姉川で浅井・朝倉を退けた織田軍は、勢いに乗っていた。
だが、その勢いを嫌う者たちもまた、各地で動き始めていた。
長島願証寺。
そして、織田領の各地。
一向宗の門徒たちが蜂起し、城や代官所を襲い、街道を断ち始めたのである。
岐阜城の評定では、信長の前に次々と急報が運び込まれた。
使者「長島願証寺、一揆勢を集めております!」
使者「尾張南部でも門徒が兵を挙げました!」
使者「美濃の村々でも、年貢の蔵が襲われております!」
信長は報告を聞き終えると、静かに顔を上げた。
信長「長島は、俺を試している」
勝家「願証寺を放置すれば、周辺の一揆も勢いづきますな」
信長「そうだ」
信長は兄・織田信広へ視線を向けた。
信長「信広」
信広「任せろ」
信長「滝川一益、森可成とともに長島へ向かえ」
一益「はっ」
可成「承知いたしました」
信長「願証寺勢は、根まで断て」
信広「……完全な殲滅、ですな」
信長「ああ」
信長の声に迷いはなかった。
信長「仏の名を借りて民を煽り、領地を乱す者を許せば、次は織田そのものが食い荒らされる」
続いて信長は、新六と秀吉を呼んだ。
信長「新六、秀吉」
新六「はっ」
秀吉「へい」
信長「各地の一揆を鎮めろ」
秀吉「鎮める、ですか」
信長「長島とは違う。各地の一揆には、脅されて従う者も、飢えて加わる者もいる」
新六「背後を探れ、と」
信長「そうだ。一揆を起こしている者ではない。一揆を起こさせている者を見つけろ」
秀吉「承知いたしました」
信長「俺は残る軍で浅井を追い詰める」
信長は地図を閉じた。
信長「内から火を付ける者も、外から刃を向ける者も、まとめて潰す」
---
京へ戻る道中。
新六は半兵衛、秀吉、一豊、康豊を集めていた。
新六「一揆を力だけで潰せば、別の土地でまた火が上がる」
秀吉「確かに、百姓を斬ったところで、腹が減った百姓はまた別の旗へ集まりやす」
半兵衛「では、まずは調べるべきですな」
新六「ああ。誰が金を出し、誰が兵糧を運び、誰が噂を流しているか」
一豊「ですが各地を調べるには、人手が足りませぬ」
新六は少し考えた後、地図の伊賀を指した。
新六「伊賀へ行く」
康豊「忍びを登用なさるおつもりで」
新六「ああ。戦場で敵を見る目だけでは足りない。戦が始まる前の闇を見られる者が必要だ」
---
伊賀。
山深い里で、新六は百地丹波と向き合った。
周囲には姿を見せぬ気配があった。
木の上にも、岩陰にも、忍びたちがいる。
百地「津田新六信時」
新六「百地丹波」
百地「織田の大将が、忍びに何を求める」
新六「目と耳だ」
百地「それだけか」
新六「違う」
新六は、まっすぐ百地を見た。
新六「戦を減らす力を借りたい」
百地の目が細くなる。
百地「忍びは、戦を減らすための者ではない」
新六「ならば、これからそうなれ」
百地「……大きく出たな」
新六「一揆を起こした者を斬るだけなら、俺たちでもできる」
新六「だが、誰が煽ったのか。どの村が脅されているのか。どこに兵糧が隠されているのか。それを知らずに兵を動かせば、関係のない者まで巻き込む」
百地「我らに、そこを探れと」
新六「ああ。加えて、噂を流してくれ」
百地「噂?」
新六「織田は、事情を聞かずに百姓を皆殺しにはしない。武器を捨てた者は助ける。だが、一揆を煽った者と、民を脅した者は逃がさない」
百地は黙って新六を見つめた。
百地「忍びを、家臣にするのか」
新六「津田家の重臣として迎える」
百地「我らは、影に生きる者だ」
新六「ならば影のままでいい」
新六「だが、お前たちの働きを、使い捨てにはしない」
しばらくの沈黙。
やがて百地は、低く笑った。
百地「面白い主だ」
百地「よかろう。百地丹波と伊賀の者たち、津田家へ仕えよう」
新六「頼む」
---
伊賀の忍びたちは、各地へ散った。
百姓に紛れ。
旅人に紛れ。
商人の荷駄に紛れ。
寺の門前に立ち。
酒場で耳を澄ませた。
そして、一揆の裏側が少しずつ見えてくる。
武器を集める者。
米を隠す者。
村を脅して兵を出させる者。
さらに、その奥で名を出さずに人と金を動かしている者たち。
石山本願寺。
新六のもとへ、百地丹波が戻った。
百地「新六様」
新六「分かったか」
百地「はい。一揆は自然に起きたものではありませぬ」
新六「石山か」
百地「石山本願寺から流れた金と書状が、複数の一揆勢へ届いております」
秀吉「やっぱり大元がいたか」
半兵衛「長島だけを叩いても、火種は残りますな」
新六「だが、今すぐ石山へ兵は向けない」
秀吉「なぜです」
新六「敵が大きすぎる。今は、各地の火を消す」
新六は忍びたちへ命じた。
新六「村へ伝えろ。武器を置けば助ける。首謀者に脅されて加わった者は、事情を調べる」
新六「だが、略奪をした者、村を焼いた者、民を殺した者は逃がさない」
百地「承知」
噂は広がった。
織田軍が来れば皆殺しにされる。
そう言われていた村々で、人々は迷い始めた。
実際には、新六の軍は投降した百姓を縛り上げず、まず事情を聞いた。
脅されていた者は村へ戻された。
首謀者だけが捕らえられた。
やがて一揆勢の中から、武器を捨てる者が出始める。
一揆勢「俺たちは騙されたんだ!」
一揆勢「寺の者に、織田は皆殺しにすると言われた!」
津田兵「武器を置け! 話を聞く!」
各地の火は、少しずつ消えていった。
---
一方、長島。
信広、一益、森可成の軍は、願証寺勢を徹底して追い詰めていた。
信広「逃がすな!」
一益「川向こうの船を押さえろ! 退路を断て!」
可成「門徒の旗を持つ者から崩せ!」
願証寺勢は、最後まで激しく抵抗した。
だが織田軍の包囲は崩れない。
やがて、長島の一向一揆は壊滅した。
しかし、勝利の報とともに、岐阜へ別の急報が届く。
使者「信長様!」
信長「何だ」
使者「織田信広様が……鉄砲に撃たれ、討死なされました」
評定の間が凍りついた。
信長は、しばらく何も言わなかった。
信長「誰が撃った」
使者「闇に紛れており、正体はまだ」
信長「探せ」
信長の声は、低かった。
信長「地の果てまで探せ」
---
数日後。
新六のもとへ、信長からの使者が来た。
使者「津田様。信長様がお呼びです」
岐阜城。
信長は兄の死を知らされた後も、表向きは平静だった。
だが、その目には怒りが沈んでいた。
信長「新六」
新六「はっ」
信長「兄上を殺した者を探せ」
新六「承知いたしました」
信長「ただの鉄砲撃ちではない」
新六「……忍び、もしくは雇われた者」
信長「ああ。誰が命じ、誰が匿い、どこから逃げたか。すべて暴け」
新六「必ず」
---
百地丹波と伊賀の忍びたちは、すぐに動いた。
火縄銃の作り。
弾の癖。
潜伏先。
甲賀へつながる道。
やがて一人の名が浮かび上がる。
杉谷善住坊。
甲賀の鉄砲撃ちだった。
百地「新六様。信広様を撃った者は、杉谷善住坊に間違いありませぬ」
新六「甲賀にいるのか」
百地「はい。甲賀の者が匿っております」
秀吉「甲賀を攻めるんですかい」
新六「まずは、話をする」
---
甲賀。
新六は少数の兵と伊賀忍びを連れ、甲賀の有力者たちの前に立った。
甲賀の者たちは、警戒を隠さない。
甲賀衆「織田が何の用だ」
新六「杉谷善住坊を引き渡せ」
甲賀衆「知らぬ」
百地「嘘ですな」
百地丹波が一歩前に出る。
百地「善住坊は南の山中に隠されている。見張りは六人。鉄砲は三挺」
甲賀衆の顔色が変わった。
新六「甲賀そのものを敵にするつもりはない」
甲賀衆「ならば、なぜ脅す」
新六「脅しているんじゃない」
新六は静かに答えた。
新六「選ばせている」
新六「信広様を殺した者を匿うなら、甲賀は織田の敵になる」
新六「だが善住坊を渡し、織田へ従うなら、甲賀の技と土地は守る」
甲賀衆は沈黙した。
そこへ伊賀の忍びたちが、甲賀の者たちへ声をかける。
伊賀忍び「織田に仕えれば、忍びを捨てろとは言われぬ」
伊賀忍び「津田様は、我らを重臣として迎えた」
伊賀忍び「影の者を、使い捨てにはしない」
甲賀衆の間に迷いが広がる。
もともと甲賀は、信広の暗殺に深く関わる気はなかった。
善住坊一人のために、織田と敵対する意味もない。
やがて甲賀の長が、深く頭を下げた。
甲賀衆「杉谷善住坊を引き渡します」
新六「賢明だ」
甲賀衆「その代わり、甲賀の者たちを滅ぼさぬと約束いただきたい」
新六「約束する」
新六「甲賀の技を、織田のために使え」
---
杉谷善住坊は、岐阜へ引き渡された。
信長は善住坊を前にしても、怒鳴らなかった。
信長「兄上を撃ったのは、お前か」
善住坊「……そうだ」
信長「誰に頼まれた」
善住坊「言えぬ」
信長「そうか」
信長は立ち上がった。
信長「ならば、己の選んだ道の先を見ろ」
杉谷善住坊には、見せしめとして苛烈な刑が下された。
その処刑は、信長が兄の死をどれほど重く受け止めたかを、畿内へ知らしめるものとなった。
---
その後。
信長は甲賀の忍びたちを岐阜へ呼び寄せた。
そして、新六の伊賀衆を見て学んだように、彼らを織田家直属の諜報部隊として組み込んだ。
信長「甲賀」
甲賀衆「はっ」
信長「これよりお前たちは、織田の目となれ」
甲賀衆「織田の目……」
信長「全国の情報を集めろ。敵の兵、城、金、密約、裏切り。すべてだ」
甲賀衆「承知いたしました」
信長「働きには報いる。だが織田を裏切れば、善住坊と同じ末路を辿る」
甲賀衆「肝に銘じます」
甲賀の忍びたちは、深く頭を下げた。
彼らは恐れただけではない。
忍びの技を正しく使い、働きに応じて報いる主君を得たことを理解していた。
以後、甲賀の忍びたちは全国へ散り、織田家へ無数の情報を届けることになる。
---
岐阜城の夜。
信長は、新六と向かい合っていた。
信長「伊賀を手に入れ、甲賀を織田へ入れた」
新六「皆、使い方次第です」
信長「違う」
信長は笑った。
信長「お前は、敵になるかもしれぬ者へ、先に居場所を与える」
新六「敵にするより、味方にした方がいい」
信長「簡単に言うな」
信長は杯を傾けた。
信長「だが、その考え方は嫌いではない」
新六「信広様の件は……申し訳ありません」
信長「お前が謝ることではない」
信長は、わずかに視線を落とした。
信長「兄上の死は、忘れぬ」
そして、顔を上げる。
信長「だが俺は、止まらぬ」
信長「長島を潰し、一揆を鎮め、伊賀と甲賀を手に入れた」
信長「次は浅井と朝倉だ」
新六「はっ」
織田信長の天下布武は、さらに大きな力を手に入れていた。
表で軍を動かす将たち。
影で情報を集める忍びたち。
そして、新六のもとで育つ伊賀の諜報網。
戦国の闇を見通す目は、今や織田家の手に収まり始めていた。