ループ帰りの高校生は、まだ無名の切り札 〜数百年ぶりに、明日を知らない〜 作:エルベール
「そろそろ十八時だ。そして俺は、今日のことを忘れる」
「また五分で話します」
「情報は渡せる。でも、今日ここで考えた時間までは渡せない。何か方法は?」
渚の顔が上がった。方法を知っている顔だった。
「……補助使用者登録。緊急時に、ほかの人を端末の系統へ紐づける機能です。〈常凪〉の維持側へ入れば、私と同じように記憶を持ち越せるかもしれません」
「かもしれない?」
「本来の使い方ではありません。それに……」
「反対します」
渚の後ろに控えていた志保が、渚の言葉を遮った。
「副作用が分かりません。何かあれば、責任は渚様に残ります」
渚は志保へ向き直った。
「御影さんは、次も覚えていますか?」
「違和感だけです。記憶はありません」
「では、私だけです。今日、先輩と機構の方は四十分で原因まで辿り着きました。でも私だけでは、今日も分からなかったと思います」
渚は端末を握り直した。
「もう、私一人で終わらせられる自信がありません」
「私に止める権限はありません。しかし、記録が本邸へ残ることは承知してください」
「分かっています。先輩、いいですか?」
「……分かった。やろう」
晶は迷いながらも、うなずいた。
登録は短かった。渚が〈常凪〉の端末を持ち、晶がその上へ手を重ねる。細い光が晶の手首まで走り、消えた。
渚が端末を襟元へ戻す指先は、かすかに震えていた。
十八時まで、あとわずか。
「覚えてたら、昨日の続きからだ」
晶は薄暗い校庭を見ながら、両手を握って開いた。
鐘が鳴った。
◇
晶が目を開けると、渡り廊下の窓から朝の光が差していた。
スマートフォンの日付は変わらない。時刻は九時。
志保の反対も、渚の手の冷たさも、鐘が鳴る直前の会話も、全て覚えている。
「……入ったな」
安堵の直後、胸の奥が冷えた。
忘れずに済んだのではない。自分も、渚と同じ側へ入った。
覚えているということは、閉じ込められたということでもある。十二歳の夏が浮かびかけて、晶は両手で顔を擦った。
——数えろ。一日ずつ数えろ。
——数えられているうちは、大丈夫だ。
九時二分、進行表を握った渚が渡り廊下の向こうから来た。
「先輩。五分ください。一。今日は文化祭当日で——」
「昨日の続きから始めよう」
渚の言葉が止まった。
「……覚えてるんですか」
「覚えてる」
「少し、待ってください」
進行表を胸へ抱えたまま、渚がうつむいた。
晶は待った。顔を上げた渚の目は赤かった。
「大丈夫です。行きましょう」
声は大丈夫ではなかったが、晶はそれを指摘せず、「行こう」とだけ答えた。
昨日までなら、同じ場所へ辿り着くまでに四十分かかった。
今日は、最初から昨日の続きだった。
◇
汐見渚は、七周目の午後、準備室の机に置かれた志保の端末を見ていた。
六周目は、前日の続きから始められた。それだけで調査に使える時間は増えた。
それでも、十八時には鐘が鳴った。
今日も朝から、〈常凪〉の領域を切り離す方法を試していた。志保の端末と連携しても、通常の解除は母艦に拒否された。
解析担当が、端末の内部記録から顔を上げた。
「通常手順では難しいです」
晶が渚を見た。
「汐見。五周目に言ってた非常の手段、まだ残ってるよな」
息が、一度止まった。
方法は知っていた。
知らないから黙っていたのではない。口に出せば、選択肢になるから黙っていた。
「渚様」
志保の声に促されて、渚は首から錨を外した。
「……あります。離艦といいます」
志保の顔が変わった。
「おやめください」
「まだ、やるとは言っていません」
渚は錨を掌に載せた。
「この端末を母艦から完全に切り離せば、学校の領域は解除できるはずです」
「その代わり、渚様は〈常凪〉の正当継承者ではなくなります。本邸にも入れなくなります」
解析担当が視線を上げた。
「戻せない操作ですか」
「戻せません」
自分で答えると、言葉の重さが少し遅れて来た。
母艦を継ぐことを嫌だと思ったことはない。外学が終われば家へ戻り、もっと訓練して、いつか自分が多くの場所を守る。
そうなると思っていた。
「なら、今選ぶ理由はありません」
渚は、志保の端末の核石が昨日よりわずかに暗いことに気づいた。
「消耗です。広域展開を繰り返していますから」
志保は表示を確認し、端末を伏せた。
志保は机の上の資料を一枚引いた。
「人は境界を越えられません。ですが、〈帰航盤〉だけなら通るかもしれない。まだ試していません。領域の定義を狭める方法も、検証が残っています」
「でも、離艦すれば終わるかもしれません」
「かもしれない、です。離艦後に学校がどう崩れるかも分かっていません。不可逆な手段を、未検証の手段より先に選ぶ理由にはなりません」
志保の言葉は、渚が教わってきた通りだった。
危険を洗い出す。戻せない決断は最後にする。まだ確認できることがあるなら、先に確認する。
間違っていない。
渚は晶を見た。
晶は握っていた手を一度開き、錨ではなく机の上の資料へ目を落とした。
「俺も、今やる必要はないと思う」
「先輩もですか」
「他に試せるなら先にそっちだ。戻せないものを、最初に切る必要はない」
渚は錨を握った。
離艦しない、と決めることならできた。
まだ試せることがある。明日は今日の続きから始められる。晶も覚えている。
「……分かりました。今日は離艦しません」
志保の肩から、わずかに力が抜けた。
「〈帰航盤〉を外へ出せるか、次に試します。それでも駄目なら、その次を考えます」
渚は端末を首へ戻した。
その日の十八時にも、鐘は鳴った。
◇
〈帰航盤〉を境界へ押し出そうとしても手前で止まり、志保の端末と二台で〈常凪〉の領域を狭めようとしても、分かっている事故をすべて潰して文化祭ごと朝から止めても、十八時には鐘が鳴った。
九時へ戻る瞬間は、何度目でも慣れなかった。
一年生が正門の看板を持ち上げる頃になると、時計を見なくても時刻が分かるようになった。
視界が暗くなるたび、渚は、もう試す必要のない手段を一つずつ頭から外した。
最初の何度か、先輩は九時になるたび「昨日の続きから」と言った。いつからか、それも言わなくなった。
◇
十四周目。
志保の端末の核石は、七周目より明らかに暗かった。
「私の端末から、母艦への接続ができなくなりました」
志保が何度か操作したが、反応は戻らなかった。
「原因に心当たりは?」
晶が聞いた。
「母艦の側です。九時のたびに、母艦は学校ひとつぶんの領域を最初から張り直しています。学校の中は戻っても、母艦は戻りません」
志保が、自分の端末を裏返した。
「使った分だけ、あちらは減っています。まず弱い中継から切れました。次は渚様の端末です」
渚は、自分の胸元を押さえた。
今日決めなくても、次の自分が決められる。そう思っていた。
「次の九時まで持つ保証はありますか」
志保は端末の表示をもう一度確かめてから答えた。
「ありません。渚様の端末まで母艦と接続できなくなれば、〈常凪〉の領域に干渉する方法を完全に失います。離艦の操作自体を受け付ける保証もありません」
解析担当が校舎の平面図を開いた。
「離艦だけでは、今日の帰航は消えません。領域が消えたあと、〈帰航盤〉に残った帰航処理を強制停止する必要があります」
「強制停止にかかる時間は?」
「数分です。しかし、領域を解除したことで学校が崩れる可能性があります」
「可能性ではありません。私が最初に崩壊を止めようとした時間は、もう過ぎています」
解析担当が顔を上げた。渚は、その顔へ向かって続けた。
「毎周、同じ時刻に同じ力が来ます。展示のケースが一斉に反応して、三階の床が抜けて、天井が落ちる。一周目に、そうなりました。二周目からは何も起きていないように見えますが、〈常凪〉が受け止めているだけです」
渚は、襟元の端末を服の上から押さえた。
「今日の分も、もう領域の中にあります」
「……解除すれば、それが一度に出ますね」
「はい」
解析担当は、平面図の上を手のひらで撫でた。
「それに、〈常凪〉は学校全体を固定しています。この建物は十四回、自分の重さを〈常凪〉に預けたまま十八時を迎えています。急に返されれば、無事だった場所が保つとも限りません」
解析担当はさらに、図面の校庭を指した。
「校舎も体育館も正門も崩れる可能性があります。校内には四百人以上いる」
「お待ちください」
志保が図面へ手を置いた。
「私は、もう一周使うべきだと思います。待っていれば領域を外から解除してくれる可能性もあります」
「次に回せば、避難の精度を上げられます。崩れ方の予測も、まだ実測ではありません」
志保はそこで一度言葉を切った。
「それに……私は渚様を離艦させたくありません。それは、私の感情です」
「俺は、もう一周には反対です」
晶が言った。
「次も離艦できる保証がない。今なら選べる。でも次の九時には、その権利ごとなくなるかもしれない」
志保の視線が晶へ向いた。
「あなたは、ループを恐れている」
晶は否定しなかった。
「……怖いですよ。以前、これに似たものの中にいた。だから今日終わらせたい。決断できるうちに」
「ですが、その恐怖を渚様の決断にしないでください」
「あなたは忘れるから、そんなことが言えるんでしょう!」
言ってから、晶は口を閉じた。取り消しはしなかった。
二人が言い争っているのは、渚が決めることだった。
「先輩」
二人が同時に渚の方を向く。
「私に、離艦しろと言っているんですか」
「違う。決めるのはお前だ」
「でも、先輩は今日で終わらせたいんですよね」
「……ああ。俺は、今日、終わらせてほしい」
隠されるより、ずっとよかった。
——もう一周あれば。新しい発見があるかもしれない。もっと安全にできるかもしれない。
渚はそう考えれば考えるほど、次の周回でも同じことを考えている自分まで想像できた。
「御影さん。もう一周使って、それでも足りない情報が見つかったら」
「その次の周回で補います」
「その次でも見つかったら?」
志保の返事は遅れた。
「……必要な情報が揃うまで、です」
「それは、いつ終わりますか?」
答えはなかった。
「御影さんに教わったから、私はここまで来られました。でも、全部分かるまで待っていたら、私はずっと決められません」
「それは慎重さです」
「終わらない慎重さです」
準備室が静かになった。
端末を握る指に力が入った。怖さは消えていなかった。
「渚様。私は同意しません。最後まで同意しません」
「ありがとうございます」
渚は一度、呼吸を止めた。
「それでも、私は今日、離艦します」
志保は目を閉じた。開いたときには、校舎の図面へ視線を戻していた。
「判断への異議は、全員を生かしてから伝えます」
「全員、校庭へ出しましょう。建物の中は危険です」
◇
渚は、校庭の中央に一人で立っていた。離艦後に端末が何をするか分からなかったから、人から離れることにした。
準備はすぐに終わった。晶が声をかけ、直樹と美緒が動いて、校舎と体育館に残っていた人まで校庭へ出した。
やることは簡単だ。渚が離艦する。解析担当は三階へ残り、〈帰航盤〉に残った帰航を強制停止する。
問題はその後だ。離艦後、校舎が崩れ始める。志保と機構職員は救助へ回り、晶は必要な場所だけ〈星綴り〉で切ってくれる。
校舎の倒れる予測は立てた。それでも絶対はない。
「先輩」
声は晶には届かない距離だった。
「私、まだ迷っています」
首から錨を外し、両手で持つ。迷いは消えていなかった。
ただ、消えるのを待たなかった。
「でも、決めます!」
音はなかった。
母艦との接続が切れた感覚は、痛みではなかった。ずっと背中にあったものが、なくなった感覚だった。
〈常凪〉の領域が強く光る。光の鎖が一瞬空を覆い、そして散った。
次の瞬間、地面の下から低い音がした。