ループ帰りの高校生は、まだ無名の切り札 〜数百年ぶりに、明日を知らない〜 作:エルベール
事件から三日が経っていた。
宮下直樹は、放課後の中庭でニュースを眺めていた。
『ショッピングモール人質事件、容疑者二名を送検』『機構、遺物二件を押収』『負傷十一名、死者なし』。
真壁士門の名前は初日の記事に一度だけ出て、その後は「機構の上位戦闘員」に変わった。高校生が戦略級遺物を借りたことは、どこにも載っていない。
「載らないんだね」
隣の小日向美緒が画面を覗いた。
「そういうもんなんじゃない?」
「水瀬くん、今日も来てないね」
「放課後は機構。今週いっぱい聴取だってさ」
直樹はスマートフォンを伏せた。
中庭の向こうで、文化祭の看板を運ぶ一年生へ、誰かが「持ち手、下!」と叫んでいる。
「小日向。あの中、どうだった」
美緒は手のひらの絆創膏を撫でた。
「怖かった。あと、暇だった」
「暇?」
「何も起きない時間が、すごく長かった。ずっと座ってるだけで、トイレにも行けない。子どもが泣くと、みんな一斉に見るの。見て、何もできない」
美緒はさらに続けた。
「私も何もできなかったと思ってた。でも汐見さんが、四人動かしてたって言ってくれた。ずっと見てたんだって」
「汐見さんらしいな」
「宮下くんは?」
直樹は、自分の指を見た。
「……あいつ、最初から入口の線を切れたんだ。それでも、人質が危ないから入らなかった」
「うん」
「途中で一人、怪我した。あいつは気づいてて黙ってた。俺、それを横で見てた」
「怒鳴りたかった。怒鳴らなかったけど」
直樹は顔を上げた。
「あいつ、助けられなかったんじゃない。助けない方を選んだ瞬間があった。でも、動かなかったから助かった人がいるのも分かる。だから、どう見ればいいのか分からない」
美緒は看板を運ぶ一年生たちを見ていた。
「私たちに見えなかったものが、水瀬くんには見えてたんだと思う」
「見えてたら、正しいのか?」
「違う。でも、見えていたことまで、なかったことにはできない」
「ずるいな、それ。どっちも否定してない」
「だって、どっちも本当だし」
直樹は空を見上げた。
「俺、あいつのこと、一生分からないかもしれない。それでも明日、普通に『おはよう』って言うと思う」
「言えばいいと思う」
「逃げてるのかな」
「分からないままにしておくのと、考えないのは違うよ。宮下くん、ちゃんと考えてるじゃん。三日も」
「三日も考えてる自分が、いちばん気持ち悪いわ」
美緒は笑って立ち上がった。
「私も一つだけ決めた。今度、水瀬くんが『動かない』って言ったら、『なんで?』って聞く」
「答えてくれなかったら?」
「それでも、聞いたって事実は残るから」
直樹は少し笑い、三日間固くしていた肩を下ろした。
◇
文化祭前日の夕方、生徒会室には晶と渚だけが残っていた。
机の上には進行表、備品の受け渡し表、雨天時の代替案。それから、モールで買った品物の残りが段ボール一箱ぶん。
「養生テープ、四巻残っています」
「来年に回せばいい」
「年度をまたぐ備品は、記録が違います」
「そこまで考えるのか」
「考えます」
晶のスマートフォンが震えた。画面を伏せたまま、通知を消す。
「機構ですか」
「いや」
「今週ずっと、電話が鳴ると背筋が伸びています」
「身元引受人に怒られてる」
渚は少し目を丸くした。
「先輩、ご家族とは一緒に住んでいないんですよね」
「住んでない」
「引受人の方が別にいるんですか。どういう方です?」
「言えない。俺が黙ってるんじゃなくて、記録に出ないようになってる」
渚は伏せられた画面へ一度目を落とした。
「では、その方のことは聞きません。怒られた内容は聞いてもいいですか」
「三つあった」
「三つも」
「記録が上へ回ったこと。剣を借りたこと。それから、現場で靴を片方なくしたこと」
渚が瞬きをした。
「現場で脱いだ。線に取られたから。それで、『十七にもなって靴をなくすな』って」
渚は口元を押さえたが、間に合わなかった。
「すみません」
「笑っていい」
「笑っています」
この三日で、渚が笑うのを初めて見た気がした。
笑いが引いたあと、渚は付箋を貼る手を止めた。
晶は待った。
渚は制服の襟元から銀色の鎖を引き出した。先には、掌に収まる小さな錨が下がっている。
首から外し、机へ置いた。
「これ、〈
晶は錨を見たが、名前は口にしなかった。
「驚かないんですね」
「驚いてる」
「顔に出てません」
「顔に出す練習をしてないんだ」
渚は、笑おうとしてうまくいかなかったように息を吐いた。
「汐見の家が代々管理している、古い遺物です。場所を守るために使います」
渚は、小さな錨へ指を置いた。
「あの日も持ってたな」
「気づいていたんですか」
「何か下げてるのは見えた。何かは分からなかった」
渚は端末から手を離した。
「三回、握りました。腕を線に取られた人がいたとき。天井のバトンが落ちたとき。それから、先輩が床を掘ったあと」
「三回とも?」
「放しました」
渚の声は、事務連絡のときとほとんど同じだった。
「できることは、私にもありました。でも、動いた後が分からなくて、放しました」
渚は錨の腕を指でなぞった。
「それに、使えば家にも知られる。外学が終わって、生徒会も文化祭も途中で放り出すことになるかもしれない」
渚は晶を見た。
「自分の今の生活を失うのが怖かった。情けないと思いますか」
「思わない」
「先輩は、そう言うと思いました」
「なら聞くなよ」
「聞きたかったんです」
渚は錨を両手で包んだ。
「小日向さんは、何も持っていませんでした。それでも四人を動かした。私は、遺物を持ったまま動かなかった」
渚の手が膝の上で握られる。
「私が使っていれば、怪我をした人を減らせたかもしれません」
晶は、モールの搬入通路を思い出した。線に触れようとする手を見ながら、自分も動かなかった。
「俺も、最初は動かなかった」
「先輩は途中で動きました」
「条件が変わったからだ」
渚は首を横に振った。
「私にも変わっていました。変わったのに、動かなかった」
「そうだな」
渚が一瞬、苦しそうに目を伏せた。
晶は否定しなかった。否定すれば、渚が三日間抱えていたものまで、なかったことになる。
「動いた結果、別の誰かが傷ついたら、どうするんですか」
「分からない」
渚が顔を上げた。
「分からないまま、決めるんですか」
「そういう時もある。止まっても傷つく」
「先輩は、それで平気なんですか」
「平気じゃない」
晶は机の木目を見た。
「手首を怪我した人がいただろう。俺は、あの人が線に触るのを見てた。声を出せば止められた。でも、出さなかった」
渚が息を呑む。
「入らないと決めた以上、深町に読まれるわけにはいかなかった。今も、あれでよかったかは分からない」
「では、何が変わったら、決め直すんですか」
晶は顔を上げた。
「最初に決めた理由だ」
「理由」
「あの日、使わないと決めた理由の一つは、機構の作戦が成立していたことだ。作戦が崩れたとき、その理由は消えた」
渚は錨を見た。
「……消えたのに、私は最初の決定を持ち続けた」
「そうだ」
「私、決めたつもりでした」
「最初に決めたのは、決めたんだ。二回目を決めなかっただけだ」
渚は両手で顔を覆い、すぐに下ろした。泣いてはいない。ただ、目のふちが赤かった。
「次は、使ってよい条件を事前にすべて確認しておきます」
晶は口を開きかけ、閉じた。
全部は確認できない。
けれど、それを今教えれば、渚はまた晶の答えを正解にしてしまう。
「そうか」
「はい」
渚は少し安心した顔をした。その顔を見て、晶は、自分が逃げたのかもしれないと思った。
◇
片付けが終わったのは、午後六時半だった。
進行表を封筒へ入れ、備品を入口の脇へ寄せた。残った養生テープには、渚が「来年度への繰越」と書いた付箋を貼った。
窓の鍵を確認していた渚が、外を見た。
「明日、晴れるみたいです。雨天時の代替案、使わずに済みます」
「作った意味がないな」
「あります。作らないと不安なので」
渚は鞄を持った。
「先輩。今日、ありがとうございました」
「何もしてない」
「聞いてもらいました」
「聞くのは誰でもできる」
「誰でもできることを、誰もやらないんです」
晶は電気を消した。
机の上の封筒が、窓から入る夕方の光に白く浮かんだ。
「明日は、予定どおりに終わるといいですね」
晶は扉の鍵を回した。
「予定どおりじゃなくても、終わらせればいい」
渚は机の上の雨天時代替案を一度振り返ってから、うなずいた。
「そうですね」
廊下には、看板を運ぶ声と、脚立を畳む音と、どこかの教室から流れる音楽が混ざっていた。
二人は、その中を歩いていった。
◇
三階の視聴覚室には、明日の展示品が並んでいた。
人のいなくなった部屋で、ケースの中の黒い円盤が、静かに置かれている。
中央の細い針が、ひとつだけ進んだ。