ループ帰りの高校生は、まだ無名の切り札 〜数百年ぶりに、明日を知らない〜 作:エルベール
現場指揮官が戻ってきたのは、四分後だった。
「悪いけど、待機の話は保留。ここから離れないで」
「はい」
「疑ってるからじゃない。ここから下がられると、また誰かが入口へ近づくから」
指揮官は入口の左右の柱を見上げた。無線が立て続けに鳴っている。通路の封鎖、モール全体の避難、負傷者の搬送。指示は淀みなく、声は大きくならない。
晶は口を挟まなかった。
線はいくつも走っている。その中で、深町が繰り返し気にする起点がいくつかあった。入口や非常口の近くにあるものだ。そこへ人質が近づくと声を出し、他の起点の近くでは何も言わない。
——あれらが主だ。残りは補助か、囮。
「指揮官」
晶が声をかけると、指揮官は無線を口から離した。
「なに」
「言っていいですか」
「聞くだけは聞く」
晶は簡潔に並べた。主と思われる起点の位置。線には強弱があること。リールの回転から線が出るまでに、わずかな遅延があること。
指揮官は最後まで口を挟まず、聞き終えてから無線のチャンネルを切り替えた。
「解析、指揮。目視情報が入った。裏取りして。座標を送る。線の生成遅延も実測して。目視だと約〇・三秒らしい」
そして晶へ向き直った。
「使えるとは言ってない。裏を取る。高校生の目視を、そのまま作戦へ入れられると思われても困る」
「思ってません」
「あなた、なんで怒らないの」
「見ただけの情報は、外れることがあるので」
晶は、ホールの中を見たまま答えた。
「主起点の読みが外れてたら、突入が全部無駄になる」
七分後、解析の回答が返った。主と思われる起点も、線の強弱も、ほぼ晶の見立てどおりだった。見落としは一つ。生成までの遅れも、実測で約〇・三秒。
「……使う」
指揮官は短くそう言って、突入計画の作成へ入った。
◇
ホールの中は、思ったより静かだった。汐見渚は、展示パネルの陰で膝をついたまま、その静けさを見ていた。
負傷者は一人。入口近くで腕を線に取られたまま吊り下がっている中年の男性。子どもと高齢者は、深町から遠い展示パネルの陰に固まっている。
非常口は三か所、二つは塞がれているが、残る一つは何もない。それはたぶん、そこが使われる予定だからだ。
見落としているものがある、と渚は思った。何を見落としているのか分からないから、そう思うのだ。
「汐見さん」
小日向美緒が、隣で小さく言った。
「あの子、さっきから震えてる」
目線の先には、小学校低学年くらいの女の子がいた。母親らしき人が抱えているが、その母親の方も呼吸が浅い。
「ちょっと行ってくる」
「待って、動くと」
「這っていけば大丈夫」
美緒は言うより先に動いていた。パネルの陰を伝い、深町の視線がステージの反対側へ向いた一瞬に、女の子の横へ滑り込む。
何を言ったのかは聞こえなかった。ただ、美緒が上着を脱いで女の子の肩へかけ、母親の背中に手を当てて何度か上下に動かしたのは見えた。母親の肩が下がった。呼吸が戻ったのだ。
美緒はそれから、床に座り込んで動けなくなっていた高齢の男性のところへ行き、近くの椅子を脚が床を擦らないよう持ち上げて運び、そこへ座らせた。
そして、入口の方へ這って行こうとした若い男の腕を掴んで止めた。
「その先、線あるから」
「でも」
「見えないだけで、ある。あの人みたいになる」
若い男は、吊り下がっている中年男性を見て、動くのをやめた。
渚は、その一部始終を見ていた。
美緒は遺物を持っていない。持っているのは、買い出しメモと、スマートフォンと、上着だけだ。
それでも、この短い間に、美緒は何人も動かした。
渚の制服の内側には、銀色の鎖で下げたペンダントがある。掌に収まる大きさの、
——使えば。
できることはある。けれど、錨を出せば深町に知られる。外では機構が救出作戦を進めている。
それに、一般の前で〈
——使っていい?
渚は、襟元から鎖を引き出した。錨の冷たさが、手のひらに乗った。
——私が動いたせいで、作戦が崩れたら?
指が止まった。渚は鎖を襟の内側へ戻し、両手を膝へ置いた。
美緒が這って戻ってきて、隣に座った。
「あの子、落ち着いた」
「……うん」
美緒は、膝の上に置かれた渚の手へ自分の手を重ねた。理由は聞かなかった。
「冷たいよ、手」
渚は、鎖を戻した襟元を押さえた。
◇
「そこ、頭を下げて!」
入口の外で、晶は一度だけ声を出した。
パネルの陰から立ち上がろうとした男性がいた。立てば、頭のすぐ上に線がある。
声は中まで届いた。男性はしゃがみ直し、周囲の何人かが晶を見た。
ステージの上の深町も、こちらを見た。
見ただけだった。しかし、そのあと何度か、晶の視線の先を目で追った。
——読まれた。
少しして、また人が動いた。ホール中央で、男性が突然立ち上がり、非常口の方へ早足で歩き出した。
その進路上、腰の高さに弱い線が走っている。
晶は息を吸って、そこで止めた。声を出せば、深町は起点を打ち直す。ここまで読んだ配置が、全部無駄になる。
——腕をやる。手首だ。
吸った息を、晶は静かに吐いた。
男性の右手が線に触れた。関節が伸びきる嫌な音がして、男性が悲鳴を上げた。
深町が「動くなって言っただろうが!」と怒鳴った。しばらくして線は消え、男性は床へ膝をついて右手首を抱えていた。
「……おい」
隣で、直樹が言った。
「お前、気づいてたよな」
「気づいてた」
「なんで言わなかった」
「言うと、突入が遅れる」
直樹の顔から、表情が抜けた。腹を立てるより先に、理解が追いつかない顔だった。
「あの人、手首折れたかもしれないぞ」
「たぶん折れてない。捻挫か、靭帯損傷」
「そういう話じゃ——」
直樹は言葉を切った。晶がこちらを向いていなかったからだ。晶の目は深町の手と起点の位置と線の光り方を順に往復していて、直樹の抗議はその往復のどこにも入っていなかった。
「……いや、いい」
終わらせたのは、直樹の方だった。
◇
深町が、ステージから降りてきた。
入口から少し離れた位置で止まる。線の内側だ。晶は外側にいる。
「そこの学生。聞こえてんだろ。パーカーの」
直樹が晶の袖を掴んだ。晶は、その手をそっと外した。
「なんですか」
「二回目はやめとけ」
深町は、リールの筒を肩へ担いでいた。
「さっき一回、大声出したろ。あれで俺は、あんたが線の場所を分かってるって知った。二回目やられると、配置を全部変えなきゃいけなくなる」
「変えればいいでしょう」
「変えると手間なんだよ」
深町が、ホールの中を親指で示す。
「あんたが何か言うたびに、ここの誰かを立たせる」
誰かが小さく悲鳴を上げた。
「立たせて、線の前に置く。何も起きないかもしれないし、起きるかもしれない。俺が決めるんじゃない。あんたが決める」
「分かりました」
「素直だな」
「あなたの言うとおりにするとは言ってません。分かった、と言っただけです」
深町は、鼻で笑った。
「そういうのが一番めんどくせえんだよ」
そして背を向け、ステージへ戻っていった。
◇
指揮官が二階へ上がり、入口の脇には機構の若い隊員が一人だけ残った。
直樹は柱に背中を預けて、スニーカーの爪先で床をこすっていた。
「入らないのか」
「入らない」
「入れないのか、入らないのか、どっちだ」
「入れる」
晶は答えた。
「線そのものは物理じゃない。でも起点は物理だ。柱に貼り付いてるだけの筒だから、入口周辺の起点だけ落とせば、道は開く」
直樹の口が半分開いた。
「じゃあ」
「開いたら、中の人間が逃げようとする。逃げようとしたら、あいつは脅す。脅して効かなければ、誰かを本当に傷つけて見せる」
「なんでそれが分かるんだよ」
「分からない。そう見えるってだけだ」
「じゃあ間違ってるかもしれないだろ」
「間違ってるかもしれない」
晶は否定しなかった。
「でも、機構はもう突入の計画を作ってる。あの人たちの作戦が成立してる間は、俺が入る理由がない」
「……じゃあ、さっき手首やった人は」
言ってから、自分の声が硬いことに気づいた顔をした。
「作戦が成立してる間に出る被害だ」
「それでいいのかよ」
「よくない」
晶は、そこで初めて直樹の方を見た。
「よくないけど、選んだのは俺だ。指揮官でも、機構でもない」
直樹は目を逸らし、小さく舌打ちをした。晶に対してではないことは、音の向きで分かった。
「……お前、いつもそういう計算してんの」
「いつもはしてない」
「じゃあ今はなんでしてるんだよ」
晶は、ホールの中へ目を戻した。
それが答えだと分かる程度には、二人は長い付き合いだった。
◇
突入は、午後四時二十二分に始まった。
機構は正面からは入らなかった。線が通っていない北側で、人質に紛れていた設備担当者が指示どおりに防火扉を解錠する。投げ込まれた抑制装置で、ほんの一瞬だけ周囲の線が弱まった。
その隙に、隊員が滑り込む。
深町がリールを回す。線が出るまで、約〇・三秒。そのあいだに、隊員の一人が投擲弾を床へ転がした。閃光と、大量の光粒子。
ホールの空間に、線が全部見えた。
「北側非常口へ!頭を下げて、順番に!」
隊員の声が響いた。
◇
その声を、渚は聞いた。聞いた瞬間には、もう身体が動いていた。
「小日向さん、子どもを先に。歩ける人は後ろ。あの人は動かせないから、隊員が来るまで待って」
「わかった」
美緒が動いた。渚は列の順番を組んだ。
これは、渚にできることだった。負傷者を後回しにせず、けれど列は止めない。人質が列になって、光の線の隙間を縫い、北側の扉へ流れていく。
すぐに、半分ほどが出た。
そのとき、深町がステージの下から、それまで使っていなかった予備の筒をまとめて床へ転がした。
いままでなかった角度の線が走る。非常口への経路が封鎖された。
「止まって!」
渚が叫んだ。列の後ろ半分が、線の手前で止まった。
頭上で、照明のバトンが鳴った。
深町が転がした筒から、新しい線が斜め上へ走っていた。バトンの吊り元の一つが、その線に取られて動かない。止まった一点へ、残りの吊り元が引かれて、順に軋んで外れていく。
その一点を支点にして、バトンが振り子のように振れ落ちてきた。
下には、逃げ遅れた人たちがいる。
鎖が、いつのまにか襟の外へ出ていた。引き出した覚えはない。指が錨の腕を握っている。
——間に合う。
そう思った直後に、別の考えが重なった。
——機構の突入中に、私が別の遺物を増やしていい?
指が、止まった。
◇
ホールの外で、晶はすでに走り出していた。
入口の線は、まだ生きている。くぐれない。
だから晶は、右手首の〈
星点が三つ灯り、線が二本通る。支点は〈静止線〉に取られていて切れない。だから、そのすぐ外側と中ほどで、バトンそのものを切った。
長い一本が、短い二本になって、勢いを失ったまま人のいない床へ落ちる。
床が鳴り、粉塵が上がった。人の上には落ちなかった。
「全員、その場で伏せて!」
隊員の声。
そのあいだに深町が線を足し、突入した隊員の退路を塞いだ。転倒と落下物で、負傷者が増える。
そして深町は、その隙にステージの奥へ下がっていった。
追える位置に、誰もいなかった。
◇
「負傷者、複数。人質は半数以上離脱。残りはホール内」
指揮官の声は、まだ落ち着いていた。
「次の突入は待て。救護班、北側扉の外まで前進」
晶は、入口の脇からホールの中を見ていた。
残った人たちが床に伏せている。美緒は、さっきの女の子の上へ覆いかぶさるような姿勢のまま動かない。
深町は、ステージの奥の暗がりにいる。位置は分かる。だが途中に人がいるかもしれない。〈星綴り〉は使えない。
晶は、右手を下ろした。
指揮官の無線から、別の声が漏れた。
『搬入口側、別犯を確認。黒田修司。展示保管区画の金属箱を開けようとしています』
そのとき、床が揺れた。
ステージのさらに向こうで、搬入用の大型シャッターが、内側から殴られている。
一度。二度。三度目で、中央が大きく膨らんだ。
「なに、あれ」
直樹が呟いた。直後、シャッターが裂けた。
裂け目から出てきたのは、人の胴回りより太い金属の腕だった。台車の車輪や展示ケースの枠が、無理やり継ぎ合わせたように貼り付いている。
その腕の上に、人が乗っていた。
黒い戦闘服。左手で継ぎ目を掴み、右手に反りの浅い片刃の長剣。
「真壁士門……?」
直樹の声だった。さっきモニターで見た男の名前を呼んだ。
金属の腕が人質に向かって動き出そうとした。男はそれをかわし、付け根に近い一点へ、上から剣を突き入れた。
刃が沈んだ瞬間、金属の腕の制御が切れた。
金属の塊は、伏せている人の手前を通過して、無人のパネル展示へ突っ込んだ。
男は腕から飛び降り、剣を右手に提げたまま、ホールの中を一度だけ見回した。
晶と目が合った。