織田信時の人生   作:秋月 了

21 / 63
比叡山の灰――仏罰を恐れぬ者たち

 

 

 元亀二年、八月。

 

 比叡山延暦寺が、織田家へ武力蜂起した。

 

 山門の僧兵が街道を押さえ、織田方へ刃を向ける。

 

 京へ続く道を脅かし、敵対する者へ兵糧や情報を流しているという報も届いていた。

 

 信長は、すぐには兵を動かさなかった。

 

 まず交渉を命じた。

 

 派遣されたのは、津田新六信時。

 

 明智光秀。

 

 そして羽柴秀吉。

 

 三人は少数の供を連れ、比叡山へ登った。

 

---

 

 延暦寺の広間。

 

 座主の前で、新六、光秀、秀吉が並んでいた。

 

 座主の周囲には僧兵が立ち、槍や薙刀を手にしている。

 

 僧の姿をしている。

 

 だが、その目は戦場の兵と変わらなかった。

 

光秀「座主様。織田信長様は、比叡山を滅ぼすために我らを寄越したのではありませぬ」

 

座主「ならば何をしに来た」

 

光秀「争いを止めるためにございます」

 

 光秀は、丁寧に言葉を選んだ。

 

光秀「比叡山は、古くより都と民の心を支えてきた寺院です」

 

光秀「僧兵を集め、兵を通し、敵対する勢力へ力を貸すことは、本来の寺の姿ではありますまい」

 

秀吉「織田に従えと言ってるわけじゃありやせん」

 

 秀吉が口を挟む。

 

秀吉「武器を置いて、山を下りて、僧として生きてくださればいい」

 

座主「僧として生きる、だと」

 

 座主は嘲るように笑った。

 

座主「俗世の争いにまみれた織田の者が、我らへ仏の道を説くのか」

 

新六「俺たちは仏の道を説きに来たわけではありません」

 

 新六が静かに口を開いた。

 

新六「ただ、寺が戦を起こし、民を巻き込むなら、それを止めるべきだと思っています」

 

座主「黙れ」

 

 座主の目が細くなる。

 

座主「比叡山へ手を出せば、仏罰が下る」

 

新六「……」

 

座主「織田信長も、そなたらも、地獄へ落ちるぞ」

 

 僧兵たちが、低く笑った。

 

 新六は座主を見つめた。

 

 しばらく黙っていたが、やがて立ち上がる。

 

新六「分かりました」

 

光秀「新六様」

 

新六「これ以上、話すことはありません」

 

座主「逃げるのか」

 

新六「いいえ」

 

 新六は、座主へ一礼した。

 

新六「あなた方が選んだ道を、信長様へ報告するだけです」

 

 新六は踵を返した。

 

 秀吉と光秀も、すぐに後へ続く。

 

---

 

 山を下る途中。

 

 三人は、寺の裏手を通った。

 

 そこには、交渉の場で語られた清らかな寺の姿などなかった。

 

 昼間から酒を飲む僧。

 

 金銀の器に料理を並べる者。

 

 半裸の遊女を抱き寄せ、笑い声を上げる者。

 

 兵器を手入れし、僧兵へ酒を配る者。

 

 山門の奥には、武器と欲が積み上げられていた。

 

秀吉「……こりゃあ、ひでえ」

 

 秀吉は、苦い顔で呟いた。

 

秀吉「仏に仕える者じゃなくて、山賊の頭目ですな」

 

光秀「比叡山の全てが、このような者たちではないはずです」

 

新六「そうかもしれません」

 

 新六は、酒に酔った僧たちを見た。

 

 遊女の肩を抱き、僧兵へ金を投げる者。

 

 その足元では、貧しい下働きの者が頭を下げている。

 

新六「ですが、この者たちを守る仏なら」

 

 新六は、小さく息を吐いた。

 

新六「これに味方する仏なら、そんなのはいらないな」

 

 光秀は何も言わなかった。

 

 秀吉も、笑わなかった。

 

 三人は、そのまま比叡山を下りた。

 

---

 

 岐阜城。

 

 新六たちの報告を聞いた信長は、最後まで黙っていた。

 

 新六が座主とのやり取りを伝える。

 

 光秀が比叡山の僧兵と、敵対勢力への協力について述べる。

 

 秀吉が山内の様子を、飾らずに話した。

 

秀吉「酒と女と銭にまみれてやした」

 

秀吉「寺の名を掲げながら、やってることは武装した商人か、野盗と変わりやせん」

 

信長「新六」

 

新六「はっ」

 

信長「交渉は、決裂したのだな」

 

新六「はい」

 

信長「座主は、仏罰を口にしたか」

 

新六「俺たちへ、比叡山へ手を出せば地獄へ落ちると」

 

 信長は、ふっと笑った。

 

 だが、その笑みは冷たかった。

 

信長「ならば見せてやる」

 

 信長は立ち上がった。

 

信長「仏罰より先に、人の怒りがあることをな」

 

---

 

 信長は、伊賀と甲賀の忍びを動かした。

 

 比叡山が兵を抱え、敵へ通じ、僧兵が民を脅していること。

 

 寺の内部で酒宴が開かれ、遊女が出入りしていること。

 

 座主が交渉を拒み、仏罰を盾に武力を正当化していること。

 

 忍びたちは、京と近江、畿内各地へ噂を流した。

 

 そして明智光秀は、公家たちのもとを回った。

 

光秀「比叡山は、もはや寺としての役目を失っております」

 

公家「延暦寺へ兵を向けるつもりか」

 

光秀「織田家は、最後まで交渉を試みました」

 

公家「それでも、山門を焼くとなれば大事になる」

 

光秀「だからこそ、帝のお耳にも入れねばなりません」

 

---

 

 やがて正親町天皇は、新六を呼び出した。

 

 御所の一室。

 

 新六は深く頭を下げていた。

 

天皇「津田新六信時」

 

新六「はっ」

 

天皇「比叡山で何が起きている」

 

新六「ありのままを申し上げます」

 

 新六は、寺が武力を持ち、僧兵が街道を押さえていることを話した。

 

 敵対勢力へ兵糧や情報が流れていること。

 

 僧として生きるよう説得したにもかかわらず、座主が仏罰を口にして脅したこと。

 

 そして山内で見た、酒と女と武器に囲まれた僧たちの姿を。

 

天皇「……真であるか」

 

新六「偽りはございません」

 

天皇「比叡山は、民を守る寺ではないのか」

 

新六「本来は、そうであるべきだと思います」

 

天皇「ならば、なぜこのような」

 

新六「寺も、人が集まる場所です」

 

新六「人が欲に負ければ、寺もまた歪みます」

 

 天皇は、長く黙っていた。

 

 やがて、扇を強く握る。

 

天皇「許せぬ」

 

 その声には、怒りがあった。

 

天皇「仏の名を借り、民を脅し、朝廷と都を危うくする者を、寺とは呼べぬ」

 

 天皇は側近へ向けて言った。

 

天皇「織田信長へ伝えよ」

 

天皇「比叡山延暦寺を討つことを、朕が許す」

 

 こうして、比叡山追討の勅命が下った。

 

---

 

 織田軍は比叡山を包囲した。

 

 山の道は封じられた。

 

 逃げ道は塞がれた。

 

 信長は本陣で、山を見上げていた。

 

信長「重要な経典と書物は運び出せ」

 

光秀「承知いたしました」

 

信長「学ぶべきものまで焼く必要はない」

 

新六「寺に残る民や、戦に関わらぬ者は」

 

信長「可能な限り下ろせ」

 

 信長は新六を見た。

 

信長「だが、武器を持ち、山に残る者は敵だ」

 

新六「……はい」

 

 火が放たれた。

 

 山の麓から炎が上がる。

 

 堂宇が燃える。

 

 兵舎が燃える。

 

 武器蔵が燃える。

 

 僧兵たちは抵抗した。

 

 だが織田軍の包囲は崩れない。

 

僧兵「仏罰が下るぞ!」

 

織田兵「ならば、民を脅す前に仏へ詫びろ!」

 

 火は山を覆っていった。

 

 経典や書物のうち、重要なものは運び出された。

 

 だが、それ以外の建物、兵器、贅沢のための品々は、炎に呑まれた。

 

 最後まで武器を捨てなかった僧兵たちは討たれた。

 

 比叡山は、戦う寺としての姿を失った。

 

---

 

 夜。

 

 燃える山を見ながら、新六は一人立っていた。

 

 隣へ光秀が来る。

 

光秀「辛いですか」

 

新六「……ああ」

 

光秀「それでも、必要だったと思いますか」

 

新六「分かりません」

 

 新六は、炎を見つめた。

 

新六「ただ、寺が戦を起こし、人を脅し、民を苦しめるなら」

 

新六「誰かが止めなければならない」

 

光秀「信長様は、止めたのでしょう」

 

新六「止め方が、正しかったかは分からない」

 

 光秀は黙った。

 

 炎の向こうで、比叡山の鐘が崩れ落ちる音がした。

 

新六「俺は、これを忘れない」

 

光秀「新六様」

 

新六「戦を終わらせるために、どれほどのものを失うのか」

 

新六「忘れた者から、また同じことを繰り返す」

 

 炎は夜空を赤く染めていた。

 

 比叡山延暦寺は、織田信長へ刃を向けた代償として焼かれた。

 

 そしてこの日。

 

 天下布武の道を阻む者たちは、寺であろうと、将軍であろうと、例外ではないと。

 

 天下へ向けて進む織田家は、畿内へ強く刻みつけたのであった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告