星の王子と花の姫君 作:百合魔神
花が咲いた日
扉が閉まる音は、思っていたより小さかった。
きららはしばらくドアノブを握ったまま、動かなかった。廊下からは、新入生たちの弾んだ声が聞こえてくる。その中に先ほど聞いたばかりの声が混じっている気がして、ゆっくり手を離した。
「……これでいい」
口にしてみても、胸のざわつきは収まらなかった。
春野はるかと再会した。
向こうは気づいていない。自分が昔のキラだと名乗らなければ、きっと気づかないままでいてくれる。
それは、きららが望んでいた形のはずだった。
部屋の中央には、まだ開けていない荷物が積まれている。きららは一番上の箱を床へ下ろし、テープを剥がした。中に入っていたのは、仕事用の資料や撮影で使う小物、それから寮生活に必要な日用品だった。
ひとつずつ机や棚へ並べながら、頭の中で決まりを作る。
はるかへ自分から近づかない。
前世で知ったことを理由に、必要以上の介入をしない。
そして、星の指輪を見せない。
服の内側から細い紐を引き出すと、小さな星が掌へ落ちた。
長い年月を経た今も、指輪は失われていない。細かな傷こそ増えたが、中央の星は窓から差し込む光を受けて淡く輝いている。
机の引き出しを開け、奥に置いた小箱へ入れようとする。
指輪を持った手が、途中で止まった。
ここへ入れてしまえば、もう首から下げる理由はなくなる。はるかに見つからないよう隠すのなら、持ち歩かないのが一番安全だった。
それでも、指が開かなかった。
「持ってるだけ」
きららは星を握った。
「約束を守るつもりなんて、ないから」
言い訳を聞く者はいない。
結局、指輪を紐へ戻し、制服の内側へ隠す。胸元を押さえて外から見えないことを確かめていると、机の上のスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、マネージャーの名前だった。
「もしもし」
『入学式は無事に終わった?』
「うん。校長先生の話がちょっと長かったけど、特に問題なし」
『初日からそんなこと言わないの。寮の部屋はどう?』
「思ったより広いかな。撮影で朝早い時も、ルームメイトを起こさなくて済みそう」
『今週末のショーだけど、集合時間が三十分早くなったから、後で送る予定表を確認しておいて』
「りょーかい」
通話を終えると、すぐに新しい予定表が送られてくる。
きららは手帳を開き、撮影やレッスンの予定を書き写した。ノーブル学園へ入学したのは、誰かの物語をなぞるためではない。モデルとして成長し、自分の力で世界へ出ていくためだ。
書き込まれていく予定は、どれも自分で選んだものだった。
ペン先が紙の上を走る。
その時、窓ガラスがかすかに鳴った。
きららの手が止まる。
数秒遅れて、遠くから何かが地面を叩くような音が響いた。落雷とも、工事とも違う。腹の底へ伝わるような、重い音だった。
「何、今の……」
椅子から立ち上がり、窓へ近づく。
中庭を歩いていた生徒たちも足を止め、周囲を見回していた。だが、空は晴れている。雷雲はどこにも見当たらない。
きららが窓を開けると、森の方角から鳥の群れが飛び立った。何十羽もの鳥が、追い立てられるように木々の上を旋回している。
胸元の指輪を、服の上から押さえる。
まさか。
その考えを否定するより早く、森の向こうから黒い影のようなものが立ち上った。遠すぎて形までは分からない。見間違いだと思おうとした瞬間、その中心を裂くように桃色の光が空へ伸びた。
光の中を、無数の花びらが舞っていた。
きららの指からペンが落ちる。床に転がった音さえ、耳に届かなかった。
入学初日。
ノーブル学園。
森。
春野はるか。
途切れていた前世の記憶が、古い映像をつなぎ直すように浮かび上がってくる。細かな順序は思い出せない。それでも、この日に何が始まるのかだけは分かった。
「違う」
窓を閉め、カーテンを引く。
「そんなわけないでしょ」
何年も待った。
プリキュアも、妖精も、怪物も現れなかった。母親は有名モデルのステラで、自分はその娘だった。ノーブル学園も実在していた。けれど、それだけなら偶然で済ませられた。
前世で見た作品によく似た、別の世界。
ずっと、その可能性へしがみついてきた。
また低い音が響き、床がかすかに揺れた。
廊下が騒がしくなる。
きららが扉を開けると、数人の生徒が窓の近くに集まっていた。
「森の方で何か光ったよね?」
「撮影じゃない? ほら、テレビとかの」
「見に行ってみようよ」
興味に目を輝かせる生徒たちへ、きららは呆れたような顔を作った。
「やめた方がいいんじゃない?」
「天ノ川さん?」
「何が起きたか分かんないのに近づくなんて危ないでしょ。倒木だったら巻き込まれるよ」
見に行こうとしていた生徒たちが顔を見合わせる。
「それもそうか」
「先生に聞いてみようよ」
進む方向が職員室へ変わるのを確認し、きららは自室へ戻った。
扉を閉め、背中を預ける。
行かない。
自分には関係ない。
知っている結末では、はるかは勝つ。七瀬ゆいも助かる。なら、自分が動く必要などない。
はるかに近づかないと決めたばかりだ。
「大丈夫」
言葉にする。
「あいつなら、大丈夫だから」
その呼び方が、思った以上に昔と変わっていなかった。
きららは扉から離れ、机へ戻ろうとする。床に転がったペンを拾い上げ、手帳の開かれたページへ向き直った。
だが、予定表の文字が頭に入ってこない。
知っている結末。
本当に、そうなるのか。
原作には、自分とは違う意識を持った天ノ川きららなどいなかった。幼いはるかと出会い、何か月も一緒に過ごしたキラもいなかった。
自分はすでに、知っていた過去を変えている。
なら、未来だけが何ひとつ変わらないと言い切れるのか。
「もし……」
声が震えた。
「もし、あたしのせいで何か変わってたら?」
気づいた時には、きららは扉を開けていた。
廊下を走り、階段を下りる。すれ違った生徒が驚いた顔を向けたが、構っている余裕はなかった。
寮を出たところで、もう一度足が止まる。
森の奥から、何かが砕ける音が聞こえた。
アニメの中で見た戦いなら知っている。どれほど追い詰められても、最後にはプリキュアが勝つ。次の場面では日常へ戻り、また笑う。
けれど、今聞こえているのは画面の向こうの音ではない。
地面が揺れている。
木々が軋んでいる。
そこにいる者が一歩間違えれば、本当に命を失う。
足がすくんだ。
自分も、いずれあそこへ立たされるかもしれない。
そう考えた瞬間、喉が狭くなった。呼吸が浅くなり、身体の芯から冷えていく。
怖い。
その感情だけは、前世で作品を見ていた時にはなかった。
「無事かどうか、見るだけ」
誰にするともなく言い訳する。
「確認したら、すぐ戻るから」
胸元の星を握り、きららは森へ踏み込んだ。
木々の間を縫うように進む。整備された道を外れると、伸びた枝が制服へ引っかかった。靴の底が湿った土に沈み、何度も足を取られる。
近づくほど、衝撃の痕跡が増えていった。
折れた枝。抉れた地面。途中から途切れた獣道。
何が起きているのかを想像したくなくて、きららはただ前だけを見た。
やがて、森の奥から眩い桃色の光があふれた。
反射的に腕で顔を覆う。
温かな風が木々の間を駆け抜け、甘い花の香りが鼻をくすぐった。光は空へ昇り、いくつもの花びらとなって舞い落ちてくる。
少し遅れて、巨大な何かが崩れるような音が響いた。
それきり、森は静かになった。
きららは腕を下ろした。
今の光を知っている。
名前が喉まで出かかったが、声にはしなかった。
慎重に歩みを進めると、木々の向こうに開けた場所が見えてきた。地面には深い亀裂が走り、草木が不自然な方向へ倒れている。
その中心に、二人の少女がいた。
七瀬ゆいは地面に横たわっていた。制服は汚れているものの、目立った傷はない。傍らに膝をついたはるかも、肩で大きく息をしていた。
桃色の髪ではない。
いつもの茶色い髪と、ノーブル学園の制服。
それでも、はるかの手には見覚えのある香水瓶のようなものが握られていた。
無事だった。
理解した途端、きららの膝から力が抜けそうになった。近くの木へ手をつき、どうにか身体を支える。
よかった。
その三文字が胸の中で何度も繰り返される。
はるかとは関わらないと決めた。向こうが自分に気づいていないなら、そのままでいいと思った。
それなのに、無事な姿を見ただけで泣きそうなほど安心している。
「よかった……」
小さく漏れた声を、きららは慌てて飲み込んだ。
はるかの前へ、白と桃色の小さな生き物が駆け寄る。
長い耳を揺らす姿は、犬に見えなくもない。もう一匹は、色鮮やかな鳥の姿をしている。
ただの動物。
まだ、そう思い込む余地は残されていた。
「すごかったパフ! はるか、とっても強かったパフ!」
白い生き物が、甲高い声で話した。
「まさか本当に変身できるとは思わなかったロマ。見事だったロマ、キュアフローラ!」
鳥まで人間の言葉を話す。
きららの指先から感覚が消えた。
「わたしが……キュアフローラ」
はるかは自分の手を見下ろしていた。信じられないという顔をしながらも、その瞳には戦いの恐怖より、ゆいを守れたことへの安堵が浮かんでいる。
「やっと見つけたパフ。カナタ王子が言っていた、伝説のプリンセスプリキュアを!」
「カナタ……?」
はるかが顔を上げる。
その名前を聞いた瞬間、きららの中に残っていたものが、音もなく崩れた。
幼いはるかが何度も話してくれた名前。
森で出会い、夢を信じてくれた本物の王子様。
カナタ。
パフ。アロマ。キュアフローラ。プリンセスパフューム。
そして、春野はるか。
偶然ではない。
似ているだけでもない。
ここは、あの世界だ。
自分は本当に、天ノ川きららとして生まれ変わったのだ。
「……いたんだ」
かすかな声が漏れた。
きららが後ろへ下がった拍子に、靴の下で小枝が折れた。
乾いた音が、静まり返った森に響く。
「誰かいるの?」
はるかが振り返った。
きららは咄嗟に太い幹の陰へ身を隠す。口元を押さえ、息を殺した。
草を踏む音が近づいてくる。
「そこにいるんですか?」
はるかの声がすぐ近くから聞こえる。
身体を縮めながら、きららは星の指輪を強く握った。尖った飾りが掌へ食い込む。
もう少し近づかれれば、見つかる。
今なら出ていくこともできる。
無事でよかったと伝えるだけなら、不自然ではない。入学式の日に見かけた生徒が騒ぎを心配して来た。そう説明すればいい。
それでも、足は動かなかった。
「春野、さん……」
弱々しい声が聞こえた。
「ゆいちゃん!」
はるかの足音が止まり、すぐに遠ざかっていく。
きららは幹の陰からそっと顔を出した。はるかは目を覚ましたゆいのもとへ駆け戻っている。パフとアロマは慌てて茂みへ身を隠した。
今しかない。
きららは二人へ背を向け、来た道を戻った。
走っている間も、はるかの声が耳から離れなかった。
見つかりたくなかった。
そのはずなのに、呼び止められなかったことへ、胸のどこかが痛んでいた。
寮へ戻る頃には、制服の裾と靴が泥で汚れていた。
玄関では森の方を気にする生徒がまだ何人か残っている。きららは呼び止められる前に足早に階段を上り、自室へ入った。
扉を閉める。
鍵をかける。
そこでようやく、平静を保っていた力が切れた。
きららは扉へ背中を預け、その場に座り込んだ。震える指で制服の内側から紐を引き出し、星の指輪を掌へ載せる。
間違いではなかった。
キュアフローラがいる。
それなら、いずれキュアマーメイドも現れる。
そして、キュアトゥインクルも。
誰か知らない少女ではない。
前世で見た天ノ川きららではなく、今ここにいる自分が、その名前で呼ばれることになるかもしれない。
怪物と戦う。
何度も危険な場所へ向かい、傷つき、それでも立ち上がる。
物語の中では輝いて見えた。だが、地面を揺らす衝撃と折れた木々を目の前にした今は、憧れなど一欠片も浮かばなかった。
怖い。
「嫌だ」
星を握る手に力が入る。
「あたしは、戦いたくない」
モデルとして世界一の星になる。
それは、天ノ川きららとして生きてきた自分が選んだ夢だった。転生したからという理由で、前世で知っている役目まで引き受けなければならないはずがない。
「プリキュアになんて、なりたくない……」
学園を辞めればいい。
仕事を理由に、この町から離れてもいい。妖精にも、プリンセスパフュームにも近づかなければ、別の誰かがキュアトゥインクルになる可能性だってある。
逃げ道はいくらでもあるように思えた。
だが、机の横に落ちた泥が目に入る。
はるかは大丈夫だと知っていた。
自分には関係ないと決めていた。
それでも、無事な姿を見るまで部屋で待っていることができなかった。
「何やってんだよ、俺……」
強く揺れた心の奥から、昔の一人称がこぼれた。
返事はない。
星の指輪が掌の中で鈍く光る。
――わたし、プリンセスになる。
幼いはるかの声が蘇る。
その時は、俺が星を持って迎えに行く。
二人で交わした約束も、一緒に思い出してしまった。
はるかは今日、本当にプリンセスになった。
少なくとも、プリンセスを名乗る戦士として最初の一歩を踏み出した。夢を笑われても、怪物を前にしても逃げず、誰かを守るために立ち上がった。
約束の時は、もう来てしまったのかもしれない。
それなのに自分は、迎えに行くどころか、木の陰へ隠れて逃げ帰った。
きららは膝を抱え、額を押しつけた。
はるかへ話した言葉を思い出す。
泣いても、また立てばいい。
幼い頃の自分は、随分簡単に言ってくれたものだと思う。
今は泣くことさえできなかった。
しばらくして、きららはゆっくり顔を上げた。
まだ、自分がプリキュアになると決まったわけではない。
未来は変わっているかもしれない。その可能性を恐れたから森へ向かったのなら、同じ可能性へ賭けることもできる。
プリキュアについて何も知らないふりをする。
はるかとは必要以上に関わらない。妖精を見ても気づかない。プリンセスパフュームには近づかない。
そうすれば、キュアトゥインクルにならずに済むかもしれない。
きららは立ち上がり、星の指輪を再び服の内側へ隠した。
「明日から、知らないふりをする」
今度は、はっきりと口にした。
机の上には、途中まで書き写した仕事の予定表が広げられている。その下には、森から持ち帰った小さな花びらが一枚、制服から落ちたことにも気づかれず挟まっていた。
春野はるかが花を咲かせた日。
天ノ川きららが四年間守り続けた淡い希望は、音もなく散った。