織田信時の人生   作:秋月 了

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信濃の影――望月千代女、津田家へ

 

 

 長篠の戦いの後。

 

 武藤昌幸は、津田新六信時の前で一つの条件を出した。

 

昌幸「俺が織田へ仕える条件は一つだ」

 

新六「聞こう」

 

昌幸「甲斐に残した家族を、連れて来い」

 

 昌幸の目には、武将としての駆け引きではない。

 

 父としての切実な願いがあった。

 

新六「分かった」

 

昌幸「簡単に言うな」

 

新六「家族を置いて主君を変えるのは、裏切りではない」

 

新六「家族を守るために、生きる道を選ぶだけだ」

 

 昌幸はしばらく黙っていた。

 

昌幸「……本当に、連れて来られるのか」

 

新六「必ず」

 

---

 

 信長の許しを得た新六は、数人の供と伊賀忍びを連れ、甲斐へ入った。

 

 躑躅ヶ崎館の周辺は、かつての武田の威容を失っていた。

 

 長篠の敗北。

 

 重臣たちの動揺。

 

 勝頼による度重なる財政の引き締め。

 

 警備兵たちは疲れ、見張りは穴だらけだった。

 

百地「以前の武田なら、ここまで近づく前に十は首が飛んでおります」

 

新六「長篠の傷は、それほど深いか」

 

百地「兵だけではありませぬ。金も、人も、誇りも失っております」

 

 昌幸の家族が暮らす屋敷を見つけるまで、時間はかからなかった。

 

 新六は夜を待ち、屋敷の裏手から入った。

 

 驚く昌幸の家族へ、まず名を告げる。

 

新六「俺は津田新六信時だ」

 

昌幸の妻「津田……新六」

 

新六「昌幸殿は生きている」

 

 家族の表情が変わった。

 

新六「織田に仕える道を選ばれた。だが、あなた方を置いて行くつもりはない」

 

昌幸の妻「本当に……昌幸様は」

 

新六「越前で待っている」

 

 新六は、深く頭を下げた。

 

新六「無理にとは言わない」

 

新六「だが、このまま甲斐に残れば、昌幸殿の家族として利用される危険がある」

 

新六「俺と来てほしい。必ず、昌幸殿のもとへ届ける」

 

 昌幸の家族は、互いに顔を見合わせた。

 

 やがて、妻が静かに頷いた。

 

昌幸の妻「参ります」

 

---

 

 昌幸の家族を無事に救い出した新六は、すぐ越前へ戻らなかった。

 

 信濃へ向かったのである。

 

 目的は、武田家の忍び組織だった。

 

 甲賀と伊賀を得た織田にとっても、武田の忍びはなお脅威だった。

 

 そして、その中心にいる女の名を、新六は知っていた。

 

 望月千代女。

 

 歩き巫女を使い、各地の情報を集め、武田の影を支えてきた頭領。

 

 だが今、その組織は崩れかけていた。

 

 勝頼が家督を継いでから、忍びへ渡る銭は大きく減った。

 

 歩き巫女たちは各地へ散り、連絡網は乱れた。

 

 長篠では、多くの忍びが失われた。

 

 それでも勝頼は、再建のための金を出そうとしなかった。

 

 隠れ里は、もはやその日を生きるだけで精一杯だった。

 

---

 

 山奥の隠れ里。

 

 新六は、百地丹波とともに静かに周囲を探っていた。

 

百地「この先におります」

 

新六「望月千代女か」

 

百地「はい」

 

 千代女は、小さな庵の前で帳面を見ていた。

 

 その表情は冷たく、疲れていた。

 

 新六が姿を現すと、千代女は即座に短刀へ手を伸ばした。

 

千代女「誰」

 

新六「津田新六信時」

 

千代女「織田の犬が、ここへ何の用」

 

新六「武田の忍びを潰しに来たわけではない」

 

千代女「なら何だ」

 

新六「お前たちを迎えに来た」

 

 千代女の目が細くなる。

 

千代女「笑わせるな」

 

新六「今の武田は、お前たちを守らない」

 

千代女「勝頼様を侮るな」

 

新六「侮ってはいない」

 

 新六は、隠れ里を見渡した。

 

 痩せた子供たち。

 

 破れた衣。

 

 十分な薬も食料もない家々。

 

新六「だが、現実は見ている」

 

千代女「……」

 

新六「忍びは、国を守るための目と耳だ」

 

新六「それを飢えさせ、働けぬようにする主君に、未来はない」

 

千代女「織田へ来いとでも言うのか」

 

新六「ああ」

 

千代女「断る」

 

新六「すぐに決めなくていい」

 

 新六は一袋の金子を地面へ置いた。

 

新六「これは、里の食料と薬のためだ」

 

千代女「情けをかけるつもりか」

 

新六「違う」

 

新六「お前たちが生きている価値に、対価を払う」

 

 千代女は金子を見つめた。

 

 その目には、怒りと警戒があった。

 

 だが同時に。

 

 里を守れない頭領としての苦しみもあった。

 

新六「津田家へ来れば、歩き巫女も忍びも、ただの使い捨てにはしない」

 

新六「食わせる。鍛える。働きに報いる」

 

新六「そして、お前を忍びの頭領として迎える」

 

千代女「……私を、頭領のまま置くのか」

 

新六「ああ」

 

千代女「織田のために働けと」

 

新六「俺のためではない」

 

新六「お前たちが生き残るために、力を貸してほしい」

 

---

 

 数日後。

 

 望月千代女は、隠れ里の者たちと話し合った。

 

 反対する者もいた。

 

 武田への忠義を捨てられぬ者もいた。

 

 だが、飢えた子供たちを前に、千代女は決断した。

 

千代女「津田新六信時」

 

新六「決まったか」

 

千代女「私は、お前を信用していない」

 

新六「それでいい」

 

千代女「だが、里の者たちを生かすと言った言葉は信じる」

 

 千代女は深く頭を下げた。

 

千代女「望月千代女と、残った武田の忍びを預ける」

 

新六「歓迎する」

 

---

 

 越前。

 

 新六が戻ると、昌幸の家族は無事に再会を果たした。

 

昌幸「……本当に連れて来たのか」

 

新六「約束した」

 

昌幸の妻「昌幸様」

 

昌幸「すまなかった」

 

 昌幸は妻と家族を抱き寄せた。

 

 その姿を見ていた千代女は、何も言わなかった。

 

 だが、その目は少しだけ揺れていた。

 

 新六は、千代女を鈴、雫、市の前へ連れて行く。

 

新六「望月千代女殿だ」

 

千代女「……望月千代女と申します」

 

鈴「武田の忍びの頭領、と聞いています」

 

千代女「今は、津田家へ仕える身です」

 

市「新六様が、またとんでもない方を連れて来られましたね」

 

雫「お疲れではありませんか」

 

 千代女は、少し戸惑った。

 

 敵地から来た自分へ。

 

 新六の妻たちは、警戒はしていても、侮ることはなかった。

 

鈴「津田家では、働く者を見捨てません」

 

鈴「その代わり、家を裏切らぬことです」

 

千代女「……承知しました」

 

 市は新六へ目を向け、わずかに頬を膨らませた。

 

市「新六様」

 

新六「何だ」

 

市「女性を連れて来る時は、せめて先に文をください」

 

新六「……気をつける」

 

雫「市様」

 

市「ですが、千代女様が困っているなら、助けるべきです」

 

鈴「まずは、越前に慣れていただきましょう」

 

 千代女は、初めて少しだけ笑った。

 

---

 

 こうして。

 

 武田の忍び組織は、大きく力を失った。

 

 望月千代女と残された忍びたちは、津田家の新たな諜報部隊として組み込まれる。

 

 伊賀の百地丹波。

 

 武田の望月千代女。

 

 雑賀の鈴木孫一。

 

 甲賀の忍びたち。

 

 津田家と織田家の影は、さらに広がっていく。

 

 そして千代女は。

 

 最初は新六を信用していなかった。

 

 だが、里の者たちへ約束通り食料と薬が届き。

 

 働きに応じて報いが与えられ。

 

 誰一人として使い捨てにされなかった時。

 

 初めて。

 

 津田新六信時という男を、自分の主君として見始めるのだった。

 

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