ループ帰りの高校生は、まだ無名の切り札 〜数百年ぶりに、明日を知らない〜 作:エルベール
八月三十一日、午後四時。
街から、人の声が消えていた。
駅前の信号は青のまま点滅している。ロータリーには路線バスが三台、扉を開いたまま停まっていた。
歩道橋の上から見下ろすと、撮影の合間に放置されたセットのようだった。
『
耳の奥で、玲子の声がした。
「見えてる」
装甲車が四両。後続に大型の輸送車が二両。人員はおよそ六十。
『予定より早い?』
「二秒だけ」
『二秒』
「誤差だ」
通信の向こうで、玲子が短く笑ったのが分かった。
『こっちは地下入口手前。真壁が先行してる』
「じゃあ、上は俺だ」
十二歳の身体では、手すりから顔を出しても視界の下半分が欄干で切れる。
手首に、細い金属の腕輪がある。輪の周りに、小指の爪ほどの多角形のプレートが並んでいた。
プレートが四枚、音もなく回った。
「──始めよう」
〈
駅ビルの屋上。アーケードの支柱。県道。給水塔。学校の時計台。廃線の高架。自宅のあった住宅地の角。
淡い光の点が、無人の街のあちこちで同時に灯る。
数は数えていない。晶にとってそれは、点の集まりではなく一枚の地図だった。何を切れば何が落ちて、落ちた先に誰がいないかまで含めた地図だ。
先頭の装甲車が交差点へ入った。
晶は右手の指を、二つの点の間へ滑らせた。
二点を結ぶ光を刃先にして、切れ目を路面の下へ通した。
音は、ほとんどしなかった。
県道の路面が切り離され、下の地下道の空洞へ落ちた。装甲車が急制動をかけ、後輪が縁で空転する。滑り落ちた弾薬箱が、アスファルトの上で派手に散らばった。
車から人が降りてくる。晶は、そこへは線を通さない。
代わりに、彼らが取ろうとした迂回路——商店街のアーケードへ、二本。
支柱の根元だけが切れ、アーケードの屋根が傾いて崩れた。瓦礫は歩道の内側で止まる。迂回してきた隊列の上へは、一片も落ちない。落とす方向まで含めて、この場所は何十回も練習してある。
歩道橋の手すりに、小銃弾が次々と当たった。
晶は跳んだ。
遺物への接続による身体強化が、歩道橋の高さから十数メートル先の街路樹の枝まで身体を運ぶ。着地の瞬間に膝が鳴った。
枝を蹴って屋根の上へ回りながら、線をもう一本。小銃が二挺、銃身の中ほどで落ちた。
誰も死んでいない。
人を狙う方が、手順だけなら早い。だが遺物接続中の隊員を覆う保護膜へ切断を通すのは、車軸や銃身を切るよりずっと重い。
それでも、殺す事はできる。やらないのは、そのあとが面倒だからだ。部隊が崩れれば、残った人間は散る。散った人間は線で管理できない。丸腰にして、隊列のまま下がらせる方が、地上は静かになる。
何百という試行の末、晶は武器を切っている。
◇
『晶。西の第二班、動いた。中枢の外周へ回り込む』
「見えてる」
晶は屋根の上を走りながら答えた。息が上がっている。声には出さない。
「そっちは」
『予定どおり。地下入口の制圧が終わった』
「退路は」
『北の資材搬入路。三分後に確保が切れる』
「じゃあ時間を稼ぐ」
晶は走る向きを変えた。搬入路の両脇に、あらかじめ星を置いてある。
この搬入路は、天井まで落とせば確実に塞げる。だが、そこまで崩す必要はない。空調ダクトの吊り金具だけを切り、ダクトを落とした。
「道を塞いだ。あと十五分は保つ」
『助かる』
玲子はそれ以上言わない。よくやった、とも、無理はするな、とも言わない。晶がやると言ったことは、やるからだ。
昔は違った。最初の頃、玲子は晶を人払いした部屋へ入れて、毛布を巻いて、機構の避難所の名簿に「保護児童」と書いた。晶がそれを覚えているのと同じだけ、玲子も覚えている。二人ともそれを、いま持ち出さない。
「玲子」
『なに』
「今回で終わらせる」
通信の向こうで、玲子が短く息を吸った。
『そうね』
それだけだった。
同じことを、晶は何度も言ってきた。言うたびに玲子は「根拠は」と聞き返した。根拠を並べて、穴を二人で潰して、それでも足りなくて、また八月一日が来た。
今日は、聞かれなかった。
◇
工業地区の給水塔まで来たところで、晶は一度だけ足を止めた。
止めるつもりはなかった。線を三本引き直して、部隊の分断を組み替えるだけの、数秒の隙だった。
──四日前。
避難の誘導車が、脇道の陥没にはまって停まった。今この周回で初めて起きたことだった。取り残された住民が、区画の奥に何人か。
母は、その車に乗っていた。手伝いに志願していた。
晶が着いたとき、建物は半分落ちていた。母は瓦礫の手前で仰向けになっていて、その周りに、母が連れ出した人たちが立っていた。全員、生きていた。
母は、晶を見て、少しだけ笑った。
何か言おうとして、言えなかった。晶も、言えなかった。
母の手は温かかった。それから、温かくなくなった。
──あの遺物を壊さなければ、母は戻る。
今夜が終われば、街は月の初めへ帰る。母は屋敷の台所にいて、洗い物をしていて、晶が起きてくるのを待っている。陥没も、瓦礫も、なくなる。
やり方は簡単だ。何もしなければいい。
一度だけ、そうしたことがある。母のためではなく、単純にもう一周やり直したかった周回で、九月を捨てた。次の朝、母は台所にいて、「おはよう」と言った。
晶はその日、母の顔をまともに見られなかった。
母が助けた人たちも、消える。助けられる前へ戻る。次の周回で同じように助かる保証はない。
給水塔の錆びた梯子を、晶は握り直した。
三本の線を引き直す。分断が完成する。西の第二班が、中枢の外周から切り離される。
手は震えていなかった。
震えていないことが、正しさの証明にはならない。それも、晶は知っている。
◇
「入口、開けたぞ」
真壁の声が割り込んできたのは、午後六時を回ってからだった。
晶は中枢施設の南側、旧貨物駅のプラットホームの端に立っていた。ここからなら、地上の全域と、中枢へ続く三本の経路が同時に見える。
コンクリートの階段を、黒い戦闘服の男が上がってくる。左の肩から先が血で汚れているが、動きは落ちていない。
「地上は?」
「保ちます。俺が動かなければ」
「だろうな」
真壁が手を出した。説明も、確認もない。
晶は背中から鞘ごと剣を外した。
〈
物を斬る剣ではない。遺物が作るつながりを、一太刀にひとつだけ断つ剣だ。地上の星図では、あの中枢は止められない。止められるのは、これしかない。
投げた。
真壁は柄を掴み、そのまま体の向きを変えた。
「切る順番は」
「もう分かってますよね。任せます」
「聞くだけ聞いた」
真壁は階段を降りていった。振り返らなかった。
晶は、その背中が地下の暗がりへ消えるまで見ていた。
かつて、この男は同じ剣を持って晶の前に立っていた。何度も。晶が数えるのをやめた回数だけ。今日それを言う理由はないし、真壁も言わない。
言葉が少ないのは、信頼だからではない。もう、必要な言葉を全部使い切ったからだ。
◇
地下三層。
真壁士門は、崩れた隔壁の隙間から中枢室へ入った。
部屋の中央に、直径十数メートルの環状構造が浮いている。表面は磨いた石のようで、内側に無数の光の筋が走っていた。
真壁は環状構造の下へ潜り込み、光の筋を目で追った。
太いものが五本。細いものは数えきれない。太い方が重要だとは限らない。長すぎる時間のなかで、そう思い込んで失敗したことが何度もある。
三太刀目で、真壁は止まった。
残っているのは二本。中枢そのものを維持している筋と、領域全体を復元している筋。
順番を間違えれば、復元側だけが生き残って中枢が作り直される。晶が昔、そう説明した。
説明されただけではない。真壁自身が、一度間違えている。
離反したあとの、どこかの周回だった。この部屋で、中枢側を先に斬った。遺物は目の前で組み直り、二本目へ刃を届かせる前に、真壁は押し出された。
次の朝、街は月の初めへ戻っていた。
真壁は薄い側へ回り込み、復元側の筋を斬った。
環が鳴った。低い、腹に響く音。
一秒待った。
環は、組み上がらなかった。
そして最後の一本へ、真壁は正面から踏み込んだ。
刃が通った瞬間、光の筋がすべて消えた。
「玲子、切れたぞ」
「下がって。支柱を落とす」
爆薬が入り、環状構造が支持を失って床へ落ちた。石のようなものが割れる音がして、それきり、部屋は静かになった。
◇
地上で、晶はそれを、街全体で感じた。
数百年間、毎日そこにあったものが、なくなった感覚だった。
それから、街が壊れ始めた。
原因の遺物は、街を毎月元に戻すと同時に、この一か月ぶんの無理を毎回帳消しにしていた。消えれば、無理はそのまま残る。
中枢施設の外壁が内側へ引き込まれるように崩れた。西側の高架から、コンクリートの塊が落ち始めた。
晶は、プラットホームの端から動かなかった。
崩壊は止められない。止めるのではなく、崩れる順番を変える。北側の壁が先に落ちれば、東側は自分の重さで内向きに落ちる。玲子たちが出てくるのは、南だ。
南側の支柱を、晶は残した。
三十秒後、崩れ切った瓦礫の南側から、玲子の班が一人ずつ出てきた。真壁は最後だった。
晶は、そこで初めて片膝をついた。膝が笑っていた。
右手首のプレートが回転を止め、街の星が順番に消えていく。
この街は、明日には今日と違う形になる。積み上げてきた地図は、今日で使えなくなる。
そのことに、晶は少しだけ、ばかばかしいくらいの喪失を感じた。
◇
九月一日、午前五時四十分。
晶は、崩れた歩道橋の残骸に腰かけて、東を見ていた。
空が白んで、それから、色がついた。
日付が変わっても、街は八月一日へ戻らなかった。信号は消えたままで、駅前のバスは扉を開けたまま停まっていて、アーケードは北側へ潰れていた。何も直っていない。
外との通信が回復したのは、午前二時過ぎだった。封鎖の外にいた機構の本隊が、一晩かけて内側へ入ってきている。
避難所から戻ってきた住民たちは、この一か月のことだけを覚えている。繰り返した回数ではなく、最後の一回ぶんを。
母は戻らなかった。
母が助けた七人は、今朝も生きている。一人は担架で運ばれていったが、生きている。
隣に、玲子が座った。缶のコーヒーを二本持っていて、片方を晶の膝の上へ置いた。冷たかった。自動販売機が動いていないから、どこかの備蓄から持ってきたのだろう。
「飲めるでしょ、これくらい」
「子ども扱いだ」
「十二歳を子ども扱いして何が悪いの」
晶はプルタブを起こした。指が滑って、二回失敗した。
「玲子」
「うん」
「間違ってたかな」
玲子は缶を膝の間へ挟んだ。
「作戦の判断なら、私が署名してる。そこは動かない」
「そっちの話じゃない」
「知ってる」
一口飲んで、街の方を見たまま言った。
「私は間違ってないと思ってる。でも、それはあなたのための答えじゃない」
「役に立たないな」
「役に立つ答えを持ってる人がいたら、連れてきて」
晶は笑った。笑ってから、自分が笑ったことに少し驚いた。
東の空が、完全に明るくなった。
九月一日。
晶はそれを見ながら、ひとつだけ、確かなことを思った。
数百年ぶりに、明日、何が起きるのかを知らない。