織田信時の人生   作:秋月 了

13 / 63
上洛軍――津田新六信時、北近江を睨む

 

 永禄八年、三月。

 

 岐阜の城下には、春の風が吹いていた。

 

 かつては荒れ地だった場所にも新しい田畑が広がり、水路は整えられ、村ごとの収穫は目に見えて増えている。

 

 菩提山で始まった改革は、信長の命によって織田領の各地へ広げられた。

 

 用水路を掘り直す。

 

 田畑を整える。

 

 荒れ地を開く。

 

 働く者へ土地を与え、収穫を増やす。

 

 結果として岐阜の石高は、以前の倍にまで引き上げられた。

 

 城下の評定では、信長が帳面を眺めながら満足そうに笑っていた。

 

信長「倍か」

 

村井「はい。まだ整備の途中である土地もございます。来年以降、さらに増える見込みにございます」

 

林「菩提山でのやり方を、そのまま真似ただけではありませぬ。土地ごとの水量、土、作物に合わせて変えたことが大きいかと」

 

信長「新六のやり方は、百姓を働かせるだけではない」

 

 信長は帳面を閉じた。

 

信長「百姓自身に、土地を守らせる」

 

村井「土地を与えられた者は、逃げませぬ。水路も田も、自ら守るようになります」

 

信長「兵を増やすより先に、兵を支える米を増やす」

 

 信長は、遠く京の方角を見た。

 

信長「天下を取るには、槍だけでは足りぬ」

 

---

 

 同じ年の夏。

 

 京で大きな事件が起きた。

 

 室町幕府十三代将軍・足利義輝が、三好三人衆と松永久秀らの手によって討たれたのである。

 

 将軍家は乱れ、京は再び主を失った。

 

 そして翌年。

 

 永禄九年、四月。

 

 岐阜城へ一人の客が訪れた。

 

 足利義昭。

 

 将軍家の血を引く男であり、兄・義輝を失った後、各地の大名を頼って流転してきた人物だった。

 

 その隣には、明智光秀がいた。

 

 帰蝶の従兄妹にあたり、細身の体に似合わぬ鋭い目を持つ男だった。

 

 岐阜城の謁見の間。

 

 義昭は信長の前で頭を下げた。

 

義昭「織田上総介信長殿」

 

信長「足利義昭殿」

 

義昭「どうか、私を将軍にしていただきたい」

 

 広間が静まり返る。

 

 義昭は、まっすぐに信長を見た。

 

義昭「これまで多くの大名を頼った。されど皆、口では将軍家を敬いながら、兵を出そうとはしなかった」

 

義昭「しかし織田殿は違う。美濃を取り、天下布武を掲げ、今もっとも勢いのある大名だと聞く」

 

義昭「私を京へ送り、将軍にしていただきたい」

 

 信長はすぐには答えなかった。

 

 義昭の隣に立つ光秀へ視線を向ける。

 

信長「明智光秀」

 

光秀「はっ」

 

信長「お前が、この方を連れてきたのか」

 

光秀「左様にございます」

 

信長「なぜだ」

 

光秀「将軍家を立て直す力を持つ主君を探しておりました」

 

 光秀は深く頭を下げた。

 

光秀「そして織田信長様こそ、その器であると考えました」

 

信長「見返りは」

 

光秀「織田家へ仕官することを、お許しいただきたく」

 

 信長は、しばらく光秀を見つめた。

 

 やがて、笑う。

 

信長「よい」

 

義昭「では」

 

信長「上洛する」

 

 信長は立ち上がった。

 

信長「足利義昭を将軍にする。それは京を押さえるための大義にもなる」

 

 信長の声が、広間へ響いた。

 

信長「天下布武の旗を掲げよ。五万の兵を整え、京へ向かう」

 

---

 

 上洛軍は、岐阜から京へ向けて進軍を始めた。

 

 織田家の重臣たちが、それぞれ大軍を率いる。

 

 柴田勝家。

 

 丹羽長秀。

 

 佐久間信盛。

 

 木下藤吉郎。

 

 そして、津田新六信時。

 

 新六は一万の兵を率いていた。

 

 かつて百の兵を預かった侍大将は、今や一万を動かす大将となっている。

 

 だが、新六の軍は本隊と同じ道を進んではいなかった。

 

 彼が布陣したのは、浅井領、六角領、そして織田領が接する地域。

 

 六角を攻める織田本隊の背後を、浅井が突く可能性がある。

 

 その危険を消すため、新六は北近江を睨んでいた。

 

 陣幕の中。

 

 半兵衛が地図を広げ、新六へ報告する。

 

半兵衛「浅井家は、現時点では動いておりません」

 

新六「兵の集まりは」

 

半兵衛「目立った動きはありません。ただし、こちらの進軍を見ている者は多いでしょう」

 

一豊「浅井が動けば、六角との戦の最中に織田軍の背を突けます」

 

康豊「最も厄介な場所ですな」

 

新六「だから、ここにいる」

 

 新六は地図の境目を指でなぞった。

 

新六「浅井を敵だと決めつけるな。だが、味方だと信じ切るな」

 

半兵衛「承知いたしました」

 

新六「村へ乱暴はするな。浅井の民を敵にすれば、浅井が動かなくとも戦になる」

 

一豊「では、警戒だけを」

 

新六「ああ。こちらは境を守る軍だ。挑発する軍ではない」

 

 半兵衛は静かに頷いた。

 

半兵衛「新六様らしい布陣です」

 

新六「戦わずに済むなら、それが一番いい」

 

---

 

 一方、菩提山城。

 

 市は静かな部屋で、鈴と向き合っていた。

 

 市の腹には、新六との子が宿っている。

 

 戦地へ向かった夫を思えば、不安が消えることはない。

 

 だが市は、ただ待つだけの女ではいたくなかった。

 

市「鈴様。津田家の妻として、私が覚えておくべきことを教えてください」

 

 鈴は湯呑を置いた。

 

鈴「一つだけです」

 

市「一つだけ、ですか」

 

鈴「嫉妬を封じる覚悟を持つことです」

 

 市は、言葉を失った。

 

鈴「簡単そうに聞こえますか」

 

市「……いいえ」

 

鈴「新六様は、これからさらに出世されます。信長様の身内となり、独立した勢力として兵を持つ方です」

 

鈴「政略のために、また妻を迎えることもあるでしょう」

 

市「それを、受け入れるのですか」

 

鈴「受け入れるしかない、ではありません」

 

 鈴は、市をまっすぐに見た。

 

鈴「私たちが新六様を選んだのです」

 

 市は息を呑む。

 

鈴「新六様は、誰かを捨てて進む方ではありません。だから妻が増えれば、守るべきものも増える」

 

鈴「そのたびに、誰が上か、誰が愛されているかと争えば、この家は内側から壊れます」

 

 雫が、穏やかに言葉を重ねた。

 

雫「雫も、初めは怖かったです」

 

市「雫様も?」

 

雫「はい。鈴様が正室になられた時も、市様が来られると決まった時も」

 

 雫は微笑んだ。

 

雫「でも、新六様は雫を置いていかなかった」

 

雫「鈴様も、市様も、同じように大切にされようとする方です」

 

 市は自分の腹へ手を置く。

 

市「私は……鈴様や雫様のように、なれるでしょうか」

 

鈴「なろうとするなら、なれます」

 

市「ですが私は、兄上の妹です。織田の姫として育ちました」

 

鈴「だからこそ、なおさら覚えてください」

 

 鈴の声は穏やかだった。

 

鈴「公の場では、正室と側室の立場があります。礼も、順序も、守らねばなりません」

 

鈴「ですが屋敷の中では、妻に上下はありません」

 

市「上下は、ない」

 

雫「それが新六様の決めたことです」

 

雫「食事も、話し合いも、子供たちのことも。誰か一人だけで決めない」

 

鈴「私たちは皆、新六様の妻であり、この家を守る者です」

 

 市は、しばらく黙っていた。

 

 やがて、深く頭を下げる。

 

市「分かりました」

 

市「私は、嫉妬に負けません」

 

市「鈴様と雫様を、姉として敬います。そして津田家を守ります」

 

 鈴は、わずかに笑った。

 

鈴「それでよいのです」

 

雫「市様なら大丈夫です」

 

 市は顔を上げた。

 

 夫は今、境目の地で一万の兵を率いている。

 

 自分は菩提山で、新しい命と家を守る。

 

 戦場に立てなくとも、自分にもできることがある。

 

 市はそう思いながら、静かに腹へ手を添えた。

 

 天下布武の旗は、京へ向かって進んでいた。

 

 そして津田新六信時の家もまた、戦と政の狭間で、さらに大きな形へ変わろうとしていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告