織田信時の人生   作:秋月 了

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京の風――津田新六信時、雑賀へ向かう

 

 

 六角家を蹴散らした織田軍は、ついに京へ入った。

 

 天下布武の旗が、都の空に翻る。

 

 荒れた町。

 怯える民。

 主を失い、争いに慣れきった公家や寺社。

 

 京は華やかでありながら、あまりにも脆かった。

 

 岐阜から入った信長は、二条御所へ足を踏み入れると、集まった重臣たちを見渡した。

 

信長「光秀」

 

光秀「はっ」

 

信長「公家衆と帝へ話を通せ。義昭を将軍とするよう、朝廷へ働きかけろ」

 

光秀「承知いたしました」

 

信長「将軍の身の回り、御所の作法、京の公家への応対。すべてお前に任せる」

 

光秀「恐れ入ります」

 

信長「間違えるなよ。京では一つの言葉が、十の敵を生む」

 

光秀「肝に銘じます」

 

 信長は次に、新六へ目を向けた。

 

信長「新六」

 

新六「はっ」

 

信長「お前は京の治安と街並みをかつての平安京に戻せ」

 

新六「治安と街並みをですか?」

 

信長「そうだ。盗賊、ならず者、勝手に兵を抱える者。京に巣食うすべてを調べ、必要なら潰せ」

 

新六「承知いたしました」

 

信長「加えて、畿内の有力者を味方に付けろ。降る者は受け入れろ。迷う者には利を見せろ。敵対する者には、織田が京に根を張ったと教えろ」

 

新六「はい」

 

 そこで信長は、一拍置いた。

 

信長「ただし義昭には近づくな」

 

新六「……承知しております」

 

 周囲の者たちは、わずかに空気が変わったことを感じた。

 

 信長は構わず続ける。

 

信長「将軍と、お前を近づけるな。余計な火種は不要だ」

 

新六「命に従います」

 

---

 

 義昭が岐阜へ滞在していた頃。

 

 市は、客人である義昭の身の回りを整え、時には話し相手にもなっていた。

 

 義昭は織田家の姫である市を、すぐに気に入った。

 

 そしてある日、信長へ願い出た。

 

義昭「信長殿。市殿を、私の妻にいただきたい」

 

信長「市は既に嫁いでいる」

 

義昭「誰へだ」

 

信長「津田新六信時へ」

 

 義昭の表情が、わずかに曇った。

 

義昭「……あの農民上がりへ」

 

信長「俺の家臣だ」

 

義昭「将軍家に嫁ぐ方が、市殿にも織田家にも相応しかろう」

 

信長「市の婚姻は、既に決まっている」

 

義昭「ならば、夫を変えればよい」

 

 信長の目が冷えた。

 

信長「義昭殿」

 

義昭「何だ」

 

信長「それ以上は言うな」

 

 だが義昭は、その後も市の前で自らを持ち上げ、新六を貶めるようになった。

 

義昭「新六は武だけの男だろう」

 

義昭「織田家の姫が、あのような者のもとにいるとは惜しいことだ」

 

 市は最初、笑って受け流した。

 

 しかし、夫を侮る言葉が重なるにつれ、ついに信長へ報告した。

 

市「兄上。義昭様が、新六様を悪く言われます」

 

信長「何と申した」

 

市「私の前で、ご自分と比べるように」

 

 信長はしばらく黙り、すぐに細川藤孝を呼んだ。

 

信長「藤孝」

 

藤孝「はっ」

 

信長「義昭殿を諫めろ」

 

藤孝「承知いたしました」

 

信長「将軍になる前から、俺の家臣と家族を侮るなと伝えろ」

 

藤孝「必ず」

 

 この出来事は、新六の耳にも入っていた。

 

 だが新六は、何も言わなかった。

 

 義昭が将軍となるまでの間、余計な不和を生むべきではない。

 

 信長の命に従い、新六は将軍へ近づかなかった。

 

---

 

 やがて義昭は、朝廷の手続きと光秀の働きによって将軍となった。

 

 儀式を遠くから見届けた新六は、夜の京を歩いていた。

 

 隣には半兵衛と康豊がいる。

 

康豊「将軍がお立ちになりましたな」

 

新六「ああ」

 

半兵衛「これで信長様は、京へ入る大義を得られました」

 

新六「だが、京を得たわけじゃない」

 

半兵衛「はい。京は、これから手に入れる場所です」

 

 新六は頷いた。

 

新六「まずは町を落ち着かせる」

 

---

 

 信長が岐阜へ戻る前。

 

 新六は信長へ願い出た。

 

新六「信長様。木下秀吉殿を、お借りしたく存じます」

 

信長「秀吉を?」

 

新六「堺の商人と繋がりたいのです。京を治めるには兵だけでなく、金と物の流れを押さえねばなりません」

 

信長「秀吉」

 

秀吉「はっ」

 

信長「新六に付け。堺の商人どもを、織田と津田の味方にしろ」

 

秀吉「承知いたしました」

 

信長「新六」

 

新六「はっ」

 

信長「お前の好きにやれ。ただし、京で勝手に大火を起こすな」

 

新六「起こしません」

 

秀吉「新六様なら、起こしかねないとでも思われたんでしょうか」

 

新六「秀吉殿」

 

秀吉「冗談でさあ」

 

 信長は笑った。

 

信長「お前たち二人なら、堺の商人も面白がるだろう」

 

---

 

 新六は、役割を分けた。

 

 半兵衛と康豊には、京の治安維持隊を任せる。

 

半兵衛「新六様。本当に京を任せてよろしいのですか」

 

新六「半兵衛に任せる」

 

半兵衛「恐悦至極にございます」

 

新六「盗賊を捕えろ。だが、食えずに盗んだ者まで片端から斬るな」

 

康豊「まず事情を調べます」

 

新六「寺社や商人にも話を聞け。誰が裏で人を動かしているかを探れ」

 

半兵衛「承知いたしました」

 

 秀吉には、堺の商人との折衝を任せた。

 

秀吉「堺は金の町です。ですが、銭だけ積んでも商人は動きませぬ」

 

新六「何が必要だ」

 

秀吉「約束です。道を守る。荷を奪わせない。商いの邪魔をさせない。儲けた者から理不尽に取り上げない」

 

新六「できるか」

 

秀吉「新六様が京の治安を整えてくだされば、できます」

 

新六「なら、頼む」

 

秀吉「お任せを」

 

 新六自身は、山内一豊とともに畿内各地を回った。

 

一豊「新六様。まずどこへ向かわれますか」

 

新六「紀州だ」

 

一豊「紀州……雑賀衆ですか」

 

新六「ああ。鉄砲を持つ者たちに会う」

 

---

 

 紀州、雑賀。

 

 山と海に囲まれた地で、新六は雑賀衆の頭領・鈴木孫一と向き合った。

 

 孫一の周囲には、多くの鉄砲衆がいた。

 

 彼らの視線は鋭い。

 

 織田の大将が来たからといって、容易く頭を下げる者たちではなかった。

 

孫一「津田新六信時」

 

新六「鈴木孫一」

 

孫一「織田の使いか」

 

新六「違う。俺自身の願いで来た」

 

孫一「願い?」

 

新六「聞きたいことがある」

 

 新六は、孫一の目を見た。

 

新六「百発百中の自信はあるか。撃てば空を飛ぶ烏の眉間を打ち抜けると豪語できるか?」

 

 雑賀衆の中で、ざわめきが起きた。

 

 孫一は少しだけ口元を上げる。

 

孫一「ある」

 

新六「なら、それを活かす場を用意する」

 

孫一「織田家の鉄砲衆に入れ、とでも言うのか」

 

新六「違う」

 

 新六ははっきりと答えた。

 

新六「俺の家に来てほしい」

 

孫一「津田家へ?」

 

新六「ああ。雑賀衆を、俺の鉄砲衆へ組み込む」

 

孫一「俺たちを、鉄砲を持つだけの連中として使う気か」

 

新六「そんなつもりはない」

 

 新六は一歩前へ出た。

 

新六「鉄砲は、ただ撃つだけの道具じゃない。どう並べるか。いつ撃つか。何を狙うか。どうすれば次に撃てるか。戦そのものを変える力だ」

 

孫一「……」

 

新六「お前を鉄砲大将にする」

 

 孫一の目が変わった。

 

新六「鉄砲衆を率いろ。戦場で鉄砲をどう使うか、俺と半兵衛に教えろ。そして、もっと強い鉄砲を作る方法も考えろ」

 

孫一「鉄砲を進化させるための部隊を作る、と」

 

新六「ああ」

 

新六「俺は、お前たちを撃ち手としてだけ見ない。戦を変える者として迎える」

 

 長い沈黙が落ちた。

 

 雑賀衆の誰もが、孫一の答えを待っている。

 

 孫一は、やがて笑った。

 

孫一「二つ返事だ」

 

一豊「孫一殿」

 

孫一「俺たちは、ずっと鉄砲だけを見られてきた」

 

孫一「だが津田殿は、鉄砲を扱う俺たち自身を見ている」

 

 孫一は新六へ頭を下げた。

 

孫一「雑賀衆は、津田家に加わる」

 

孫一「この鈴木孫一、鉄砲大将としてお仕えしよう」

 

新六「頼む」

 

---

 

 さらにその後。

 

 京で新六が紀州から戻った頃、一人の男が岐阜を訪れていた。

 

 松永久秀。

 

 かつて畿内を揺らし、将軍家を脅かした男が、自ら岐阜城へ現れたのだ。

 

 信長の前で、久秀は深く頭を下げた。

 

久秀「松永久秀、織田信長様へ降ります」

 

信長「ほう」

 

久秀「京へ五万を動かし、義昭様を将軍に据え、美濃を基盤とされる信長様には、逆らうより仕える方が利でございましょう」

 

信長「正直だな」

 

久秀「生き延びることに、綺麗な言葉は不要です」

 

 信長は愉快そうに笑った。

 

信長「よい。お前の利口さは嫌いではない」

 

---

 

 後日。

 

 紀州の雑賀衆が津田家へ加わったこと。

 松永久秀が自ら降伏したこと。

 堺の商人が織田と津田の商いを認め始めたこと。

 

 それらの報せが、岐阜城へ続けて届いた。

 

 信長は報告を読み終えると、豪快に笑った。

 

信長「ははははは!」

 

帰蝶「殿。何がそこまでおかしいのです」

 

信長「市を新六へ嫁がせたことだ」

 

帰蝶「それが?」

 

信長「正解だった」

 

 信長は、机の上の報告書を叩く。

 

信長「新六は京の治安を整え、商人を引き寄せ、雑賀の鉄砲衆まで手に入れた」

 

信長「俺が欲しかったのは、一人で戦える武将ではない」

 

信長「俺が天下を取りに行く時、俺のいない場所で国を作れる男だ」

 

帰蝶「新六殿は、その役目を果たしていると」

 

信長「ああ」

 

 信長は窓の外を見た。

 

 岐阜の城下。

 整えられた田。

 増えた米。

 京へ伸びる道。

 

信長「市は、良い場所へ嫁いだ」

 

 その頃、新六はまだ知らない。

 

 自分のもとへ、鉄砲を変える男たちが加わり。

 京と堺の人と金が動き始め。

 そして信長から、これまで以上に大きな役目を預けられようとしていることを。

 

 天下布武は、武力だけで進むものではない。

 

 米。

 銭。

 鉄砲。

 人の心。

 

 津田新六信時は、そのすべてを集め始めていた。

 

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