雨上がりの浮野は、ぬかるんだ土と血の臭いに満ちていた。
九歳の新六は、裂けた草鞋のまま泥を踏みしめていた。小さな足は震えている。手も冷たかった。握りしめた槍の柄には、誰のものとも知れぬ血がこびりついている。
それでも、新六は槍を離さなかった。
「……父ちゃん、母ちゃん」
胸の奥に浮かぶのは、死んだ両親の顔だった。
領主の気まぐれな遊戯。乱取りと呼ぶにはあまりにも一方的な略奪で、両親は新六を逃がすために命を落とした。
あの日から、新六は知っていた。
力のない者は、奪われる。
声の小さい者は、踏みにじられる。
だから自分は、誰にも奪わせないほど強くなるのだと。
「小僧! そこを退け!」
怒声とともに、大柄な信賢方の足軽が新六へ迫った。
大人の男だった。血走った目で槍を振り上げ、目の前の子供を敵兵ですらなく、ただの障害物のように見ていた。
新六は逃げなかった。
槍が突き出される。
その瞬間、新六は半歩だけ身をずらした。
穂先が肩を掠め、着物を裂く。熱い痛みが走った。しかし新六は、痛みに顔を歪めるより早く、男の槍の柄を掴んでいた。
「な……っ」
男が引こうとした。
だが、動かなかった。
九歳の少年とは思えぬ力で、新六は槍ごと男を引き寄せる。そして空いた左手で、男の胸倉を掴んだ。
「お前たちは」
新六の声は、驚くほど静かだった。
「弱い者から奪うのが、そんなに好きなのか」
次の瞬間、男の巨体が宙を舞った。
まるで石でも投げるように、新六は大人の足軽を片手で放り投げた。男は数間先の泥地へ叩きつけられ、息を失って動かなくなる。
周囲の兵が、一瞬だけ動きを止めた。
「な、なんだあの童は……」
「化け物か……?」
新六は聞いていなかった。
彼の視線は、その奥にいる甲冑姿の武者へ向けられていた。
山内盛豊。
敵味方の兵に囲まれながらも、槍を振るい、織田方の兵を次々と倒している。手練れであることは、九歳の新六にも分かった。
逃げればいい。
誰か大人が戦えばいい。
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。
だが、新六は一歩を踏み出した。
「織田の兵か!」
盛豊が振り向く。
そこに立っていたのは、泥と血にまみれた小さな少年だった。
「小僧。死に場所を間違えたな」
「死ぬつもりはありません」
新六は槍を構えた。
「俺は、生きます。生きて、奪われたものを取り返します」
盛豊は鼻で笑った。
「ならば、まずは俺を越えてみせろ!」
槍が唸る。
新六の小さな体では、正面から受ければ砕かれる。だから彼は受けなかった。泥を蹴り、槍の軌道へ自ら踏み込み、穂先が届くより早く懐へ潜る。
盛豊の腕を掴む。
骨が軋む音がした。
「ぐっ……!」
盛豊が槍を落とした。
新六はそのまま足を払う。大人の体が崩れた瞬間、落ちた槍を拾い上げ、迷いなく突き出した。
短い音がした。
盛豊の動きが止まる。
戦場に、風が抜けた。
「……山内、盛豊……討ち取ったぞ」
新六の声はかすれていた。
自分が何をしたのか、まだよく分かっていなかった。ただ、胸の奥にある震えだけは止まらなかった。
その時、周囲の兵たちがざわめいた。
「信長様だ!」
「織田上総介様がお見えだ!」
兵が道を開く。
その先から、若き織田信長が歩いてきた。
派手な装いに身を包みながら、その目だけは冷たく鋭い。戦場を見慣れた将の目だった。
信長は盛豊の遺骸を一瞥し、次に新六を見た。
「これを討ったのは、貴様か」
新六は槍を地面に立て、深く頭を下げた。
「はっ。足軽、新六にございます」
「何歳だ」
「九つでございます」
信長の周囲にいた家臣たちが息を呑んだ。
信長はしばらく黙っていた。
新六は顔を上げなかった。褒美を欲したわけではない。ただ、命令に従う兵として、主君になり得る者の前で礼を尽くしただけだった。
「顔を上げよ」
新六が従う。
信長は少年の目を見た。
恐れている。
震えている。
それでも、逃げてはいない。
「新六」
「はっ」
「お前は、俺の兵になれ」
新六は目を見開いた。
「……俺で、よろしいのでございますか」
「よい。むしろ、お前でなければつまらぬ」
信長は腰の袋を外し、近くの家臣へ放った。
「こやつに渡せ」
家臣が袋を受け取り、中身を見て驚く。
「信長様、これは……足軽一人への褒美としては、あまりにも」
「構わぬ」
信長は笑った。
「相場の三倍をくれてやれ。今日の首は、それだけの値がある」
金が、新六の前に置かれた。
少年はそれを見つめた。
両親が生きていた頃なら、一生かかっても目にできなかったほどの金だった。
だが新六は、すぐに金へ手を伸ばさなかった。
「信長様」
「なんだ」
「この金をいただけるなら……まず、俺と同じように行き場をなくした者へ、飯を食わせたいのでございます」
信長の口元から笑みが消えた。
周囲の家臣たちも、言葉を失った。
新六は続ける。
「俺だけが腹を満たしても、死んだ父と母は喜びません。ですが、誰かが生き延びるなら……それは、きっと無駄ではありません」
しばしの沈黙。
やがて信長は、声を上げて笑った。
「ははははは!」
戦場に、その笑い声が響く。
「面白い。力があり、胆もあり、そのうえ人を見捨てぬか」
信長は新六の肩へ手を置いた。
「よい。金は好きに使え。だが忘れるな、新六」
「はっ」
「その力も、その情けも、使い方を誤れば国を滅ぼす」
信長の目が鋭くなる。
「俺に仕えろ。貴様が誰にも奪われず、誰からも奪わせぬ男になるまで、俺が見届け、使ってやる」
新六は、泥の中で両膝をついた。
「この新六、命尽きるまで織田信長様にお仕えいたします」
信長は満足そうに頷く。
「よし。ならば生きろ。強くなれ。そして十年後、二十年後――天下を取る俺の隣に立て」
新六は顔を上げた。
その目には、もう涙はなかった。
浮野の戦いの日。
一人の農民の子が、織田信長の前へ現れた。
後に多くの武将がその名を畏れ、多くの女がその名を慕い、多くの民がその背を仰ぐことになる男。
新六の物語は、この血と泥の戦場から始まった。