稲葉山城は、その名を失った。
織田信長が本拠を移し、天下布武の印を掲げた日。
美濃の中枢にそびえる城は、新たに――岐阜城と呼ばれることになった。
だが、その城の天守で信長が考えていたのは、京への道だけではなかった。
七海新六。
美濃攻略を大幅に早め、墨俣から中美濃を切り取り、稲葉山攻略では搦手を破って大手門を内側から開いた男。
すでに褒美として、菩提山城とその周辺八千石は与えている。
功に対する報いとしては、決して小さくない。
しかし信長は、それだけでは足りぬと考えていた。
新六を、織田の内側へ取り込む。
それこそが、最も確実な褒美であり、同時に織田家のためになる策だった。
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岐阜城の評定の間。
信長の前には、兄の織田信広、弟たち、そして柴田勝家、丹羽長秀、林秀貞が集まっていた。
信長「新六の処遇を決める」
信広「菩提山城と八千石を与えた。まだ何かあるのか」
信長「ある」
信長は、地図ではなく、一枚の家系図を見ていた。
信長「新六を一門に入れる」
場にいた者たちが、わずかに息を呑んだ。
勝家「一門に、ですか」
信長「奴は若い。武もある。兵を動かせる。民に好かれ、家臣にも慕われる。半兵衛まで配下に置き、藤吉郎や蜂須賀とも良い関係を築いた」
長秀「この先、さらに力を持つでしょうな」
信長「だからこそ、外に置くべきではない」
信長の言葉には、警戒ではなく確信があった。
新六は忠実だ。
だが忠実だからこそ、織田家の中で誰よりも大きく育つ。
ならば、織田の血縁として結びつけるべきだった。
信広「養子にする案はどうだ」
信長「考えた」
信長は、すぐに答えた。
信長「だが新六は、奇妙丸より年上だ」
奇妙丸――信長の嫡男は、まだ幼い。
信長「俺の養子とすれば、万一の時に新六を担ぐ者が出る」
勝家「新六が望まずとも、周囲が勝手に旗印にする可能性がある、と」
信長「そうだ」
信長は、新六が野心を抱くとは思っていなかった。
だが、天下を目指す者は、人の忠誠だけでは国を保てない。
忠誠心のある男ほど、多くの者が頼り、担ぎ上げようとする。
信長「新六を養子にするのは却下だ」
信広「ならば、残るは婚姻か」
信長「ああ」
信長は、しばらく黙った。
織田家の女子で、新六の妻にできる立場の者。
答えは、ほとんど一つしかなかった。
信広「市か」
信長「市だ」
場の空気が変わった。
市は信長の妹であり、織田家の切り札となり得る姫だった。
そして家中には、浅井家との婚姻同盟を進めるべきだという声も多い。
林「浅井との縁談は、以前より話に出ております」
信長「分かっている」
林「北近江の浅井と結べば、北からの脅威を抑えられましょう。京へ向かうなら、背後を固める意味もございます」
信長「北近江に味方を一人増やす。それだけだ」
信長の声は、冷たかった。
信長「浅井と結んでも、近江が織田のものになるわけではない。兵が自由に使えるわけでもない。奴らがいつまで味方でいる保証もない」
長秀「では、浅井は後で攻めればよいと」
信長「そうだ」
信長は迷わず言った。
信長「美濃を取った織田にとって、浅井と結ぶ利は以前より小さい」
勝家「新六を身内に入れる利の方が大きい、と」
信長「比べるまでもない」
信長の目に、鋭い光が宿る。
信長「新六は、将来万の兵を預けてもよい器だ。半兵衛という頭脳を持ち、藤吉郎のような男とも手を結べる。勝家、長秀、お前たちとも争わず、むしろ立てることができる」
勝家「……あの男は、人を使うのではなく、人に働きたくさせる」
信長「だから欲しい」
信長は言い切った。
信長「浅井を味方にするより、新六を完全に織田の者にする方が、先々の価値は遥かに大きい」
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ただし、問題はあった。
新六には、すでに妻が二人いる。
正室の鈴。
そして側室の雫。
しかも雫は前年、新六の男子を産んでいる。
鈴もまた、つい先ごろ懐妊が分かったばかりだった。
信広「市を嫁がせるとして、立場はどうする」
長秀「正室を押しのける形になれば、七海家の名分が揺らぎます」
勝家「鈴殿の家は、元より織田家に関わる家だった。軽く扱えば、新六がどう思わずとも周囲が騒ぐ」
林「雫殿にも男子がおります。新六殿の家中に、後継を巡る火種を作る恐れもありますな」
信長「分かっている」
信長は、机を指で軽く叩いた。
市を嫁がせる。
それ自体は簡単だ。
だが、誰を正室とし、誰を側室とし、子らをどう扱うか。
少しでも誤れば、新六を取り込むどころか、新六の家を割ることになる。
信長「これは褒美ではない」
信長は、ゆっくりと言った。
信長「新六の家を、織田の柱にするための話だ」
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評定の後。
信長は、市を呼んだ。
岐阜城の廊下には、まだ改修の槌音が響いている。
市は兄の前に座り、静かに頭を下げた。
市「兄上、お呼びでしょうか」
信長「市。新六のことを、どう思う」
市は一瞬だけ顔を上げた。
しかし、すぐに視線を伏せる。
市「立派な方だと思います」
信長「それだけか」
市「……民を大切にされます。部下を見捨てません。兄上へ忠義を尽くしながら、必要ならご意見も申し上げる」
信長「それだけか」
市「兄上」
市の頬が、わずかに赤くなる。
信長「市」
信長の声には、からかいではない真剣さがあった。
信長「お前を新六へ嫁がせることを、考えている」
市は、言葉を失った。
心臓の音が大きく聞こえた。
市「……浅井では、なく」
信長「浅井へ嫁がせる意味は、以前ほど大きくない」
市「新六殿には、鈴殿と雫殿がいらっしゃいます」
信長「知っている」
市「雫殿には、お子も」
信長「知っている」
市は、膝の上で指を握った。
新六のもとへ行きたい。
ずっと、そう思っていた。
けれど、それは夢のようなものだった。
新六にはすでに守るべき妻たちがいる。
市が入れば、彼女たちの心を傷つけるかもしれない。
市「兄上は……私を、新六殿を縛るために嫁がせるのですか」
信長は、少しだけ目を細めた。
信長「半分はそうだ」
市は驚かなかった。
兄なら、そう言うと思った。
信長「だが半分は、お前が望んでいるように見えるからだ」
市「……」
信長「新六は、お前を粗末に扱わぬ。鈴も雫も、見捨てぬ男だ。だからこそ、お前が入れば面倒にもなる」
市「それでも」
市は、ゆっくりと顔を上げた。
市「それでも私は、新六殿のそばにいたいと思います」
信長は、市の目を見た。
妹の覚悟を、確かめるように。
市「ですが、鈴様と雫様を泣かせるような形にはしたくありません」
信長「ならば、お前はどうしたい」
市「新六殿が選ばれる形にしてください」
信長「何だと」
市「兄上の命で押しつけるのではなく、新六殿自身が必要だと考え、鈴様と雫様にも納得していただける形で」
市の声は小さい。
だが、揺れてはいなかった。
市「その形でなければ、私は嫁ぎません」
信長はしばらく黙った後、ふっと笑った。
信長「よい」
市「兄上」
信長「お前は、俺の妹だ」
信長は立ち上がる。
信長「ならば、新六の家も、織田の都合だけで壊してはならぬ」
信長は窓の外を見た。
岐阜城の下には、美濃の城下町が広がっている。
天下布武は掲げられた。
だが天下を取るには、戦だけでは足りない。
誰を味方にし。
誰を家族にし。
誰の心を守るのか。
信長は、そのすべてを選ばなければならなかった。
信長「稲葉山を取った報いとして、新六をさらに取り込む」
信長の声は静かだった。
信長「だが、焦って市を渡すことはせぬ。まず新六の家を見極める」
市は、深く頭を下げた。
市「ありがとうございます、兄上」
信長は笑った。
信長「礼はまだ早い」
新六はまだ知らない。
岐阜城の天守で、自分の未来と、三人目の妻となるかもしれぬ織田市の運命が、静かに量られていることを。