永禄八年、三月。
岐阜の城下には、春の風が吹いていた。
かつては荒れ地だった場所にも新しい田畑が広がり、水路は整えられ、村ごとの収穫は目に見えて増えている。
菩提山で始まった改革は、信長の命によって織田領の各地へ広げられた。
用水路を掘り直す。
田畑を整える。
荒れ地を開く。
働く者へ土地を与え、収穫を増やす。
結果として岐阜の石高は、以前の倍にまで引き上げられた。
城下の評定では、信長が帳面を眺めながら満足そうに笑っていた。
信長「倍か」
村井「はい。まだ整備の途中である土地もございます。来年以降、さらに増える見込みにございます」
林「菩提山でのやり方を、そのまま真似ただけではありませぬ。土地ごとの水量、土、作物に合わせて変えたことが大きいかと」
信長「新六のやり方は、百姓を働かせるだけではない」
信長は帳面を閉じた。
信長「百姓自身に、土地を守らせる」
村井「土地を与えられた者は、逃げませぬ。水路も田も、自ら守るようになります」
信長「兵を増やすより先に、兵を支える米を増やす」
信長は、遠く京の方角を見た。
信長「天下を取るには、槍だけでは足りぬ」
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同じ年の夏。
京で大きな事件が起きた。
室町幕府十三代将軍・足利義輝が、三好三人衆と松永久秀らの手によって討たれたのである。
将軍家は乱れ、京は再び主を失った。
そして翌年。
永禄九年、四月。
岐阜城へ一人の客が訪れた。
足利義昭。
将軍家の血を引く男であり、兄・義輝を失った後、各地の大名を頼って流転してきた人物だった。
その隣には、明智光秀がいた。
帰蝶の従兄妹にあたり、細身の体に似合わぬ鋭い目を持つ男だった。
岐阜城の謁見の間。
義昭は信長の前で頭を下げた。
義昭「織田上総介信長殿」
信長「足利義昭殿」
義昭「どうか、私を将軍にしていただきたい」
広間が静まり返る。
義昭は、まっすぐに信長を見た。
義昭「これまで多くの大名を頼った。されど皆、口では将軍家を敬いながら、兵を出そうとはしなかった」
義昭「しかし織田殿は違う。美濃を取り、天下布武を掲げ、今もっとも勢いのある大名だと聞く」
義昭「私を京へ送り、将軍にしていただきたい」
信長はすぐには答えなかった。
義昭の隣に立つ光秀へ視線を向ける。
信長「明智光秀」
光秀「はっ」
信長「お前が、この方を連れてきたのか」
光秀「左様にございます」
信長「なぜだ」
光秀「将軍家を立て直す力を持つ主君を探しておりました」
光秀は深く頭を下げた。
光秀「そして織田信長様こそ、その器であると考えました」
信長「見返りは」
光秀「織田家へ仕官することを、お許しいただきたく」
信長は、しばらく光秀を見つめた。
やがて、笑う。
信長「よい」
義昭「では」
信長「上洛する」
信長は立ち上がった。
信長「足利義昭を将軍にする。それは京を押さえるための大義にもなる」
信長の声が、広間へ響いた。
信長「天下布武の旗を掲げよ。五万の兵を整え、京へ向かう」
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上洛軍は、岐阜から京へ向けて進軍を始めた。
織田家の重臣たちが、それぞれ大軍を率いる。
柴田勝家。
丹羽長秀。
佐久間信盛。
木下藤吉郎。
そして、津田新六信時。
新六は一万の兵を率いていた。
かつて百の兵を預かった侍大将は、今や一万を動かす大将となっている。
だが、新六の軍は本隊と同じ道を進んではいなかった。
彼が布陣したのは、浅井領、六角領、そして織田領が接する地域。
六角を攻める織田本隊の背後を、浅井が突く可能性がある。
その危険を消すため、新六は北近江を睨んでいた。
陣幕の中。
半兵衛が地図を広げ、新六へ報告する。
半兵衛「浅井家は、現時点では動いておりません」
新六「兵の集まりは」
半兵衛「目立った動きはありません。ただし、こちらの進軍を見ている者は多いでしょう」
一豊「浅井が動けば、六角との戦の最中に織田軍の背を突けます」
康豊「最も厄介な場所ですな」
新六「だから、ここにいる」
新六は地図の境目を指でなぞった。
新六「浅井を敵だと決めつけるな。だが、味方だと信じ切るな」
半兵衛「承知いたしました」
新六「村へ乱暴はするな。浅井の民を敵にすれば、浅井が動かなくとも戦になる」
一豊「では、警戒だけを」
新六「ああ。こちらは境を守る軍だ。挑発する軍ではない」
半兵衛は静かに頷いた。
半兵衛「新六様らしい布陣です」
新六「戦わずに済むなら、それが一番いい」
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一方、菩提山城。
市は静かな部屋で、鈴と向き合っていた。
市の腹には、新六との子が宿っている。
戦地へ向かった夫を思えば、不安が消えることはない。
だが市は、ただ待つだけの女ではいたくなかった。
市「鈴様。津田家の妻として、私が覚えておくべきことを教えてください」
鈴は湯呑を置いた。
鈴「一つだけです」
市「一つだけ、ですか」
鈴「嫉妬を封じる覚悟を持つことです」
市は、言葉を失った。
鈴「簡単そうに聞こえますか」
市「……いいえ」
鈴「新六様は、これからさらに出世されます。信長様の身内となり、独立した勢力として兵を持つ方です」
鈴「政略のために、また妻を迎えることもあるでしょう」
市「それを、受け入れるのですか」
鈴「受け入れるしかない、ではありません」
鈴は、市をまっすぐに見た。
鈴「私たちが新六様を選んだのです」
市は息を呑む。
鈴「新六様は、誰かを捨てて進む方ではありません。だから妻が増えれば、守るべきものも増える」
鈴「そのたびに、誰が上か、誰が愛されているかと争えば、この家は内側から壊れます」
雫が、穏やかに言葉を重ねた。
雫「雫も、初めは怖かったです」
市「雫様も?」
雫「はい。鈴様が正室になられた時も、市様が来られると決まった時も」
雫は微笑んだ。
雫「でも、新六様は雫を置いていかなかった」
雫「鈴様も、市様も、同じように大切にされようとする方です」
市は自分の腹へ手を置く。
市「私は……鈴様や雫様のように、なれるでしょうか」
鈴「なろうとするなら、なれます」
市「ですが私は、兄上の妹です。織田の姫として育ちました」
鈴「だからこそ、なおさら覚えてください」
鈴の声は穏やかだった。
鈴「公の場では、正室と側室の立場があります。礼も、順序も、守らねばなりません」
鈴「ですが屋敷の中では、妻に上下はありません」
市「上下は、ない」
雫「それが新六様の決めたことです」
雫「食事も、話し合いも、子供たちのことも。誰か一人だけで決めない」
鈴「私たちは皆、新六様の妻であり、この家を守る者です」
市は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げる。
市「分かりました」
市「私は、嫉妬に負けません」
市「鈴様と雫様を、姉として敬います。そして津田家を守ります」
鈴は、わずかに笑った。
鈴「それでよいのです」
雫「市様なら大丈夫です」
市は顔を上げた。
夫は今、境目の地で一万の兵を率いている。
自分は菩提山で、新しい命と家を守る。
戦場に立てなくとも、自分にもできることがある。
市はそう思いながら、静かに腹へ手を添えた。
天下布武の旗は、京へ向かって進んでいた。
そして津田新六信時の家もまた、戦と政の狭間で、さらに大きな形へ変わろうとしていた。