仕事を手放すことになるじゃん」
「そうね」
ステラは否定しなかった。ノーブル学園へ行けとも言わない。
「怖いなら、別の道でもいいのよ」
その一言で、きららは口を閉じた。何が怖いのか、ステラは知らない。それでも、八歳の自分がパンフレット一冊で青ざめたことを覚えているのだろう。
別の学校を選べば、少なくともノーブル学園からは離れられる。前世で見た物語が本当に始まっても、巻き込まれずに済むかもしれない。その代わりに、今の仕事を減らす。
天ノ川きららとして見つけた夢を、前世で見た天ノ川きららと同じ未来から逃げるために小さくする。それでは結局、まだ起きてもいない物語に自分の人生を決められている。きららは服の上から、鎖に通した星へ触れた。
「ノーブルにする」
「きらら?」
「怖いからって、あたしの夢まで小さくするのは違う」
言葉にすると、不思議なくらい迷いが消えた。
「モデルを続けるために、あたしがここを選ぶ。何かあっても、それはその時考える」
ステラはしばらくきららを見つめ、それから願書を手元へ引き寄せた。
「分かったわ。なら、手続きを始めましょう」
怖くなくなったわけではない。ただ、逃げるために夢を諦めるよりはましだった。
桜が咲く頃、きららはノーブル学園の制服に袖を通した。
鏡の前で襟を整え、明るい茶色の髪をいつものようにまとめる。鎖に通した星の指輪はブラウスの下へ隠し、上から手で触れて位置を確かめた。入寮の荷物は先に運ばれている。残った鞄を持って玄関へ降りると、ステラがきららの姿を上から下まで眺めた。
「似合っているわ」
「知ってる」
「寮で困ったことがあったら、すぐ連絡するのよ」
「子どもじゃないんだから」
「十二歳は、どう考えても子どもよ」
反論できず、きららは靴を履いた。立ち上がったところで、ステラの手が頬へ伸びてくる。撮影前のように髪を直されるのかと思ったが、指先は頬へ軽く触れただけだった。
「いってらっしゃい、きらら」
「……いってきます、ママ」
車がノーブル学園へ近づくにつれ、見覚えのある景色が増えていった。
石造りの門柱。校舎へ続く並木道。春の光を受けた庭園。八歳の見学で一度訪れた場所なのに、今日はそのすべてが違って見える。
ここから帰るのではない。今日から、この場所で暮らすのだ。
校門をくぐると、新入生や保護者の視線が集まった。
きららを知っているらしい声が、あちこちから聞こえる。雑誌で見た。ショーに出ていた。本人の方がかわいい。仕事で聞き慣れた言葉ばかりだった。
「天ノ川さん、握手してもらってもいい?」
一人の新入生が、おそるおそる声をかけてくる。
「いいよ。でも、今日から同じ一年生なんだから、そんなに固くならなくていいって」
きららは笑って手を差し出した。続けて話しかけようとする生徒には、荷物を置いてからと軽く断る。
人に見られることにも、期待される自分を見せることにも慣れていた。八歳の頃とは違う。人気モデルの天ノ川きららとしてなら、知らない場所でも立っていられる。
寮へ向かいながら、きららは周囲を確かめた。
茂みに白い妖精はいない。空を飛ぶ喋る鳥もいない。人の夢を狙う怪物も、怪しい気配もない。
ただの学校だ。
今日まで何も起きなかった。ならば、これからも何も起きないかもしれない。そう言い聞かせ、前を向いた時だった。
「わあ……ステキすぎる!」
聞き覚えのある声が、春の風を切って届いた。きららの足が止まった。少し先で、一人の少女が校舎を見上げている。大きな鞄を肩へかけ、両手には荷物を抱えているというのに、目の前の景色へ夢中で足元を見ていない。
幼い頃より背が伸び、茶色の髪も長くなっている。顔立ちにはまだあどけなさが残っていたが、五歳の子どもをそのまま大きくした姿ではない。それでも、間違えるはずがなかった。
嬉しい時、両手を胸の前で握る癖。興味を持ったものへ、身体ごと近づいていく姿勢。驚きも喜びも隠さず、すべて顔へ出すところ。
そして、何度も自分の名前を呼んだ声。
はるかだ。
俺を待っていた、あのはるかだ。
きららの視線が、はるかの荷物を抱えた手へ吸い寄せられた。箱と鞄に隠れ、指先までは見えない。薄桃色の花が今もそこにあるのか、確かめたいと思った。同時に、本当に残っていたらどうすればいいのか分からず、見ることが怖くなった。
胸元の星が、急に重くなった。きららは無意識に一歩進みかけた。喉の奥まで、はるかの名前が上がってくる。
だが、声になる前に飲み込んだ。はるかは、幼いキラを男の子だと思っている。今ここにいるのは、制服を着て、髪を伸ばし、モデルとして知られる天ノ川きららだ。
名前も、性別も、会いに行かなかった理由も説明できない。何より、別れの日に口にした言葉が蘇る。本物のプリンセスになったら、この星を持って迎えに行く。どこにいても、絶対に見つける。
何年かかっても。
十二歳になった今、思い返すだけで顔から火が出そうだった。しかも、約束をした本人を先に見つけておきながら、きららは迎えに来るどころか逃げようとしている。
はるかが校舎を見上げたまま歩き出した。両手の荷物が傾き、上に載っていた小さな箱が横へ滑る。きららの身体が先に動いた。
公園で転んだはるかへ近づいた時と同じように、考えるより早く半歩を踏み出し、手を伸ばす。しかし、その手が届くより先に、近くにいた職員が箱を受け止めた。
「前を見て歩かないと危ないですよ」
「す、すみません! ありがとうございます!」
はるかは慌てて頭を下げ、荷物を抱え直した。きららは行き場を失った手を下ろす。助けずに済んだと安堵した直後、その考えに胸が痛んだ。
困っているはるかを前にして、自分の秘密を守れることへ安心した。そんな自分が、幼い頃に王子様などと呼ばれていたことが、ひどく場違いに思えた。視線を感じたのか、はるかがこちらを振り返った。
目が合った。はるかの大きな瞳が、わずかに見開かれる。驚いたというより、遠い記憶に触れた時のような顔だった。
きららは動けなかった。七年近い時間が流れている。幼い頃の短い髪も男児服も、今は残っていない。それでも、はるかが何かに気づくのではないかと、制服の下の星を押さえた。
はるかは小さく首を傾げた。きららの顔から視線を外さないまま、唇がわずかに開く。
「あの……」
その時、寮の入口から職員の声が飛んだ。
「新入生の皆さん、受付を始めます。荷物を持って集まってください」
きららは返事をするふりをして、はるかへ背を向けた。走りたい衝動を抑え、いつもどおりの速さで歩く。背中へ視線が刺さっている気がしたが、振り返らなかった。
受付を済ませた後、きららは教室棟の掲示板でクラス分けを確認した。
自分の名前を見つけ、その隣の名簿へ目を移す。
春野はるか。
隣のクラスだった。
前世の記憶と、また一つ重なる。魔法を見ていないという最後の逃げ道は残っているのに、その幅だけが少しずつ狭くなっていく。きららは掲示板の前で、これから守ることを決めた。
自分から話しかけない。
前世で知った流れにない助け方をしない。
星の指輪を見せない。
はるかには、進むべき物語がある。自分が余計なことをしなければ、知っているとおりに仲間と出会い、危機を乗り越えていくはずだ。だが、本当に恐れているのは物語が変わることだけではなかった。
本名を隠していたこと。女であることを訂正しなかったこと。王子様のような台詞を並べたこと。再会を約束しておきながら、何年も探さなかったこと。
星の指輪を見られれば、どこから説明すればいいのか分からない。はるかに失望されるくらいなら、知られない方がいい。物語を守るためという理屈の裏で、きららは自分を守ろうとしていた。
寮の自室へ荷物を置いた後、きららは足りない備品を受け取りに廊下へ出た。
いくつか先の部屋の扉が開いている。前を通り過ぎようとしたところで、中から明るい声が聞こえた。
「わたし、春野はるか! 今日からよろしくね!」
「七瀬ゆいです。こちらこそ、よろしく」
はるかが、新しい友達と出会っている。きららは扉の外で足を止めた。
元気そうだった。無事に入学し、もう笑っている。自分がいなくても、はるかは前へ進んでいる。
それでいいはずなのに、胸の奥へ小さな寂しさが残った。部屋の中で、はるかが楽しそうに何かを話している。幼い頃なら、その声の近くへ当たり前のように入っていけた。
今はできない。
きららは声をかけず、その場を離れた。
自室へ戻って扉を閉めると、外の音が遠くなる。制服の襟元へ指を入れ、鎖に通した星を引き出した。
金属の表面には、長く身につけてきた細かな傷が増えていた。はるかが持つ花の指輪も、まだ残っているのだろうか。
「話さない。助けない。星を見せない」
声に出し、一つずつ確かめる。
「関わらなければ、全部元どおりに進む」
前世で見た天ノ川きららは、いずれ春野はるかと出会う。避け続けることなどできないと、自分が一番よく知っていた。それでも今は、制服の奥へ星を戻した。
窓の外から、新生活に浮き立つ生徒たちの声が聞こえてくる。その中には、はるかの声も混ざっている気がした。
きららは再会した。
だが、はるかが探し続けているキラは、まだ見つかっていなかった。