天正二年、九月。
織田信長は、ついに石山本願寺へ兵糧攻めを開始した。
かつて数多くの一揆を裏で動かし、寺社勢力をまとめ、織田へ刃を向け続けた本願寺。
今や顕如に残された道は、石山の堅い防備と、籠城に耐えるだけの兵糧だけだった。
包囲軍の指揮を任されたのは、佐久間信盛である。
かつて筆頭家老だった男は、領地も地位も失いながらも、信長から最後の機会を与えられていた。
石山を囲み、兵糧を断ち、敵を降伏させる。
やるべきことは明白だった。
だが。
信盛は、何もしなかった。
---
石山本願寺を囲む織田軍の陣。
兵たちは土塁を築き、街道を押さえ、船による補給路も警戒していた。
だが大規模な攻めはなく、敵の抜け道を潰すための動きも鈍い。
信盛は本陣で茶を飲んでいた。
家臣「信盛様」
信盛「何だ」
家臣「本願寺方が、夜ごとに小舟を出しております」
信盛「見張りを増やせ」
家臣「それだけでは、補給を断ち切れませぬ」
信盛「ならば、見張りをさらに増やせ」
家臣「しかし、堀を埋める工事や砦の増設を急がねば」
信盛「茶が冷める」
家臣は言葉を失った。
信盛は湯呑を傾ける。
信盛「本願寺は城ではない。囲んでいれば、そのうち飢える」
家臣「ですが、敵にも海路がございます」
信盛「分かっている」
家臣「では、なぜ」
信盛「俺に指図するな」
信盛の声に、家臣は口を閉ざした。
かつて筆頭家老だった男は。
今もなお、自らの失ったものを受け入れられずにいた。
---
その報告は、岐阜城へ届いた。
信長は、書状を読んだまましばらく黙っていた。
勝家「信盛は、また何もしておらぬのですか」
信長「ああ」
長秀「兵糧攻めは、ただ囲むだけでは成りませぬ」
信長「分かっている」
信長は、書状を机へ置いた。
信長「だが今は放っておけ」
勝家「放っておくのですか」
信長「信盛に、まだ自分が大将だと思わせておけ」
信長の目は冷たかった。
信長「どうせ、近いうちに自分で己の価値を証明する」
---
一方、越前。
北ノ庄城では、久しぶりに祝いの席が設けられていた。
津田新六信時の娘・文。
その嫁ぎ先は、森可成の嫡男――森長可だった。
長可は、荒々しいことで知られている。
戦となれば誰より先に突っ込み、敵を見れば容赦なく斬る。
家中では、その猛々しさを恐れる者も少なくなかった。
だが、文の前では話が違った。
文「長可様。お食事は、もう少しゆっくり召し上がってください」
長可「……うむ」
文「お酒も、ほどほどに」
長可「……分かった」
周囲にいた家臣たちは、目を丸くした。
戦場で鬼のように暴れる男が。
文の一言で、素直に杯を置いたのである。
利家「おいおい、長可」
長可「何だ」
利家「お前がそんな顔をするとはな」
長可「文に嫌われるような真似をする気はない」
文「長可様」
長可「……何でもない」
長可は顔を背けた。
耳まで赤くなっている。
森可成は、その様子を見て大きく息を吐いた。
可成「ようやく、あいつにも守るものができたか」
新六「長可殿は、文を大切にしてくださっています」
可成「それは分かる」
可成は苦笑した。
可成「戦場でのあの馬鹿息子を知っているからこそ、余計にな」
新六「以前より落ち着いたようにも見えます」
可成「落ち着いたというより」
可成は、文と話す長可を見た。
可成「死ねなくなったのだろう」
その言葉通り。
長可は以前のように無謀な突撃を繰り返さなくなった。
しかし、武功が落ちたわけではない。
むしろ生きて帰ることを覚えたことで、戦場では兵を率い、敵を崩し、確かな戦果を積み重ね始めていた。
可成にとっても。
新六にとっても。
その婚姻は、ただの政略ではなく。
一人の若者を変えた縁となった。
---
さらに岐阜では、もう一つの祝いがあった。
柴田勝家と、おつやの方の婚姻である。
おつやの方は、かつて武田方の美濃侵攻の折、秋山虎繁によって夫を殺され、囚われの身となった。
その彼女を救い出したのが、柴田勝家だった。
戦場で救われた命。
絶望の中で差し出された手。
おつやの方が勝家へ心を寄せるようになったのは、自然なことだった。
岐阜城の庭。
信長は、婚礼の報告を受けながら笑っていた。
信長「勝家が嫁を取るか」
勝家「……何かおかしいですか」
信長「いや」
信長は愉快そうに笑う。
信長「お前は槍と戦しか知らぬと思っていた」
勝家「俺にも、そのくらいの情はあります」
信長「知っている」
信長は、少しだけ声を和らげた。
信長「苦労した女だ。大事にしろ」
勝家「言われるまでもありません」
しかも、おつやの方にはすでに懐妊の兆しがあるという。
戦と別れが続いていた織田家にとって。
それは久しぶりの、心から喜べる知らせだった。
市「兄上も、嬉しそうですね」
信長「当たり前だ」
市「勝家様も、おつや様も、ようやく穏やかになれます」
信長「ああ」
信長は、庭の空を見た。
信長「戦ばかりでは、人は持たぬ」
---
そして北ノ庄城。
新六のもとへ、京から一通の書状が届いた。
差出人は、曲直瀬道三。
新六は震える手で封を開いた。
そこには、短くはっきりと書かれていた。
――竹中半兵衛、病は快方に向かい、再び政務と軍務に耐えうる。
新六「半兵衛……」
その日のうちに、北ノ庄城の門が開いた。
荷を乗せた馬とともに、一人の男が戻ってくる。
以前より少し痩せてはいる。
だが、その目には確かな光が戻っていた。
半兵衛「ただいま戻りました、新六様」
新六「半兵衛!」
新六は駆け寄った。
家臣たちも、次々と声を上げる。
一豊「半兵衛様!」
康豊「お帰りなさいませ!」
孫一「軍師が帰ってきたか」
百地「これで、また仕事が増えるな」
半兵衛「百地殿。お手柔らかにお願いいたします」
城内には、久しぶりの笑い声が広がった。
新六は、半兵衛の肩を掴む。
新六「道三殿から聞いた。もう働けるんだな」
半兵衛「はい」
新六「なら、また働いてもらうぞ」
半兵衛「喜んで」
半兵衛は、力強く頷いた。
半兵衛「今度は、無理をせずに」
新六「それは絶対だ」
半兵衛「承知しております」
新六は笑った。
失った者は戻らない。
真柄も。
佐伯も。
だが、帰ってきた者もいる。
戦で傷つき。
病で倒れかけ。
それでも再び、同じ旗の下へ戻ってくる者がいる。
北ノ庄城の空に、秋の風が吹いていた。
石山本願寺との戦は、まだ終わっていない。
武田も、なお東にいる。
けれど津田家には。
新しい縁が生まれ。
新しい命の兆しがあり。
そして何より。
失いかけた軍師が、再び戻ってきた。
天下布武の戦は続く。
だが新六は、もう一人ではなかった。