星の王子と花の姫君   作:百合魔神

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知らないふり

 

 

目を覚ました時、星の指輪は枕の横に転がっていた。

 

昨夜、首から外した覚えはある。だが、その後どうしたのかは思い出せない。眠れないまま何度も握り直し、いつの間にか意識を失っていたらしい。

 

きららは指輪を拾い上げた。

 

窓から差し込む朝の光を受け、小さな星が淡く輝く。昨日、森から持ち帰ってしまった花びらは、仕事の予定表に挟んだままだった。

 

キュアフローラ。

 

話す妖精。

 

カナタ王子。

 

目を閉じれば、桃色の光と折れた木々が浮かんでくる。あれを夢だったと思い込むことは、もうできなかった。

 

きららは指輪を紐へ通し、首から下げた。制服の襟を整え、外から見えないことを鏡で確認する。

 

「知らないふりをする」

 

鏡の中の自分へ言い聞かせる。

 

「はるかが何してても関係ない。プリキュアにも、妖精にも、あたしからは近づかない」

 

これから先、プリンセスパフュームを目にすることがあっても触らない。それさえ守れば、キュアトゥインクルにならずに済むかもしれない。

 

自分はモデルとして世界一の星になる。

 

そのために、ノーブル学園へ来たのだから。

 

鏡の前で一度笑ってみる。眠れなかったせいで、目元にわずかな疲れが残っていた。指先で軽く整え、もう一度笑う。

 

今度は、誰が見てもいつもの天ノ川きららだった。

 

食堂には、焼きたてのパンの香りが広がっていた。

 

きららは窓際の席に座り、トレーへ載せた朝食を確認する。野菜、卵、果物。週末のショーを考えれば食べすぎるわけにはいかないが、成長期に無理な制限をすれば肌や髪へ影響が出る。

 

仕事のために覚えた習慣だった。

 

パンを小さくちぎったところで、食堂の入口から明るい声が聞こえてくる。

 

「ゆいちゃん、こっち空いてるよ!」

 

聞き間違えようがない。

 

きららは顔を上げず、パンを口へ運んだ。

 

春野はるかと七瀬ゆいが、並んで食堂へ入ってくる。空いている席など他にいくらでもあるのに、足音は次第にこちらへ近づいてきた。

 

来るな。

 

そう念じたところで、足音がすぐ横で止まる。

 

「ごきげんよう!」

 

きららは一度だけ目を閉じた。

 

逃げれば不自然だ。ゆっくり顔を上げ、仕事で何度も使ってきた笑顔を作る。

 

「ごきげんよう」

「あの、ここ、座ってもいいですか?」

「空いてるけど」

 

はるかは嬉しそうに向かいの椅子を引いた。ゆいも隣へ腰掛け、きららへ丁寧に頭を下げる。

 

「七瀬ゆいです。よろしくお願いします」

「よろしく。あたしは――」

「あの!」

 

はるかが身を乗り出した。

 

大きな瞳が、真正面からきららを見つめる。幼い頃から、何かを確かめたい時にする顔だった。

 

「昨日、森の近くにいませんでしたか?」

 

きららは表情を変えなかった。

 

「森?」

「はい。明るい茶色の髪が、木の陰に見えた気がして……」

「それだけ?」

「え?」

「明るい茶色の髪なんて、他にもいるでしょ」

 

はるかの眉が下がる。

 

「そうですよね。ごめんなさい、急に変なこと聞いて」

「あたしは昨日、部屋にいたから。人違いじゃない?」

 

嘘を重ねても、胸元の星は何も答えない。

 

「そっか……」

 

はるかは素直に引き下がったが、視線だけはきららの顔へ残っている。疑っているというより、どこか懐かしいものを探しているようだった。

 

きららは耐えきれず、カップへ手を伸ばす。

 

その時、別の生徒が通りかかった。

 

「天ノ川さん、ごきげんよう。今日も撮影?」

「放課後にレッスン。週末にショーがあるから」

「頑張ってね!」

 

生徒が去ると、はるかが小さく瞬いた。

 

「天ノ川……さん」

「何?」

「きららちゃん、っていうんだね!」

 

ちゃん。

 

初対面のはずなのに、迷いなくそう呼ばれた。

 

幼い頃の「キラくん」と同じだった。たった一度呼ばれただけで、他人へ向けて作った名前を自分のものにされた時の感覚まで蘇る。

 

きららはカップを置いた。

 

「初対面でちゃん付けするんだ」

「あっ、嫌だった?」

「別に。好きにすれば」

「よかった。わたしは春野はるか! こっちのゆいちゃんと同じ一年藤組だよ」

「知ってる」

 

言ってから、きららは気づいた。

 

はるかが首を傾げる。

 

「知ってるの?」

「入学したばっかりなんだから、一年生の顔くらい見るでしょ」

「そっか!」

 

無理のある説明にも、はるかは簡単に納得した。こういうところまで昔と変わらない。

 

きららは残っていた飲み物を口へ運び、立ち上がった。

 

「じゃ、あたし急ぐから」

「もう行くの?」

「モデルは時間に厳しいの」

 

時計を見れば、朝のホームルームまでまだ十分以上ある。

 

はるかも時計を見たが、それを指摘する前に、きららはトレーを持って歩き出した。

 

背中に視線が刺さる。

 

食堂を出る直前、一度だけ振り返った。

 

はるかはまだこちらを見ていた。

 

午前中、新入生オリエンテーションの開始時刻になっても、一年藤組には空席が一つ残っていた。

 

きららの教室からも、廊下を慌ただしく走る足音が聞こえる。続いて先生の注意する声と、はるかの大きな謝罪が響いた。

 

どうやら、パフとアロマに何かを吹き込まれ、時間を忘れたらしい。

 

前世の記憶にある展開とは、少し違っている。本来は入学式への遅刻だった気がするが、自分が知っている流れがそのまま現実になるとは限らない。

 

それでも、はるかは遅刻し、反省のために庭の草むしりを申し出た。

 

大きな道筋は変わっていない。

 

昼休み。きららが教室を出ると、中庭の端ではるかが雑草を抜いていた。

 

「うんしょ、うんしょ……よしっ、次!」

 

遅刻した落ち込みなど、もう残っていない。抜いた草を袋へ入れ、次の雑草へ手を伸ばしている。

 

昔から、立ち直るのだけは早かった。

 

きららは足を止めかけ、すぐに廊下を進んだ。

 

見ない。

 

関わらない。

 

そう決めたはずだった。

 

だが、数歩進んだところで、中庭から美しい音楽が聞こえてきた。

 

ピアノの旋律に合わせ、海藤みなみがバレエの練習を始めている。背筋を伸ばし、指先まで意識の行き届いた動きは、離れた廊下からでも目を引いた。

 

学園のプリンセス。

 

その呼び名が大げさでないことは、きららにも分かった。

 

案の定、はるかは草むしりの手を止め、目を輝かせている。

 

「ステキすぎる……!」

 

みなみの練習が一段落すると、はるかは勢いよく立ち上がった。

 

「海藤さん!」

 

あまりの大声に、みなみの肩がわずかに揺れる。

 

「どうかしたの?」

「わたしに、バレエを教えてください!」

「え?」

 

きららは額へ手を当てたくなった。

 

いきなり生徒会長を呼び止め、自己紹介より先にバレエを教えてほしいと頼む。幼い頃から物怖じしない性格だったが、成長してさらに勢いが増している。

 

みなみは戸惑いながらも、はるかの真剣な表情を見ると断らなかった。

 

二人の練習が始まる。

 

基本姿勢を直され、脚の位置を教えられ、はるかは何度もふらついた。それでも転ぶたびに起き上がり、同じ動きを繰り返している。

 

花壇の縁石を何度も歩き直した、幼いはるかの姿が重なる。

 

五歩で落ちても、七歩で落ちても、最初へ戻った。

 

膝を擦りむいて泣いた後も、自分の足で立った。

 

きららは、いつの間にかその様子を見続けていた。

 

はるかが偶然こちらを向く。

 

目が合う寸前、きららは踵を返した。

 

「何してんだか」

 

誰もいない廊下で呟く。

 

「見てただけ。関わってないし」

 

午後の授業を終えたきららは、職員室へ頼まれていた資料を届けた。

 

その帰り道、中庭から再びピアノの音が聞こえてくる。午前中に続き、はるかはみなみからバレエを教わっていた。

 

最初より動きが良くなっている。

 

みなみの見本を真似し、はるかが片脚で回る。危なっかしいながらも一度は成功し、満面の笑みを浮かべた。

 

「できた!」

「ええ。初めてにしては上出来よ」

「もう一回やってみます!」

 

はるかは勢いをつけ、同じ動きへ挑戦する。

 

だが、今度は着地の際に足が外側へ傾いた。

 

短い悲鳴が上がる。

 

きららは考えるより先に走っていた。

 

倒れかけたはるかの腕をつかみ、自分の方へ引き寄せる。片腕で背中を支え、その場へゆっくり座らせた。

 

「無理して立つな。もっと痛くなるよ」

 

口にした瞬間、時間が止まった。

 

はるかが大きく目を見開いている。

 

きららの胸元で、隠した星の指輪が皮膚へ触れた。服の上から見えるはずはない。それでも、見つけられたような錯覚に陥る。

 

「……キラくん?」

 

小さな声だった。

 

だが、きららにははっきり聞こえた。

 

腕をつかんでいた指が震える。

 

「何?」

「あ……」

 

はるかは自分でも驚いたように口元を押さえた。

 

「ごめんなさい。昔の友達を思い出して」

「友達?」

「うん。男の子なんだけど、困った時にいつも助けてくれたの」

 

男の子。

 

分かっていたはずなのに、直接そう呼ばれると胸の奥が痛んだ。

 

きららは、はるかの腕から手を離した。

 

「だったら、人違いだね」

「うん……そうだよね」

 

みなみがはるかのそばへ膝をつき、足首の状態を確かめる。

 

「少し腫れているわ。保健室へ行きましょう」

「でも、練習が……」

「無理をして悪化させたら、もっと練習できなくなるわよ」

 

はるかは残念そうに足元を見る。

 

きららはその顔を見ないように立ち上がった。

 

「保健室、行った方がいいよ。こういうの、放っておくと長引くから」

「きららちゃん、詳しいんだね」

「モデルは脚も商売道具なの。怪我の対処くらい覚えるでしょ」

「そっか。ありがとう、きららちゃん!」

 

また、名前を呼ばれた。

 

きららは返事をせず、制服の裾を払った。

 

「天ノ川さん」

 

みなみが顔を上げる。

 

「はるかを支えてくれてありがとう」

「近くにいたから。それだけ」

 

きららは二人へ背を向けた。

 

中庭を出るまで、振り返らなかった。

 

放課後、きららは壁一面に鏡のある練習室へ入った。

 

スマートフォンを台へ固定し、音楽を流す。週末のショーで使われる曲だった。

 

呼吸を整え、姿勢を作る。

 

視線を前へ置き、一定の歩幅で進む。身体の軸をぶらさず、服が最も美しく見える角度で向きを変える。

 

一度目の映像を確認し、腕の振りを修正する。

 

二度目は、ターンの後に視線が少し遅れた。

 

三度目。ようやく納得できる動きになったが、再生された映像の中で、自分の表情だけが硬かった。

 

きららは画面を止めた。

 

頭から離れないのは、はるかの声だった。

 

――キラくん?

 

あれは確信ではない。

 

自分の言葉が、昔のキラを思い出させただけだ。成長した姿も、性別も違う。星の指輪さえ見られなければ、正体へたどり着くことはない。

 

「知らないふりするって、決めたのに」

 

倒れそうになったはるかを見て、身体が勝手に動いた。

 

だが、あれは誰が相手でも助けた。昔の友達だからではない。

 

そう結論づけ、もう一度音楽を再生しようとする。

 

校庭から悲鳴が上がった。

 

直後、巨大な何かが地面へ落ちたような音が響く。練習室の鏡が震え、固定していたスマートフォンが台から落ちかけた。

 

きららは窓へ駆け寄った。

 

校庭の中央に、巨大な怪物が立っている。

 

赤黒い身体。胸元には、大きな鍵穴を備えた錠前。脚や腕にはサッカーボールを思わせる模様が浮かんでいる。

 

怪物の近くには、黒い檻へ閉じ込められたサッカー部員がいた。

 

前世の画面越しに見たゼツボーグとは、まるで違った。

 

大きい。

 

三階の窓から見下ろしても、頭の位置が近く感じられる。振り上げられた脚が巨大なボールを蹴ると、それは校庭を跳ね、校舎の壁へ激突した。

 

窓ガラスに亀裂が走る。

 

きららの呼吸が止まった。

 

昨日は戦いが終わった後の痕跡しか見ていない。

 

これが、はるかの戦った相手。

 

そして、いずれ自分が戦うかもしれない相手だった。

 

脚が動かない。

 

廊下から生徒たちの悲鳴が聞こえる。教室を飛び出した者たちが、何が起きているか分からないまま正面階段へ殺到していた。

 

再び巨大なボールが校舎へ当たる。

 

天井から細かな埃が落ちた。

 

きららは窓から離れ、練習室を飛び出した。

 

戦場へ向かうためではない。

 

正面階段は校庭に近い。あのまま生徒たちが一斉に玄関へ向かえば、次の攻撃へ巻き込まれる。

 

「そっち行かないで!」

 

廊下へ声を響かせる。

 

混乱していた生徒たちが振り返った。

 

「でも、外に出ないと!」

「正面は校庭に近いでしょ。東階段から講堂裏へ出た方が安全!」

 

きららは廊下の奥にある防火扉を押し開けた。普段あまり使われない東階段が、その先にある。

 

「押さないで、順番に! 窓から離れて歩いて!」

 

自分の声が震えていないことに驚いた。

 

撮影現場でも、機材の故障や急な予定変更は起こる。混乱している時ほど、誰かが迷わず指示を出さなければならない。

 

ただし、今は撮影ではない。

 

判断を誤れば、誰かが怪我をする。

 

きららは一人ずつ階段へ誘導した。転びかけた生徒の手を引き、廊下を戻ろうとする生徒を止める。

 

そこへ、別の階段からみなみが駆け上がってきた。

 

状況を一目で把握し、はっきりと声を上げる。

 

「皆さん、天ノ川さんの案内に従って東階段へ進んでください! 慌てず、前の方との間隔を空けましょう!」

 

生徒たちの動きが整っていく。

 

みなみは近くの教員へ講堂側の確認を頼み、足の遅い生徒を先に進ませた。きららが作った避難の流れを、より安全で確かなものへ変えていく。

 

学園のプリンセスと呼ばれるだけではない。

 

皆がみなみを信頼しているのは、家柄や美しさだけが理由ではなかった。

 

最後の生徒を階段へ送り出すと、みなみがきららへ向き直った。

 

「天ノ川さん、ありがとう。助かったわ」

「校内図を覚えてただけ」

「それでも、あなたが動いてくれなければ、皆が正面へ集中していたかもしれないわ」

「海藤さんが来たんだから、もう大丈夫でしょ」

 

きららは軽く肩をすくめた。

 

「あなたも避難を」

「分かってる」

 

答えた直後、廊下の向こうに、避難する流れへ逆らって走る人影が見えた。

 

足を引きずりながら、はるかが校庭へ向かっている。

 

きららは奥歯を噛んだ。

 

「春野さん!」

 

呼び止めたのは、みなみだった。

 

はるかが振り返る。

 

「どこへ行くの? 避難経路は反対よ」

「ご、ごめんなさい! でも、わたし……忘れ物が!」

「今は戻っては駄目よ」

「すぐ取ってきますから!」

 

怪しすぎる言い訳だった。

 

みなみがさらに止めようとした時、階下から生徒を呼ぶ声が上がる。避難の途中で、足を痛めた者がいるらしい。

 

みなみは校庭とはるかを交互に見た。

 

「ここにいて。絶対に校庭へ出ては駄目よ」

「はい!」

 

みなみが階段を下りる。

 

その背中が見えなくなった途端、はるかは再び走り出した。

 

きららは進路を塞ぐように立った。

 

「そっちは危ないよ」

「きららちゃん……」

「脚、怪我してるでしょ」

「でも、行かなきゃ」

「忘れ物なら、後にすればいいじゃん」

「忘れ物じゃないの」

 

はるかは痛みを堪えながら、まっすぐきららを見た。

 

「行かなきゃいけないの。みんなを守らなきゃ」

 

その言葉に迷いはなかった。

 

誰かを守るためなら、自分の痛みを後回しにする。

 

昔から、何も変わっていない。

 

きららには、はるかを止める言葉が見つからなかった。

 

ここで無理に止めれば、ゼツボーグを倒す者がいなくなる。だが、そのまま行かせれば、人目のある廊下で変身しなければならない。

 

きららは周囲を見回した。

 

避難誘導によって、右側の渡り廊下から人の姿はなくなっている。その先には、校庭裏へ通じる出入口がある。

 

「右の渡り廊下」

 

はるかが瞬く。

 

「え?」

「そっちは、もう誰もいない。どうしても行くなら、右から行けば」

 

はるかの表情が明るくなる。

 

「ありがとう、きららちゃん!」

「勘違いしないで。人のいるところを逆走されたら危ないから教えただけ」

「うん!」

 

何ひとつ分かっていない返事を残し、はるかは右の渡り廊下へ走っていく。

 

足を庇いながらも、止まろうとはしなかった。

 

きららは追わなかった。

 

「何も知らないから、あたし」

 

胸元の星を押さえる。

 

「どこで何するかなんて、知らない」

 

自分でも白々しいと思った。

 

きららは東階段を下り、避難した生徒たちが集まる講堂へ向かった。

 

教員が人数を確認し、みなみが不安がる生徒たちへ声をかけている。ゆいも、近くで怯えていた生徒へ寄り添っていた。

 

はるかがいないことに気づいたゆいが周囲を見回す。

 

きららは目をそらした。

 

校庭から、大きな衝撃音が聞こえた。

 

講堂の高い窓から桃色の光が差し込み、天井を一瞬だけ染める。

 

はるかが変身した。

 

それが分かっても、きららは動かなかった。拳を握り、講堂の入口近くに立ち続ける。

 

また衝撃音が響く。

 

今度は、昨日より長く戦いが続いている。

 

はるかは足を痛めている。知っている流れでは、苦戦する。それでも最後には、みなみが覚醒して助けに入る。

 

分かっている。

 

分かっているのに、音が響くたび、校庭へ走り出したくなる。

 

「大丈夫」

 

小さく呟く。

 

「あたしが行っても、何もできない」

 

桃色の光が揺らぐ。

 

遅れて、澄み切った海のような青い光が校庭から立ち上った。

 

講堂にいた生徒たちが窓を見上げる。

 

「今の、何?」

「青い光……?」

 

きららだけが、その意味を知っていた。

 

海藤みなみが選ばれた。

 

キュアマーメイドが誕生したのだ。

 

青い光は水面のように広がり、やがて消えていった。少し遅れて、怪物の断末魔のような声が遠く響く。

 

それきり、地面の揺れは収まった。

 

講堂の中に安堵が広がる。

 

きららは握っていた拳を開いた。掌には爪の跡が残っている。

 

知っていた流れは、また一つ現実になった。

 

キュアフローラの次は、キュアマーメイド。

 

ならば、その次にいるのは。

 

そこから先を考えるのをやめた。

 

安全が確認され、生徒たちは順番に校舎へ戻り始めた。

 

窓ガラスの一部は割れ、校庭には巨大なボールが跳ねた跡が残っている。だが、怪物の姿は消えていた。

 

きららは人の流れから少し離れ、校舎へ向かった。

 

廊下の角を曲がったところで、向こうからはるかが歩いてくる。隣にはみなみがいた。

 

二人とも何事もなかったような顔をしているが、制服には土がついている。はるかの足取りは、戦闘前より明らかに悪くなっていた。

 

きららの視線が、その足へ向く。

 

すぐに顔をそらしたが、はるかには見られていた。

 

「きららちゃん!」

 

また、名前を呼ばれる。

 

今度こそ聞こえなかったふりをしようとしたが、はるかが足を引きずりながら近づいてくる。逃げた結果、追いかけられて怪我を悪化させられては困る。

 

きららは足を止めた。

 

「何?」

「さっきはありがとう。きららちゃんが道を教えてくれたから、助かったよ」

「避難経路を教えただけ」

「それでも助かったから。ありがとう!」

 

はるかは満開の笑顔を向ける。

 

幼い頃もそうだった。

 

何かをしてやるたび、大げさなくらい喜んだ。絆創膏を貼っただけで王子様と呼び、雨宿りの場所を教えただけで何度も礼を言った。

 

きららは、はるかの顔を見ていられなくなった。

 

視線を下げると、腫れた足首が目に入る。

 

「保健室」

「え?」

「行ってないでしょ」

「で、でも、さっき一度診てもらったから」

「悪化してるじゃん」

「どうして分かるの?」

「歩き方見れば分かるよ」

 

はるかが目を丸くする。

 

「きららちゃん、わたしのこと、よく見てるんだね」

 

心臓を直接つかまれたような気がした。

 

「モデルだから」

「モデルだと分かるの?」

「人の歩き方を見るのも仕事のうちなの」

 

即座に答えたものの、自分でも苦しい説明だと思った。

 

みなみが小さく笑う。

 

「天ノ川さんの言うとおりよ、春野さん。もう一度診てもらいましょう」

「はい……」

「じゃ、あたしは行くから」

 

きららは二人へ背を向けた。

 

「きららちゃん!」

 

呼び止められたが、振り向かなかった。

 

「また明日ね!」

 

その言葉だけは、幼い頃と同じだった。

 

きららの背中が廊下の角へ消えても、はるかはその方向を見つめていた。

 

隣へ来たゆいが、不思議そうに顔をのぞき込む。

 

「きららさんが気になるの?」

「えっ?」

「朝から、ずっと見ていたから」

「そ、そういうんじゃないよ!」

 

はるかは慌てて両手を振った。その動きで足へ痛みが走り、小さく顔をしかめる。

 

「ただ、なんだか懐かしい感じがするの」

「懐かしい?」

「うん。きららちゃんって、言い方はちょっとそっけないけど、本当はすごく優しいでしょ?」

「そうだね。皆を避難させてくれたのも、きららさんだったみたい」

「それに、キラくんと似てるの」

 

ゆいが首を傾げる。

 

「キラくん?」

「小さい頃に友達だった男の子。困ってる時に助けてくれた、王子様みたいな子なの」

「王子様……」

「もうずっと会ってないんだけど、約束したんだ。わたしがプリンセスになったら、星を持って会いに来てくれるって」

 

はるかは制服のポケットへ手を入れた。

 

中には、淡い桃色の花をあしらった指輪がある。何度も触れてきたため、指先だけで形が分かった。

 

「でも、きららさんは女の子なんだよね?」

「うん。だから違うって分かってるんだけど……」

 

はるかは、きららが消えた廊下の角を見る。

 

「キラくんと、きららちゃん。名前まで似てるんだよね」

「親戚ということはないのかな?」

「それなら、キラくんのことを知ってるかも!」

 

はるかの顔が輝く。

 

だが、すぐに先ほどの会話を思い出した。

 

昔の友達について話した時、きららは知らない様子だった。あれが演技だとは、はるかには思えない。

 

「偶然だよね」

 

そう口にしながらも、胸の奥の引っかかりは消えなかった。

 

もっと話してみたい。

 

きららのことを、もっと知りたい。

 

はるかの中に生まれたその気持ちは、まだ憧れとも恋とも呼べない。ただ、昔の約束を思い出すたび、きららの横顔まで一緒に浮かぶようになっていた。

 

自室へ戻ったきららは、扉を閉めると机の前へ座った。

 

朝、自分へ言い聞かせたことを思い出す。

 

はるかへ近づかない。

 

プリキュアへ関わらない。

 

何が起きても、知らないふりをする。

 

結果はどうだったか。

 

はるかの怪我を支えた。生徒たちを避難させた。はるかが人目を避けて校庭へ行ける道を教えた。戦闘が終わるまで、光の色を気にしていた。

 

二度も名前を呼ばれ、そのたびに足を止めた。

 

きららは机へ額をつけた。

 

「全然できてないじゃん……」

 

一般生徒が巻き込まれれば、知っている流れが変わるかもしれなかった。

 

はるかが人前で変身すれば、正体が知られる可能性があった。

 

足の怪我を放置させれば、これからの戦いへ影響が出るかもしれない。

 

自分がしたのは、余計な変化を防ぐための行動だ。

 

はるかを助けたかったわけではない。

 

「そう。全部、被害を増やさないため」

 

きららは顔を上げた。

 

完全に関わらずにいるのは、どうやら無理らしい。プリキュアが学園で戦う以上、何もせずにいれば一般生徒まで危険へさらされる。

 

それなら、方針を少し変えればいい。

 

戦闘には参加しない。

 

自分からプリキュアや妖精へ近づかない。

 

ただし、一般生徒の避難だけは手伝う。

 

はるかたちを助ける必要が生じても、偶然を装う。自分が事情を知っているとは絶対に悟らせない。

 

「これなら、関わったことにはならないでしょ」

 

言葉にしてみると、我ながら苦しい理屈だった。

 

だが、他に自分を納得させる方法がなかった。

 

夕食の時間が近づき、きららは部屋を出た。

 

廊下を進んでいると、開いた窓の外から聞き覚えのある声がする。

 

「ないパフ! どこにもないパフ!」

「落ち着くロマ! この辺りをもう一度探すロマ!」

 

きららの足が止まった。

 

窓からそっと中庭を見る。

 

パフとアロマが茂みの間を行き来し、何かを探している。二匹とも、こちらには気づいていない。

 

「最後のプリンセスパフュームがなくなったロマ! このままじゃ三人目のプリキュアを見つけられないロマ!」

「大変パフ……!」

 

三人目。

 

胸元の星が、急に重くなった気がした。

 

きららは窓から離れる。

 

探す義理はない。

 

むしろ見つからなければ、キュアトゥインクルが生まれずに済むかもしれない。自分にとっては都合のいい状況だった。

 

「知らない」

 

前を向いて歩き出す。

 

「あたしは何も知らないから」

 

そう言いながら、廊下の角を曲がった後も、きららの視線は無意識に床や窓際の植え込みを探っていた。

 

知らないふりは、何も知らずにいるより、ずっと難しかった。

 

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