織田信時の人生   作:秋月 了

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菩提山の実り――津田新六信時

 

 

 菩提山城を中心とする領地に、春が来た。

 

 戦で荒れた道の脇には、若い苗が揺れている。

 

 以前の菩提山領は、竹中半兵衛が手を入れていたこともあり、比較的整っていた。だが新たに加わった周辺の村々は違った。

 

 用水路は途中で途切れ、田の形は歪み、耕せる土地がありながら放置されている場所も多い。

 

 土地を持つ本家の者は生きられる。

 

 だが次男、三男となれば、働く畑すら持てず、日雇いか、兵になるしかなかった。

 

 新六は、その現実を見過ごさなかった。

 

---

 

 菩提山城の麓。

 

 新六は農民たちと同じ土の上に座っていた。

 

 その傍らには半兵衛、七海衆、そして村の名主たちがいる。

 

新六「まず、俺の話を聞いてくれ」

 

 農民たちは、緊張した顔で新六を見ていた。

 

 新しい領主が来れば、年貢が増える。

 

 働き手を兵へ取られる。

 

 そう考える者も少なくなかった。

 

新六「田を広げる。水路を作り直す。荒れ地を開く」

 

名主「それは結構なことでございますが……人手も金もかかります」

 

新六「分かっている」

 

新六「だから、働いた者から先に食えるようにする。開墾した土地は、土地を持たぬ次男や三男へ分ける」

 

 村人たちがざわめいた。

 

農民「土地を……分けてくださるのですか」

 

新六「ああ。ただし、ただで渡すわけではない」

 

 新六は土を掴み、掌の上でゆっくりと開いた。

 

新六「この土地を、次の代まで実らせろ。水路を壊すな。互いの田を奪うな。困る村があれば、手を貸せ」

 

農民「ですが、新六様。もし収穫が悪ければ」

 

新六「その年は、年貢を軽くする」

 

名主「本当に、そのようなことを」

 

新六「民が飢えれば、領地は弱る。兵も育たず、城も守れぬ。俺が欲しいのは、今年だけ搾り取ることじゃない」

 

 新六は、村人たちを見渡した。

 

新六「皆が十年後も、この土地で笑えることだ」

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 やがて、一人の若い農民が立ち上がる。

 

若い農民「俺はやります」

 

 彼は力強く言った。

 

若い農民「土地がもらえるなら、俺は死ぬほど働きます。弟にも、畑を持たせたい」

 

 それをきっかけに、声が上がった。

 

農民「俺もやります!」

 

農民「水路を掘ります!」

 

農民「うちの村も、力を貸します!」

 

 新六は、ようやく笑った。

 

新六「頼む」

 

半兵衛「新六様」

 

新六「どうした」

 

半兵衛「人を動かすのがお上手です」

 

新六「違う。皆が、前から望んでいたことを言っただけだ」

 

半兵衛「それを言い、形にできる者が少ないのです」

 

---

 

 改革は、すぐに始まった。

 

 曲がりくねった水路は掘り直され、上流から下流まで水が届くよう整えられた。

 

 畔は作り直され、田は区画ごとに整理された。

 

 荒れ地では木を切り、石を取り除き、新しい田畑が作られていく。

 

 半兵衛は地形を測り、どの村へ水を回すべきかを定めた。

 

 新六は村を回り、人足の不満を聞き、働きに応じて食糧と道具を配った。

 

 そして、新たに開かれた土地は、これまで田畑を持てなかった若者たちへ渡された。

 

 さらに新六は、古い農法にも手を入れた。

 

 種籾の選別。

 

 田ごとの水の管理。

 

 肥やしの作り方。

 

 作物を一つだけに頼らず、畑では麦や豆も育てること。

 

 村ごとに知っている工夫を集め、使えるものはすべて広げた。

 

 農民たちは初め、半信半疑だった。

 

 だが夏が過ぎ、秋が来ると、その疑いは驚きへ変わった。

 

---

 

 収穫の日。

 

 菩提山の麓には、稲穂が積まれていた。

 

 去年までの田とは思えないほど、米俵が並んでいる。

 

農民「三倍だ……」

 

 誰かが、震える声で呟いた。

 

農民「去年の三倍、取れた」

 

 それは誇張ではなかった。

 

 水が届く。

 

 土地が増える。

 

 働く者が増える。

 

 やり方を変える。

 

 そのすべてが噛み合い、領内の収穫は前年の三倍へ膨れ上がっていた。

 

 村人たちは歓声を上げた。

 

 子供たちが米俵の周りを走り回り、年寄りたちは涙を拭った。

 

 新六は、その様子を少し離れたところから見ていた。

 

 隣には半兵衛がいる。

 

半兵衛「戦で城を取るより、こちらの方が嬉しそうですな」

 

新六「人が死なないからな」

 

半兵衛「新六様らしいお答えです」

 

新六「だが、これも戦だ」

 

半兵衛「はい」

 

新六「飢えと貧しさを相手にした戦だ。負ければ、皆が苦しむ」

 

半兵衛「では、勝ちましたな」

 

新六「ああ」

 

 新六は、黄金色の田を見た。

 

新六「皆で勝った」

 

---

 

 その話は、すぐに岐阜城へ届いた。

 

 領内の収穫が前年の三倍。

 

 農民たちは新六を慕い、土地を得た若者たちは自ら用水路を守り始めた。

 

 信長は、その報告を何度も読み返した。

 

信長「三倍だと?」

 

村井「報告に偽りはないかと」

 

林「水利、開墾、農法の改良、土地の配分。どれか一つではなく、すべてを同時に進めたようです」

 

信長「新六は、城を取るだけでは飽き足らぬか」

 

 信長は笑った。

 

信長「面白い」

 

 そして信長は、市を連れて菩提山へ向かうことを決めた。

 

---

 

 菩提山城。

 

 新六は、信長の来訪を聞いて城門まで出迎えた。

 

 その隣には鈴と雫、半兵衛がいる。

 

 やがて、信長と市が姿を現した。

 

新六「信長様。このたびは菩提山へお越しいただき、恐悦至極にございます」

 

信長「堅苦しい挨拶はよい。田を見せろ」

 

新六「はっ」

 

 信長は城に入るより先に、村へ向かった。

 

 用水路を見た。

 

 整えられた田を見た。

 

 新しく開かれた畑を見た。

 

 そして、以前は土地を持たなかった若者たちが、自分の畑で働く姿を見た。

 

信長「お前が作ったのか」

 

新六「俺一人ではありません。半兵衛と村人たち、皆で作りました」

 

信長「だが、始めたのはお前だ」

 

 信長は新六を見た。

 

信長「戦ができる。城も取れる。人も集められる。政もできる」

 

 信長の目には、隠そうともしない満足があった。

 

信長「やはり、お前は織田の柱になる」

 

 市は少し離れたところで、新六を見ていた。

 

 土に汚れた農民の手を取り、話を聞く若い領主。

 

 大軍を率いる将でありながら、収穫に笑う子供たちへ目を細める男。

 

 市の胸は、以前よりも強く揺れた。

 

---

 

 その夜。

 

 菩提山城で宴が開かれた。

 

 信長は杯を置くと、新六へ向き直った。

 

信長「新六」

 

新六「はっ」

 

信長「市を、お前の側室にしろ」

 

 座が静まり返った。

 

 鈴も雫も、市も、言葉を失う。

 

 新六は、すぐに頭を下げた。

 

新六「恐れながら、それはお受けできません」

 

信長「なぜだ」

 

新六「市様は織田家の姫君でございます。俺の側室となれば、織田家の家格が乱れたと見られかねません」

 

 新六は、慎重に言葉を選んだ。

 

新六「それは市様を軽んじることにもなります。俺は、そのような形で市様を迎えることはできません」

 

 信長は、黙って新六を見た。

 

 その後、ふっと笑う。

 

信長「ならば、家格を整えればよい」

 

新六「家格を……」

 

信長「俺の娘を、お前と市の間に生まれる長男へ嫁がせる」

 

 その言葉に、今度こそ誰も息をできなかった。

 

信長「これで、市が家臣へ嫁ぐだけではない」

 

 信長は杯を持ち上げる。

 

信長「織田が、七海を囲むのだ」

 

 信長の声は、静かだった。

 

 だが、そこには一切の迷いがない。

 

信長「お前の家は、織田の一門でありながら、他の一門とは違う場所に立つ」

 

新六「信長様」

 

信長「津田新六信時」

 

 信長は、新六の名を呼んだ。

 

信長「今日より、お前は七海新六ではない。津田を名乗れ」

 

 新六は顔を上げた。

 

信長「織田家の配下にありながら、独立した勢力として立て。俺の天下を支えろ」

 

 信長は続けた。

 

信長「後継は、市との間に生まれる男子とする」

 

市「兄上」

 

信長「七海家そのものの跡は、鈴との子が継げ。雫との長男は、七海家分家の筆頭とする」

 

 新六は、言葉を失った。

 

 信長は、新六の家を壊そうとしているのではない。

 

 むしろ、三人の妻と子らの立場を最初から定め、争いを防ごうとしている。

 

 そして市を嫁がせることで、新六を完全に織田の身内とする。

 

 断ることは、もはやできなかった。

 

新六「……承知いたしました」

 

 新六は深く頭を下げた。

 

新六「この津田新六信時、織田家のため、命を尽くして働きます」

 

信長「よい」

 

 信長は満足そうに笑った。

 

信長「市を頼むぞ」

 

市「はい、兄上」

 

 市の声は小さかった。

 

 だが、その表情には隠しきれぬ喜びがあった。

 

---

 

 信長が岐阜へ戻った後。

 

 新六――津田新六信時は、鈴と雫の前で深く頭を下げていた。

 

新六「鈴、雫。本当にすまない」

 

鈴「何がですか」

 

新六「市様を迎えることになった」

 

雫「知っています」

 

新六「俺は、二人の気持ちを」

 

鈴「新六様」

 

 鈴は、少し呆れたように笑った。

 

鈴「いずれ、こうなると思っていました」

 

新六「え」

 

鈴「あなたは信長様にあれほど目をかけられています。織田家の姫君との話が出ることは、いつかあると思っていました」

 

雫「雫もです」

 

新六「二人とも……怒っていないのか」

 

雫「驚いてはいます」

 

鈴「相手が市様だったことには、さすがに驚きました」

 

雫「とてもお綺麗な方でした」

 

鈴「そして新六様は、見てはいけない顔をしていました」

 

新六「していない」

 

鈴「していました」

 

雫「していました」

 

 新六は言葉に詰まった。

 

 鈴は小さく笑い、雫も穏やかに微笑む。

 

鈴「市様を迎えるなら、私たちが市様を困らせないようにしなければなりません」

 

雫「新しい家族ですから」

 

新六「……ありがとう」

 

鈴「ただし」

 

新六「はい」

 

鈴「今まで以上に、私たちを大切にしてください」

 

雫「雫も、同じです」

 

新六「約束する」

 

 新六は、二人へ深く頭を下げた。

 

---

 

 後日。

 

 市は正式に菩提山城へ輿入れした。

 

 織田家の姫君を迎える婚礼は、菩提山の町を大きく変えた。

 

 それは単なる婚姻ではない。

 

 織田と七海家が、互いの行く末を結びつけた証だった。

 

 そして、その知らせを聞きつけた者たちが、次々と菩提山へ集まり始める。

 

 最初に現れたのは、山内一豊と弟の康豊だった。

 

 二人は旅装のまま、城門前で深く頭を下げた。

 

一豊「山内一豊、弟の康豊とともに、津田新六信時様へ仕官を願います」

 

新六「顔を上げてくれ」

 

 一豊が顔を上げる。

 

 新六は、その顔を見てすぐに気づいた。

 

 かつて浮野で討ち取った山内盛豊。

 

 その面影がある。

 

新六「一豊」

 

一豊「はい」

 

新六「俺が、お前たちの父を討ったことを知らないわけではないだろう」

 

 康豊が、一歩前へ出る。

 

康豊「承知しております」

 

新六「ならば、なぜ俺のもとへ来た」

 

 山内兄弟は一瞬だけ黙った。

 

 やがて一豊が、真っすぐに答えた。

 

一豊「親の仇だと言って、仕える先を選んでいられるほど、俺たちは恵まれておりませぬ」

 

新六「……」

 

一豊「父が戦死してから、残された遺産で食いつなぎ、仕官先を転々としてまいりました」

 

康豊「ですが、その蓄えも尽きかけています」

 

一豊「俺たちには、名家の後ろ盾もありません。選り好みをしている余裕など、もうないのです」

 

 新六は、二人の目を見た。

 

 そこにあるのは憎しみではない。

 

 生きるために前へ進もうとする、切実な覚悟だった。

 

一豊「津田様が民を救い、働く者を見捨てぬ方だと聞きました」

 

康豊「父の仇であっても、仕えるならその方だと決めました」

 

 新六は、しばらく何も言わなかった。

 

 そして、ゆっくりと頷く。

 

新六「分かった」

 

一豊「では」

 

新六「二人とも、俺のもとへ来い」

 

 山内兄弟の表情が変わる。

 

新六「ただし、父のことを忘れろとは言わない」

 

一豊「新六様」

 

新六「俺も忘れない。だが、お前たちが俺に仕えると決めたなら、俺はお前たちを守る」

 

 新六は手を差し出した。

 

新六「これからは、津田家のために働け」

 

一豊「はっ」

 

康豊「命に代えましても」

 

 山内兄弟は深く頭を下げた。

 

 菩提山城には、新しい田が広がっていた。

 

 新しい家族が増え。

 

 新しい家臣が集まり。

 

 津田新六信時という男は、戦で名を上げるだけの将ではなくなっていく。

 

 織田家の中で、独立した力を持つ一門。

 

 天下布武を支えるために生まれた、新たな柱。

 

 その歩みは、まだ始まったばかりだった。

 

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