ループ帰りの高校生は、まだ無名の切り札 〜数百年ぶりに、明日を知らない〜 作:エルベール
目が覚める瞬間が、いちばん怖い。
汐見渚は、天井を見る前に、枕元へ手を伸ばした。
指が触れたのは、目覚まし時計ではなかった。機構が用意した宿舎の、備え付けの小さな照明だった。
渚は、そこで一度、動きを止めた。
それから、上体を起こして、部屋の中を見た。
昨日の夜に自分が置いた場所に、鞄がある。畳んだ制服がある。書きかけの名簿がある。
名簿は、消えていなかった。
渚は、スマートフォンの日付を見た。
見なくても分かっていた。分かっているのに、見た。
機構から説明された、外界側の日付が表示されていた。
少なくとも、文化祭当日の午前九時ではなかった。
十五回目の九時は、来なかった。
渚は、しばらくベッドの縁に座っていた。
頭の中の表を読もうとして、読む必要がないことに気づいた。
今日、この時刻に、何が起きるのかを、渚は知らない。
知らないまま、朝が進んでいる。
◇
その日の夕方、晶と渚は、封鎖線の手前の縁石に並んで座っていた。
境界が消えてから、学校の周りには機構の車が三台と、警察の規制線が増えていた。負傷者はすでに全員が搬送され、生徒は自宅か親戚の家に戻っている。
死者はいなかった。
「先輩」
「なんだ」
「私、家に帰れません」
「そうだな」
「昨日の夜、御影さんが本邸へ連絡しました。端末の返還を求められています」
「返すのか」
「返しません」
渚は、そう言った。
「返したら、私が決めたことが、なかったことになります」
晶は、うなずいた。
「揉めるな」
「揉めます」
「手伝えることはあるか」
「まだ分かりません」
二人は、崩れた校舎を見た。
昨日までなら、次に何が起きるかを渚は知っていた。
今日は、知らなかった。
◇
三日後、機構から通知が来た。
学校は当面使用できず、生徒は近隣の三校へ分散して受け入れられる。水瀬晶と汐見渚は、時間異常の記憶保持者として一時保護の対象となり、監督下で専門教育を受けるため、機構付属高校へ一時的に転校する。
そして、最後の一項。
水瀬晶による〈星綴り〉の広域使用について、正式な調査を行う。無許可の広域使用に該当する可能性がある。
「これ、覚悟してました?」
通知を持ってきた機構の職員が、晶へそう聞いた。
この学校に閉じ込められていた解析担当ではない。別の部署の、事務方の人だった。
「してました」
「割と、大きい話になります。あなたを庇う人と、あなたを止めたい人が、両方います。どちらが多いかは、まだ分かりません」
職員は、そう言って、書類を置いていった。
置いていった書類の中に、身元引受人あての控えが一通あった。
宛名の欄は、空白になっていた。
◇
転校の前の日、晶は崩れた学校へ行った。
封鎖線の内側には入れない。校舎は半分のまま立っていて、体育館は瓦礫の山になっていた。
そこに、直樹と美緒がいた。
「よう」
「来ると思った」
直樹が言った。
「なんで」
「なんとなく」
三人は、封鎖線の前に並んで立った。
「あのさ」
美緒が言った。
「昨日、説明会があったの。体育館が使えないから、市民会館で。保護者と生徒。二十分で終わった」
「行ってない」
「時間異常事案でした、調査中です、それだけだった。私、手を挙げて聞いたんだよ。時間異常って何ですかって」
美緒は、そのときの答えをそのまま言うように、平坦な声を作った。
「『調査中です』」
「俺も聞いた」
直樹が言った。
「同じ答えだった」
「だから、水瀬くんに聞く」
美緒は、封鎖線の向こうを見たまま続けた。
「あの日、水瀬くん、崩れるって先に言ったよね。校舎に人を残すなって。崩れる前に」
「言った」
「なんで先に分かったの」
どこまでなら言えるかを、晶は先に決めた。
あの一日は、機構が事案として記録している。五年前のことは、そこに入らない。
「同じ日を、繰り返してたからだ」
美緒が、息を吸った。
「……何回」
「十四回」
直樹が、こちらを向いた。
「は?」
「十四日ぶんだ。同じ一日を、十四回」
「一日じゃなくて」
「一日じゃない」
直樹は口を開けて、何も言わずに閉じた。
「私たちは、一日しか覚えてない」
美緒が言った。
「そうだな」
美緒は、封鎖線のテープの端を指で挟んだ。
「じゃあ、前の十三日は、なかったことになったんだ」
「なってない」
晶は、そう言った。
「汐見は全部覚えてる。俺も途中から覚えてる」
美緒は、そこで初めて、泣きそうな顔をした。
泣かなかった。
「覚えてないのに、あったことにはなるんだね」
「あったんだ」
美緒は、崩れた体育館の方を見た。
「私、ここの片付けの当番、来週まで入ってたんだよ」
それきり、しばらく誰も話さなかった。
「私、あのとき行かなかった」
美緒が言った。
「校庭で。宮下くんは走っていったのに、私は立ってただけ」
「知ってる」
「怖かったんだと思う。水瀬くんがじゃなくて、行って何て言えばいいのか分からなくて。分からないまま近づくのは、失礼な気がした」
美緒は、指に挟んでいたテープの端を離した。
「でもそれ、たぶん私が楽なだけだった」
「来なくてよかったと思う」
「そう言われると、余計に困る」
「本当だ。あそこで声をかけられてたら、俺は返事ができなかった」
美緒は、テープの端をもう一度つまんで、まっすぐに伸ばした。
「じゃあ、今言うね」
「うん」
「あれ、すごかった。すごかったし、二度と見たくない」
「俺も見たくない」
「そういう返事なんだ」
「ほかに持ってない」
直樹が、横から口を挟んだ。
「聞いたな、小日向」
「聞いた」
美緒は、少しだけ笑った。
「聞くって、決めてたから」
「なあ、晶」
直樹が、封鎖線の向こうを見ながら言った。
「お前、転校するんだって?」
「する」
「いつ帰ってくる」
晶は、答えられなかった。
「分からない」
「分からないのかよ」
「分からない」
直樹は、鼻から息を吐いた。
「じゃあさ」
「うん」
「連絡先、消すなよ」
「消さない」
「絶対だぞ」
「絶対だ」
直樹は、そこで背を向けた。
「あー、腹減った」
「まだ昼前だぞ」
「腹減ったって言わないと、他のこと言いそうになるだろ」
美緒が、少し笑った。
晶も、笑った。
◇
翌朝、機構の車が晶を迎えに来た。
助手席の窓から、渚が手を振っていた。手を振るというより、確認するように、手を上げていた。
「先輩、遅いです」
「三分だ」
「三分です」
車に乗り込むと、渚が膝の上でファイルを開いた。
「転校先の書類です。提出物が七点あります。三点は今日中、四点は今週中です」
「早いな」
「昨日のうちに整理しました」
「寝てないだろ」
「寝ました。四時間」
晶は、それについては何も言わなかった。
車が走り出した。
窓の外を、見慣れた通学路が流れていった。コンビニ。パン屋。信号。曲がり角。
その先に、崩れた学校がある。
渚の目は、ファイルの提出期限の欄から動かなかった。
「先輩」
「なんだ」
「明日って、どんな日でしょうか」
晶は、渚の方を見た。
渚は、ファイルから顔を上げていなかった。
「分からない」
晶は、そう答えた。
「分からないんですか」
「分からない」
「……そうですか」
渚は、ページをめくった。
めくってから、小さく言った。
「分からないのって、久しぶりです」
五年前の九月一日のことを、晶は一度だけ思い出した。
そのことは言わずに、答えた。
「そのうち、慣れる」
渚は、うなずいて、ファイルのページをもう一枚めくった。
めくった手が、そこで止まった。
「先輩」
「なんだ」
「時間割が入っています」
「そりゃ入ってるだろ」
「専門科目の欄に、初回の教材名が書いてあります」
渚は、その一行を、声に出して読まなかった。
代わりに、ファイルを晶の方へ傾けた。
専門授業:遺物災害事例研究
初回教材:地方都市公立高校文化祭時間異常領域事案
晶は、その二行を二度読んだ。
読んでから、シートへ背中を戻した。
「……採点されるのか。あれを」
「されるみたいです」
渚は、ファイルを閉じた。
閉じてから、窓の外を見た。今度は、崩れた学校の方角を見た。
「私たちの昨日を、私たちじゃない人が、これから読むんですね」
答えるべき言葉を、晶は持っていなかった。
車は、信号を一つ越えて、知らない道へ入った。