織田信時の人生   作:秋月 了

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賤ヶ岳の霧――新六、織田を守りきれず

 

 

 津田新六信時が北ノ庄を発ち、南下を始めた時。

 

 すでに一通の書状が、織田信孝のもとへ送られていた。

 

 短く、だが新六らしい真っすぐな文だった。

 

 ――俺が行くまで、戦を急がないでください。

 ――必ず合流します。

 ――三法師様と織田家を守るため、共に戦いましょう。

 

 だが。

 

 信孝は待てなかった。

 

 秀吉の軍が迫り。

 

 味方の城が落ち。

 

 周囲の国人たちが次々と寝返る中で。

 

 信孝は、自ら戦場へ出た。

 

信孝「待っていられるか」

 

信孝「父上の子である俺が、城に籠もっているだけでは」

 

信孝「織田家は終わる」

 

 その戦は、早すぎた。

 

 兵は足りず。

 

 味方の足並みも揃わず。

 

 秀吉方の圧力に押され、信孝軍は敗れた。

 

 新六の軍が到着するより早く。

 

 信孝は岐阜城へ追い詰められた。

 

 そして。

 

 織田信孝は、城の中で自害した。

 

---

 

 信孝の死を聞いた柴田勝家は。

 

 しばらく、何も言えなかった。

 

 やがて膝をつき。

 

 天へ向けて、声を絞り出した。

 

勝家「信長様……」

 

勝家「申し訳ございませぬ」

 

勝家「信孝様を……守れなかった」

 

 勝家の目から涙が落ちた。

 

 信長の子。

 

 織田家を残すために、自分が推した男。

 

 それを守れなかった。

 

 だが勝家は、そこで終わる男ではなかった。

 

勝家「泣くのは後だ」

 

 勝家は涙を拭った。

 

勝家「まだ一益がいる」

 

勝家「まだ新六がいる」

 

勝家「まだ、織田家を守る者は残っている!」

 

 勝家は落城寸前だった滝川一益のもとへ兵を進めた。

 

 追い詰められていた一益の軍を救い出し。

 

 北へ退きながら。

 

 津田軍との合流地点、賤ヶ岳を目指した。

 

---

 

 賤ヶ岳。

 

 新六の軍が到着した時。

 

 勝家は、いつものように大きく背を伸ばして待っていた。

 

 だが、その目には深い疲れがあった。

 

新六「勝家様!」

 

勝家「新六」

 

新六「信孝殿は」

 

 勝家は、答えなかった。

 

 ただ。

 

 ゆっくりと目を伏せ首を横に振った。

 

 それだけで、新六には分かった。

 

新六「……」

 

 新六の身体から、力が抜けた。

 

 膝が崩れ。

 

 雪混じりの地面へ手をつく。

 

新六「信孝殿……」

 

泰時「父上」

 

新六「俺が」

 

 新六の声が、震える。

 

新六「俺が、もっと早く来ていれば」

 

新六「待っていてくれと、書状を出した」

 

新六「なのに……間に合わなかった」

 

 新六は、空を見上げた。

 

 そこにはもう。

 

 信長も。

 

 信忠も。

 

 信孝もいない。

 

新六「信長様」

 

 涙が、地面へ落ちる。

 

新六「申し訳ありません」

 

新六「あなたの子を」

 

新六「また一人、守れませんでした」

 

 勝家は、新六の肩に手を置いた。

 

勝家「新六」

 

新六「……」

 

勝家「今は泣け」

 

勝家「だが、泣き終えたら立て」

 

勝家「信孝様が命を懸けて守ろうとしたものを」

 

勝家「ここで捨てるわけにはいかん」

 

 新六は、しばらく顔を伏せていた。

 

 やがて。

 

 ゆっくりと立ち上がる。

 

新六「はい」

 

新六「戦います」

 

新六「信孝殿の死を」

 

新六「無駄にはしません」

 

---

 

 賤ヶ岳の戦いが始まった。

 

 秀吉方には黒田官兵衛がいた。

 

 有岡城の地下牢から救い出され。

 

 足に傷を残しながらも。

 

 その才覚は、以前よりさらに鋭くなっていた。

 

官兵衛「柴田殿は正面から来るでしょう」

 

官兵衛「滝川殿は側面を支える」

 

官兵衛「津田殿は、必ず別の手を打つ」

 

秀吉「新六殿の軍が一番厄介だな」

 

官兵衛「はい」

 

官兵衛「力だけではありません」

 

官兵衛「津田家には竹中半兵衛がおります」

 

官兵衛「こちらの策を読んだ上で、さらに一手先へ行くでしょう」

 

 秀吉は、前線へ目を向けた。

 

 福島正則。

 

 加藤清正。

 

 若い将たちが、必死に戦線を支えている。

 

 官兵衛の指揮もあり。

 

 秀吉軍は、勝家と一益の軍を押し返し始めた。

 

秀吉「押せ!」

 

秀吉「賤ヶ岳を取れば、北は崩れる!」

 

 だが。

 

 津田軍だけは、止まらなかった。

 

---

 

 北陸方面軍。

 

 新六の軍は、正面から秀吉軍へぶつかった。

 

 森可成。

 

 森長可。

 

 前田利家。

 

 佐々成政。

 

 そして泰時を含む津田家の将たち。

 

 秀吉方は策を巡らせた。

 

 伏兵を置いた。

 

 退路を偽った。

 

 小部隊を誘い出した。

 

 だが半兵衛は、それを読んでいた。

 

半兵衛「左の林に伏兵」

 

半兵衛「前方の退却は偽りです」

 

半兵衛「右の道だけが、本当に空いております」

 

新六「なら、正面を砕く」

 

半兵衛「……やはり、そう言われますか」

 

新六「策があるなら、正面から壊せる」

 

半兵衛「承知いたしました」

 

 森長可が槍を掲げた。

 

長可「俺が道を開く!」

 

文「長可様」

 

 陣の後方から、文が祈るように見ていた。

 

長可「必ず帰る!」

 

可成「長可!」

 

長可「分かっている、父上!」

 

 かつてなら。

 

 長可は一人で敵陣へ飛び込んでいた。

 

 だが今は違う。

 

 兵を率い。

 

 味方の位置を見て。

 

 戻るための道を残して突撃する。

 

長可「森勢、俺に続け!」

 

森兵「おおっ!」

 

 前田利家の隊が側面を支え。

 

 佐々成政が敵の退路を狙う。

 

 森親子が前を割る。

 

 新六は中央に立ち。

 

 津田軍を一つの槍のように押し出していった。

 

---

 

 その頃。

 

 秀吉軍の鉄砲隊へ、見えない場所から銃弾が飛んだ。

 

鉄砲兵「ぐっ!」

 

鉄砲兵「どこから撃たれた!」

 

 木々の間。

 

 岩陰。

 

 土塁の向こう。

 

 小さな火花が走る。

 

 そして、次の瞬間には別の場所から銃声が響く。

 

 秀吉方の鉄砲隊は、次々と倒れた。

 

 それは通常の鉄砲ではなかった。

 

 短い間隔で、何発も放たれる銃声。

 

 撃った者が移動する前に。

 

 すでに次の弾が飛んでくる。

 

官兵衛「……連射している」

 

秀吉「何だと」

 

官兵衛「鉄砲隊が、一度の装填で何発も撃っている」

 

秀吉「そんなものがあるのか」

 

官兵衛「分かりません」

 

官兵衛「ですが津田軍は、何かを隠している」

 

 秀吉の本陣は、じりじりと後ろへ下がった。

 

 正面から新六。

 

 側面から利家と成政。

 

 森親子が戦線をこじ開け。

 

 さらに、見えぬ場所から鉄砲隊が撃ち続ける。

 

 官兵衛が策を出す。

 

 半兵衛がそれを読む。

 

 官兵衛が戦線を組み直す。

 

 半兵衛が、その組み直した場所へ新六を送り込む。

 

 戦は、秀吉方にとって予想以上の苦しいものとなった。

 

秀吉「さすがは、織田軍最強か」

 

 秀吉は、悔しさを噛み締めながら。

 

 それでも新六の軍を見て、感心せずにはいられなかった。

 

秀吉「信長様が、あれほど目をかけた理由が分かる」

 

官兵衛「殿」

 

秀吉「分かっている」

 

秀吉「このまま続ければ、勝っても兵を失いすぎる」

 

 秀吉は、決断した。

 

---

 

 その夜。

 

 秀吉のもとへ、急報が届いた。

 

使者「秀吉様!」

 

秀吉「何だ」

 

使者「三法師様のお姿が、清須から消えました!」

 

 秀吉の目が、鋭く細まる。

 

 その瞬間。

 

 秀吉は理解した。

 

 津田新六信時。

 

 伊賀。

 

 甲賀。

 

 望月千代女。

 

 彼らが動いたのだと。

 

秀吉「……新六殿か」

 

官兵衛「捜索を」

 

秀吉「いや」

 

官兵衛「ですが、三法師様は織田家の当主です」

 

秀吉「だからだ」

 

 秀吉は、静かに答えた。

 

秀吉「もし新六殿が連れ出したなら」

 

秀吉「三法師様は、少なくとも織田家の者たちに守られている」

 

官兵衛「秀吉様」

 

秀吉「俺が探して奪い返せば」

 

秀吉「この戦は、織田家の内輪揉めでは終わらなくなる」

 

 秀吉は、机の上の地図を見た。

 

 織田の名を守るための戦。

 

 その形は、もう崩れた。

 

 信長も信忠もいない。

 

 信孝も死んだ。

 

 残された者たちは、それぞれの旗を掲げて生きるしかない。

 

秀吉「織田家は、織田家で生きればいい」

 

秀吉「俺は、俺の道を行く」

 

 秀吉の胸の内で。

 

 独立への決意が、静かに形を取った。

 

---

 

 やがて。

 

 秀吉は朝廷へ働きかけた。

 

 これ以上の戦を止めるため。

 

 そして自らが消耗しすぎぬため。

 

 朝廷の名による和議を求めた。

 

 賤ヶ岳の戦場へ、和議の使者が入る。

 

使者「朝廷より、争いを止めるよう仰せにございます」

 

 新六は、使者を睨んだ。

 

新六「秀吉殿は、追い詰められたから和議を求めた」

 

半兵衛「ですが、朝廷を通された以上」

 

半兵衛「今ここで拒めば、我らが逆賊と呼ばれかねません」

 

勝家「……悔しいな」

 

一益「あと少しだった」

 

利家「ああ」

 

成政「秀吉の本陣まで届きかけていた」

 

 新六は、拳を握った。

 

 信孝を救えなかった。

 

 秀吉を倒しきれない。

 

 織田家を、一つに戻すこともできない。

 

 だが。

 

 これ以上、織田の兵を死なせることもできなかった。

 

新六「和議を受ける」

 

 勝家が、新六を見る。

 

勝家「新六」

 

新六「勝家様」

 

勝家「本当に、それでいいのか」

 

新六「よくはありません」

 

新六「ですが、これ以上戦えば」

 

新六「信長様が残した者たちまで失います」

 

 勝家は、目を閉じた。

 

 そして、ゆっくり頷いた。

 

勝家「……分かった」

 

---

 

 賤ヶ岳の戦いは、和議によって終わった。

 

 勝敗は決しなかった。

 

 だが織田家は。

 

 もう以前の織田家には戻れなかった。

 

 勝家。

 

 一益。

 

 そしてその家族たちは。

 

 新六とともに越前へ向かった。

 

 北ノ庄城は、再び多くの者を受け入れる場所となる。

 

 信長の家臣たち。

 

 信長を信じた者たち。

 

 秀吉の下へは行かず。

 

 それでも生き残ることを選んだ者たち。

 

 新六は北ノ庄へ戻る馬上で。

 

 遠く、南の空を見た。

 

新六「信長様」

 

 声には、悔しさがあった。

 

 悲しみがあった。

 

 そして、まだ消えぬ決意があった。

 

新六「織田家は、俺が守ります」

 

新六「三法師様も」

 

新六「あなたが残した者たちも」

 

新六「誰にも、好きにはさせません」

 

 北陸へ向かう津田軍の旗は。

 

 冷たい風の中で。

 

 それでも、まっすぐに翻っていた。

 

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