ループ帰りの高校生は、まだ無名の切り札 〜数百年ぶりに、明日を知らない〜 作:エルベール
「学生。あんたが近づいたら、あそこに残ってる人質の誰かの首のところに線を張る」
深町は、北側の扉の方へ顔を向けたまま、そう言った。
晶は止まった。
止まったのは、脅されたからではない。深町が「首のところに」と言ったとき、視線がどこへ動くかを見るためだった。
深町の目は、列の後ろの方へ行った。
そこには、渚がいた。前の人の背中に手を添えて、順番を組み直している。
——いちばん動いてる人間を選んだ。
正しい選択だ。動いている人間を止めれば、列全体が止まる。
腰のリールを切れば、線は全部消える。だが、行き場をなくした出力がどこへ抜けるかは、切ってみないと分からない。三百年ほど前、晶は別の遺物でそれを試して、人質の側へ抜けさせたことがある。
——本体は、最後だ。
晶は、右の袖を払った。
手首でプレートが回り、天井へ星点が二つ灯る。
短い線が通って、『遺物安全フェア』の横断幕が、片側の吊り元から落ちた。深町の頭上ではない。ステージの、誰もいない側だ。
布が落ちる音と、視界を横切る影。深町が、そちらへ首を回した。
リールを回してから線が出るまでの遅れと、同じくらいの時間だった。
その時間で、晶は列の手前へ入り、剣を横へ薙いだ。
刃が通ったのは、人でも、床でも、線でもない。列の頭上を横切ってリールへ戻っている、経路の方だった。
音はなかった。
北側の扉の手前で、線が消えた。
固定されていた二人が、体勢を崩す。晶は近い方の肘を掴んで引いた。もう一人の背中は、渚が両手で受けていた。
「立てる人から扉へ。隊員の指示に従ってください」
「はい」
渚の返事に、迷いはなかった。渚が迷わないのは、やることが決まっているときだ。
列が動き出す。残っていた人質が扉の外へ流れ出し、美緒が最後尾で子どもの手を引いていた。
晶と目が合う。美緒はうなずいて、扉の向こうへ消えた。
これで、ホールの中に一般人はいなくなった。
晶は無線を上げた。
「ホール内、一般人の退避が完了しました。条件の更新をお願いします」
『……深町が逃げるか、こちらへ手を出すなら、遺物の停止まで。ただし搬入通路までは入らないで』
「了解」
晶は、深町の方へ向き直った。
深町は、追わなかった。ステージの縁に腰を預けるようにして、リールを親指で回している。
「……ああ、そう。そっちを先に外したか」
「はい」
「言っとくけどな、学生。俺はさ、人を殺しに来たわけじゃないんだよ」
「知ってます」
「知ってるならありがたい」
深町は、そこで初めて笑った。
「けど、人質がいなくなったら、俺はもう逃げるしかない」
そこから先は、速かった。
深町は残りの筒を投げて、ホールの南半分を格子で埋めた。逃げるためではない。晶を止めるためだ。線は晶の正面ではなく、晶がこれから足を置く場所へ、先回りして張られていく。
晶は、切る線を選んだ。
抜けられる線は抜け、抜けられない線は、起点とリールを結ぶ経路の方を切る。一太刀で、一つ。深町が張る。晶が消す。その応酬が、搬入通路の入口で拮抗した。
その中で、深町がほんの一手だけ先に出た。
だが、その一手を晶には使わなかった。搬入通路の奥で真壁が追加の打撃杭を振り下ろそうとする、その軌道へ線を張った。杭が線を横切れば空中で止まる。固定が遅れれば、暴走した腕は自力で杭をこじって真壁の戦場を崩せる。その混乱の中を、深町は抜けるつもりだ。
腕は、放っておいた。
晶が探していたのは、リールと深町自身を結んでいる細い経路の方だった。細いから、見つけるのに時間がかかった。
深町が、真壁の打撃杭を止めるために出力を割いた、その一瞬。
刃を、腰の右側——身体すれすれの空間へ、下から上へ通す。
深町の身体には触れていない。服も切れていない。
だが、リールから光が消えた。
同時に、線の格子がすべて消えた。真壁の打撃杭が振り下ろされ、暴走した腕を床へ押さえ込む音がした。
保護膜が消えれば、身体強化も消える。強化に合わせて動いていた身体が、急に、ただの二十八歳の男の身体になった。
深町は、右足を踏ん張ろうとして、踏ん張れなかった。
膝から落ちる。
晶は、その背中を左手で軽く押した。
深町がうつ伏せに倒れた。
立てこもりは、それで終わった。
◇
「遺物、停止。主接続を切りました。本体は腰のリールです。再接続の可能性があるので、確保後に外して封印してください」
無線へ流す。
『……了解。隊員を向かわせる。あなたは離れて』
指揮官の声だった。
深町は、抵抗しなかった。床に頬をつけたまま、晶の方を見ていた。
「……なあ。あんた、いつから俺を見てた」
晶が答える前に、深町は自分で続けた。
「事件が始まってすぐだ。あんた、入口の外に座って、ずっとこっち見てただろ。俺はあれを、怖がって固まってるガキだと思ってた。起点を貼るとき、俺がどこを気にするか。人質を脅すとき、誰を選ぶか。全部、あそこで見てたんだろ」
「全部じゃないです。逃げる方向は外れてました」
「変えたんだよ。あんたが見てるのに気づいたから」
「気づかれたのは俺のミスです」
深町は、笑わなかった。
「戦い方が上手いんじゃねえんだな、あんた。上手い奴なら、俺はもっと早く負けてた。あんたは上手いんじゃなくて、俺より先にここへ来てた」
晶は、否定しなかった。
否定できなかった、という方が近い。
こういう相手を、晶は数え切れないほど取り逃がしてきた。見て、順番を決めて、それでも一つ読み違えて、その一つで人が死んだ。何度も。深町が「先に来てた」と言うものは、そういう回数の積み上げでできている。
言ったところで、信じられる話ではない。
「褒めてるんじゃないぞ。俺は、ちょっと怖いって言ってんだ」
隊員が走ってきた。深町の腕を後ろへ回し、拘束具をかけ、腰からリールを外して抑制用の容器へ入れる。
その途中で、深町は晶を見上げた。
「あんた、いくつだ」
「十七です」
「十七」
深町は、そこで初めて、心底うんざりしたような顔をした。
「十七の目の前で、俺はあの時間ずっと、全部見られてたのか」
深町は、搬入通路の奥を見た。
「黒田さんは?」
「確保されています」
「……そうか」
隊員が、深町を連れていった。
晶は、剣を右手へ持ち直した。
指の傷が開いていて、柄の巻きに血が滲んでいた。あとで真壁に謝らないといけない、と晶は思った。
それから、真壁の方を振り返った。
真壁の方は、もう終わっていた。
◇
金属の腕は四本とも、打撃杭で床と壁へ縫い付けられている。中にはコンクリートを貫き、その先の柱まで届いた杭もあった。
塊の継ぎ目から青白い光は消えている。取り込まれていた測定器や抑制装置、保管容器は、接続だけを切られて床へ並べられていた。どれも壊れているが、切断はされていない。
中心にいた男は外へ引き出され、両手を後ろで拘束されて座っている。意識はある。裂けた作業服の下で、左肩から胸が赤黒く腫れていた。
その足元から一メートルほど離れた場所に、金属の箱が置かれている。角は潰れ、蓋の縁が裂け、取っ手は片方もげていた。それでも、箱としての形は残っていた。
真壁は箱の横で、隊員へ指示を出していた。右手には打撃杭が一本。剣はない。
晶が近づくと、真壁は顔を上げた。
「終わったか」
「終わりました」
「怪我は」
「手を切りました。それだけです」
真壁は晶の右手と、剣の柄に滲んだ血を見た。
「そうか」
晶は金属腕の方を見た。
「……あれ、七本も打ったんですか」
「六本で足りるはずだった。一本外した」
「珍しいですね」
「うるさい」
晶は笑いながら、真壁の前で剣を両手に持った。柄の巻きには、血が残っている。
「これ、返します」
「巻きは、あとで替えてください。俺がやると、巻き方が違います」
「違うだろうな。お前の巻き方は古い」
真壁は片手で受け取りながら刀身を見た。
「刃こぼれなし」
「最低限しか使ってないので」
「それが難しいんだよ」
「助かりました」
「貸しただけだ」
真壁は剣を背中の鞘へ収めた。
それ以上、二人は何も言わなかった。周囲では何人もの職員が作業をしながら、こちらを見ないようにしていた。
そのうちの若い隊員が、我慢できずに口を開いた。
「あの、真壁さん。なぜ〈継目喰らい〉を高校生に?戦略級ですよ。問題になりませんか」
「なるだろうな」
真壁は面倒そうに首を回した。
「聞きたいのは、そこじゃないだろ」
「……なぜ彼なのか、です」
真壁は晶を見ず、隊員へ答えた。
「あの場では、あいつしかできなかった。だから任せた」
「それだけですか」
「それ以外に何が要る」
真壁は歩き出した。
隊員はその背中を見送ってから、晶を見た。晶は目を合わせなかった。
◇
現場指揮官が晶を呼んだのは、午後六時を過ぎてからだった。
保全区画の外に置かれた椅子へ座ると、自分の脚が重いことに気づいた。
「確認事項を並べます。パネル転倒時の〈星綴り〉は緊急避難。事件中の使用は、私が協力を求めた形で処理します。ただし、使用内容は全部記録される」
「床を掘ったのも」
「掘らないでください。本当は」
指揮官は真顔だった。
「真壁士門による戦略級遺物の貸与と、あなたの照会記録は本部へ上げます。身元引受人にも報告します」
晶は、少しだけ姿勢を直した。
「……報告、するんですね」
「義務です。嫌そうね」
「怒られるので」
「そういう立場の人が、未成年に怒るんですか」
「よく怒ります」
指揮官は少し笑い、タブレットを閉じた。
「私が今日いちばん迷ったの、あなたに無線を渡したときなの。あそこで断ってたら、どうしてた?」
「たぶん、入ってました」
「ほら」
「でも、無断で入れば、あなたに『下がれ』と言われる。そのたびに従うか考えながら戦うことになる。手数が半分になる。だから先に、止める条件を切ってもらったんです」
「私を使ったの?」
「使わせてもらいました。あなたに止めてもらう方が、俺は速いので」
指揮官はしばらく晶を見て、短く笑った。
「次があったら、先に私を探しなさい。今日の処理は、ぎりぎり私の権限内だった」
「探します。探して、いなかったら、別の人を頼ります」
「そこは嘘でも『はい』でいいのよ」
◇
モールを出たのは、午後七時を回ってからだった。
買い出しの荷物は、サービスカウンターに預けたまま、何ひとつ壊れずに残っていた。
「……無事だ」
直樹が荷物を受け取った。
「無事だな」
晶も言った。
「なんか腹立つな。こっちは大変だったのに、こいつら普通に置いてあるから」
美緒が笑い、少し咳き込んだ。
渚はレシートと申請書を照らし合わせていた。
「先輩。領収書、全部あります。予備のテープ六巻も」
その声が、少しだけ揺れた。
晶は渚の手元を見た。紙を持つ指が、細かく震えている。
「汐見」
「はい」
「頑張ったな」
渚は顔を上げ、何か言おうとして、言わなかった。
直樹も美緒も、そのやり取りには何も挟まなかった。
四人は荷物を分けて持った。重いものは晶が持ち、紙の束は一番上に載せた。