ループ帰りの高校生は、まだ無名の切り札 〜数百年ぶりに、明日を知らない〜   作:エルベール

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五回目の朝

九時へ戻る瞬間が、いちばん怖い。

 

低い鐘が鳴った直後、汐見渚(しおみ なぎさ)の視界は一度だけ暗くなる。

 

次に聞こえるのは、文化祭の開場を告げる校内チャイムだ。

 

手の中には、さっきまで持っていた紙がない。代わりに、朝から持っていた進行表がある。折ったはずの角も戻っている。

 

廊下の向こうでは、一年生が同じ看板を同じ角度で持ち上げていた。

 

五回目の、午前九時だった。

 

昨日書いた「次の九時、先輩へ五分で話す順番」はない。分かっていたのに、渚は進行表のあいだを二度確認した。

 

昨日の紙も、書き込みも残らない。学校ごと、同じ九時の状態へ戻される。

 

照明が一度落ちた。すぐに非常電源へ切り替わる。

 

また始まった。

 

 

一周目のことは、いまでも覚えている。

 

事故は午後三時十二分に起きた。

 

三階の視聴覚室。大学の研究室と機構が共同で出していた遺物の安全展示だった。一般級の遺物ばかりで、触れることも動かすこともできない。事前申請は渚自身も確認していた。

 

それでも、ケースの中の遺物が一斉に反応した。

 

最初に鳴ったのは床だった。

 

軋みとともに床が大きく沈み、四十人ほどの来場者が出口へ殺到した。下の階からも悲鳴が聞こえた。

 

渚は襟元から〈常凪(とこなぎ)〉の端末を引き出した。

 

二つの錨を打ち込む。沈んだ床の端とまだ生きている天井。二つの錨の間に光の鎖が走り、床の沈み方が、一瞬だけ鈍る。

 

止まらない。

 

この部屋だけを守っている場合ではなかった。

 

渚には、そのとき学校全体の形が見えていた。

 

三階だけではない。二階の教室。階段。正門。校庭まで、どうすれば学校を残せるかが、一つの形として頭に浮かんだ。

 

——学校全部を、守る。

 

考えきるより先に、渚は端末を両手で握り、学校の外にある〈常凪〉の本体——母艦へ、学校全体を一つの保護領域として要求した。

 

最初に三階の床へ、次に二階の天井へ錨が打ち込まれ、それらを結ぶ光の鎖が次々と成立していく。

 

そこから主要な柱、天井、階段、正門、外周へ、無数の錨が打ち込まれ、領域の固定が学校中に広がった。

 

全部が完成するのを待たず、成立した場所から揺れが鈍くなる。

 

三階の床が止まった。二階の天井も持ちこたえた。

 

学校全体を覆うように光の鎖が張られ、崩れようとする力が一か所へ集中せず、別の固定へ逃がされていく。

 

転んだ子どもを先生が抱き上げ、機構の展示担当が出口を開けた。渚は学校を一つの形として捉えたまま、〈常凪〉の端末を握り続けた。

 

——止められた。

 

負傷者は十四人。死者はいなかった。しかしその直後から、校外との通信が途絶えた。

 

電話も通常無線も通じない。校門から外へ出ようとした人間は、境界に阻まれた。校内にいた機構職員と教職員が来場者を校庭へ集め、文化祭は当然、中止になった。

 

外部電源は切れていたが、非常電源は生きていた。水もすぐには止まらなかった。

 

建物の安全確認が終わらず、〈常凪〉の領域は維持したままだった。

 

十八時。

 

地の底から、低い鐘のような音が鳴った。

 

 

次に渚が立っていたのは、朝の校舎だった。

 

午前九時。

 

二周目、渚は教師と校内の機構職員へ訴えた。

 

午後三時十二分に事故が起きること。展示に問題があること。九時から通信が切れ、学校の外へ出られなくなること。

 

最初は根拠を示せなかった。

 

「何時に、何が起きるんですか」

 

機構の担当者は丁寧に聞き、ケースの固定を一つずつ見直してくれた。渚を笑う者はいなかった。ただ、異常も見つからなかった。

 

午後三時十二分、事故は起きなかった。床は沈まなかった。

 

誰も責めなかった。ただ、午後の見回りは元の担当へ戻っていた。

 

渚はそこで初めて、一周目に張った〈常凪〉の領域が学校へ残っていることに気づいた。床が沈まなかったのは、そのためだった。

 

母艦は学校の外にある。九時へ戻るのは学校の中だけで、母艦に登録された保護は戻らない。だから九時になるたび、母艦は同じ守りを学校へ張り直していた。

 

そして十八時、鐘が鳴った。

 

 

三周目、渚は御影志保(みかげ しほ)へ話した。

 

子どもの頃からの教育係で、志保も〈常凪〉の端末を持っている。外学のあいだは月に一度、様子を見に来る。今年はそれが文化祭に重なっていて、九時の開場から来場者として校内にいた。

 

もっと早く話すべきだった。

 

志保は否定も肯定もせず、事故の時刻、場所、前周で何を確認したかだけを聞いた。

 

そして学校側と校内にいた機構職員を、志保と一緒に動かした。

 

外へ照会はできない。

 

使えるのは、展示と一緒に持ち込まれていた資料、校内の解析装置、機構職員の知識、それから志保と渚の端末だけだった。

 

そこで見つかったのが、中央に針、外周に三重の環を持つ黒い円盤——〈帰航盤〉だった。

 

「この遺物は、学校全体を戻せますか?」

 

「できません。理屈上、できません」

 

登録上の機能は、密閉空間の無生物を、一度だけ短時間戻すこと。解析担当の職員は言い切ったあと、声を落とした。

 

「できないはずです……」

 

〈帰航盤〉は通常停止され、専用の保管容器へ封じられた。

 

「止まりました。これで大丈夫です」

 

解析担当が言った。渚も、そのときは信じた。

 

十八時。

 

鐘が鳴った。

 

 

四周目、渚はまず視聴覚室を確かめた。〈帰航盤〉は展示ケースの中にあり、外周の環がゆっくり回っていた。

 

停止も、保管容器も、前の周回の成果ごと九時へ戻っている。

 

——止めても、意味がない。

 

そして、もう一つ思った。

 

——また最初から説明するのは、もう嫌だ。

 

先生に頼った。学校に頼った。機構に頼った。志保にも頼った。

 

原因らしいものも見つけた。止めてもらった。

 

それでも終わらなかった。

 

四周目、渚は誰にもループを説明しなかった。

 

また何時間も説明と検証に使うことに、耐えられなかった。

 

代わりに、記憶だけで事故を六件潰した。潰しても今日が終わらないことは、もう分かっていた。それでも、手を動かしているあいだは、その先を考えずに済んだ。

 

そして、十四時四十分。

 

何も知らない先輩が、渚を見つけた。

 

「五回続いたら、たまたまじゃない」

 

「六回です」

 

自分で答えてしまった。そのあとに来た言葉を、渚は何度思い返しても同じところで息が詰まった。

 

——今、何周目だ?

 

先生にも、機構にも、志保にも、説明してから信じてもらった。

 

晶だけは、何も説明していないのに、自分を見て辿り着いた。

 

「……四周目です」と答えたとき、泣きそうになった。

 

泣かなかったのは、晶がすぐ次に「終わりの時刻は」と聞いたからだった。

 

それでよかった。

 

あそこで優しくされたら、たぶん耐えられなかった。

 

 

五回目の九時。

 

非常電源へ切り替わった照明の下で、渚は進行表を握り直した。

 

晶は忘れている。

 

それでも昨日、二人で順番を決めた。何をどの順で言えば、この人が最も早く理解するか。

 

九時二分。渡り廊下で、段ボール箱を二つ抱えた晶を見つけた。

 

「先輩。五分ください」

 

「五分?」

 

「時計を見ながら話します」

 

「箱を置いてからでいいか」

 

「二年C組の窓側です。四十秒で戻って来てください」

 

「そこまで指定するのか」

 

「します」

 

晶は怪訝そうな顔をしながらも、言われた場所へ箱を置いた。四十秒後、本当に戻ってきた。

 

渚は、昨日決めた順番を頭の中でなぞった。決めた本人は忘れている。

 

戻ってきた晶の前で、渚は腕時計を見た。

 

「一。今日は文化祭当日で、五回目です。私は一回目から全部覚えています。先輩は覚えていません」

 

晶の目がわずかに動いた。遮りはしなかった。

 

渚は、原因と思われる円盤、停止させても九時へ戻ったこと、十八時の鐘、学校が外界から隔離されること、今日残っている事故、校内の機構職員について、昨日決めた順番で説明した。

 

四分十秒。

 

「証拠は?」

 

「九時十五分、中庭に風が吹きます。三番目のテントが煽られます。脚を寄せる必要があります」

 

「寄せなかったら?」

 

「鉄板の上へ倒れます」

 

晶はうなずいた。

 

「分かった。中庭に行こう」

 

「疑うんですか」

 

「テントが倒れたら大変だからな。それに……」

 

一度言葉を切った晶は、渡り廊下の柱へ寄りかかった。

 

「疑ってたら最後まで聞いてない。俺が知りたいのは、お前が正しいかじゃなくて、今日どう動けばいいかだ」

 

渚はその言葉をすぐには理解できなかった。

 

二周のあいだ、教師にも機構にも、自分を信じさせようとした。説得される前から「どう動けばいい」と聞いた人は初めてだった。

 

「五分で、足りましたか」

 

「四分十秒だった」

 

晶は少し笑った。

 

「誰が作った、その順番」

 

昨日の晶と二人で決めた。けれど、目の前の晶は知らない。

 

「……私です」

 

「そうか。上手いな。よくできてる」

 

晶は中庭の方へ歩き出した。

 

「風が吹いたら、一周目にお前が何をしたか教えてくれ」

 

渚の足が止まった。

 

「事故を止めたことは、話しました」

 

「何を止めたかは聞いた。何を使って、どこまで守ったかを聞いてない」

 

晶は振り返らなかった。

 

「たぶん、そっちの方が大事だ」

 

 

九時十五分、風が吹いた。

 

中庭のテントが一斉に揺れ、三番目の脚が浮きかけて、地面へ戻った。

 

「十分だけくれ。一周目から整理したい」

 

晶は中庭の端へ寄って腰を下ろし、一周目について三つだけ聞いた。

 

「学校全体を、一つのものとして扱ったか?」

 

「はい。学校全体を一つの保護領域として指定して、母艦から補助を受け、錨を展開しました」

 

「いつまで維持した?」

 

「十八時までずっとです。建物の安全確認が終わらなくて、解除できませんでした」

 

「その〈帰航盤〉というのは、事故の前から動いてた?」

 

「外周の機構は動いていました。針は……確認していません」

 

「じゃあ、確認しよう」

 

晶は立ち上がった。

 

「もう分かったんですか!?」

 

「分かってない。思いついただけだ。合ってるか決めるのは、俺じゃない」

 

 

校内の機構職員が正門と通信断を確認し、文化祭は中止になった。

 

視聴覚室では、黒い円盤——〈帰航盤〉の外周がゆっくり回っていた。

 

解析担当の機構職員は額を押さえていた。

 

「前の周回で、私は〈帰航盤〉を止めたんですよね」

 

「そうです。私一人でもできるように、止め方まで教えてくれました」

 

「私には記憶も記録もない。先ほど、あなたから聞いただけです」

 

その横で、晶が円盤の仕様書を開いた。

 

「『一度だけ』というのは、戻せる回数の制限ですか?使ったあと、装置が消耗するからですか?」

 

「後者です。再充填しない限り二度目は使えません」

 

「使い切った装置そのものが、帰航対象の中に含まれて九時の状態へ戻ったら?」

 

担当者の手が止まった。

 

「……また使えるでしょう」

 

「その帰航対象を、円盤が自分で作ったんじゃないとしたら?」

 

担当者は渚の襟元を見た。

 

「汐見さんの遺物が作ったと?」

 

「可能性はあります。ただ、〈常凪〉は時間を戻す遺物ではありません」

 

渚が言うと、晶はうなずいた。

 

「戻すのは〈帰航盤〉です。〈常凪〉は、学校を一つのまとまりにしただけかもしれない」

 

担当者は仕様書と円盤を交互に見た。

 

「検証します。ここでは断定できません」

 

「お願いします」

 

晶はそこで初めて、自分の仮説を口から離した。

 

 

昼過ぎ、視聴覚室隣の準備室へ、機構職員三人、大学の助手、晶、渚が集まった。

 

最後に志保が入ってきて、渚の後ろに立った。黒いスーツのまま、荷物は持っていない。

 

「御影志保です」

 

「水瀬晶です」

 

「存じています。モールの件も」

 

挨拶はそこで終わり、検証が始まった。

 

〈帰航盤〉の出力、端末の記録、〈常凪〉の保護領域の範囲を順に照合した。渚は同じ質問へ何度も答えたが、今度は時間が失われていくことを気にしなかった。

 

解析担当はホワイトボードに二つの円を描き、重ねた。

 

「水瀬さんの仮説と一致します」

 

重なる部分を指す。

 

「〈常凪〉が学校全体を一つの保護領域にした。〈帰航盤〉が、その領域定義を帰航対象として拾っています」

 

担当者は、黒い円盤へ視線を移した。

 

「だから学校全体が九時へ戻る。〈帰航盤〉自体も学校の中にあるから、使い切った状態ごと九時へ戻って、また動ける」

 

晶が、仕様書の一行へ指を置いた。

 

「対象は無生物、時間は短時間。全然合ってませんね」

 

「〈帰航盤〉は、自分では対象を選んでいないんです。〈常凪〉が『学校』と定義したものを、そのまま受け取っている。そして〈常凪〉は、建物と人を分けません。守るものを一つの塊として扱う遺物です」

 

「だから学校ごと戻ると。中にいる人も、学校の部品として数えられているんでしょうね。でも、九時なのは?」

 

担当者は、円盤の外周を指した。

 

「この盤が回り始めた時刻でしょう。戻せるのは、盤自身の起点まで。それより前へは行けません」

 

九時。開場のチャイムと同時に、校内の照明が一度落ちた時刻だった。

 

「それから、戻しているあいだ、対象は閉じます。密閉空間、という条件だけは、まだ生きているんです。だから九時から外と切れる」

 

一周目、外と切れたのは事故の直後だった。帰航が始まったのが、そこだったのだ。担当者は、そこで一度、口を閉じた。

 

「短時間、というのは、部屋一つを想定した数字です。九時間へ引き伸ばす想定は、うちの登録にありません」

 

「では、なぜ汐見だけ覚えているんですか?」

 

晶が聞いた。

 

「領域を定義している側だからでしょう。汐見さんは学校の部品ではなく、学校をひとまとまりに数えている本人です。数える側は、数えられる中に入らない」

 

渚はホワイトボードを見たまま動かなかった。

 

「汐見さん。あなたの最初の〈常凪〉での処置は適切でした」

 

解析担当が続けた。

 

「〈常凪〉の領域がなければ、天井は落ちて、校舎も崩れていたでしょう。負傷者は十四人では済まなかった。適切な救助が、想定外の遺物と噛み合った。それだけです」

 

自分が学校を救った。

 

自分が繰り返しを成立させた。

 

どちらも、同じ日の、同じ選択だった。

 

「〈常凪〉側の領域を解除すればいいのでは?」

 

晶の問いに、解析担当が答えた。

 

「切り離せる可能性はあります。ただ、いま円盤とどう噛み合っているかを確かめずに解除するのは危険です」

 

晶が渚を見た。

 

「……二周目から、何度も試しました。でも、母艦が受け付けてくれませんでした。非常の手段はありますが、それはあとで話します」

 

五周目にして初めて、渚は潰すべきものの形を見つけられた。それでもまだ、止め方は分からない。

 

十四人を救った最初の判断を、間違いだとは思っていない。

 

それでも、正しかったから終われない。

 

渚は、消されずに残った二つの円を見続けた。

 

その事実だけが、ホワイトボードの上で重なっていた。

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