織田信時の人生   作:秋月 了

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本圀寺の夜――義昭、虚言を選ぶ

 

 

 永禄十年、七月。

 

 畿内での織田の働きが、ようやく形になり始めた頃だった。

 

 京の治安は少しずつ戻り、街道には商人が行き交う。

 

 堺との商いも動き出し、津田家の鉄砲衆には雑賀の者たちが加わり始めていた。

 

 だが、夜の京にはまだ戦の匂いが残っていた。

 

 その夜。

 

 本圀寺に詰めていた足利義昭のもとへ、急使が駆け込んだ。

 

近習「将軍様! 三好三人衆の軍勢が迫っております!」

 

義昭「何だと!」

 

近習「さらに、斎藤龍興の旗も確認されました!」

 

 義昭の顔から血の気が引いた。

 

 将軍となったばかりの自分を、京から引きずり下ろそうとしている。

 

 その現実が、ようやく義昭の目の前に現れた。

 

義昭「光秀を呼べ!」

 

---

 

 本圀寺の外では、明智光秀の兵が必死に戦っていた。

 

 三好方は多い。

 

 しかも、斎藤龍興の兵まで加わっている。

 

 光秀の隊は正門を守り、鉄砲と弓で敵を止めていたが、じわじわと押し込まれていた。

 

光秀「左の塀へ兵を回せ!」

 

兵士「明智様! 敵が裏手へ回り込もうとしております!」

 

光秀「分かっている!」

 

 光秀は即座に使者を呼んだ。

 

光秀「津田殿と木下殿へ急使を出せ!」

 

使者「はっ!」

 

光秀「細川藤孝殿にもだ!」

 

使者「承知!」

 

光秀「伝えよ。本圀寺が落ちれば、将軍家も京も再び乱れると!」

 

---

 

 京の西。

 

 津田家の陣。

 

 新六は、夜の帳面を見ていた。

 

 そこへ、血相を変えた使者が飛び込んでくる。

 

使者「新六様! 本圀寺が三好三人衆と斎藤龍興の軍に囲まれております!」

 

新六「光秀殿は」

 

使者「すでに守りに入っておりますが、兵数で押されていると!」

 

 新六は立ち上がった。

 

新六「半兵衛!」

 

半兵衛「ここにおります、新六様」

 

新六「京の守りは任せる。本圀寺へ向かう」

 

半兵衛「雑賀の鉄砲衆も出しますか」

 

新六「出せ。ただし寺へ向けて撃つな。敵の密集だけを狙え」

 

半兵衛「承知」

 

 そこへ木下秀吉が駆け込んできた。

 

秀吉「新六様! 聞きやした!」

 

新六「秀吉殿。兵は」

 

秀吉「すぐ出せます。ですが敵は寺の周りを囲んでいる。正面からぶつかれば、将軍様ごと巻き込むかもしれやせん」

 

新六「ならば正面は光秀殿に任せる」

 

秀吉「裏から行くんですな」

 

新六「ああ。敵の退路を断つ」

 

秀吉「相変わらず、容赦がありやせんな」

 

新六「京で将軍を襲う者に、次を考えさせるな」

 

秀吉「分かりやした」

 

---

 

 本圀寺。

 

 光秀の兵は、ついに外郭の一部を破られていた。

 

光秀「下がるな!」

 

兵士「ですが明智様、敵が多すぎます!」

 

光秀「ここで下がれば、将軍様の御所まで届く!」

 

 その時。

 

 夜の闇を切り裂く鉄砲の音が響いた。

 

 三好方の後列が、次々と崩れる。

 

三好兵「何だ! 後ろから鉄砲だ!」

 

三好将「織田の援軍か!」

 

 闇の向こうから、津田の旗が現れた。

 

新六「雑賀衆! 敵の旗本を狙え!」

 

孫一「承知した!」

 

 鈴木孫一が手を上げる。

 

孫一「鉄砲衆、構えろ!」

 

 火縄が揺れる。

 

 次の瞬間、斉射が走った。

 

 三好方の指揮役が倒れ、兵が乱れる。

 

 さらに別の道から、秀吉の兵が現れた。

 

秀吉「逃げ道を塞げ! 京で暴れる奴らに、帰る道なんぞ要らねえ!」

 

 敵軍は、前から光秀、横から新六、後ろから秀吉に挟まれた。

 

 そこへ細川藤孝の隊も到着する。

 

藤孝「明智殿、持ちこたえたか!」

 

光秀「藤孝殿! 助かります!」

 

藤孝「将軍様の御所へ近づけるな!」

 

 新六は敵の中心へ踏み込んだ。

 

 斎藤龍興の旗が見える。

 

新六「龍興!」

 

 龍興は、新六の姿を見て顔を歪めた。

 

龍興「津田新六信時……!」

 

新六「稲葉山を捨てて、今度は三好に頼ったか」

 

龍興「黙れ! 美濃を奪った貴様に言われる筋合いはない!」

 

新六「ならば、取り返しに来ればよかった」

 

 新六の槍が振るわれる。

 

 龍興の周囲の兵が倒れ、旗が揺れる。龍興の肩にも槍が刺さる。

 

龍興「退け! 退くぞ!」

 

三好将「撤退だ!」

 

 敵軍は、ついに崩れ始めた。

 

 夜の京から、三好三人衆と斎藤龍興の軍は逃げ去っていった。

 

 後日、龍興が亡くなったという散ら背が新六の元に届いた。

 

---

 

 少し遅れて、織田信長が本圀寺へ到着した。

 

 信長は破れた塀と、血に染まった石畳を見た。

 

信長「義昭殿」

 

義昭「信長……」

 

信長「無事か」

 

義昭「……ああ」

 

信長「この寺では守りが薄い」

 

 信長は周囲を見渡し、淡々と言った。

 

信長「新たな城を建てる。将軍の身を守るための城だ」

 

義昭「城を?」

 

信長「二条に、誰も容易く踏み込めぬ御所を造る」

 

 義昭の表情が、少しだけ明るくなる。

 

義昭「さすがは信長だ」

 

 だが義昭は、新六と秀吉を見ようとしなかった。

 

 最初に駆け付けた新六。

 

 敵の退路を断った秀吉。

 

 寺を守り切った光秀。

 

 それでも義昭は、後から到着した細川藤孝へだけ近づく。

 

義昭「藤孝」

 

藤孝「はっ」

 

義昭「よくぞ参った。そなたの忠節、余は忘れぬ」

 

藤孝「恐れ入ります。しかし、最初に敵を退けたのは――」

 

義昭「分かっている」

 

 義昭は、藤孝の言葉を遮った。

 

義昭「そなたらがよく働いた」

 

 その声は、わざと大きかった。

 

 新六と秀吉にも聞こえるように。

 

 秀吉の眉がぴくりと動く。

 

秀吉「……新六様」

 

新六「何も言うな」

 

秀吉「ですが」

 

新六「今は将軍の前だ」

 

 新六は義昭へ深く一礼した。

 

新六「将軍様のご無事、何よりにございます」

 

義昭「うむ」

 

 返事は、それだけだった。

 

 新六は何も言わず、秀吉とともに寺を出た。

 

---

 

 翌日。

 

 義昭は信長へ報告した。

 

義昭「本圀寺を救ったのは、藤孝の働きが大きい」

 

信長「ほう」

 

義昭「明智もよく守った。だが、津田と木下は到着が遅れ、戦の趨勢にはさほど関わっておらぬ」

 

 信長は、義昭をじっと見た。

 

信長「そうか」

 

義昭「うむ」

 

信長「分かった」

 

 信長はそれ以上、何も言わなかった。

 

 だが、その夜。

 

 光秀が信長のもとを訪れた。

 

光秀「信長様。申し上げねばならぬことがございます」

 

信長「本圀寺のことか」

 

光秀「はい」

 

信長「義昭殿の話と違うのか」

 

光秀「まったく違います」

 

 光秀は、戦の流れを一つずつ伝えた。

 

 最初に新六が雑賀衆を連れて駆け付けたこと。

 

 秀吉が敵の退路を塞いだこと。

 

 藤孝は援軍として重要だったが、すでに戦況が決してから到着したこと。

 

 そして義昭が、それを知りながら虚偽を述べたこと。

 

 信長は最後まで黙って聞いた。

 

光秀「……以上にございます」

 

信長「義昭は、新六を貶めるために嘘をついた」

 

光秀「そのように見えます」

 

信長「市の件から、何も学んでおらぬか」

 

 信長の声は低かった。

 

 怒鳴る声ではない。

 

 だが、光秀は背筋に冷たいものを感じた。

 

信長「将軍だからといって、俺の家臣の働きを勝手に奪ってよいわけではない」

 

光秀「はっ」

 

信長「義昭に伝えろ」

 

光秀「何を、でございますか」

 

信長「これより先、将軍の勝手は許さぬ」

 

 信長は立ち上がった。

 

信長「兵の動きも、書状も、御所の出入りも、すべて織田の目を通せ」

 

光秀「……承知いたしました」

 

信長「将軍にしてやったのは俺だ」

 

 信長の目に、冷たい光が宿る。

 

信長「だが、俺の手を噛む将軍を、自由にさせるつもりはない」

 

---

 

 本圀寺の戦いの後。

 

 新六と秀吉は、京に構えた本陣へ戻っていた。

 

 秀吉は酒も飲まず、机の上の地図を睨んでいる。

 

秀吉「腹が立ちやす」

 

新六「分かっている」

 

秀吉「俺たちは、命を張って駆け付けた」

 

新六「ああ」

 

秀吉「それを、あの将軍様は見もしねえ」

 

新六「見ている」

 

秀吉「え?」

 

新六「見ていて、認めなかった」

 

 新六は静かに答えた。

 

新六「だから余計に厄介だ」

 

秀吉「じゃあ、どうしやす」

 

新六「今は何もしない」

 

秀吉「何もしない?」

 

新六「信長様が知れば、動く」

 

 新六は灯火を見つめた。

 

新六「俺たちは京を守る。商いを整える。人を集める」

 

新六「将軍と争うために、畿内へ来たわけじゃない」

 

 秀吉はしばらく黙っていた。

 

 やがて、小さく息を吐く。

 

秀吉「……分かりやした」

 

新六「ただし」

 

秀吉「ただし?」

 

新六「次に京で騒ぎが起きたら、将軍の顔色より先に民を守れ」

 

秀吉「へへっ。そいつは、言われなくても」

 

 京の夜は静かになった。

 

 しかし、本圀寺で義昭が選んだ虚言は、信長の胸に深く残った。

 

 この日を境に。

 

 足利義昭は将軍でありながら、少しずつ自由を失っていくことになる。

 

 そして信長は、将軍を立てる者から――将軍を管理する者へと変わり始めていた。

 

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