浮野の戦いから、月日が流れた。
織田信長から与えられたものは、仕官の約束でも、領地でも、身分でもなかった。
ただ、大量の金だけだった。
山内盛豊という兜首を挙げた働きに対する相場の三倍。その額は、農民の子として生まれた新六にとって、人生を根底から変えるには十分すぎるほどのものだった。
新六はその金を抱えて、熱田へ移った。
尾張でも屈指の港町にして、熱田神宮の門前町。
街道には旅人が行き交い、港には商船が並び、商人たちの威勢のよい声が朝から響く。農村しか知らなかった新六にとって、熱田はまるで別世界だった。
そこで新六は、小さな家を借りた。
働いた。
荷運びもした。商人の護衛も引き受けた。読み書きを覚え、算術を学び、暇があれば武芸を磨いた。
信長から受け取った金があるのだから、何もしなくても数年は暮らせる。
しかし新六は、そうしなかった。
金というものは使えば減る。
力というものは磨かなければ鈍る。
そして人というものは、知らなければ動かせない。
九歳にして戦場を知った少年は、年月とともに、それを本能ではなく知識として理解し始めていた。
そんな熱田での日々の中。
新六は、一人の少女と出会った。
熱田神宮に仕える巫女だった。
名を――雫といった。
初めて見た時、新六は文字通り足を止めた。
長い黒髪。
白い肌。
整いすぎて、むしろ現実味すら薄く感じられる顔立ち。
まだ少女の面影を残していながら、身に纏った白衣と緋袴は女性らしい身体の線を隠し切れていない。特に胸元は豊かで、白衣を内側から押し上げるほどだった。
だが新六が最初に惹かれたのは、そこではなかった。
雫は、境内の端で泣いている子供の前にしゃがんでいた。
「大丈夫。転んだだけでしょう?」
子供「いたい……」
「うん。痛いよね。でも、ほら」
雫は懐から布を取り出すと、膝から血を流す子供の傷を優しく拭った。
「これくらいなら、すぐ治るから」
微笑んだ。
新六は、その笑顔を見つめていた。
どういうわけか、目を逸らせなかった。
「……?」
視線に気づいた雫が振り返った。
目が合う。
「…………」
「…………」
沈黙。
先に首を傾げたのは雫だった。
「私の顔に、何かついていますか?」
「いや」
新六は即答した。
そして、少し考える。
「綺麗だと思って見てた」
「……え?」
「すごく綺麗だったから」
雫の顔が、一瞬で赤くなった。
「そ、そういうことを、初対面の女に言うものではありません!」
「そうなのか?」
「そうです!」
「すまない」
新六は素直に頭を下げる。
雫は困った顔になった。
「……そこで素直に謝られると、こちらも怒れないではありませんか」
これが始まりだった。
新六は雫に会うため、熱田神宮へ足を運ぶようになった。
最初のうちは雫も呆れていた。
ところが新六は、ただ雫を追いかけ回していたわけではない。
重い荷物を運んでいる老人を見れば手を貸した。
境内で揉め事が起きれば間に入った。
腹を空かせた子供がいれば飯を買った。
浪人が巫女へ絡めば、相手を傷つけぬ程度に叩き出した。
力をひけらかすことはない。だが、困っている者を見捨てない。
ある日の夕暮れ。
二人は熱田の海を眺めていた。
「新六様は、不思議な方ですね」
「何が?」
「とても強いのに、強いことを自慢なさらない」
「強い奴なんて、いくらでもいる」
「でも、新六様ほどの方はそうはいないと思います」
「だったら、なおさらだ」
新六は海を見ながら答えた。
「強い奴が弱い奴を殴るだけなら、俺の父と母を殺した連中と変わらない」
雫が黙った。
初めて聞く話だった。
「だから俺は、ああはならない」
横顔に浮かんだ表情を見て、雫はそれ以上聞かなかった。
ただ、そっと新六の手へ自分の手を重ねた。
新六は驚いて横を見る。
「……それなら、きっと大丈夫です」
「何が?」
「新六様は、新六様のままでいられます」
その日から、二人の距離は急速に縮まった。
やがて新六の家で暮らすようになり、互いを生涯の相手として意識するまでに、
そう長い時間はかからなかった。
そして幾度となく夜を共に過ごした末――新六は妊娠を機会に雫を妻に迎えた。
盛大な祝言ではない。身近な者だけを呼んだ、小さなものだった。
それでも新六にとっては、人生で初めて手に入れた「家族」だった。
失ったものではない。自分自身の手で築いた家族だった。
だが――。そんな穏やかな暮らしは、長くは続かなかった。
◇ ◇ ◇
永禄三年。
東海道最大級の勢力を誇る今川義元が動いた。
駿河、遠江、三河。
そこから集められた大軍が、西へ向かう。
狙われたのは尾張だった。
街道を通る人々の顔から笑顔が消えた。
熱田にも続々と情報が届く。
今川軍、尾張へ侵攻。
織田方の砦が攻撃を受けている。
戦になる。
熱田の町は、戦の気配に包まれていた。
今川の大軍が尾張へ押し寄せ、丸根砦と鷲津砦が落ちたという報が、
矢のように飛び交っている。
新六は熱田の小さな社の前に立っていた。
境内の石畳は雨に濡れ、白い装束をまとった雫が、静かに彼を見つめている。
「行くのですね」
「ああ」
新六は短く答えた。
まだ若い顔立ちだった。だが、その目には浮野で戦った頃とは違う鋭さが宿っている。
「必ず帰ってきてください」
雫の声は震えていた。
新六は一度だけ振り返り、柔らかく笑った。
「帰る。俺は、お前との約束を果たすために生きる」
雫は頷いた。
その目には涙が浮かんでいたが、決して彼を引き止めなかった。
「……では、神に祈ります。あなたが誰かを守り、そして無事に帰って来られるように」
新六は深く頭を下げた。
「行ってくる」
そして彼は、槍を手に熱田衆のもとへ向かった。
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鷲津砦の周辺は、すでに地獄だった。
今川方の兵は多く、押し寄せる足軽の列は果てが見えない。千秋季忠、佐々政次の兵は奮戦していたが、敵の勢いは凄まじかった。
「新六!」
前田利家が泥を跳ね上げながら駆け寄る。
若い利家は槍を構え、口元に不敵な笑みを浮かべていた。
「熱田の若造が来たか! お前、遅いぞ!」
「利家の声が大きすぎるんだ」
「はっ! 戦場で小声の男は長生きできねえ!」
二人は笑った。
その直後、敵の槍が飛んできた。
新六は片手で槍を掴み、投げ返した。槍は敵兵の足元へ深く突き刺さる。
「来るぞ!」
千秋季忠の声が響く。
「鷲津を取り返す! 熱田の名を、今川の者に踏ませるな!」
「おおっ!」
熱田衆が前へ出た。
新六と利家は先頭に立ち、敵陣へ突き込んだ。
新六の槍が振るわれるたび、敵兵が崩れる。利家はその横で豪快に敵を薙ぎ倒し、二人の周囲だけが不思議なほど前へ進んでいった。
だが、戦場は甘くなかった。
「千秋様が討たれた!」
誰かの悲鳴が上がった。
新六が振り返ると、千秋季忠が馬から崩れ落ちるところだった。
「……っ!」
さらに間を置かず、別の叫びが響く。
「佐々政次様も……!」
熱田衆の勢いが止まった。
指揮を執る者を失い、兵たちの顔から血の気が引いていく。
「退け! 退くぞ!」
「無理だ! 後ろにも敵がいる!」
「囲まれた……!」
逃げ場はなかった。
前にも敵。
後ろにも敵。
左右には、倒れた味方と泥と血。
利家が歯を食いしばった。
「新六……どうする」
新六は、静かに周囲を見渡した。
恐怖に飲まれかけた兵たち。
死んだ仲間を見て、足を止めた者。
槍を握る手が震えている者。
新六は槍を掲げた。
「聞け!」
その声は、戦場の喧騒を裂いた。
「引くな!」
兵たちが顔を上げる。
「引けば死ぬ! 背を見せれば、奴らは俺たちを一人残らず狩る!」
新六は敵陣を睨んだ。
「ならば前へ進め!」
声はさらに強くなる。
「敵を討て! 砦を取り返せ! ここが俺たちの正念場だ!」
誰もすぐには動かなかった。
だが、新六は一人で歩き出した。
「俺は行く。生きたい者も、死んだ仲間を無駄にしたくない者も――俺について来い!」
「……っ」
最初に動いたのは前田利家だった。
「ははっ! 上等だ、新六!」
利家は槍を振り上げた。
「熱田衆! この小僧に負けるな! 前へ出ろ!」
一人、また一人と兵が立ち上がる。
「新六殿に続け!」
「千秋様と佐々様の仇を討て!」
「鷲津を取り返せ!」
熱田衆は、再び前へ出た。
新六を先頭に、残された兵たちは敵の包囲を食い破った。
敵兵の槍をへし折り、盾を砕き、倒れた味方を踏み越えて進む。
そして夕刻。
鷲津砦の上に、再び織田方の旗が掲げられた。
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清洲への早馬が、信長のもとへ報を届けた。
「申し上げます! 鷲津砦、奪還! 千秋季忠様、佐々政次様は討死なされましたが、熱田衆の新六と前田利家が残兵をまとめ、今川勢を退けたとのこと!」
信長は、しばらく何も言わなかった。
報せを持ってきた者は、顔を伏せる。
やがて信長は、低い声で言った。
「季忠と政次は死んだか」
「はっ」
「惜しい男を失った」
その声には、怒りとも悲しみともつかぬ冷たさがあった。
しかし次の瞬間、信長の目に鋭い光が宿る。
「新六は、逃げずに砦を奪い返したのだな」
「はっ。退路を断たれた兵に檄を飛ばし、自ら先頭へ立ったと」
信長は口元をわずかに歪めた。
「やはり、あの童は面白い」
「ですが殿、鷲津を奪われ、こちらの損害も……」
「分かっている」
信長は立ち上がった。
「今川は勝ったと思っている。丸根を落とし、鷲津を落とし、さらに千秋と佐々を討った。義元は、もはや尾張を呑んだ気でいるだろう」
信長は地図の上へ手を置く。
「だが、鷲津を取り返されたなら話は変わる。今川の兵は、思ったほど尾張の者を折れてはいないと知る」
そして、誰にも聞こえぬほど小さな声で呟いた。
「新六。貴様は、俺が使う」
信長は顔を上げる。
「兵を集めよ。善照寺へ向かう」
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一方、桶狭間近くの今川本陣。
今川義元は、ゆったりと盃を傾けていた。
「丸根、鷲津は落ちた。織田の小勢など、もはや恐るるに足らぬ」
家臣たちは頷く。
「左様にございます。織田信長も、もはや動くことは叶いますまい」
そこへ、息を切らした使番が駆け込んだ。
「申し上げます!」
「騒がしい。申せ」
「鷲津砦が……織田方により奪い返されました!」
本陣の空気が止まった。
義元の盃が、わずかに傾く。
「なんだと」
「千秋季忠、佐々政次を討ち取った後、残兵が退いたものと思われましたが……熱田衆の若い兵が兵をまとめ、砦へ再度攻め入り、奪還したとのこと」
「若い兵?」
「名は新六。農民の出であると」
義元は黙った。
農民の子が、退路を断たれた兵をまとめ、砦を奪い返した。
それは武勇だけではない。
人を動かす器があるということだった。
「……織田には、あのような者までいるか」
義元は低く呟いた。
家臣が笑みを浮かべる。
「ご案じ召されますな。ただの小僧でございましょう。大軍の前では、いかなる猛将も――」
「黙れ」
義元の声が鋭く響いた。
「小僧一人を侮る者は、その小僧に首を取られる」
義元は盃を置いた。
「鷲津を奪い返した者の名を覚えておけ。新六――その者は、いずれ織田信長の牙となる」
しかし義元は、まだ知らなかった。
その牙が、数刻の後には自らの喉元へ届くことを。
雨雲が、桶狭間の空を覆い始めていた。