ループ帰りの高校生は、まだ無名の切り札 〜数百年ぶりに、明日を知らない〜   作:エルベール

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戻れない決断

水瀬晶(みなせ あきら)は、準備室のホワイトボードに重なった二つの円を見ていた。

 

「そろそろ十八時だ。そして俺は、今日のことを忘れる」

 

「また五分で話します」

 

「情報は渡せる。でも、今日ここで考えた時間までは渡せない。何か方法は?」

 

渚の顔が上がった。方法を知っている顔だった。

 

「……補助使用者登録。緊急時に、ほかの人を端末の系統へ紐づける機能です。〈常凪〉の維持側へ入れば、私と同じように記憶を持ち越せるかもしれません」

 

「かもしれない?」

 

「本来の使い方ではありません。それに……」

 

「反対します」

 

渚の後ろに控えていた志保が、渚の言葉を遮った。

 

「副作用が分かりません。何かあれば、責任は渚様に残ります」

 

渚は志保へ向き直った。

 

「御影さんは、次も覚えていますか?」

 

「違和感だけです。記憶はありません」

 

「では、私だけです。今日、先輩と機構の方は四十分で原因まで辿り着きました。でも私だけでは、今日も分からなかったと思います」

 

渚は端末を握り直した。

 

「もう、私一人で終わらせられる自信がありません」

 

「私に止める権限はありません。しかし、記録が本邸へ残ることは承知してください」

 

「分かっています。先輩、いいですか?」

 

「……分かった。やろう」

 

晶は迷いながらも、うなずいた。

 

登録は短かった。渚が〈常凪〉の端末を持ち、晶がその上へ手を重ねる。細い光が晶の手首まで走り、消えた。

 

渚が端末を襟元へ戻す指先は、かすかに震えていた。

 

十八時まで、あとわずか。

 

「覚えてたら、昨日の続きからだ」

 

晶は薄暗い校庭を見ながら、両手を握って開いた。

 

鐘が鳴った。

 

 

晶が目を開けると、渡り廊下の窓から朝の光が差していた。

 

スマートフォンの日付は変わらない。時刻は九時。

 

志保の反対も、渚の手の冷たさも、鐘が鳴る直前の会話も、全て覚えている。

 

「……入ったな」

 

安堵の直後、胸の奥が冷えた。

 

忘れずに済んだのではない。自分も、渚と同じ側へ入った。

 

覚えているということは、閉じ込められたということでもある。十二歳の夏が浮かびかけて、晶は両手で顔を擦った。

 

——数えろ。一日ずつ数えろ。

 

——数えられているうちは、大丈夫だ。

 

九時二分、進行表を握った渚が渡り廊下の向こうから来た。

 

「先輩。五分ください。一。今日は文化祭当日で——」

 

「昨日の続きから始めよう」

 

渚の言葉が止まった。

 

「……覚えてるんですか」

 

「覚えてる」

 

「少し、待ってください」

 

進行表を胸へ抱えたまま、渚がうつむいた。

 

晶は待った。顔を上げた渚の目は赤かった。

 

「大丈夫です。行きましょう」

 

声は大丈夫ではなかったが、晶はそれを指摘せず、「行こう」とだけ答えた。

 

昨日までなら、同じ場所へ辿り着くまでに四十分かかった。

 

今日は、最初から昨日の続きだった。

 

 

汐見渚は、七周目の午後、準備室の机に置かれた志保の端末を見ていた。

 

六周目は、前日の続きから始められた。それだけで調査に使える時間は増えた。

 

それでも、十八時には鐘が鳴った。

 

今日も朝から、〈常凪〉の領域を切り離す方法を試していた。志保の端末と連携しても、通常の解除は母艦に拒否された。

 

解析担当が、端末の内部記録から顔を上げた。

 

「通常手順では難しいです」

 

晶が渚を見た。

 

「汐見。五周目に言ってた非常の手段、まだ残ってるよな」

 

息が、一度止まった。

 

方法は知っていた。

 

知らないから黙っていたのではない。口に出せば、選択肢になるから黙っていた。

 

「渚様」

 

志保の声に促されて、渚は首から錨を外した。

 

「……あります。離艦といいます」

 

志保の顔が変わった。

 

「おやめください」

 

「まだ、やるとは言っていません」

 

渚は錨を掌に載せた。

 

「この端末を母艦から完全に切り離せば、学校の領域は解除できるはずです」

 

「その代わり、渚様は〈常凪〉の正当継承者ではなくなります。本邸にも入れなくなります」

 

解析担当が視線を上げた。

 

「戻せない操作ですか」

 

「戻せません」

 

自分で答えると、言葉の重さが少し遅れて来た。

 

母艦を継ぐことを嫌だと思ったことはない。外学が終われば家へ戻り、もっと訓練して、いつか自分が多くの場所を守る。

 

そうなると思っていた。

 

「なら、今選ぶ理由はありません」

 

渚は、志保の端末の核石が昨日よりわずかに暗いことに気づいた。

 

「消耗です。広域展開を繰り返していますから」

 

志保は表示を確認し、端末を伏せた。

 

志保は机の上の資料を一枚引いた。

 

「人は境界を越えられません。ですが、〈帰航盤〉だけなら通るかもしれない。まだ試していません。領域の定義を狭める方法も、検証が残っています」

 

「でも、離艦すれば終わるかもしれません」

 

「かもしれない、です。離艦後に学校がどう崩れるかも分かっていません。不可逆な手段を、未検証の手段より先に選ぶ理由にはなりません」

 

志保の言葉は、渚が教わってきた通りだった。

 

危険を洗い出す。戻せない決断は最後にする。まだ確認できることがあるなら、先に確認する。

 

間違っていない。

 

渚は晶を見た。

 

晶は握っていた手を一度開き、錨ではなく机の上の資料へ目を落とした。

 

「俺も、今やる必要はないと思う」

 

「先輩もですか」

 

「他に試せるなら先にそっちだ。戻せないものを、最初に切る必要はない」

 

渚は錨を握った。

 

離艦しない、と決めることならできた。

 

まだ試せることがある。明日は今日の続きから始められる。晶も覚えている。

 

「……分かりました。今日は離艦しません」

 

志保の肩から、わずかに力が抜けた。

 

「〈帰航盤〉を外へ出せるか、次に試します。それでも駄目なら、その次を考えます」

 

渚は端末を首へ戻した。

 

その日の十八時にも、鐘は鳴った。

 

 

〈帰航盤〉を境界へ押し出そうとしても手前で止まり、志保の端末と二台で〈常凪〉の領域を狭めようとしても、分かっている事故をすべて潰して文化祭ごと朝から止めても、十八時には鐘が鳴った。

 

九時へ戻る瞬間は、何度目でも慣れなかった。

 

一年生が正門の看板を持ち上げる頃になると、時計を見なくても時刻が分かるようになった。

 

視界が暗くなるたび、渚は、もう試す必要のない手段を一つずつ頭から外した。

 

最初の何度か、先輩は九時になるたび「昨日の続きから」と言った。いつからか、それも言わなくなった。

 

 

十四周目。

 

志保の端末の核石は、七周目より明らかに暗かった。

 

「私の端末から、母艦への接続ができなくなりました」

 

志保が何度か操作したが、反応は戻らなかった。

 

「原因に心当たりは?」

 

晶が聞いた。

 

「母艦の側です。九時のたびに、母艦は学校ひとつぶんの領域を最初から張り直しています。学校の中は戻っても、母艦は戻りません」

 

志保が、自分の端末を裏返した。

 

「使った分だけ、あちらは減っています。まず弱い中継から切れました。次は渚様の端末です」

 

渚は、自分の胸元を押さえた。

 

今日決めなくても、次の自分が決められる。そう思っていた。

 

「次の九時まで持つ保証はありますか」

 

志保は端末の表示をもう一度確かめてから答えた。

 

「ありません。渚様の端末まで母艦と接続できなくなれば、〈常凪〉の領域に干渉する方法を完全に失います。離艦の操作自体を受け付ける保証もありません」

 

解析担当が校舎の平面図を開いた。

 

「離艦だけでは、今日の帰航は消えません。領域が消えたあと、〈帰航盤〉に残った帰航処理を強制停止する必要があります」

 

「強制停止にかかる時間は?」

 

「数分です。しかし、領域を解除したことで学校が崩れる可能性があります」

 

「可能性ではありません。私が最初に崩壊を止めようとした時間は、もう過ぎています」

 

解析担当が顔を上げた。渚は、その顔へ向かって続けた。

 

「毎周、同じ時刻に同じ力が来ます。展示のケースが一斉に反応して、三階の床が抜けて、天井が落ちる。一周目に、そうなりました。二周目からは何も起きていないように見えますが、〈常凪〉が受け止めているだけです」

 

渚は、襟元の端末を服の上から押さえた。

 

「今日の分も、もう領域の中にあります」

 

「……解除すれば、それが一度に出ますね」

 

「はい」

 

解析担当は、平面図の上を手のひらで撫でた。

 

「それに、〈常凪〉は学校全体を固定しています。この建物は十四回、自分の重さを〈常凪〉に預けたまま十八時を迎えています。急に返されれば、無事だった場所が保つとも限りません」

 

解析担当はさらに、図面の校庭を指した。

 

「校舎も体育館も正門も崩れる可能性があります。校内には四百人以上いる」

 

「お待ちください」

 

志保が図面へ手を置いた。

 

「私は、もう一周使うべきだと思います。待っていれば領域を外から解除してくれる可能性もあります」

 

「次に回せば、避難の精度を上げられます。崩れ方の予測も、まだ実測ではありません」

 

志保はそこで一度言葉を切った。

 

「それに……私は渚様を離艦させたくありません。それは、私の感情です」

 

「俺は、もう一周には反対です」

 

晶が言った。

 

「次も離艦できる保証がない。今なら選べる。でも次の九時には、その権利ごとなくなるかもしれない」

 

志保の視線が晶へ向いた。

 

「あなたは、ループを恐れている」

 

晶は否定しなかった。

 

「……怖いですよ。以前、これに似たものの中にいた。だから今日終わらせたい。決断できるうちに」

 

「ですが、その恐怖を渚様の決断にしないでください」

 

「あなたは忘れるから、そんなことが言えるんでしょう!」

 

言ってから、晶は口を閉じた。取り消しはしなかった。

 

二人が言い争っているのは、渚が決めることだった。

 

「先輩」

 

二人が同時に渚の方を向く。

 

「私に、離艦しろと言っているんですか」

 

「違う。決めるのはお前だ」

 

「でも、先輩は今日で終わらせたいんですよね」

 

「……ああ。俺は、今日、終わらせてほしい」

 

隠されるより、ずっとよかった。

 

——もう一周あれば。新しい発見があるかもしれない。もっと安全にできるかもしれない。

 

渚はそう考えれば考えるほど、次の周回でも同じことを考えている自分まで想像できた。

 

「御影さん。もう一周使って、それでも足りない情報が見つかったら」

 

「その次の周回で補います」

 

「その次でも見つかったら?」

 

志保の返事は遅れた。

 

「……必要な情報が揃うまで、です」

 

「それは、いつ終わりますか?」

 

答えはなかった。

 

「御影さんに教わったから、私はここまで来られました。でも、全部分かるまで待っていたら、私はずっと決められません」

 

「それは慎重さです」

 

「終わらない慎重さです」

 

準備室が静かになった。

 

端末を握る指に力が入った。怖さは消えていなかった。

 

「渚様。私は同意しません。最後まで同意しません」

 

「ありがとうございます」

 

渚は一度、呼吸を止めた。

 

「それでも、私は今日、離艦します」

 

志保は目を閉じた。開いたときには、校舎の図面へ視線を戻していた。

 

「判断への異議は、全員を生かしてから伝えます」

 

「全員、校庭へ出しましょう。建物の中は危険です」

 

 

渚は、校庭の中央に一人で立っていた。離艦後に端末が何をするか分からなかったから、人から離れることにした。

 

準備はすぐに終わった。晶が声をかけ、直樹と美緒が動いて、校舎と体育館に残っていた人まで校庭へ出した。

 

やることは簡単だ。渚が離艦する。解析担当は三階へ残り、〈帰航盤〉に残った帰航を強制停止する。

 

問題はその後だ。離艦後、校舎が崩れ始める。志保と機構職員は救助へ回り、晶は必要な場所だけ〈星綴り〉で切ってくれる。

 

校舎の倒れる予測は立てた。それでも絶対はない。

 

「先輩」

 

声は晶には届かない距離だった。

 

「私、まだ迷っています」

 

首から錨を外し、両手で持つ。迷いは消えていなかった。

 

ただ、消えるのを待たなかった。

 

「でも、決めます!」

 

音はなかった。

 

母艦との接続が切れた感覚は、痛みではなかった。ずっと背中にあったものが、なくなった感覚だった。

 

〈常凪〉の領域が強く光る。光の鎖が一瞬空を覆い、そして散った。

 

次の瞬間、地面の下から低い音がした。

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