星の王子と花の姫君 作:百合魔神
目を覚ました時、星の指輪は枕の横に転がっていた。
昨夜、首から外した覚えはある。だが、その後どうしたのかは思い出せない。眠れないまま何度も握り直し、いつの間にか意識を失っていたらしい。
きららは指輪を拾い上げた。
窓から差し込む朝の光を受け、小さな星が淡く輝く。昨日、森から持ち帰ってしまった花びらは、仕事の予定表に挟んだままだった。
キュアフローラ。
話す妖精。
カナタ王子。
目を閉じれば、桃色の光と折れた木々が浮かんでくる。あれを夢だったと思い込むことは、もうできなかった。
きららは指輪を紐へ通し、首から下げた。制服の襟を整え、外から見えないことを鏡で確認する。
「知らないふりをする」
鏡の中の自分へ言い聞かせる。
「はるかが何してても関係ない。プリキュアにも、妖精にも、あたしからは近づかない」
これから先、プリンセスパフュームを目にすることがあっても触らない。それさえ守れば、キュアトゥインクルにならずに済むかもしれない。
自分はモデルとして世界一の星になる。
そのために、ノーブル学園へ来たのだから。
鏡の前で一度笑ってみる。眠れなかったせいで、目元にわずかな疲れが残っていた。指先で軽く整え、もう一度笑う。
今度は、誰が見てもいつもの天ノ川きららだった。
食堂には、焼きたてのパンの香りが広がっていた。
きららは窓際の席に座り、トレーへ載せた朝食を確認する。野菜、卵、果物。週末のショーを考えれば食べすぎるわけにはいかないが、成長期に無理な制限をすれば肌や髪へ影響が出る。
仕事のために覚えた習慣だった。
パンを小さくちぎったところで、食堂の入口から明るい声が聞こえてくる。
「ゆいちゃん、こっち空いてるよ!」
聞き間違えようがない。
きららは顔を上げず、パンを口へ運んだ。
春野はるかと七瀬ゆいが、並んで食堂へ入ってくる。空いている席など他にいくらでもあるのに、足音は次第にこちらへ近づいてきた。
来るな。
そう念じたところで、足音がすぐ横で止まる。
「ごきげんよう!」
きららは一度だけ目を閉じた。
逃げれば不自然だ。ゆっくり顔を上げ、仕事で何度も使ってきた笑顔を作る。
「ごきげんよう」
「あの、ここ、座ってもいいですか?」
「空いてるけど」
はるかは嬉しそうに向かいの椅子を引いた。ゆいも隣へ腰掛け、きららへ丁寧に頭を下げる。
「七瀬ゆいです。よろしくお願いします」
「よろしく。あたしは――」
「あの!」
はるかが身を乗り出した。
大きな瞳が、真正面からきららを見つめる。幼い頃から、何かを確かめたい時にする顔だった。
「昨日、森の近くにいませんでしたか?」
きららは表情を変えなかった。
「森?」
「はい。明るい茶色の髪が、木の陰に見えた気がして……」
「それだけ?」
「え?」
「明るい茶色の髪なんて、他にもいるでしょ」
はるかの眉が下がる。
「そうですよね。ごめんなさい、急に変なこと聞いて」
「あたしは昨日、部屋にいたから。人違いじゃない?」
嘘を重ねても、胸元の星は何も答えない。
「そっか……」
はるかは素直に引き下がったが、視線だけはきららの顔へ残っている。疑っているというより、どこか懐かしいものを探しているようだった。
きららは耐えきれず、カップへ手を伸ばす。
その時、別の生徒が通りかかった。
「天ノ川さん、ごきげんよう。今日も撮影?」
「放課後にレッスン。週末にショーがあるから」
「頑張ってね!」
生徒が去ると、はるかが小さく瞬いた。
「天ノ川……さん」
「何?」
「きららちゃん、っていうんだね!」
ちゃん。
初対面のはずなのに、迷いなくそう呼ばれた。
幼い頃の「キラくん」と同じだった。たった一度呼ばれただけで、他人へ向けて作った名前を自分のものにされた時の感覚まで蘇る。
きららはカップを置いた。
「初対面でちゃん付けするんだ」
「あっ、嫌だった?」
「別に。好きにすれば」
「よかった。わたしは春野はるか! こっちのゆいちゃんと同じ一年藤組だよ」
「知ってる」
言ってから、きららは気づいた。
はるかが首を傾げる。
「知ってるの?」
「入学したばっかりなんだから、一年生の顔くらい見るでしょ」
「そっか!」
無理のある説明にも、はるかは簡単に納得した。こういうところまで昔と変わらない。
きららは残っていた飲み物を口へ運び、立ち上がった。
「じゃ、あたし急ぐから」
「もう行くの?」
「モデルは時間に厳しいの」
時計を見れば、朝のホームルームまでまだ十分以上ある。
はるかも時計を見たが、それを指摘する前に、きららはトレーを持って歩き出した。
背中に視線が刺さる。
食堂を出る直前、一度だけ振り返った。
はるかはまだこちらを見ていた。
午前中、新入生オリエンテーションの開始時刻になっても、一年藤組には空席が一つ残っていた。
きららの教室からも、廊下を慌ただしく走る足音が聞こえる。続いて先生の注意する声と、はるかの大きな謝罪が響いた。
どうやら、パフとアロマに何かを吹き込まれ、時間を忘れたらしい。
前世の記憶にある展開とは、少し違っている。本来は入学式への遅刻だった気がするが、自分が知っている流れがそのまま現実になるとは限らない。
それでも、はるかは遅刻し、反省のために庭の草むしりを申し出た。
大きな道筋は変わっていない。
昼休み。きららが教室を出ると、中庭の端ではるかが雑草を抜いていた。
「うんしょ、うんしょ……よしっ、次!」
遅刻した落ち込みなど、もう残っていない。抜いた草を袋へ入れ、次の雑草へ手を伸ばしている。
昔から、立ち直るのだけは早かった。
きららは足を止めかけ、すぐに廊下を進んだ。
見ない。
関わらない。
そう決めたはずだった。
だが、数歩進んだところで、中庭から美しい音楽が聞こえてきた。
ピアノの旋律に合わせ、海藤みなみがバレエの練習を始めている。背筋を伸ばし、指先まで意識の行き届いた動きは、離れた廊下からでも目を引いた。
学園のプリンセス。
その呼び名が大げさでないことは、きららにも分かった。
案の定、はるかは草むしりの手を止め、目を輝かせている。
「ステキすぎる……!」
みなみの練習が一段落すると、はるかは勢いよく立ち上がった。
「海藤さん!」
あまりの大声に、みなみの肩がわずかに揺れる。
「どうかしたの?」
「わたしに、バレエを教えてください!」
「え?」
きららは額へ手を当てたくなった。
いきなり生徒会長を呼び止め、自己紹介より先にバレエを教えてほしいと頼む。幼い頃から物怖じしない性格だったが、成長してさらに勢いが増している。
みなみは戸惑いながらも、はるかの真剣な表情を見ると断らなかった。
二人の練習が始まる。
基本姿勢を直され、脚の位置を教えられ、はるかは何度もふらついた。それでも転ぶたびに起き上がり、同じ動きを繰り返している。
花壇の縁石を何度も歩き直した、幼いはるかの姿が重なる。
五歩で落ちても、七歩で落ちても、最初へ戻った。
膝を擦りむいて泣いた後も、自分の足で立った。
きららは、いつの間にかその様子を見続けていた。
はるかが偶然こちらを向く。
目が合う寸前、きららは踵を返した。
「何してんだか」
誰もいない廊下で呟く。
「見てただけ。関わってないし」
午後の授業を終えたきららは、職員室へ頼まれていた資料を届けた。
その帰り道、中庭から再びピアノの音が聞こえてくる。午前中に続き、はるかはみなみからバレエを教わっていた。
最初より動きが良くなっている。
みなみの見本を真似し、はるかが片脚で回る。危なっかしいながらも一度は成功し、満面の笑みを浮かべた。
「できた!」
「ええ。初めてにしては上出来よ」
「もう一回やってみます!」
はるかは勢いをつけ、同じ動きへ挑戦する。
だが、今度は着地の際に足が外側へ傾いた。
短い悲鳴が上がる。
きららは考えるより先に走っていた。
倒れかけたはるかの腕をつかみ、自分の方へ引き寄せる。片腕で背中を支え、その場へゆっくり座らせた。
「無理して立つな。もっと痛くなるよ」
口にした瞬間、時間が止まった。
はるかが大きく目を見開いている。
きららの胸元で、隠した星の指輪が皮膚へ触れた。服の上から見えるはずはない。それでも、見つけられたような錯覚に陥る。
「……キラくん?」
小さな声だった。
だが、きららにははっきり聞こえた。
腕をつかんでいた指が震える。
「何?」
「あ……」
はるかは自分でも驚いたように口元を押さえた。
「ごめんなさい。昔の友達を思い出して」
「友達?」
「うん。男の子なんだけど、困った時にいつも助けてくれたの」
男の子。
分かっていたはずなのに、直接そう呼ばれると胸の奥が痛んだ。
きららは、はるかの腕から手を離した。
「だったら、人違いだね」
「うん……そうだよね」
みなみがはるかのそばへ膝をつき、足首の状態を確かめる。
「少し腫れているわ。保健室へ行きましょう」
「でも、練習が……」
「無理をして悪化させたら、もっと練習できなくなるわよ」
はるかは残念そうに足元を見る。
きららはその顔を見ないように立ち上がった。
「保健室、行った方がいいよ。こういうの、放っておくと長引くから」
「きららちゃん、詳しいんだね」
「モデルは脚も商売道具なの。怪我の対処くらい覚えるでしょ」
「そっか。ありがとう、きららちゃん!」
また、名前を呼ばれた。
きららは返事をせず、制服の裾を払った。
「天ノ川さん」
みなみが顔を上げる。
「はるかを支えてくれてありがとう」
「近くにいたから。それだけ」
きららは二人へ背を向けた。
中庭を出るまで、振り返らなかった。
放課後、きららは壁一面に鏡のある練習室へ入った。
スマートフォンを台へ固定し、音楽を流す。週末のショーで使われる曲だった。
呼吸を整え、姿勢を作る。
視線を前へ置き、一定の歩幅で進む。身体の軸をぶらさず、服が最も美しく見える角度で向きを変える。
一度目の映像を確認し、腕の振りを修正する。
二度目は、ターンの後に視線が少し遅れた。
三度目。ようやく納得できる動きになったが、再生された映像の中で、自分の表情だけが硬かった。
きららは画面を止めた。
頭から離れないのは、はるかの声だった。
――キラくん?
あれは確信ではない。
自分の言葉が、昔のキラを思い出させただけだ。成長した姿も、性別も違う。星の指輪さえ見られなければ、正体へたどり着くことはない。
「知らないふりするって、決めたのに」
倒れそうになったはるかを見て、身体が勝手に動いた。
だが、あれは誰が相手でも助けた。昔の友達だからではない。
そう結論づけ、もう一度音楽を再生しようとする。
校庭から悲鳴が上がった。
直後、巨大な何かが地面へ落ちたような音が響く。練習室の鏡が震え、固定していたスマートフォンが台から落ちかけた。
きららは窓へ駆け寄った。
校庭の中央に、巨大な怪物が立っている。
赤黒い身体。胸元には、大きな鍵穴を備えた錠前。脚や腕にはサッカーボールを思わせる模様が浮かんでいる。
怪物の近くには、黒い檻へ閉じ込められたサッカー部員がいた。
前世の画面越しに見たゼツボーグとは、まるで違った。
大きい。
三階の窓から見下ろしても、頭の位置が近く感じられる。振り上げられた脚が巨大なボールを蹴ると、それは校庭を跳ね、校舎の壁へ激突した。
窓ガラスに亀裂が走る。
きららの呼吸が止まった。
昨日は戦いが終わった後の痕跡しか見ていない。
これが、はるかの戦った相手。
そして、いずれ自分が戦うかもしれない相手だった。
脚が動かない。
廊下から生徒たちの悲鳴が聞こえる。教室を飛び出した者たちが、何が起きているか分からないまま正面階段へ殺到していた。
再び巨大なボールが校舎へ当たる。
天井から細かな埃が落ちた。
きららは窓から離れ、練習室を飛び出した。
戦場へ向かうためではない。
正面階段は校庭に近い。あのまま生徒たちが一斉に玄関へ向かえば、次の攻撃へ巻き込まれる。
「そっち行かないで!」
廊下へ声を響かせる。
混乱していた生徒たちが振り返った。
「でも、外に出ないと!」
「正面は校庭に近いでしょ。東階段から講堂裏へ出た方が安全!」
きららは廊下の奥にある防火扉を押し開けた。普段あまり使われない東階段が、その先にある。
「押さないで、順番に! 窓から離れて歩いて!」
自分の声が震えていないことに驚いた。
撮影現場でも、機材の故障や急な予定変更は起こる。混乱している時ほど、誰かが迷わず指示を出さなければならない。
ただし、今は撮影ではない。
判断を誤れば、誰かが怪我をする。
きららは一人ずつ階段へ誘導した。転びかけた生徒の手を引き、廊下を戻ろうとする生徒を止める。
そこへ、別の階段からみなみが駆け上がってきた。
状況を一目で把握し、はっきりと声を上げる。
「皆さん、天ノ川さんの案内に従って東階段へ進んでください! 慌てず、前の方との間隔を空けましょう!」
生徒たちの動きが整っていく。
みなみは近くの教員へ講堂側の確認を頼み、足の遅い生徒を先に進ませた。きららが作った避難の流れを、より安全で確かなものへ変えていく。
学園のプリンセスと呼ばれるだけではない。
皆がみなみを信頼しているのは、家柄や美しさだけが理由ではなかった。
最後の生徒を階段へ送り出すと、みなみがきららへ向き直った。
「天ノ川さん、ありがとう。助かったわ」
「校内図を覚えてただけ」
「それでも、あなたが動いてくれなければ、皆が正面へ集中していたかもしれないわ」
「海藤さんが来たんだから、もう大丈夫でしょ」
きららは軽く肩をすくめた。
「あなたも避難を」
「分かってる」
答えた直後、廊下の向こうに、避難する流れへ逆らって走る人影が見えた。
足を引きずりながら、はるかが校庭へ向かっている。
きららは奥歯を噛んだ。
「春野さん!」
呼び止めたのは、みなみだった。
はるかが振り返る。
「どこへ行くの? 避難経路は反対よ」
「ご、ごめんなさい! でも、わたし……忘れ物が!」
「今は戻っては駄目よ」
「すぐ取ってきますから!」
怪しすぎる言い訳だった。
みなみがさらに止めようとした時、階下から生徒を呼ぶ声が上がる。避難の途中で、足を痛めた者がいるらしい。
みなみは校庭とはるかを交互に見た。
「ここにいて。絶対に校庭へ出ては駄目よ」
「はい!」
みなみが階段を下りる。
その背中が見えなくなった途端、はるかは再び走り出した。
きららは進路を塞ぐように立った。
「そっちは危ないよ」
「きららちゃん……」
「脚、怪我してるでしょ」
「でも、行かなきゃ」
「忘れ物なら、後にすればいいじゃん」
「忘れ物じゃないの」
はるかは痛みを堪えながら、まっすぐきららを見た。
「行かなきゃいけないの。みんなを守らなきゃ」
その言葉に迷いはなかった。
誰かを守るためなら、自分の痛みを後回しにする。
昔から、何も変わっていない。
きららには、はるかを止める言葉が見つからなかった。
ここで無理に止めれば、ゼツボーグを倒す者がいなくなる。だが、そのまま行かせれば、人目のある廊下で変身しなければならない。
きららは周囲を見回した。
避難誘導によって、右側の渡り廊下から人の姿はなくなっている。その先には、校庭裏へ通じる出入口がある。
「右の渡り廊下」
はるかが瞬く。
「え?」
「そっちは、もう誰もいない。どうしても行くなら、右から行けば」
はるかの表情が明るくなる。
「ありがとう、きららちゃん!」
「勘違いしないで。人のいるところを逆走されたら危ないから教えただけ」
「うん!」
何ひとつ分かっていない返事を残し、はるかは右の渡り廊下へ走っていく。
足を庇いながらも、止まろうとはしなかった。
きららは追わなかった。
「何も知らないから、あたし」
胸元の星を押さえる。
「どこで何するかなんて、知らない」
自分でも白々しいと思った。
きららは東階段を下り、避難した生徒たちが集まる講堂へ向かった。
教員が人数を確認し、みなみが不安がる生徒たちへ声をかけている。ゆいも、近くで怯えていた生徒へ寄り添っていた。
はるかがいないことに気づいたゆいが周囲を見回す。
きららは目をそらした。
校庭から、大きな衝撃音が聞こえた。
講堂の高い窓から桃色の光が差し込み、天井を一瞬だけ染める。
はるかが変身した。
それが分かっても、きららは動かなかった。拳を握り、講堂の入口近くに立ち続ける。
また衝撃音が響く。
今度は、昨日より長く戦いが続いている。
はるかは足を痛めている。知っている流れでは、苦戦する。それでも最後には、みなみが覚醒して助けに入る。
分かっている。
分かっているのに、音が響くたび、校庭へ走り出したくなる。
「大丈夫」
小さく呟く。
「あたしが行っても、何もできない」
桃色の光が揺らぐ。
遅れて、澄み切った海のような青い光が校庭から立ち上った。
講堂にいた生徒たちが窓を見上げる。
「今の、何?」
「青い光……?」
きららだけが、その意味を知っていた。
海藤みなみが選ばれた。
キュアマーメイドが誕生したのだ。
青い光は水面のように広がり、やがて消えていった。少し遅れて、怪物の断末魔のような声が遠く響く。
それきり、地面の揺れは収まった。
講堂の中に安堵が広がる。
きららは握っていた拳を開いた。掌には爪の跡が残っている。
知っていた流れは、また一つ現実になった。
キュアフローラの次は、キュアマーメイド。
ならば、その次にいるのは。
そこから先を考えるのをやめた。
安全が確認され、生徒たちは順番に校舎へ戻り始めた。
窓ガラスの一部は割れ、校庭には巨大なボールが跳ねた跡が残っている。だが、怪物の姿は消えていた。
きららは人の流れから少し離れ、校舎へ向かった。
廊下の角を曲がったところで、向こうからはるかが歩いてくる。隣にはみなみがいた。
二人とも何事もなかったような顔をしているが、制服には土がついている。はるかの足取りは、戦闘前より明らかに悪くなっていた。
きららの視線が、その足へ向く。
すぐに顔をそらしたが、はるかには見られていた。
「きららちゃん!」
また、名前を呼ばれる。
今度こそ聞こえなかったふりをしようとしたが、はるかが足を引きずりながら近づいてくる。逃げた結果、追いかけられて怪我を悪化させられては困る。
きららは足を止めた。
「何?」
「さっきはありがとう。きららちゃんが道を教えてくれたから、助かったよ」
「避難経路を教えただけ」
「それでも助かったから。ありがとう!」
はるかは満開の笑顔を向ける。
幼い頃もそうだった。
何かをしてやるたび、大げさなくらい喜んだ。絆創膏を貼っただけで王子様と呼び、雨宿りの場所を教えただけで何度も礼を言った。
きららは、はるかの顔を見ていられなくなった。
視線を下げると、腫れた足首が目に入る。
「保健室」
「え?」
「行ってないでしょ」
「で、でも、さっき一度診てもらったから」
「悪化してるじゃん」
「どうして分かるの?」
「歩き方見れば分かるよ」
はるかが目を丸くする。
「きららちゃん、わたしのこと、よく見てるんだね」
心臓を直接つかまれたような気がした。
「モデルだから」
「モデルだと分かるの?」
「人の歩き方を見るのも仕事のうちなの」
即座に答えたものの、自分でも苦しい説明だと思った。
みなみが小さく笑う。
「天ノ川さんの言うとおりよ、春野さん。もう一度診てもらいましょう」
「はい……」
「じゃ、あたしは行くから」
きららは二人へ背を向けた。
「きららちゃん!」
呼び止められたが、振り向かなかった。
「また明日ね!」
その言葉だけは、幼い頃と同じだった。
きららの背中が廊下の角へ消えても、はるかはその方向を見つめていた。
隣へ来たゆいが、不思議そうに顔をのぞき込む。
「きららさんが気になるの?」
「えっ?」
「朝から、ずっと見ていたから」
「そ、そういうんじゃないよ!」
はるかは慌てて両手を振った。その動きで足へ痛みが走り、小さく顔をしかめる。
「ただ、なんだか懐かしい感じがするの」
「懐かしい?」
「うん。きららちゃんって、言い方はちょっとそっけないけど、本当はすごく優しいでしょ?」
「そうだね。皆を避難させてくれたのも、きららさんだったみたい」
「それに、キラくんと似てるの」
ゆいが首を傾げる。
「キラくん?」
「小さい頃に友達だった男の子。困ってる時に助けてくれた、王子様みたいな子なの」
「王子様……」
「もうずっと会ってないんだけど、約束したんだ。わたしがプリンセスになったら、星を持って会いに来てくれるって」
はるかは制服のポケットへ手を入れた。
中には、淡い桃色の花をあしらった指輪がある。何度も触れてきたため、指先だけで形が分かった。
「でも、きららさんは女の子なんだよね?」
「うん。だから違うって分かってるんだけど……」
はるかは、きららが消えた廊下の角を見る。
「キラくんと、きららちゃん。名前まで似てるんだよね」
「親戚ということはないのかな?」
「それなら、キラくんのことを知ってるかも!」
はるかの顔が輝く。
だが、すぐに先ほどの会話を思い出した。
昔の友達について話した時、きららは知らない様子だった。あれが演技だとは、はるかには思えない。
「偶然だよね」
そう口にしながらも、胸の奥の引っかかりは消えなかった。
もっと話してみたい。
きららのことを、もっと知りたい。
はるかの中に生まれたその気持ちは、まだ憧れとも恋とも呼べない。ただ、昔の約束を思い出すたび、きららの横顔まで一緒に浮かぶようになっていた。
自室へ戻ったきららは、扉を閉めると机の前へ座った。
朝、自分へ言い聞かせたことを思い出す。
はるかへ近づかない。
プリキュアへ関わらない。
何が起きても、知らないふりをする。
結果はどうだったか。
はるかの怪我を支えた。生徒たちを避難させた。はるかが人目を避けて校庭へ行ける道を教えた。戦闘が終わるまで、光の色を気にしていた。
二度も名前を呼ばれ、そのたびに足を止めた。
きららは机へ額をつけた。
「全然できてないじゃん……」
一般生徒が巻き込まれれば、知っている流れが変わるかもしれなかった。
はるかが人前で変身すれば、正体が知られる可能性があった。
足の怪我を放置させれば、これからの戦いへ影響が出るかもしれない。
自分がしたのは、余計な変化を防ぐための行動だ。
はるかを助けたかったわけではない。
「そう。全部、被害を増やさないため」
きららは顔を上げた。
完全に関わらずにいるのは、どうやら無理らしい。プリキュアが学園で戦う以上、何もせずにいれば一般生徒まで危険へさらされる。
それなら、方針を少し変えればいい。
戦闘には参加しない。
自分からプリキュアや妖精へ近づかない。
ただし、一般生徒の避難だけは手伝う。
はるかたちを助ける必要が生じても、偶然を装う。自分が事情を知っているとは絶対に悟らせない。
「これなら、関わったことにはならないでしょ」
言葉にしてみると、我ながら苦しい理屈だった。
だが、他に自分を納得させる方法がなかった。
夕食の時間が近づき、きららは部屋を出た。
廊下を進んでいると、開いた窓の外から聞き覚えのある声がする。
「ないパフ! どこにもないパフ!」
「落ち着くロマ! この辺りをもう一度探すロマ!」
きららの足が止まった。
窓からそっと中庭を見る。
パフとアロマが茂みの間を行き来し、何かを探している。二匹とも、こちらには気づいていない。
「最後のプリンセスパフュームがなくなったロマ! このままじゃ三人目のプリキュアを見つけられないロマ!」
「大変パフ……!」
三人目。
胸元の星が、急に重くなった気がした。
きららは窓から離れる。
探す義理はない。
むしろ見つからなければ、キュアトゥインクルが生まれずに済むかもしれない。自分にとっては都合のいい状況だった。
「知らない」
前を向いて歩き出す。
「あたしは何も知らないから」
そう言いながら、廊下の角を曲がった後も、きららの視線は無意識に床や窓際の植え込みを探っていた。
知らないふりは、何も知らずにいるより、ずっと難しかった。