清須城での評定から、しばらくが過ぎていた。
織田家の新たな当主は、三法師。
まだ十歳の少年である。
その後見には、信孝が置かれた。
表向きは、織田家の血を守るための穏当な決着だった。
だが。
誰もが分かっていた。
これは終わりではない。
始まりにすぎないと。
北ノ庄城。
津田新六信時は、書状の山を前にしていた。
秀吉が滝川一益へ兵を向けた。
勝家も関東方面軍を率い、一益を救うため動いた。
そして信孝もまた、秀吉に追い詰められている。
新六は、まだ兵を動かしていなかった。
半兵衛「新六様」
新六「分かっている」
半兵衛「秀吉殿は、もはや三法師様を立てるだけでは満足しておりません」
新六「信孝殿を潰し、勝家様と一益殿を削り」
新六「織田家を自分の手で動かすつもりだ」
半兵衛「はい」
新六「だが俺が動けば織田家は、完全に二つに割れる」
半兵衛「既に割れております」
半兵衛の声は、静かだった。
半兵衛「新六様が動かぬことで守れるものもあります。
ですが、動かぬことで失うものもあります」
新六「……」
その時。
廊下の向こうで、家臣が膝をつく気配がした。
家臣「新六様。お客様がお見えです」
新六「誰だ」
家臣「帰蝶様にございます」
新六の手が止まった。
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応接の間。
帰蝶は、静かに座っていた。
信長の正室。
織田家の栄光も、苦難も。
誰より近くで見てきた女性だった。
新六は、深く頭を下げる。
新六「帰蝶様が、わざわざ越前まで」
帰蝶「久しぶりですね、新六殿」
新六「はい」
帰蝶「市からも聞いています」
帰蝶「あなたは、相変わらず自分で抱え込みすぎると」
新六「……耳が痛い話です」
帰蝶は、少しだけ笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
帰蝶「信孝を助けてください」
新六は、すぐには答えなかった。
新六「帰蝶様」
帰蝶「信孝は、未熟です」
帰蝶「短気で、意地も強い」
帰蝶「自分が正しいと信じれば、周りが見えなくなることもある」
新六「……はい」
帰蝶「けれど、あの子は織田の子です」
帰蝶「信長様の子です」
帰蝶は、膝の上で手を重ねた。
帰蝶「三法師を立てることに、私は反対ではありません」
帰蝶「信長様の血を繋ぐことは、何より大切です」
帰蝶「ですが、まだ十歳の子を旗にして」
帰蝶「その後ろから大人たちが好き勝手に織田を切り分ける」
帰蝶「それを、信長様が望まれるでしょうか」
新六「……望まれないでしょう」
帰蝶「信孝は後見です」
帰蝶「三法師を守り、織田家を守る責任がある」
帰蝶「それを秀吉が力で潰すなら」
帰蝶「次に潰されるのは、三法師かもしれません」
新六の目が、わずかに鋭くなる。
新六「秀吉殿が、三法師様に手を出すと」
帰蝶「今は出さないでしょう」
帰蝶「けれど、自分に逆らう者がすべて消えた後なら」
帰蝶「誰があの子を守るのですか」
部屋に沈黙が落ちた。
帰蝶は、ゆっくりと頭を下げた。
帰蝶「お願いします、新六殿」
帰蝶「信孝を、守ってください」
帰蝶「織田家を、信長様の家を」
帰蝶「これ以上、奪わせないでください」
新六「帰蝶様」
帰蝶「これは信孝の頼みではありません」
帰蝶「私自身の願いです」
帰蝶「信長様の妻として」
帰蝶「信忠様を見送った者として」
帰蝶「残された子らを守りたいのです」
新六は、帰蝶の前で目を閉じた。
脳裏に浮かぶ。
炎に包まれた本能寺。
信忠を失った二条。
山崎で見送った光秀。
そして。
まだ幼い三法師の顔。
信長が残した子どもたち。
織田家を信じて戦い、命を落とした者たち。
佐伯。
真柄。
信広。
信忠。
新六は、ゆっくりと顔を上げた。
新六「俺は」
新六「信孝殿を、天下人にするために動くわけではありません」
帰蝶「ええ」
新六「三法師様を道具にされぬために」
新六「信長様の子らが、力ある者に消されぬために」
新六「そのために動きます」
帰蝶の目から、静かに涙が落ちた。
帰蝶「……ありがとうございます」
新六「ですが、一つだけ約束してください」
帰蝶「何でしょう」
新六「信孝殿にも伝えてほしい」
新六「三法師様は、織田家の当主です」
新六「その立場を傷つけるなら」
新六「俺は信孝殿の味方にはなれません」
帰蝶「必ず伝えます」
新六「そして勝家様にも」
新六「これは秀吉殿を討つためだけの戦ではない」
新六「織田家の形を守るための戦だと」
帰蝶「分かりました」
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帰蝶が去った後。
新六は、しばらく窓の外を見ていた。
雪解け前の北ノ庄は、まだ冷たい。
だが遠くで。
兵たちが動く音が聞こえていた。
半兵衛「決められましたか」
新六「ああ」
半兵衛「では」
新六「鐘を鳴らせ」
半兵衛が、深く頭を下げる。
半兵衛「承知いたしました」
北ノ庄城の鐘が鳴った。
低く。
長く。
津田家の二万を呼ぶ鐘だった。
五分後。
城下と詰所から、正規兵たちが集まり始める。
槍兵。
騎馬兵。
鉄砲衆。
雑賀衆。
工兵。
そして一式歩兵銃を扱う、ごく少数の秘匿部隊。
新六は、兵たちの前に立った。
新六「聞け」
兵たちが静まる。
新六「織田家が、再び割れようとしている」
新六「信長様と信忠様が守ろうとしたものを」
新六「力ある者が奪おうとしている」
新六「俺たちは、三法師様を守る」
新六「信孝殿を守る」
新六「そして、織田家を守る」
津田兵「おおっ!」
新六「出陣する」
新六「勝家様、一益殿、信孝殿と合流する」
新六「秀吉殿に」
新六「これ以上、織田を好きにはさせない」
北ノ庄の旗が、風を受けて大きく鳴った。
津田新六信時は。
ついに中立を捨てた。
それは信孝一人のためではない。
信長と信忠が遺した織田家。
そして、その未来を背負わされた三法師を守るための出陣だった。