織田信時の人生   作:秋月 了

33 / 63
帰蝶の願い――新六、ついに旗を上げる

 

 清須城での評定から、しばらくが過ぎていた。

 

 織田家の新たな当主は、三法師。

 

 まだ十歳の少年である。

 

 その後見には、信孝が置かれた。

 

 表向きは、織田家の血を守るための穏当な決着だった。

 

 だが。

 

 誰もが分かっていた。

 

 これは終わりではない。

 

 始まりにすぎないと。

 

 北ノ庄城。

 

 津田新六信時は、書状の山を前にしていた。

 

 秀吉が滝川一益へ兵を向けた。

 

 勝家も関東方面軍を率い、一益を救うため動いた。

 

 そして信孝もまた、秀吉に追い詰められている。

 

 新六は、まだ兵を動かしていなかった。

 

半兵衛「新六様」

 

新六「分かっている」

 

半兵衛「秀吉殿は、もはや三法師様を立てるだけでは満足しておりません」

 

新六「信孝殿を潰し、勝家様と一益殿を削り」

 

新六「織田家を自分の手で動かすつもりだ」

 

半兵衛「はい」

 

新六「だが俺が動けば織田家は、完全に二つに割れる」

 

半兵衛「既に割れております」

 

 半兵衛の声は、静かだった。

 

半兵衛「新六様が動かぬことで守れるものもあります。

    ですが、動かぬことで失うものもあります」

 

新六「……」

 

 その時。

 

 廊下の向こうで、家臣が膝をつく気配がした。

 

家臣「新六様。お客様がお見えです」

 

新六「誰だ」

 

家臣「帰蝶様にございます」

 

 新六の手が止まった。

 

---

 

 応接の間。

 

 帰蝶は、静かに座っていた。

 

 信長の正室。

 

 織田家の栄光も、苦難も。

 

 誰より近くで見てきた女性だった。

 

 新六は、深く頭を下げる。

 

新六「帰蝶様が、わざわざ越前まで」

 

帰蝶「久しぶりですね、新六殿」

 

新六「はい」

 

帰蝶「市からも聞いています」

 

帰蝶「あなたは、相変わらず自分で抱え込みすぎると」

 

新六「……耳が痛い話です」

 

 帰蝶は、少しだけ笑った。

 

 だが、その目は笑っていなかった。

 

帰蝶「信孝を助けてください」

 

 新六は、すぐには答えなかった。

 

新六「帰蝶様」

 

帰蝶「信孝は、未熟です」

 

帰蝶「短気で、意地も強い」

 

帰蝶「自分が正しいと信じれば、周りが見えなくなることもある」

 

新六「……はい」

 

帰蝶「けれど、あの子は織田の子です」

 

帰蝶「信長様の子です」

 

 帰蝶は、膝の上で手を重ねた。

 

帰蝶「三法師を立てることに、私は反対ではありません」

 

帰蝶「信長様の血を繋ぐことは、何より大切です」

 

帰蝶「ですが、まだ十歳の子を旗にして」

 

帰蝶「その後ろから大人たちが好き勝手に織田を切り分ける」

 

帰蝶「それを、信長様が望まれるでしょうか」

 

新六「……望まれないでしょう」

 

帰蝶「信孝は後見です」

 

帰蝶「三法師を守り、織田家を守る責任がある」

 

帰蝶「それを秀吉が力で潰すなら」

 

帰蝶「次に潰されるのは、三法師かもしれません」

 

 新六の目が、わずかに鋭くなる。

 

新六「秀吉殿が、三法師様に手を出すと」

 

帰蝶「今は出さないでしょう」

 

帰蝶「けれど、自分に逆らう者がすべて消えた後なら」

 

帰蝶「誰があの子を守るのですか」

 

 部屋に沈黙が落ちた。

 

 帰蝶は、ゆっくりと頭を下げた。

 

帰蝶「お願いします、新六殿」

 

帰蝶「信孝を、守ってください」

 

帰蝶「織田家を、信長様の家を」

 

帰蝶「これ以上、奪わせないでください」

 

新六「帰蝶様」

 

帰蝶「これは信孝の頼みではありません」

 

帰蝶「私自身の願いです」

 

帰蝶「信長様の妻として」

 

帰蝶「信忠様を見送った者として」

 

帰蝶「残された子らを守りたいのです」

 

 新六は、帰蝶の前で目を閉じた。

 

 脳裏に浮かぶ。

 

 炎に包まれた本能寺。

 

 信忠を失った二条。

 

 山崎で見送った光秀。

 

 そして。

 

 まだ幼い三法師の顔。

 

 信長が残した子どもたち。

 

 織田家を信じて戦い、命を落とした者たち。

 

 佐伯。

 

 真柄。

 

 信広。

 

 信忠。

 

 新六は、ゆっくりと顔を上げた。

 

新六「俺は」

 

新六「信孝殿を、天下人にするために動くわけではありません」

 

帰蝶「ええ」

 

新六「三法師様を道具にされぬために」

 

新六「信長様の子らが、力ある者に消されぬために」

 

新六「そのために動きます」

 

 帰蝶の目から、静かに涙が落ちた。

 

帰蝶「……ありがとうございます」

 

新六「ですが、一つだけ約束してください」

 

帰蝶「何でしょう」

 

新六「信孝殿にも伝えてほしい」

 

新六「三法師様は、織田家の当主です」

 

新六「その立場を傷つけるなら」

 

新六「俺は信孝殿の味方にはなれません」

 

帰蝶「必ず伝えます」

 

新六「そして勝家様にも」

 

新六「これは秀吉殿を討つためだけの戦ではない」

 

新六「織田家の形を守るための戦だと」

 

帰蝶「分かりました」

 

---

 

 帰蝶が去った後。

 

 新六は、しばらく窓の外を見ていた。

 

 雪解け前の北ノ庄は、まだ冷たい。

 

 だが遠くで。

 

 兵たちが動く音が聞こえていた。

 

半兵衛「決められましたか」

 

新六「ああ」

 

半兵衛「では」

 

新六「鐘を鳴らせ」

 

 半兵衛が、深く頭を下げる。

 

半兵衛「承知いたしました」

 

 北ノ庄城の鐘が鳴った。

 

 低く。

 

 長く。

 

 津田家の二万を呼ぶ鐘だった。

 

 五分後。

 

 城下と詰所から、正規兵たちが集まり始める。

 

 槍兵。

 

 騎馬兵。

 

 鉄砲衆。

 

 雑賀衆。

 

 工兵。

 

 そして一式歩兵銃を扱う、ごく少数の秘匿部隊。

 

 新六は、兵たちの前に立った。

 

新六「聞け」

 

 兵たちが静まる。

 

新六「織田家が、再び割れようとしている」

 

新六「信長様と信忠様が守ろうとしたものを」

 

新六「力ある者が奪おうとしている」

 

新六「俺たちは、三法師様を守る」

 

新六「信孝殿を守る」

 

新六「そして、織田家を守る」

 

津田兵「おおっ!」

 

新六「出陣する」

 

新六「勝家様、一益殿、信孝殿と合流する」

 

新六「秀吉殿に」

 

新六「これ以上、織田を好きにはさせない」

 

 北ノ庄の旗が、風を受けて大きく鳴った。

 

 津田新六信時は。

 

 ついに中立を捨てた。

 

 それは信孝一人のためではない。

 

 信長と信忠が遺した織田家。

 

 そして、その未来を背負わされた三法師を守るための出陣だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告