元亀二年、八月。
比叡山延暦寺が、織田家へ武力蜂起した。
山門の僧兵が街道を押さえ、織田方へ刃を向ける。
京へ続く道を脅かし、敵対する者へ兵糧や情報を流しているという報も届いていた。
信長は、すぐには兵を動かさなかった。
まず交渉を命じた。
派遣されたのは、津田新六信時。
明智光秀。
そして羽柴秀吉。
三人は少数の供を連れ、比叡山へ登った。
---
延暦寺の広間。
座主の前で、新六、光秀、秀吉が並んでいた。
座主の周囲には僧兵が立ち、槍や薙刀を手にしている。
僧の姿をしている。
だが、その目は戦場の兵と変わらなかった。
光秀「座主様。織田信長様は、比叡山を滅ぼすために我らを寄越したのではありませぬ」
座主「ならば何をしに来た」
光秀「争いを止めるためにございます」
光秀は、丁寧に言葉を選んだ。
光秀「比叡山は、古くより都と民の心を支えてきた寺院です」
光秀「僧兵を集め、兵を通し、敵対する勢力へ力を貸すことは、本来の寺の姿ではありますまい」
秀吉「織田に従えと言ってるわけじゃありやせん」
秀吉が口を挟む。
秀吉「武器を置いて、山を下りて、僧として生きてくださればいい」
座主「僧として生きる、だと」
座主は嘲るように笑った。
座主「俗世の争いにまみれた織田の者が、我らへ仏の道を説くのか」
新六「俺たちは仏の道を説きに来たわけではありません」
新六が静かに口を開いた。
新六「ただ、寺が戦を起こし、民を巻き込むなら、それを止めるべきだと思っています」
座主「黙れ」
座主の目が細くなる。
座主「比叡山へ手を出せば、仏罰が下る」
新六「……」
座主「織田信長も、そなたらも、地獄へ落ちるぞ」
僧兵たちが、低く笑った。
新六は座主を見つめた。
しばらく黙っていたが、やがて立ち上がる。
新六「分かりました」
光秀「新六様」
新六「これ以上、話すことはありません」
座主「逃げるのか」
新六「いいえ」
新六は、座主へ一礼した。
新六「あなた方が選んだ道を、信長様へ報告するだけです」
新六は踵を返した。
秀吉と光秀も、すぐに後へ続く。
---
山を下る途中。
三人は、寺の裏手を通った。
そこには、交渉の場で語られた清らかな寺の姿などなかった。
昼間から酒を飲む僧。
金銀の器に料理を並べる者。
半裸の遊女を抱き寄せ、笑い声を上げる者。
兵器を手入れし、僧兵へ酒を配る者。
山門の奥には、武器と欲が積み上げられていた。
秀吉「……こりゃあ、ひでえ」
秀吉は、苦い顔で呟いた。
秀吉「仏に仕える者じゃなくて、山賊の頭目ですな」
光秀「比叡山の全てが、このような者たちではないはずです」
新六「そうかもしれません」
新六は、酒に酔った僧たちを見た。
遊女の肩を抱き、僧兵へ金を投げる者。
その足元では、貧しい下働きの者が頭を下げている。
新六「ですが、この者たちを守る仏なら」
新六は、小さく息を吐いた。
新六「これに味方する仏なら、そんなのはいらないな」
光秀は何も言わなかった。
秀吉も、笑わなかった。
三人は、そのまま比叡山を下りた。
---
岐阜城。
新六たちの報告を聞いた信長は、最後まで黙っていた。
新六が座主とのやり取りを伝える。
光秀が比叡山の僧兵と、敵対勢力への協力について述べる。
秀吉が山内の様子を、飾らずに話した。
秀吉「酒と女と銭にまみれてやした」
秀吉「寺の名を掲げながら、やってることは武装した商人か、野盗と変わりやせん」
信長「新六」
新六「はっ」
信長「交渉は、決裂したのだな」
新六「はい」
信長「座主は、仏罰を口にしたか」
新六「俺たちへ、比叡山へ手を出せば地獄へ落ちると」
信長は、ふっと笑った。
だが、その笑みは冷たかった。
信長「ならば見せてやる」
信長は立ち上がった。
信長「仏罰より先に、人の怒りがあることをな」
---
信長は、伊賀と甲賀の忍びを動かした。
比叡山が兵を抱え、敵へ通じ、僧兵が民を脅していること。
寺の内部で酒宴が開かれ、遊女が出入りしていること。
座主が交渉を拒み、仏罰を盾に武力を正当化していること。
忍びたちは、京と近江、畿内各地へ噂を流した。
そして明智光秀は、公家たちのもとを回った。
光秀「比叡山は、もはや寺としての役目を失っております」
公家「延暦寺へ兵を向けるつもりか」
光秀「織田家は、最後まで交渉を試みました」
公家「それでも、山門を焼くとなれば大事になる」
光秀「だからこそ、帝のお耳にも入れねばなりません」
---
やがて正親町天皇は、新六を呼び出した。
御所の一室。
新六は深く頭を下げていた。
天皇「津田新六信時」
新六「はっ」
天皇「比叡山で何が起きている」
新六「ありのままを申し上げます」
新六は、寺が武力を持ち、僧兵が街道を押さえていることを話した。
敵対勢力へ兵糧や情報が流れていること。
僧として生きるよう説得したにもかかわらず、座主が仏罰を口にして脅したこと。
そして山内で見た、酒と女と武器に囲まれた僧たちの姿を。
天皇「……真であるか」
新六「偽りはございません」
天皇「比叡山は、民を守る寺ではないのか」
新六「本来は、そうであるべきだと思います」
天皇「ならば、なぜこのような」
新六「寺も、人が集まる場所です」
新六「人が欲に負ければ、寺もまた歪みます」
天皇は、長く黙っていた。
やがて、扇を強く握る。
天皇「許せぬ」
その声には、怒りがあった。
天皇「仏の名を借り、民を脅し、朝廷と都を危うくする者を、寺とは呼べぬ」
天皇は側近へ向けて言った。
天皇「織田信長へ伝えよ」
天皇「比叡山延暦寺を討つことを、朕が許す」
こうして、比叡山追討の勅命が下った。
---
織田軍は比叡山を包囲した。
山の道は封じられた。
逃げ道は塞がれた。
信長は本陣で、山を見上げていた。
信長「重要な経典と書物は運び出せ」
光秀「承知いたしました」
信長「学ぶべきものまで焼く必要はない」
新六「寺に残る民や、戦に関わらぬ者は」
信長「可能な限り下ろせ」
信長は新六を見た。
信長「だが、武器を持ち、山に残る者は敵だ」
新六「……はい」
火が放たれた。
山の麓から炎が上がる。
堂宇が燃える。
兵舎が燃える。
武器蔵が燃える。
僧兵たちは抵抗した。
だが織田軍の包囲は崩れない。
僧兵「仏罰が下るぞ!」
織田兵「ならば、民を脅す前に仏へ詫びろ!」
火は山を覆っていった。
経典や書物のうち、重要なものは運び出された。
だが、それ以外の建物、兵器、贅沢のための品々は、炎に呑まれた。
最後まで武器を捨てなかった僧兵たちは討たれた。
比叡山は、戦う寺としての姿を失った。
---
夜。
燃える山を見ながら、新六は一人立っていた。
隣へ光秀が来る。
光秀「辛いですか」
新六「……ああ」
光秀「それでも、必要だったと思いますか」
新六「分かりません」
新六は、炎を見つめた。
新六「ただ、寺が戦を起こし、人を脅し、民を苦しめるなら」
新六「誰かが止めなければならない」
光秀「信長様は、止めたのでしょう」
新六「止め方が、正しかったかは分からない」
光秀は黙った。
炎の向こうで、比叡山の鐘が崩れ落ちる音がした。
新六「俺は、これを忘れない」
光秀「新六様」
新六「戦を終わらせるために、どれほどのものを失うのか」
新六「忘れた者から、また同じことを繰り返す」
炎は夜空を赤く染めていた。
比叡山延暦寺は、織田信長へ刃を向けた代償として焼かれた。
そしてこの日。
天下布武の道を阻む者たちは、寺であろうと、将軍であろうと、例外ではないと。
天下へ向けて進む織田家は、畿内へ強く刻みつけたのであった。