鷲津砦を取り返した翌日。
砦の中には、まだ血の匂いが残っていた。
新六は槍の手入れをしていた。刃こぼれを確かめ、柄についた泥を拭き取る。その傍らでは、前田利家が腕を組み、苛立たしげに空を睨んでいた。
「今川の奴ら、まだ引く気配がねえな」
「義元は勝ったつもりなんだろう」
新六は静かに答えた。
「だからこそ、油断もしているはずだ」
「お前は本当に十三か?」
「利家も同じようなものだろう」
「俺はもっと派手に生きてる」
利家が笑った、その時だった。
「金森長近様のお越しだ!」
砦の兵が声を上げた。
金森長近は馬を降りるなり、二人へ視線を向けた。
「新六、前田又左衛門。織田上総介様がお呼びだ」
「信長様が?」
「ああ。善照寺砦へ急げ」
新六と利家は顔を見合わせた。
互いに言葉はなかった。
だが二人とも理解していた。
信長が今、この時に自分たちを呼ぶ意味を。
戦は、まだ終わっていない。
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善照寺砦。
織田信長は、地図の前に立っていた。
周囲には林秀貞、佐久間信盛、柴田勝家、森良成ら、織田家の将たちが集まっている。
今川義元の本隊は桶狭間にいる。
数万と称される大軍。
対する織田方は、その半分にも満たない。
普通なら、正面から戦える数ではない。
だが信長は、地図の一点を指で叩いた。
「ここだ」
重臣たちが視線を集める。
「桶狭間。義元の首は、ここにある」
「殿」
林秀貞が慎重に口を開いた。
「今川本隊へ向かうとなれば、敵中深くへ入ることになります。兵数では、こちらが大きく劣りましょう」
「だからどうした」
信長の目が光る。
「数が多ければ勝つのなら、戦など誰でもできる」
その声に、誰も反論できなかった。
そこへ金森長近が、新六と利家を連れて入ってくる。
「新六、前田利家。お連れしました」
二人は膝をついた。
「新六、参上いたしました」
「前田又左衛門利家、参上!」
信長はまず、新六を見た。
「鷲津で聞いたぞ」
「はっ」
「千秋と佐々が倒れたあと、逃げずに兵を前へ出したそうだな」
「退けば死ぬ状況でした。ならば、生き残るために前へ出るしかありませんでした」
信長は、小さく笑った。
「よい答えだ。戦とは、怖くない者が勝つのではない。怖くとも、進むべき時に進める者が勝つ」
そして、信長は新六の肩を叩いた。
「励め、新六。貴様のような者が、これからの織田に必要だ」
「身に余るお言葉にございます」
新六は深く頭を下げた。
次に信長の視線が、利家へ移る。
「又左衛門」
「はっ」
「貴様は、勝手に参陣したな」
利家の表情が固まった。
場の空気がわずかに張り詰める。
前田利家は、以前の不始末によって織田家から遠ざけられていた。それにもかかわらず、此度の戦に独断で加わったのだ。
「申し開きはございません」
利家は額を地に伏せた。
「ただ、尾張が焼かれるのを見ていることだけはできませんでした。処罰は、戦が終わってからお受けいたします」
信長はしばらく黙っていた。
やがて、鼻で笑う。
「馬鹿者が」
「……はっ」
「だが、鷲津で戦ったことは聞いている。新六とともに兵を奮い立たせ、砦を取り返したそうだな」
利家は顔を上げた。
「はっ」
「ならば今回に限り、許す」
信長は笑った。
「よくやった。次からは、勝手に来る前に俺へ言え」
一瞬、利家は言葉を失った。
それから、顔をくしゃりと歪める。
「……ありがたき幸せ!」
「泣くな。戦の前だ」
「泣いてなどおりません!」
「顔が濡れているぞ」
「雨です!」
周囲の武将たちから、わずかな笑いが起きた。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らぐ。
信長は森良成へ顔を向けた。
「三左」
「はっ」
「新六と又左衛門を、お前の隊へ入れろ」
「承知いたしました」
森良成は二人を見た。
鋭い目をした武将だった。
「俺の隊に入る以上、命令には従え。勝手に死ぬな」
「はっ」
「承知しました」
「だが」
森良成は続ける。
「敵の大将へ届く道があるなら、遠慮はするな。今日の戦は、首一つで終わる」
新六は、その言葉を胸に刻んだ。
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やがて、空が鳴った。
黒雲が桶狭間の空を覆い、激しい雨が降り始める。
風が旗を引き裂き、地面を泥へ変えていく。
織田軍は、雨と風に紛れて進んだ。
新六は森良成隊の中にいた。
利家はそのすぐ隣にいる。
「新六」
「なんだ」
「今日を生き延びたら、熱田で酒を飲もう」
「まだ飲める年齢じゃないだろう」
「細けえことはいいんだよ」
「雫に叱られるぞ」
「お前の嫁は怖いのか?」
「怖くはない。ただ、悲しませたくない」
利家は少しだけ笑った。
「そういう顔をする男は、女に強い」
「お前ほどではない」
「当然だ」
二人のやり取りを、雨が飲み込んだ。
そして。
「敵だ!」
叫びが上がった。
今川方の兵が、雨の向こうから現れる。
織田軍は止まらなかった。
「かかれ!」
森良成の号令が響く。
「義元の首へ向かえ!」
新六は先頭へ飛び出した。
敵兵の槍が振るわれる。
新六は槍を弾き、相手の胸甲を打ち抜く。次の兵が斬りかかると、その腕を掴み、泥へ叩き伏せた。
雨で視界が悪い。
悲鳴も、怒号も、雷鳴も混ざり合う。
誰が味方で、誰が敵かすら曖昧になる戦場で、新六はただ前へ進んだ。
「前田! 左だ!」
「分かってる!」
利家の槍が敵を薙ぎ払う。
新六の槍が続く。
二人は互いの背を預けながら、今川の兵を切り裂いていった。
やがて、新六の前に、ひときわ立派な兜を被った武者が現れた。
金の飾りをつけ、従者を引き連れた侍大将だった。
「織田の小僧が!」
その武者は太刀を振り下ろした。
新六は半歩踏み込み、太刀を槍の柄で受け流す。
そして、相手の胸元へ肩からぶつかった。
甲冑ごと武者が吹き飛ぶ。
新六は倒れた武者の兜を押さえ、槍を突き立てた。
「ひとつ」
兜首だった。
だが、戦は続く。
新六は立ち上がり、さらに前へ出る。
その先で、森良成隊の兵が敵の侍に押し込まれていた。
新六は迷わず割って入り、振り下ろされた太刀を片手で受け止める。
「なっ……!」
侍が目を見開く。
新六は刀身を掴んだまま引き寄せ、そのまま額を打ち抜いた。
相手が崩れ落ちる。
新六はその首を取った。
「二つ目」
兜首ではない。
だが、明らかに武辺の者だった。
新六は首を袋に収め、再び走る。
遠くで、叫びが上がった。
「義元が討たれた!」
「今川義元、討死!」
戦場の空気が変わった。
今川の兵たちが、凍りついたように動きを止める。
毛利良勝が義元の首を討ち取ったという報せが、雨の中を駆け抜けていく。
「義元様が……?」
「そんなはずがない!」
「退け! 退けえ!」
大軍は、一瞬で崩れ始めた。
新六は泥に立ち尽くし、荒い息を吐いた。
天下を動かすほどの大将が、一つの首となって落ちた。
その現実の重さを、十三歳の少年はまだ完全には理解できなかった。
ただ、隣で利家が笑っていた。
「やったな、新六」
「ああ」
「生き残った」
「……ああ」
新六は空を見た。
雨は止み始めていた。
雲の隙間から、わずかな光が差し込んでいる。
熱田には、雫がいる。
帰る場所がある。
だからこそ、新六は槍を握り直した。
「利家」
「なんだ」
「帰ろう」
「おう。だがその前に、首実検だ」
利家が新六の首袋を見て、にやりと笑う。
「兜首一つに、侍首一つ。初陣でもないのに、相変わらず派手だな」
「お前も十分派手だった」
「俺は華があるんだよ」
「そういうことにしておく」
二人は笑った。
桶狭間の戦い。
織田信長は今川義元を討ち取り、尾張の運命を変えた。
そしてその雨の戦場で、新六は初めて知った。
人の命を奪う力だけでは、天下は動かせない。
誰のために戦い、誰と生きるのか。
その答えを持つ者だけが、戦場の先へ進めるのだと。