甲賀からもたらされた情報によって、一向一揆の背後で糸を引く者の名が明らかになった。
本願寺顕如。
だが、顕如自身は表立って兵を動かしてはいない。
信長は岐阜城で報告を聞き終えると、しばらく考え込んだ。
信長「顕如には、目を付けておけ」
百地「監視のみでございますか」
信長「ああ。今はまだ、石山を攻める時ではない」
信長は地図を広げた。
そこには北近江の浅井。
越前の朝倉。
そして、織田領へ伸びる二つの敵の影があった。
信長「先に浅井と朝倉を片付ける」
新六「はっ」
信長「背後に刃を突きつけたまま、石山と戦う気はない」
秀吉「なら、北へ総力を向けるんですな」
信長「ああ」
信長は、鋭い目で新六を見た。
信長「新六。お前には本隊の一万とは別に、五千を預ける」
新六「五千を」
信長「森可成を付ける。朝倉へ向かえ」
可成「ほう」
森可成は、腕を組んだまま笑った。
可成「俺を使うか、新六」
新六「力を貸していただきたい」
可成「よい。だが、俺は大人しく後ろに立つ男ではないぞ」
新六「それでこそ森様です」
信長は笑った。
信長「金ヶ崎を破り、そのまま一乗谷を押さえろ」
新六「承知いたしました」
信長「俺は浅井を潰す」
天下布武の軍勢は、二つに分かれて北へ進んだ。
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元亀元年、三月。
津田軍と森軍は、雪の残る北国の道を進んでいた。
新六の一万。
森可成の五千。
半兵衛、一豊、康豊、鈴木孫一、百地丹波。
さらに雑賀衆と伊賀衆まで加わった軍は、これまでの津田軍とは違う形をしていた。
槍。
騎馬。
鉄砲。
忍び。
それぞれが役目を持ち、一つの軍として動いている。
金ヶ崎の前。
朝倉方は城と山道を使い、津田・森連合軍を止めようとしていた。
朝倉兵「織田の軍が来るぞ!」
朝倉将「金ヶ崎で止めろ! 一乗谷へ入らせるな!」
森可成は最前線で槍を構えた。
可成「新六! 正面は俺が砕く!」
新六「森様、敵は山へ逃げるつもりです!」
可成「なら逃がすな!」
新六「半兵衛!」
半兵衛「すでに伊賀衆を回しております」
百地「山道の抜け道は押さえた。朝倉の兵が退くなら、必ずこちらへ流れる」
新六「孫一!」
孫一「鉄砲衆、配置済みだ」
新六「森様が正面を割る。敵が退いたところを、左右から挟む!」
可成「ははは! 分かりやすくてよい!」
森軍が鬨の声を上げる。
可成「森勢、前へ!」
森可成の槍が敵兵を薙ぎ払う。
朝倉兵は正面で押され、山道へ逃げようとした。
だが、その先には伊賀衆が潜んでいた。
伊賀忍び「退路はこちらだとでも思ったか」
朝倉兵「忍びだ!」
さらに左右の高みから鉄砲が響く。
孫一「撃て!」
銃声が山へ反響する。
逃げ場を失った朝倉兵は崩れ、金ヶ崎は一日で落ちた。
可成「見事だな、新六」
新六「森様が前を崩してくださったからです」
可成「違う。お前は俺が暴れる場所を、最初から作っていた」
可成は豪快に笑った。
可成「悪くない。こういう戦は好きだ」
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金ヶ崎を抜いた津田・森連合軍は、そのまま越前へ雪崩れ込んだ。
朝倉方の城は次々と降り、一乗谷は孤立していく。
やがて津田軍は、朝倉家の本拠・一乗谷を包囲した。
城下には兵糧が残り、城壁も高い。
だが、朝倉軍の士気は既に落ちていた。
信長軍が浅井を押し込み、小谷城を包囲しているという報も届いている。
朝倉家に援軍はない。
連合軍の本陣で、半兵衛は地図を見つめていた。
半兵衛「一乗谷は落とせます」
新六「だが、時間がかかる」
半兵衛「はい。朝倉の残兵は、最後の意地を見せるでしょう」
可成「なら、攻めればよい」
新六「攻める」
一豊が新六を見る。
一豊「新六様。何か策がおありで」
新六「ああ」
新六は、岐阜へ向けて書状を書いた。
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その書状を読んだ信長は、静かに笑った。
信長「新六め」
隣にいた信忠が、父の顔を見た。
信忠「父上。何かありましたか」
信長「一乗谷から援軍の要請だ」
信忠「では、俺が参ります」
信長「違う」
信長は息子を見た。
信長「新六は、お前を寄越せと言っている」
信忠「俺を」
信長「初陣を、一乗谷で飾らせるつもりらしい」
信忠の目が輝いた。
信忠「必ず、父上の名を辱めぬ働きをしてみせます」
信長「待て」
信長の声が低くなる。
信長「新六の命に従え。勝手に走るな。戦場では、武功を焦るな」
信忠「承知しております」
信長「護衛を付ける。お前は大将として戦を見ろ」
信忠「はい」
信長は、信忠の肩へ手を置いた。
信長「生きて帰れ。手柄は、生きている者にしか残せぬ」
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一乗谷。
織田信忠が到着した。
津田軍と森軍の兵が並び、若き嫡男を迎える。
新六は、信忠の前で深く頭を下げた。
新六「織田信忠様。お待ちしておりました」
信忠「津田新六信時」
新六「はっ」
信忠「父上から聞いた。俺を大将として、一乗谷を攻めるのだな」
新六「はい。信忠様の初陣として、織田家の嫡男が朝倉を滅ぼしたという形を残したく存じます」
信忠「分かった。俺は何をすればいい」
新六「大将として、兵を御覧ください」
信忠「俺は戦わなくていいのか」
新六「必要ならば、戦っていただきます」
新六は、真っすぐに信忠を見た。
新六「ですが、信忠様が前へ出るのは、全軍が信忠様を守れる形になった時だけです」
信忠「……分かった」
半兵衛「信忠様。明日の朝、一乗谷へ総攻撃をかけます」
可成「若殿。俺たちが前を割る。津田の鉄砲が敵を崩す」
一豊「その後、信忠様の旗を中央へ進めます」
信忠「皆が俺のために戦うのか」
新六「織田家のためにです」
信忠は、少しだけ息を呑んだ。
新六「信忠様は、織田家の未来です」
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翌朝。
一乗谷への総攻撃が始まった。
可成「森勢、攻めろ!」
森軍が正面から城門へぶつかる。
孫一「鉄砲衆、敵の櫓を狙え!」
雑賀衆の鉄砲が火を噴く。
朝倉方の弓兵が櫓から落ち、城壁の上が乱れた。
半兵衛「右の谷道へ兵を回してください!」
康豊「承知!」
百地「伊賀衆、裏の柵を破った!」
新六「一豊! 中央を開けろ!」
一豊「はっ!」
津田軍は、計算されたように一乗谷へ流れ込んでいく。
朝倉方の旗が倒れ、城下に火が上がる。
その中央に、信忠の旗が進んだ。
信忠「織田信忠、前へ出る!」
兵たちが鬨の声を上げる。
織田兵「信忠様、万歳!」
織田兵「朝倉を討て!」
信忠は馬を進めた。
その姿に、周囲の兵は奮い立つ。
だが。
戦場の熱は、若き嫡男の判断を鈍らせた。
敵の旗が近い。
朝倉方の将が、少数の兵とともに後退している。
信忠「敵将がいる!」
新六「信忠様、止まってください!」
信忠「ここで討てば、朝倉は終わる!」
新六「前へ出てはなりません!」
信忠は、新六の制止を振り切った。
護衛の兵を連れ、敵将へ向かって駆ける。
その瞬間。
崩れた塀の陰から、朝倉兵が現れた。
朝倉兵「織田の嫡男だ!」
朝倉兵「討ち取れ!」
信忠「しまっ……!」
槍が信忠へ向けられる。
一豊が馬を飛ばした。
一豊「信忠様!」
一豊の槍が敵兵を突き倒す。
だが、別の兵が信忠へ迫った。
その兵の前へ、新六が割り込む。
新六「下がれ!」
新六の槍が唸る。
敵兵が弾き飛ばされ、信忠の馬の前に倒れた。
周囲の護衛がようやく敵を押し返す。
朝倉方の伏兵は討たれ、一乗谷は完全に落ちた。
朝倉家は、ここに滅亡した。
だが、新六の顔に勝利の喜びはなかった。
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戦場の外れ。
信忠は、馬から下ろされていた。
新六は、その前に立つ。
信忠「……新六」
新六「なぜ、命令を破られたのです」
信忠「敵将が見えた。俺が行けば、兵が」
新六「違います」
新六の声が、鋭く戦場へ響いた。
新六「功を焦られたのです」
信忠「俺は……」
新六「ご自分のお立場をお忘れか!」
新六の拳が、信忠の頬を打った。
信忠が地面へ倒れる。
一豊も可成も、周囲の兵も息を呑んだ。
新六「あなたは既に複数の命を背負っていると言う自覚が足らない!」
新六は、倒れた信忠を見下ろした。
新六「あなたが死ねば織田は滅ぶと心得られよ!」
信忠は、頬を押さえたまま動けなかった。
新六「父上の名を継ぐ者として、兵を率いる者として、生き残ることを最優先にしてください!」
新六「あなた一人の命ではない!」
長い沈黙が落ちた。
やがて信忠は、震える声で答えた。
信忠「……すまなかった」
新六「謝る相手は俺ではありません」
信忠「父上と……俺を守るために死ぬかもしれなかった者たちだ」
新六「その通りです」
一豊は、何も言わずに頭を下げた。
森可成は腕を組み、新六を見ていた。
可成「厳しいな」
新六「越権でした」
可成「だが、必要だった」
新六「それでも、俺は織田家の嫡男を殴った」
新六の手は、わずかに震えていた。
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一乗谷の戦後処理が終わると、新六は菩提山城へ戻った。
誰にも告げず、城の一室へ籠もった。
信忠を殴った。
織田の嫡男へ手を上げた。
命を守るためだった。
だが、それは家臣として越えてはならない線だったかもしれない。
夜。
新六は刀を前に置き、静かに座っていた。
新六「俺は、信長様の信を裏切った」
その時、障子が開いた。
市が入ってくる。
市「新六様」
新六「市」
市「やめてください」
新六「俺は、蟄居するべきだ」
市「それなら蟄居なさればよいではありませんか」
新六「違う」
新六は刀を見た。
新六「信忠様に手を上げた。俺が生きていれば、信長様の家中に亀裂を作る」
市「作りません」
新六「市」
市「信忠様は、生きておられます」
市は新六の前へ座った。
市「新六様が守ったからです」
新六「だが」
市「新六様は、信忠様を侮って殴ったのではない」
市「信忠様が死ねば、織田が崩れると知っていたから、命を懸けて叱ったのでしょう」
新六「それでも、俺は」
市「それでも、死ぬのですか」
市の声は、震えていた。
だが目は逸らさない。
市「鈴様も、雫様も、子供たちも」
市「新六様がいなくなれば、皆どうなるのです」
新六「……」
市「私もです」
市は自分の腹へ手を添えた。
市「どうしても自害されるというのなら、私も子と共に死出の道をお供します」
新六「市!」
市「止められぬのなら、せめて一人では行かせません」
新六の目から、初めて力が抜けた。
刀を持つ手が震え、やがて床へ落ちる。
新六「……卑怯だ」
市「はい」
新六「そんなことを言われたら、死ねない」
市「死なないでください」
市は、新六の手を握った。
市「生きてください。私たちのために」
新六は深く俯いた。
やがて、掠れた声で答える。
新六「……分かった」
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数日後。
市からの書状が、岐阜城へ届いた。
信長は読み終え、机を叩いた。
信長「馬鹿者が」
その声は怒りに満ちていた。
だが同時に、どこか安堵もあった。
そこへ信忠が入ってくる。
信忠「父上」
信長「何だ」
信忠「新六の件で、申し上げたいことがあります」
信長「聞こう」
信忠「悪いのは俺です」
信忠は深く頭を下げた。
信忠「新六は、俺の過ちを正しただけです」
信忠「俺が勝手に前へ出て、危うく討たれかけた。新六と一豊がいなければ、俺は死んでいました」
信長「だから、殴られて当然だと」
信忠「はい」
さらに森可成も、信長の前へ進み出た。
可成「殿」
信長「可成」
可成「新六を助けてやってください」
信長「お前まで言うか」
可成「俺は戦場で見た。あれは越権かもしれん」
可成「だが、信忠様の命を守るための越権だ」
そこへ佐久間信盛が口を挟んだ。
信盛「しかし、嫡男様へ手を上げるとは無礼にも程があります」
可成「黙れ、信盛」
信盛「何だと」
可成「お前は、信忠様が死んでも礼法の話をするのか」
信盛は言葉を詰まらせた。
信長は立ち上がった。
信長「新六を岐阜へ呼べ」
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岐阜城。
新六は蟄居の姿のまま、信長の前へ出た。
信長はしばらく何も言わず、新六を見ていた。
信長「なぜ、勝手に死のうとした」
新六「信忠様へ手を上げた責を取るためです」
信長「誰が死ねと言った」
新六「……」
信長「誰が、お前の命を捨てろと言った」
信長の声は、徐々に強くなっていく。
信長「お前は俺の家臣であり、俺の妹の夫であり、織田の柱だ!」
信長「勝手に自害するなど、俺への裏切りだ!」
新六「申し訳ありません」
信長「謝るな!」
信長は一歩前へ出る。
信長「信忠を殴った理由を言え」
新六「信忠様が死ねば、織田家が揺らぐと思ったからです」
信長「それだけか」
新六「俺は……信忠様に、生きて織田を継いでいただきたい」
信長は、しばらく新六を見つめた。
やがて、口元を上げた。
信長「よくやった」
新六「……は?」
信長「よくやったと言った」
信長は笑った。
信長「信忠へ媚びて、危険な真似を止めぬ者など要らぬ」
信長「お前は、俺の息子を守った」
信長「そして、織田の未来を守った」
新六は、言葉を失った。
信長は信忠へ視線を向ける。
信長「信忠。お前から言え」
信忠「はい」
信忠は、新六の前へ進んだ。
そして深く頭を下げた。
信忠「新六」
新六「信忠様」
信忠「俺の命を救ってくれて、ありがとうございます」
新六「頭を上げてください」
信忠「いや」
信忠は頭を下げたまま続けた。
信忠「俺は功を焦った」
信忠「大将として、父上の嫡男として、そして名代として皆の命を預かる立場を忘れた」
信忠「新六は、殴ってまで俺と正面から向き合い、間違いを正してくれた」
信忠「感謝している」
新六の目が潤んだ。
新六「信忠様」
信忠「これからも、俺が誤れば叱ってくれ」
新六「……はい」
信忠「ただし次は、もう少し手加減してくれ」
信長が笑う。
可成「ははは! 若殿も強くなられた!」
一豊も、思わず笑みを浮かべた。
重かった空気が、ようやくほどけていく。
信長は新六へ告げた。
信長「蟄居は解く」
新六「はっ」
信長「一乗谷での働き、朝倉滅亡、信忠の救出。すべて合わせて、大功だ」
信長「これからも、俺の息子を守れ」
新六「命に代えましても」
信長は頷いた。
そして、遠く北近江の方角を見た。
朝倉は滅んだ。
浅井もまた、秀吉と蜂須賀正勝の働きによって、小谷城へ追い込まれている。
天下布武の道を塞ぐ者は、一つずつ消えていく。
だがこの日。
織田家にとって最も大きかったのは、一つの敵を滅ぼしたことではなかった。
嫡男・信忠が、生き残ることの重さを知ったこと。
そして津田新六信時が、命を懸けて織田の未来を守る男だと、誰もが改めて理解したことであった。