ループ帰りの高校生は、まだ無名の切り札 〜数百年ぶりに、明日を知らない〜 作:エルベール
水瀬晶は、校庭の中央に一人で佇む渚を見ていた。
渚が口を開いた。声は聞こえなかった。直後、音が地面の下から来た。
低い振動が校庭の全域から同時に上がる。仮設テントの支柱が鳴り、何百人分ものざわめきが一度だけ止まった。
最初に体育館が鳴った。金属を押し潰したような音が屋根の奥から響く。
次に校舎の窓が割れた。校庭の南側へ亀裂が走る。
「ここはダメだ!正門側へ!急いで!」
機構職員の声が飛んだ。
宮下直樹が、その声をさらに大きくして繰り返していた。
「正門側へ!押すなよ!」
人の列が動き始める。肩がぶつかり、誰かの靴が脱げた。拾おうとした生徒を、後ろの教師が腕ごと引き上げる。
晶は亀裂が入った校庭を見渡した。事前に人を寄せた場所だった。少なくとも、そこが一番ましだと考えていた。
正門の土台が動いた。しかし、人の列はそのまま正門へ向かっていた。
晶は叫ぼうとした。次の瞬間、門柱の根元でコンクリートが割れた。アスファルトが波打つように盛り上がり、人の列のすぐ手前まで亀裂が走る。
「下がれ!」
直樹が叫ぶ。
「どこへ!」
誰かが叫び返した。
正門から離れれば、傾き始めた校舎へ近づく。
校庭の南は割れている。体育館側も崩れている。
正門側に集めた人間を、今度はどこへ逃がすのか。
——予測が外れた。
もう一周あっても、全部を読めたとは限らない。
理解したところで、いまは何の役にも立たない。役に立つのは、ここからどうするかだけだ。
列の中ほどで、美緒が手を上げた。
「宮下くん!三年の女子、立てない!」
「動かせるか!」
「やる!」
美緒は返事をしながら、近くにいた生徒を三人つかまえた。一人ずつ顔を見て、しゃがませる。
「四人で持つ。落とさなければいい」
「持ち方分かんない」
「私も分かんない。だから四人」
一人が肩を、一人が腰を、残り二人が脚を持った。
持ち上げた瞬間、女子生徒が痛みに息を詰める。
「ごめんね。ゆっくり行くよ!」
誰も正しい運び方なんて知らない。それでも四人なら、落とさずに正門側へ動かせた。
晶はその横を走り抜けた。
——どこも安全じゃない。それなら、安全な場所を作るしかない。
晶は右の手首へ手をやり、一度だけ、止まった。作る方法を、晶は知っていた。
本当は、生徒の前で使うつもりはなかった。使うとしても局所的に。機構の作戦行動の中で、必要なところだけ切るつもりだった。
学校全部を使うつもりなんてなかった。
モールでも見られている。だがあれは、機構の現場の内側だった。見たのは人質と隊員で、記事にもならなかった。書類の中で片づく規模だった。
——使えば、全員が見る。
今度は、四百人を超える生徒と来場者。機構職員。志保。渚。直樹。美緒。
その先に何が起きるかも知っている。調査。監督。押収の議論。
五年かけて手に入れた「普通の高校生」という位置も、たぶん今までどおりではいられない。そこまで考えて、晶は考えるのをやめた。
——それは、いま天秤に載せるものじゃない。
正門の手前で、直樹に追いつく。
「宮下!」
「なんだよ!」
「これから俺が指示を出す。そのまま全員に繰り返してくれ」
「何する気だ」
「いいから!俺の声は四百人には届かない。お前の声なら届く」
直樹は晶の顔を見た。視線だけが、一度、晶の右手首へ落ちる。
何も聞かなかった。
「分かった!言え」
晶は無線を口元へ寄せた。
「解析、あと何分」
『二分半!』
「分かりました。持たせます」
晶は正門側の列の前へ出た。
四百人の顔が、こちらを向いていた。ほとんどが、晶を知っていた。
生徒会副会長の水瀬。
文化祭の備品を運んでいたやつ。朝から校内を走り回っていたやつ。それだけを知っている顔だった。
晶は袖をまくった。腕輪へ指をかける。
多角形のプレートが四枚、続けて回った。
そして、学校の全員の前で星が灯った。
◇
誰も、声を上げなかった。
星は、正門の柱の根元に点いた。
小さな光の点だった。花火でも爆発でもない。足元を照らす灯りに見えた。
四百人が息を呑むようなものではなかった。
晶が五年かけて隠していたものは、そういう見た目をしていた。
それが二つ、三つと増えて、正門の内側へ並ぶ。
「宮下。そのまま繰り返せ」
「おう」
晶は声を張った。
「全員、その場から動かないでください」
「全員、その場から動くな!」
晶の視界の中で、正門の土台はまだ少しずつ学校側へ滑っている。人の列との距離が、ゆっくり縮まっていた。
「走られると、切れない」
「走るな!走ったら切れないってさ!」
「切れないって何が!」
誰かが叫び返した。
「知るか!いいから止まれ!」
止まった。四百人以上が、正門側の地面の上で動かなくなった。
晶は列の端から端まで目を走らせた。
しゃがんでいる人間。負傷者を支える四人。泣いている子供。全員の位置が止まっている。
それを確認してから、線を通した。
人の足元を避けて、光の線が地面を横切る。
正門の根元。盛り上がった舗装。その下で地面へ食い込んでいるものを、晶はまとめて線の下へ入れた。
切断面を地中へ通す。鈍い音が、土の中から続けて返った。
正門が、そこで止まった。切れたアスファルトの隙間から、砂だけが落ちていく。
「……止まった」
誰かが言った。
「止まったぞ!」
「だから動くなって!」
直樹の声が飛ぶ。
晶はもう正門を見ていなかった。
体育館が校庭側へ傾いている。
屋根の片側が沈み、壁の上端がゆっくりこちらへ近づいていた。このままだと、そのまま人のいる方へ倒れる。
「全員、正門側から動くな!」
晶が言うより先に、直樹が叫んだ。
直樹に任せ、晶は体育館の柱の位置を追った。
支える必要はない。倒れる場所だけ、変えればいい。
「どうすんだよ、晶!」
直樹の言葉に答えず、星を置く。
線が走った。体育館を支える柱が、違う高さで切れた。
屋根の重さが、低く切った側へ先に落ちる。
体育館は校庭へ倒れなかった。裏側から腰を折るように潰れ、そのまま自分の敷地の内側へ沈んだ。
屋根が落ち、壁が内側へ倒れ、遅れて粉塵が上がる。校庭まで届いたのは、その粉塵だけだった。
『水瀬さん!』
無線が鳴る。解析担当の声だった。
『今、停止させました!通常停止じゃありません。残っていた最後の帰航処理まで止めました!』
「ありがとうございます。東階段から出てください。校舎もすぐ崩れます」
目の前で、校舎が動いていた。窓ガラスが次々と割れていった。
「校舎を切って時間を稼ぎます!早く出てください!」
『どういうことですか!?』
「崩れる順番を俺が決めます。いいから早く!」
『いま二階です!』
「東へ!西には行かないでください」
校舎は南へ傾いていた。窓枠が歪み、南面の壁に斜めの亀裂が増えている。このまま倒れれば、校庭の中央まで届く。
東階段の周辺だけは、まだ柱がまっすぐだった。
そこは残す。丸ごと支える必要はない。倒れ切る前に、自分の足元へ落とせばいい。
晶は星を置いた。南側の柱へ、上から順に線を通す。
四階。最上階の南側が切れ、外へ倒れる前に真下へ落ちた。床が砕け、粉塵が一気に噴き出す。
——急げ。
三階。東階段に続く経路を残して切る。四階が落ちたぶんだけ、三階の柱にかかる重さが減っている。
二階。ここから下へ線を通せば、東階段まで一緒に落ちる。
人は、まだ出てこない。
晶は一階へ星を置いた。置いただけで、通さなかった。
建物が、図面どおりに壊れてくれるとは限らない。
置いたままの星の重さが、右手首へ返ってくる。待っているあいだ、それは減らない。
——早く。
東階段の下から、解析担当が飛び出してきた。
一階。最後の柱を切る。
「円盤は!」
「止まってます!止めました!」
それで十分だった。
そのころには、直樹はもう繰り返していなかった。繰り返す指示が出ていないからではない。
四百人が、誰にも言われないまま、動かずに崩れていく校舎を見ていた。
「汐見!人は!」
校庭の向こうから、声が返った。
「生徒と来場者は四百二十六名、全員正門側です!三年生の一人が動けませんが、位置は把握しています!」
数えてあった。
その声を聞いて、初めて晶は振り返った。
美緒たち四人に運ばれた女子生徒が、地面へ寝かされている。名前は知らなかった。その脇には、志保が膝をついていた。
粉塵が、ゆっくり落ちていった。校舎は半分になり、体育館は潰れ、校庭は割れ、正門は傾いていた。
それでも、四百二十六人の生徒と来場者は一人も欠けていなかった。
晶は腕輪から指を離した。星が順番に消えていく。そこで初めて、右手の指先が痺れていることに気づいた。
誰かが最初に拍手をした。一人だけだった。拍手は広がらなかった。
たぶん、何に拍手をすればいいのか、誰にも分からなかった。
代わりに、あちこちから声が上がった。
名前を呼ぶ声。泣き声。「先生!」という声。「うちの学校が」という声。
さっきまで文化祭をやっていた場所だった。校舎も体育館も、もう元の形をしていない。
近くにいた生徒たちは、二歩ぶん離れた場所で立ち止まっていた。
誰も声をかけてこない。遠巻きに見て、そのまま動かない。さっきまで、廊下で会えば普通に声をかけてきた相手だった。
「晶!お前、なんだよこれ」
直樹が走ってきた。途中で瓦礫を避け、晶の前で膝をつく。
「なんだろうな」
「なんだろうなじゃねえよ!」
怒鳴った声が、途中で少し掠れた。
「怖かった」
「そうだな」
「お前が、じゃなくて。全部が」
「そうだな」
直樹は、それ以上言わなかった。言わずに、晶の隣へ座った。
美緒が少し離れたところから、こちらを見ていた。袖と膝が土で汚れている。近づいてこなかった。来ないことを選んだのだ、と晶は思った。
そして、校庭の向こうから渚が走ってきた。首元に、もう母艦へつながっていない錨が下がっている。
晶のところまで来る前に、渚は立ち止まった。正門脇に残った校内時計を見ていた。
十八時。
晶の肩が、勝手に上がった。
あの低い音が来る前に、いつもそうなる。何度も、その音で一日が終わっていた。
名前を呼ぶ声は、まだ続いている。泣いている生徒がいる。誰かが叫んでいる。
その全部の上で、鐘は鳴らなかった。
長針が、一つ進んだ。
十八時一分。
「先輩」
「ああ」
「一分です」
それでも、九時へ戻らなかった。