織田信時の人生   作:秋月 了

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岐阜の裁き――新六、織田家に居場所を知る

 

 

 三方ヶ原から戻った津田新六信時は、真っ先に岐阜へ向かった。

 

 荷車には二つの棺がある。

 

 越前から迎えた侍大将、真柄直隆。

 

 そして、新六が最初に正式な部隊を持った頃から、常に隣で支え続けた副将・佐伯智治。

 

 ほかにも、多くの津田家の兵が帰らなかった。

 

 新六は、棺の前を歩いた。

 

 馬には乗らなかった。

 

 家臣たちもまた、誰一人として騒がなかった。

 

 岐阜城へ近づくほど、新六の胸には怒りと悲しみが積もっていく。

 

 その傍らには、三方ヶ原から先に帰還していた佐久間信盛がいた。

 

信盛「新六」

 

新六「何でしょうか」

 

信盛「今日の報告だがな」

 

 信盛は、まるで当然のように言った。

 

信盛「余計なことを言うな。戦場で何があったか、細かく語る必要はない」

 

新六「……」

 

信盛「徳川が勝手に出た。武田が強かった。そういうことにしておけ」

 

新六「佐久間様」

 

信盛「それに、お前も兵を失った」

 

 信盛は新六を見下ろした。

 

信盛「自分だけが正しかったような顔をするな。俺を庇えば、お前も悪いようにはならん」

 

新六「俺に、佐久間様を庇えと」

 

信盛「そうだ」

 

信盛「お前は若い。今後も織田で生きるなら、誰に逆らうべきでないかくらい学べ」

 

 その言い方は、頼みではなかった。

 

 命令でもない。

 

 ただ、自分の地位を盾にした傲慢な押しつけだった。

 

 一豊の拳が震える。

 

 康豊は唇を噛む。

 

 孫一は何も言わず、信盛を冷たく見ていた。

 

 新六は、目を伏せた。

 

新六「承知しました」

 

信盛「分かればよい」

 

 信盛は満足そうに歩き出した。

 

 だが、新六の声には。

 

 信盛が期待したような従順さは、もう残っていなかった。

 

---

 

 岐阜城、謁見の間。

 

 信長の前に、信盛と新六が並んで平伏していた。

 

 周囲には柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益、前田利家らが控えている。

 

 空気は、重かった。

 

 信長は、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、低い声を落とす。

 

信長「信盛」

 

信盛「はっ」

 

信長「よく俺の前に顔を出せたな」

 

 信盛の身体が、わずかに固まった。

 

信盛「信長様。此度の戦は、武田信玄の策が巧みであり――」

 

信長「黙れ」

 

 信長の目が、信盛を射抜く。

 

信長「蘭丸」

 

蘭丸「はっ」

 

 信長のそばに控えていた少年が、一歩前へ出た。

 

 森可成の子であり、近ごろ信長の小姓として仕え始めた森蘭丸だった。

 

信長「読め」

 

蘭丸「承知いたしました」

 

 蘭丸は、徳川家康から届いた書状を開く。

 

蘭丸「まず、織田家より援軍を賜ったこと、ならびに津田新六信時様の御助力に深く感謝する――」

 

 信盛の顔に、わずかな安堵が浮かんだ。

 

 だが、蘭丸は続ける。

 

蘭丸「しかしながら、佐久間信盛殿は浜松城において徳川を出陣へ誘いながら、自らは城を出ず」

 

蘭丸「三方ヶ原では、戦況が拮抗する中で独断により隊を退かせ、味方の混乱を招いた」

 

蘭丸「その結果、多くの徳川・津田の多くの将兵が命を失った」

 

 謁見の間が、さらに静まり返る。

 

蘭丸「徳川家康。織田信長様へ、事実をありのまま申し上げる――以上にございます」

 

信盛「違います!」

 

 信盛が顔を上げた。

 

信盛「徳川殿は感情に任せております! 俺は浜松を守るため、必要な判断を――」

 

信長「黙れと言った」

 

信盛「ですが!」

 

 信長は立ち上がった。

 

 そして、平伏する信盛の顔を押すように。

 

 容赦なく蹴り飛ばした。

 

信盛「ぐっ……!」

 

信長「貴様は、援軍の意味すら分からぬのか」

 

信長「援軍とは、味方を助けるために行くものだ」

 

信長「戦を焚きつけ、自分だけ城へ残り、都合が悪くなれば兵を捨てて退く」

 

信長「それを大将の働きと呼ぶつもりか」

 

 信盛は、床に伏したまま息を荒げた。

 

 その目が、正面にいる新六へ向く。

 

 助けろ。

 

 そう言いたげな目だった。

 

 信長は、その視線を見逃さなかった。

 

信長「新六」

 

新六「はっ」

 

信長「何か言いたいことはあるか」

 

 信長の声は、命令だった。

 

信長「遠慮せず答えよ」

 

 信盛は、新六が自分を庇うと信じていた。

 

 自分は筆頭家老。

 

 新六は織田家の家臣。

 

 立場を考えれば、そうするしかない。

 

 だが新六は、ゆっくりと顔を上げた。

 

新六「ありません」

 

 信盛の目が揺れた。

 

新六「その上で、強いて言わせていただけるのなら」

 

 新六は、真っすぐ信盛を見た。

 

新六「佐久間様は、ご自身の立場と地位と責任」

 

新六「そして援軍の意味を、もう一度見つめ直すべきかと」

 

 それだけだった。

 

 責め立てない。

 

 怒鳴らない。

 

 だが、逃げ道も与えない。

 

 信長は、ゆっくり頷いた。

 

信長「聞いたか、信盛」

 

信盛「……」

 

信長「貴様から筆頭家老の地位を取り上げる」

 

 信盛が顔を上げる。

 

信盛「信長様!」

 

信長「領地もすべて取り上げる」

 

信盛「お待ちください!」

 

信長「五石分の給金を与えてやる」

 

 信盛の顔が、青ざめた。

 

 五石。

 

 かつての筆頭家老に与えるには、あまりにも屈辱的な額だった。

 

信長「それで生きろ」

 

信長「貴様が兵を見捨てた時、兵がどれほどのものを失ったか。今度は自分で知れ」

 

 信長は、勝家へ視線を向ける。

 

信長「勝家」

 

勝家「はっ」

 

信長「今日より、お前を筆頭家老とする」

 

勝家「この柴田勝家、命に代えても織田家を支えます」

 

信長「ああ」

 

 さらに、信長は新六を見る。

 

信長「新六」

 

新六「はっ」

 

信長「お前を新たに家老へ取り立てる」

 

 周囲の家臣たちが、息を呑んだ。

 

 新六は、深く頭を下げる。

 

新六「身に余るお言葉にございます」

 

信長「三方ヶ原で失った者を忘れるな」

 

新六「忘れません」

 

信長「ならば、次は死なせぬために働け」

 

新六「はい」

 

 信長はそれだけ言うと、背を向けた。

 

信長「評定は終わりだ」

 

---

 

 信長が去った後。

 

 謁見の間には、重い沈黙が残った。

 

 信盛は、ゆっくり立ち上がった。

 

 そして、新六へ近づく。

 

信盛「貴様……!」

 

 信盛は、新六の胸ぐらを掴んだ。

 

信盛「俺を見捨てたな!」

 

新六「離してください」

 

信盛「家老になった途端、俺に逆らうつもりか!」

 

信盛「お前は農民上がりだ! 俺がどれだけ織田家に尽くしてきたと思っている!」

 

 新六は、何も言わなかった。

 

 ただ一度だけ、勝家を見る。

 

 勝家は、静かに頷いた。

 

 その瞬間。

 

 新六の拳が、信盛の顔を打ち抜いた。

 

信盛「がっ!」

 

 信盛はよろめき、床へ倒れ込む。

 

 今度は新六が、信盛の胸ぐらを掴んだ。

 

新六「浜松にいた頃から」

 

 新六の目には、怒りがあった。

 

 佐伯の死。

 

 真柄の死。

 

 帰らなかった兵たち。

 

 そのすべてが、声にならない怒りとなっていた。

 

新六「こうしたかった」

 

信盛「ぶ、無礼だ……! 貴様、家老になったからと――」

 

新六「もう、あなたに気を使う理由はありませんので」

 

 新六は信盛の衣を乱暴に離した。

 

 信盛は床へ転がる。

 

 だが、誰も止めなかった。

 

 誰も驚かなかった。

 

 勝家は腕を組んだまま。

 

 利家は鼻で笑い。

 

 一益は視線すら向けない。

 

 秀吉と光秀は、新六の後を追うために歩き出した。

 

 そのあとを、長秀、一豊、康豊、孫一たちが続く。

 

 信盛が何か叫んでも。

 

 誰一人として振り返らなかった。

 

 広い謁見の間には。

 

 かつて筆頭家老だった男だけが残された。

 

---

 

 廊下。

 

 新六は、黙って歩いていた。

 

 後ろから、秀吉が追いつく。

 

秀吉「新六殿!」

 

新六「秀吉殿」

 

秀吉「いやあ、さっきのは痛快でしたな」

 

新六「痛快ではない」

 

秀吉「でも、ずっと我慢してたでしょう」

 

新六「……ああ」

 

 光秀も追いつく。

 

光秀「新六様。越えてはならぬ線を越えた、とお思いですか」

 

新六「少しな」

 

光秀「ですが、信長様も勝家様も止めなかった」

 

 一豊が、目を伏せながら言った。

 

一豊「佐伯様も真柄様も、あの方のために死んだわけではありません」

 

康豊「新六様が怒らぬ方が、俺たちは辛かったです」

 

孫一「家臣が主の怒りを見て安心することもある」

 

 新六は立ち止まった。

 

 皆の顔を見る。

 

 戦場では、何人も失った。

 

 それでも、ここには残った者がいる。

 

 自分を支え、共に歩く者がいる。

 

新六「……俺は」

 

 新六は、小さく息を吐いた。

 

新六「織田家にいてよかったと思う」

 

秀吉「へへっ」

 

光秀「私も、同感です」

 

 その時だけ。

 

 三方ヶ原からずっと胸に沈んでいた重さが、少しだけ軽くなった。

 

---

 

 その夜。

 

 越前へ戻る前の新六は、信長に呼び出された。

 

 岐阜城の一室。

 

 信長は酒を飲まず、静かに座っていた。

 

信長「新六」

 

新六「はっ」

 

信長「真柄直隆」

 

新六「……はい」

 

信長「佐伯智治」

 

新六「はい」

 

信長「惜しい者たちを失ったな」

 

 新六は、返事ができなかった。

 

信長「真柄は、朝倉の将でありながら、お前に従った」

 

信長「佐伯は、お前が最初に兵を持った頃から、ずっと隣にいた」

 

信長「それを思うと、ますます佐久間への怒りが収まらん」

 

 信長は、懐から金子を取り出した。

 

 重い袋だった。

 

信長「持って行け」

 

新六「これは」

 

信長「弔ってやれ」

 

 新六は、しばらく金子を見つめた。

 

 やがて両手で受け取る。

 

新六「……ありがとうございます」

 

信長「礼は要らぬ」

 

信長「俺も、信広兄上を失った」

 

 信長の声は、わずかに低くなった。

 

信長「死んだ者は戻らぬ」

 

信長「だから、残った者が忘れぬようにしろ」

 

新六「はい」

 

---

 

 越前、北ノ庄。

 

 真柄直隆と佐伯智治。

 

 そして三方ヶ原で戦死した津田家の兵たちの葬儀が、北ノ庄城下で執り行われた。

 

 市。

 

 鈴。

 

 雫。

 

 泰時をはじめとした息子たち。

 

 前田利家、佐々成政。

 

 半兵衛の代わりに家臣団を代表する者たち。

 

 旧朝倉家臣。

 

 越前の民。

 

 多くの者が、静かに集まっていた。

 

 棺の前で、新六は深く頭を下げる。

 

新六「真柄」

 

新六「佐伯」

 

 声は震えていた。

 

新六「お前たちが守った者たちは、生きている」

 

新六「お前たちが残したものを、俺は必ず守る」

 

 泰時は、父の隣で涙をこらえていた。

 

 自分を守って死んだ佐伯の名を。

 

 その顔を。

 

 生涯忘れぬと、心に刻んでいた。

 

 葬儀の後。

 

 北ノ庄の城下に、一つの慰霊碑が建てられた。

 

 真柄直隆。

 

 佐伯智治。

 

 そして、三方ヶ原で命を落としたすべての者たち。

 

 名を知らぬ足軽も。

 

 荷を運んだ者も。

 

 最後まで仲間を守った者も。

 

 全員の名が、一つ残らず刻まれた。

 

 新六は碑の前に立ち、長く目を閉じた。

 

 戦で失った者たちは、もう戻らない。

 

 だが、その名を忘れない限り。

 

 彼らが生きた証まで失われることはない。

 

 北ノ庄の風が、静かに慰霊碑を撫でていた。

 

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