ループ帰りの高校生は、まだ無名の切り札 〜数百年ぶりに、明日を知らない〜 作:エルベール
裂けたシャッターの向こうは、搬入用の広い通路だった。
そこから、腕がもう三本出てきた。合わせて四本。ステージ、北側の非常口、天井の給水管へ、別々に伸びる。
その中心に、人が見えた。
塊の中心では、黒田修司が胸から下を金属に埋もれさせ、両腕だけを外へ出している。足元には、黒田が狙っていた金属の箱が、角を潰して転がっていた。
真壁は、そこへは向かわなかった。
ステージへ伸びた腕の真下を走り抜けながら、側面へ一太刀。
「真壁だ。イベントホールに入った。人質の避難を優先する」
真壁の声は大きくない。無線ではなく地声だった。
「北の腕は俺が持つ。給水管の方は落とす。落ちたら水が来る。すぐ移動しろ」
そして給水管へ伸びた腕の根元へ、二太刀目。腕は伸びるのをやめ、垂れ下がった。
残りの人質が、押し出されるように北側の扉へ流れ始めた。渚が列の後ろで、遅れる人の背中へ順に手を添えている。美緒は、女の子とその母親を挟むようにして歩いていた。
◇
「指揮官」
晶は、そう呼んだ。
「あとで聞く」
「だめです、今聞いてください」
指揮官が振り返る。晶は、なるべく短く言った。
「機構の作戦は、さっきまでの配置が前提でした。今は新しい起点が増えてます。人質は扉の前で止まってて、救護班の動線にも線が張られました。真壁さんは暴走体と深町の両方を抑えないと動けない」
「無理だと決めつけないで」
「決めつけてません。時間の問題だと言ってます」
指揮官は、無線を握ったまま、晶を見ていた。
「だから、俺が行きます」
「あなたは高校生よ。照会結果に説明のつかない項目が五つある。前線へ入れる権限は、私にはない」
「知ってます」
「知ってて言ってるの」
「はい」
晶は、走り出さなかった。
走り出せば、この人はその処理に時間を取られる。時間は、いま一番高いものだ。
「条件を切ってください」
「……なに?」
「俺がやることを、あなたが決めてください。範囲の中だけでやります。無線も貸してください。俺が勝手に動いたら、あなたが止められるようにしておいた方がいい」
指揮官は無線を左手へ持ち替え、空いた手で腰の予備の無線機を外して、晶へ投げた。
「ホールの中だけ。落下物と、人へ届くものの処理、それと経路の確保。犯人の確保はしない。真壁さんの戦域には入らない」
「分かりました」
「それから」
指揮官は、晶の手の無線機を指さした。
「私が『下がれ』と言ったら、下がる。理由は聞かない」
「はい」
「本部には、緊急避難的な限定協力として上げる。あとで山ほど書類を書くことになるから、あなたも書いて」
「書きます」
「行って」
晶は、入口の柱へ手を触れた。線を張っている起点は、柱の内側に貼り付いている。筒の形。物理。
星点を二つ、柱の上下へ置いた。柱そのものを断つ必要はない。二点を結ぶ線を刃先に、表面だけへ浅く切断を通す。柱の表面が薄く剥がれて、起点の筒が面ごと落ちる。床側の起点も、同じ手順で落とした。
入口が開いた。
「宮下」
「……おう」
「ここにいろ。指揮官の近くから離れるな」
「お前」
直樹は、何か言おうとして、うまく言葉にならないという顔をした。
「行くのかよ」
「行く」
「さっき、機構に任せるって言ってただろ」
「言った」
晶は、走り出しながら答えた。
「今は違う」
◇
ホールの南半分は、崩れかけの倉庫のようになっていた。
割れた測定器。倒れたパネル。落ちた照明バトン。伏せた人が残り、何人かは自力で動けていない。
晶は最初に、天井から辛うじてぶら下がっていた照明器具を、人のいない床へまとめて落とした。
「南側、落下予備を処理。動けない人が三人。救護、南から入れます」
『了解』
次は、床だった。床の下を〈星綴り〉で切る。
「北側の扉の手前、床を下げました。立ったまま通れます。背の高い人だけ頭を下げてください」
『……なにをしたの?』
「掘りました」
無線の向こうで、指揮官が何か言いかけて、やめた。
「列、進め!背の高い人だけ頭を下げろ!」
◇
「学生」
声は、思ったより近くから来た。
深町が、ステージから降りて南側へ回り込んできていた。
「あんた、〈静止線〉が切れないのは分かってんだよな」
「分かってます」
「なのに来た」
「〈静止線〉以外は切れるので」
「二回目やめとけって言ったよな。言われて、床掘ったのか」
「声は出してません」
深町の目が細くなり、リールが回った。線が、晶の足元へ走る。
晶は跳んでいた。回す動作を見た時点で、跳ぶ場所は決めてある。線が張られたのは、さっきまで晶が立っていた床だった。
着地したところへ、次の線。左足の爪先が固定される。
晶は靴を脱いだ。靴だけが線に取られ、晶は靴下のまま横へ転がる。
「器用だな。けど、こっちはまだ張れる」
さらに線が走った。晶の左右と頭上を塞ぐ。動けば触れる。動かなければ、次の線で潰される。
晶は星点を二つ灯した。右手前の柱、その根元に貼り付いた起点の筒。二点を結んで、表面ごと剥がす。
筒が転がり、左側の線が三本まとめて消えた。
消えた分を、深町は埋め直した。腰から筒を抜いて、投げて、リールを回す。それだけだった。
——割に合わない。
星綴りは、選んで、置いて、結んで、初めて切れる。深町は投げて回すだけでいい。
床に、機構隊員が一人倒れていた。腰のホルダーに伸縮式の警棒。
「借ります」
言い終える前に、晶は抜いていた。隊員は目を丸くしたが、止める余裕がなかった。
晶は借りた警棒で床の折り畳み椅子を倒し、起点を数センチずらした。線の角度が変わる。
「……なるほど。切るのをやめたか」
「起点は物なので。切るより、ずらす方が安く済みます」
深町は、腰から新しい筒を出した。
ここから先は、速かった。
深町は晶本人ではなく、晶の次の移動先へ先回りして線を張り始めた。読み合いの間隔が、一手ごとに短くなっていく。
「学生。あんた、誰に習った」
「独学です」
「嘘つけ」
晶は前へ出た。警棒を右手に、身体を低く。
だが、踏み込むより早く、線が警棒の中ほどを空中で止めた。
金属が鈍い音を立てて折れた。晶の右手には短い柄だけが残り、親指の付け根が裂けていた。
「機材の限界だな」
深町が言った。
「あんたの動きに、その棒が耐えられてない。その振り方をどこで覚えたんだって話だよ」
晶は、折れた柄を持ち直した。
◇
真壁士門は、腕の三本目を制圧したところで、南側を見た。
学生が一人、折れた警棒の柄だけで深町と向き合っている。
普通なら、退けと怒鳴る場面だ。
真壁は、怒鳴らなかった。
殺していない。天井や床を崩せば、深町は無事では済まない。その手を、取らなかった。
四本目の腕が、真壁を背後から襲った。真壁は振り返らずに、付け根へ剣を入れる。
本体側の接続を切れば塊は止まる。だが、中心の男まで巻き込む。
だから、切らなかった。隊員の装備袋から打撃杭を抜いて、金属腕を床へ縫い止める。
短時間なら、剣がなくても保つ。
◇
晶と深町の膠着へ、真壁の声が割り込んだ。
「晶」
晶が振り返った。深町も、そちらを見た。
名前だった。学生でも、水瀬でもなく。
「使え。そっちは任せる」
真壁は、右手の剣を放った。
ホールの音が、一瞬だけ遠のいた。
刃が、照明の落ちた空気を横切ってくる。反りの浅い、片刃の長剣。刃の中ほどに、五年前にはなかった細い傷がある。
これは真壁の剣だ。この五年、真壁が使い、真壁の名前と一緒に世の中に知られてきた剣だ。
「悪いな。俺は、物を止めるのが専門なんだ」
刃が止まった。柄と刃先を取られて、剣が水平のまま空中で静止する。
晶との距離は、まだ開いていた。
その距離のまま、晶は右手を開いた。
手首で、〈星綴り〉のプレートが続けて回る。星を呼ぶ。
空中の剣が光になった。輪郭が星の形に散って、その場から消える。深町の線は、何もない空間を止めたまま残った。
次の瞬間、開いていた晶の右手が、柄を掴んでいた。
重さが、掌へ落ちてくる。
昔と同じ重さではない。同じ重さなのに、昔より軽い。腕が伸び、背も握力も違う。五年ぶんの身体が、この重さを別のものとして受け取っている。
晶は何度か握り直し、ようやく手に収めた。
ホールのどこかで、誰かが息を呑んだ。
「なんだ、今の」
深町が言った。
初めて、声に温度があった。
「呼んだのか。あんた、それを呼んだのか」
「はい」
「呼べるものを持ってる人間が、なんでさっきまで棒切れ振ってた」
「この剣は、今は俺のじゃないので」
晶はそう答えて、構えた。
ホールに残っていた人質と、機構の隊員と、扉の外の救護班と、入口の脇の直樹が、それを見ていた。
北側の扉の手前では、渚が振り返り、美緒がその隣で足を止めていた。
隊員の一人が、無線へ何か言いかけて、やめた。
真壁士門が、多くの人間が見ている前で、自分の剣を高校生へ投げ渡した。
その高校生は、途中で止められた剣を、空中から呼んだ。