織田信時の人生   作:秋月 了

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三方ヶ原の血――新六、失うものを知る

 

 

 比叡山の焼き討ちによって、信長へ敵対していた寺社勢力はいったん勢いを失った。

 

 だが、石山本願寺の顕如は退かなかった。

 

 焼かれた寺社へ使者を送り、再び武装するよう促す。

 

 織田へ従えば、仏法そのものが滅ぶ。

 

 今こそ力を合わせ、信長を討て。

 

 そして足利義昭もまた、密かに各地へ書状を送っていた。

 

 将軍家をないがしろにする織田信長を討て、と。

 

 その呼びかけに応じた最大の男が、甲斐の武田信玄だった。

 

---

 

 元亀四年、四月。

 

 武田軍は織田領と徳川領へ、同時に侵攻を開始した。

 

 信長は東美濃へ兵を集め、武田を迎え撃つ構えを取る。

 

 だが、ほどなく浜松から急使が届いた。

 

使者「信長様! 徳川家康様より、救援の願いにございます!」

 

信長「武田は、徳川を先に潰すつもりか」

 

勝家「家康殿が倒れれば、武田は遠江から三河へ雪崩れ込みます」

 

信長「分かっている」

 

 信長は、評定にいた佐久間信盛へ視線を向けた。

 

信長「信盛」

 

信盛「はっ」

 

信長「援軍の大将を命じる。徳川を助けろ」

 

信盛「承知いたしました」

 

信長「新六」

 

新六「はっ」

 

信長「信盛のもとへ付け」

 

新六「承知いたしました」

 

 新六は、一瞬だけ信盛を見た。

 

 信盛は、表情を変えなかった。

 

 だが新六には、胸の奥に小さな不安が残った。

 

---

 

 浜松城。

 

 徳川家康の前では、重臣たちが険しい顔で並んでいた。

 

家康「武田軍は、想定より早い」

 

酒井忠次「兵数も、兵の質も、こちらを上回っております」

 

石川数正「今は城へ籠もり、援軍を待つべきかと」

 

本多忠勝「城に籠もれば、武田に周囲を荒らされます」

 

家康「だが打って出れば、武田信玄の思う壺だ」

 

 そこへ佐久間信盛が入ってきた。

 

信盛「徳川殿」

 

家康「佐久間殿。援軍、感謝いたす」

 

信盛「感謝など不要です」

 

 信盛は地図を見下ろした。

 

信盛「ですが、城に籠もるだけでは、武田に笑われますぞ」

 

家康「……」

 

信盛「天下に名を知られる徳川家康が、敵を前に城門を閉じる」

 

信盛「それで、三河の者たちはついてきますかな」

 

忠勝「佐久間殿。言葉が過ぎる」

 

信盛「事実を申したまで」

 

 信盛は家康を見た。

 

信盛「武田は、遠江を荒らしながら進むでしょう」

 

信盛「城に籠もれば、民は徳川を見限るかもしれませぬな」

 

 家康の表情が揺れた。

 

 沈黙の末、家康は立ち上がる。

 

家康「……出る」

 

忠次「殿」

 

家康「武田を、野放しにはできぬ」

 

 その場にいた新六は、信盛を見た。

 

新六「信盛様。では我らも出陣を」

 

信盛「俺は城を守る」

 

新六「……は?」

 

信盛「万一、浜松まで武田が押し寄せた時、城を空にするわけにはいかぬ」

 

新六「徳川殿を煽って出陣させながら、ご自身は出られぬと」

 

信盛「新六」

 

 信盛の目が冷たくなる。

 

信盛「口を慎め」

 

 新六は奥歯を噛んだ。

 

 だが、そこで争えば徳川軍の士気をさらに落とす。

 

新六「……承知いたしました」

 

---

 

 戦場。

 

 徳川軍は、すでに押され始めていた。

 

 武田軍の騎馬隊が左右から迫り、槍隊が押し込んでくる。

 

徳川兵「敵が多すぎる!」

 

徳川兵「右が崩れた!」

 

家康「持ちこたえろ!」

 

忠勝「殿! このままでは囲まれます!」

 

 そこへ、津田の旗が現れた。

 

新六「側面へ回れ!」

 

一豊「新六様! 武田の騎馬隊がこちらへ向かっています!」

 

新六「孫一!」

 

孫一「任せろ!」

 

 雑賀衆が側面の高みへ散る。

 

孫一「鉄砲衆、構えろ!」

 

 火縄が燃える。

 

 銃声が、戦場を引き裂いた。

 

 武田軍の騎馬が乱れ、側面に隙が生まれる。

 

新六「今だ! 押し返せ!」

 

 津田軍が突撃した。

 

 新六は先頭で槍を振るい、武田の兵を押し返していく。

 

 新六軍の攻勢により、徳川軍はようやく後退する道を得た。

 

新六「家康殿を先に下げろ!」

 

忠勝「津田殿はどうする!」

 

新六「俺たちが殿を務める!」

 

 雑賀衆が再び火を噴く。

 

 津田軍は後退しながら、追撃してくる武田軍を食い止めた。

 

 やがて徳川家康は、浜松城へ無事帰還した。

 

---

 

 城門の前。

 

 信盛は、何事もなかったかのように家康を迎えた。

 

信盛「徳川殿。ご無事で何よりですな」

 

 家康の目が、鋭く信盛へ向く。

 

家康「……ああ」

 

 家康はそれ以上、何も言わなかった。

 

 怒りを、必死に飲み込んでいた。

 

 そして最後に、新六が城へ入ってくる。

 

 血と泥にまみれた姿だった。

 

家康「津田殿」

 

新六「家康殿。遅くなりました」

 

家康「いや」

 

 家康は、新六へ深く頭を下げた。

 

家康「救われた」

 

新六「頭を上げてください」

 

家康「お前が来なければ、我らは退くことすらできなかった」

 

新六「まだ終わっていません」

 

家康「ああ」

 

 家康は、城外に広がる武田軍の陣を見た。

 

家康「次は、三方ヶ原だ」

 

---

 

 三方ヶ原。

 

 徳川軍と織田援軍は、武田軍と向かい合った。

 

 戦いの始まりは、拮抗していた。

 

 徳川の槍隊が踏みとどまり、津田軍の鉄砲が武田軍を抑える。

 

 新六は前線で指揮を執り、真柄直隆は大太刀を振るって敵を退けていた。

 

真柄「武田の兵も、朝倉ほどではない!」

 

新六「気を抜くな! 信玄は、まだ手を見せていない!」

 

 その時だった。

 

 織田方の一角で、旗が動いた。

 

一豊「新六様!」

 

新六「何だ!」

 

一豊「佐久間隊が……撤退しております!」

 

 新六の顔色が変わる。

 

新六「信盛様!」

 

 だが信盛隊は、命令もなく後方へ下がっていく。

 

 その動きが、味方へ恐慌を広げた。

 

徳川兵「織田が逃げた!」

 

徳川兵「佐久間隊が退いたぞ!」

 

徳川兵「武田に負ける!」

 

 武田軍は、その混乱を見逃さなかった。

 

 騎馬隊が押し寄せる。

 

 槍隊が戦線へ食い込む。

 

 徳川軍の陣形が、一気に崩れ始めた。

 

家康「立て直せ!」

 

忠勝「無理です! このままでは全軍が飲まれる!」

 

新六「退却だ!」

 

 新六は、戦場へ声を響かせた。

 

新六「徳川軍を下げろ! 津田軍は残る!」

 

一豊「新六様!」

 

新六「殿を務める!」

 

 真柄直隆が、新六の前へ出た。

 

真柄「ならば俺も残る」

 

新六「真柄」

 

真柄「越前で拾われた命だ」

 

真柄「ここで返す」

 

 その直後。

 

 武田軍の将、馬場信春が前へ出た。

 

馬場「真柄直隆!」

 

真柄「武田の老将か!」

 

馬場「お前の首、信玄公へ届けよう!」

 

真柄「なら、取ってみろ!」

 

 真柄と馬場は激しくぶつかった。

 

 大太刀と槍が交わる。

 

 両者は一歩も退かない。

 

新六「真柄! 深追いするな!」

 

 だが、二人の戦いは止まらなかった。

 

 そして次の瞬間。

 

 真柄の太刀が馬場を斬り裂く。

 

 同時に、馬場の槍が真柄の胸を貫いた。

 

真柄「……新六」

 

新六「真柄!」

 

真柄「越前を……頼む」

 

 真柄直隆は、馬場信春と相打ちになって倒れた。

 

 新六の胸に、熱いものが込み上げる。

 

 だが泣く暇はなかった。

 

新六「全軍、下がれ!」

 

 その時、別の場所で悲鳴が上がった。

 

泰時「父上!」

 

 新六の長男、七海泰時。

 

 初陣の若者が、敵兵に囲まれていた。

 

 その前へ、佐伯智治が飛び込む。

 

佐伯「泰時様! 下がってください!」

 

泰時「佐伯!」

 

 佐伯は、新六の最古参の副将だった。

 

 新六が初めて正式な部隊を持った頃から、いつも隣にいた。

 

 兵の配置。

 

 兵糧の確認。

 

 負傷者の手当て。

 

 新六が前へ出るたび、後ろを支え続けた男。

 

 新六の活躍の陰には、いつも佐伯智治がいた。

 

佐伯「新六様に……泰時様を、必ずお返しすると……!」

 

 佐伯は敵兵を薙ぎ払う。

 

 だが、槍が佐伯の脇腹を貫いた。

 

泰時「佐伯!」

 

佐伯「下がれ!」

 

 佐伯は最後の力で、泰時を馬へ押し上げた。

 

 そして、自らは敵兵の前に立った。

 

佐伯「津田の若様を……行かせろ!」

 

 佐伯は、そこで討たれた。

 

---

 

 新六は、血に濡れた佐伯の遺体を前にしていた。

 

 遺体を連れ帰ったのは、泰時だった。

 

 初陣の顔には、涙と泥が混じっている。

 

泰時「父上」

 

新六「泰時」

 

泰時「佐伯は……最後に、こう言いました」

 

 泰時の声が震える。

 

泰時「新六様にお伝えください。俺は、最期まで新六様の隣で戦えた。だから、悔いはありません、と」

 

 新六は、何も言えなかった。

 

 ただ佐伯の手を握った。

 

 冷たくなった手。

 

 何度も自分を支え、何度も戦場から帰してくれた手。

 

新六「……馬鹿者」

 

 新六の声は、掠れていた。

 

新六「お前がいなければ、俺はどうする」

 

 返事は、もうなかった。

 

---

 

 武田軍は、戦果を得ると深追いせず、やがて撤退した。

 

 浜松城には、傷ついた徳川軍と津田軍が戻った。

 

 多くの兵が死んだ。

 

 多くの者が、仲間を失った。

 

 そこへ、佐久間信盛が現れた。

 

信盛「新六」

 

新六「信盛様」

 

信盛「随分と兵を失ったようだな」

 

新六「……」

 

信盛「殿を務めたのは分かる。だが、もっと上手くやれたのではないか」

 

一豊「信盛様!」

 

信盛「何だ」

 

一豊「新六様は、崩れた戦線を支え、徳川軍を救われました!」

 

信盛「それでも兵を多く失ったのは事実だろう」

 

 新六の拳が、固く握られる。

 

 信盛を殴りたい。

 

 怒鳴りつけたい。

 

 だが新六には、立場があった。

 

 織田家の将として。

 

 越前一国を預かる者として。

 

 信長の妹の夫として。

 

新六「……ご意見、承りました」

 

 その時。

 

 徳川の家臣たちが、一斉に前へ出た。

 

忠勝「佐久間信盛」

 

信盛「本多殿」

 

忠勝「お前は城に残り、我らを焚きつけた」

 

忠次「その上で、戦線が崩れた時には真っ先に退いた」

 

数正「津田殿を責める資格など、どこにもない」

 

信盛「何を言う。俺は織田の大将だ」

 

忠勝「ならば大将らしく、兵とともに戦え!」

 

 忠勝の声が、城内に響いた。

 

忠勝「浜松城から出ていけ」

 

信盛「……何だと」

 

忠次「徳川家は、命を救ってくれた者を侮る者を置かぬ」

 

数正「佐久間隊もろとも、ただちに城外へ出られよ」

 

信盛「徳川ごときが、織田の将へ命じるか!」

 

忠勝「命令ではない」

 

 忠勝は槍を握り直した。

 

忠勝「最後の情けだ」

 

 信盛は、周囲を見渡した。

 

 徳川の家臣たち。

 

 怒りを押し殺す津田軍の者たち。

 

 誰も、自分を擁護しなかった。

 

 信盛は唇を噛み、隊を率いて浜松城を去った。

 

---

 

 信盛が去った後。

 

 家康は、新六の前へ歩いてきた。

 

 新六は佐伯の遺体のそばに座っていた。

 

家康「津田殿」

 

新六「家康殿」

 

家康「よく耐えた」

 

新六「……耐えるしかありませんでした」

 

家康「違う」

 

 家康は、新六の肩へ手を置いた。

 

家康「お前は、怒りを飲み込んで、兵を守った」

 

家康「それは、誰にでもできることではない」

 

 忠勝も、少し離れたところで言った。

 

忠勝「佐伯殿も、真柄殿も、見事だった」

 

忠勝「彼らが守ったものを、無駄にするな」

 

 新六は、静かに頷いた。

 

新六「……ああ」

 

 家康は、まるで我が子を労わる父のように、新六を見た。

 

家康「今日は泣け」

 

新六「家康殿」

 

家康「将である前に、人だ」

 

家康「ここでは、誰もお前を弱いとは言わぬ」

 

 新六は、しばらく耐えた。

 

 だが、もう耐えきれなかった。

 

 佐伯の亡骸の前で。

 

 真柄の最期を思い出しながら。

 

 新六は、声を殺して泣いた。

 

 徳川の家臣たちは、その姿を誰も責めなかった。

 

 ただ静かに、新六と津田軍の者たちのそばに立ち続けた。

 

 戦に勝つことだけが、将の務めではない。

 

 失った者を忘れず。

 

 残った者を守り。

 

 次に同じ死を生まぬようにすること。

 

 三方ヶ原で、新六はその重さを、骨の髄まで知ることになった。

 

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