賤ヶ岳の和議から、長い時は経たなかった。
羽柴秀吉は、次に徳川家康と織田信雄を相手に戦を始めた。
天下の流れは、もはや織田から秀吉へ移りつつある。
だが越前、北ノ庄城には。
いまだ織田の名を守ろうとする者たちが集まっていた。
北ノ庄城、大広間。
柴田勝家。
滝川一益。
前田利家。
佐々成政。
森可成。
森長可。
竹中半兵衛。
百地丹波。
望月千代女。
鈴木孫一。
そして津田新六信時。
居並ぶ重臣たちの間で、激しい議論が起きていた。
勝家「家康殿へ加勢すべきだ」
一番強く声を上げたのは、勝家だった。
勝家「信雄様は織田の血を引くお方」
勝家「家康殿も、信長様と盟を結び続けた方だ」
勝家「ここで我らが動かねば、秀吉の天下を認めることになる」
一益「勝家殿の言うことは分かる」
一益「だが、こちらも賤ヶ岳で傷を負った」
成政「北陸を守るだけでも兵は要る」
利家「秀吉は強い。官兵衛もいる。あいつの下には若い将も育っている」
長可「だから何だ。戦えばいい」
可成「長可、黙っておれ」
長可「父上」
可成「勝てぬ戦に家臣を放り込むことは、勇ではない」
勝家は唇を噛んだ。
勝家「分かっている」
勝家「だが、俺は……」
その声が、わずかに震える。
勝家「もう一度、織田の天下を見たいのだ」
誰も笑わなかった。
誰も否定しなかった。
そこにいる者たちの多くが、同じ思いを抱えていたからだ。
信長が生きていた頃。
信忠が未来を背負っていた頃。
天下布武は、夢ではなかった。
だがその夢は、本能寺で燃えた。
一度燃え尽きたはずのものを。
それでももう一度、取り戻せるのではないかと。
皆、どこかで思っていた。
半兵衛「今動けば、秀吉殿と再び全面的にぶつかります」
勝家「承知している」
半兵衛「勝てるかどうかではなく」
半兵衛「勝った後、天下を支えられるかの話です」
一益「三法師様はまだ若い」
成政「信雄様を立てたとしても、織田家中がまとまる保証はない」
利家「それでも勝家様は、動きたいんだろう」
勝家「ああ」
新六は、上座で静かに聞いていた。
何も言わない。
ただ、皆の言葉を一つずつ受け止めていた。
その時だった。
襖が、静かに開いた。
大広間の空気が止まる。
そこに立っていたのは、三法師だった。
その後ろには、帰蝶が控えている。
新六は即座に立ち上がった。
新六「三法師様」
新六は上座を退いた。
新六「こちらへ」
三法師は、まだ幼さを残す顔で頷いた。
だが、その足取りは不思議なほど落ち着いていた。
三法師は上座に座る。
家臣たちは、全員が平伏した。
三法師「皆、顔を上げよ」
声は若い。
だが、逃げる声ではなかった。
三法師は、広間を見渡した。
三法師「織田は、これ以上天下を目指さぬ」
その言葉に、大広間が揺れた。
勝家「三法師様……!」
一益も、利家も、成政も、思わず帰蝶を見る。
誰もが、帰蝶の言葉だと思ったのだ。
だが帰蝶自身も驚いていた。
帰蝶は、静かに首を横へ振る。
帰蝶「私は、何も」
三法師は続けた。
三法師「織田の天下は」
三法師「父上と、お祖父様が亡くなった時点で終わった」
その一言は、刃のように広間へ落ちた。
三法師の目には涙が浮かんでいた。
だが、声は震えていなかった。
三法師「祖父上は天下を目指した」
三法師「父上は、それを継ごうとした」
三法師「だが二人とも、もうおらぬ」
三法師「信孝叔父上も亡くなった」
三法師「その上でなお、織田の天下を取り戻すと言えば」
三法師「また誰かが死ぬ」
勝家は、何も言えなかった。
三法師は、勝家を見る。
三法師「勝家」
勝家「はっ」
三法師「そなたが祖父上を思ってくれていることは、分かっている」
勝家「……」
三法師「だが、もうよい」
三法師は、今度は新六を見る。
三法師「新六」
新六「はっ」
三法師「そなたも、もう織田の天下のために戦わなくてよい」
新六の顔が、わずかに歪んだ。
三法師「我らは生きる」
三法師「織田の名を残す」
三法師「だが、天下は追わぬ」
広間の誰も、反論できなかった。
悔しさはあった。
涙もあった。
だが三法師の言葉は、あまりにも真っすぐだった。
信長を知らぬ子ではない。
信忠の死を知らぬ子でもない。
すべてを失った上で。
幼い当主は、自ら織田の天下を終わらせた。
勝家が、深く頭を下げる。
勝家「……承知いたしました」
その声は、涙に濡れていた。
一益「承知いたしました」
利家「承知しました」
成政「……承知」
可成「三法師様の御心のままに」
長可「……承知しました」
最後に、新六が頭を下げた。
新六「承知いたしました」
新六「織田の天下は、ここに終わります」
その言葉を口にした時。
新六の中で、何かが静かに崩れた。
同時に。
長く背負い続けていた重い鎧が、一つ外れたような気もした。
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その後。
秀吉は織田信雄と和議を結んだ。
これにより、徳川家康は戦を続ける大義を失い、撤退を余儀なくされた。
秀吉は大坂で築城の進み具合を確認した後、姫路へ戻った。
その城へ、信じがたい知らせが届く。
使者「秀吉様!」
秀吉「何だ、慌ただしい」
使者「津田新六信時様が、姫路へお越しです!」
秀吉の顔が固まった。
秀吉「新六殿が」
使者「はい」
秀吉「兵は」
使者「ごく少数の供のみです」
官兵衛「……妙ですな」
秀吉「会う」
三成が一歩進み出る。
三成「秀吉様。危険です」
秀吉「新六殿が供だけで来たんだ。危険も何もあるか」
三成「しかし、先の賤ヶ岳では敵対した相手です」
秀吉「だからこそ会う」
秀吉は、急ぎ謁見の間へ向かった。
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姫路城、謁見の間。
そこには確かに、新六がいた。
武装は最低限。
供も少ない。
敵地に来た者とは思えぬほど、静かに座っている。
秀吉は上座へ座った。
秀吉「新六殿」
新六「秀吉殿」
しばらく。
二人は互いを見ていた。
かつて共に美濃を駆けた。
墨俣を築いた。
京を整えた。
戦場で背を預けた。
だが今は、一度刃を交えた相手でもある。
秀吉「用件を聞きましょう」
新六は、ゆっくりと頭を下げた。
新六「降伏いたします」
謁見の間に、静寂が落ちた。
三成が目を見開く。
官兵衛もまた、ほんのわずかに眉を動かした。
秀吉「……今、何と」
新六「津田新六信時」
新六「および、北陸の津田家は」
新六「羽柴秀吉殿へ降伏いたします」
三成「なっ……!」
秀吉は、思わず身を乗り出した。
秀吉「理由を聞いてもよろしいか」
新六は、顔を上げた。
その目は、泣いてはいなかった。
だが深い疲れと、決意があった。
新六「織田の天下が、終わったからです」
それだけだった。
秀吉は、その言葉の意味を理解した。
三法師が決めたのだ。
織田の名を残す代わりに。
天下を追わないと。
新六はそれを受け入れた。
だからここへ来た。
秀吉は、静かに息を吐いた。
秀吉「条件は一つ」
新六「何でしょう」
秀吉「今後、俺に臣従すること」
新六「承知しました」
三成「お待ちください!」
三成が声を上げた。
三成「津田殿ほどの大身を、ただ臣従だけで受け入れるのですか」
三成「北陸を持ち、精兵を抱え、忍びも鉄砲もある」
三成「人質、領地替え、軍備の制限、最低でもそれらを――」
秀吉「黙れ、三成」
三成「しかし!」
秀吉「黙れと言った」
三成は口を閉ざした。
秀吉の声は、いつもの陽気さを失っていた。
秀吉「新六殿が頭を下げている」
秀吉「なら、それでよい」
官兵衛「……秀吉様」
秀吉「官兵衛」
官兵衛「よろしいのですな」
秀吉「ああ」
秀吉は、新六へ向き直った。
秀吉「降伏を受け入れます」
新六「ありがとうございます」
秀吉「北陸は、これまで通り新六殿が治めてください」
新六「よろしいのですか」
秀吉「新六殿より北陸を上手く治められる者などおりません」
秀吉「それに」
秀吉は、少し笑った。
秀吉「北陸の民に恨まれたくありませんのでな」
新六も、ほんの少しだけ表情を緩めた。
新六「相変わらずですね」
秀吉「新六殿こそ」
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正式な降伏の手続きが決まると。
秀吉は、ずっと嬉しそうな顔をしていた。
もちろん、政治的には大きい。
北陸を持つ津田家が臣従したことで、秀吉の天下は一気に固まる。
勝家、一益、利家、成政、森家の者たちを抱えた北陸が敵でなくなる意味は、計り知れない。
だが官兵衛は、秀吉の表情を見て理解した。
これは、政治的な安心だけではない。
もっと個人的な。
長く失っていたものが戻ってきたような。
そういう笑顔だった。
官兵衛「秀吉様」
秀吉「何だ」
官兵衛「嬉しそうですな」
秀吉「分かるか」
官兵衛「分かります」
秀吉「新六殿とは、長い付き合いだ」
秀吉は、遠くを見るように目を細めた。
秀吉「最初はお互い身分も何もなかった」
秀吉「美濃で駆け回って、墨俣を作って、京で走り回って」
秀吉「信長様に怒られて、褒められて」
秀吉「一緒に馬鹿なこともした」
秀吉は小さく笑った。
秀吉「戦場で敵に回った時は、怖かった」
秀吉「だが、それ以上に寂しかった」
官兵衛「……」
秀吉「今日、新六殿が頭を下げた」
秀吉「だが俺は、勝ったと思ったわけではない」
秀吉「友が帰ってきたと思った」
官兵衛は、静かに頭を下げた。
官兵衛「それは、よいことでございます」
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その夜。
秀吉は新六を私的な席へ呼んだ。
豪華な宴ではない。
酒と肴を少しだけ置いた、静かな席だった。
秀吉「新六殿」
新六「はい」
秀吉「今日は、堅苦しい話はやめましょう」
新六「分かりました」
秀吉「昔のように、秀吉殿でいい」
新六「では、秀吉殿」
秀吉「はい」
二人は、しばらく黙って酒を飲んだ。
やがて新六が口を開く。
新六「俺は、信長様の天下を守れませんでした」
秀吉「俺も、信長様の家を一つにはできませんでした」
新六「三法師様が言われました」
新六「織田の天下は、信長様と信忠様が亡くなった時点で終わったと」
秀吉「……そうですか」
新六「悔しかった」
新六「ですが、正しいと思いました」
秀吉「三法師様は、強いお方ですな」
新六「はい」
秀吉は、杯を置いた。
秀吉「新六殿」
新六「何でしょう」
秀吉「俺は天下を取ります」
新六「分かっています」
秀吉「織田の天下ではない」
秀吉「羽柴の天下です」
新六「はい」
秀吉「それでも」
秀吉は、新六を真っすぐ見た。
秀吉「力を貸してくれますか」
新六は、しばらく秀吉を見返した。
そして、静かに頷いた。
新六「民を守る天下なら」
新六「戦を終わらせる天下なら」
新六「俺は力を貸します」
秀吉「約束します」
新六「なら、俺も約束します」
新六「秀吉殿が道を誤った時は」
新六「俺が止めます」
秀吉は一瞬きょとんとした。
そして、声を上げて笑った。
秀吉「やはり新六殿だ!」
秀吉「臣従したその日に、俺を止めると言うか!」
新六「言います」
秀吉「頼もしい」
秀吉は笑いながら、杯を掲げた。
秀吉「では、改めて」
秀吉「これからもよろしく頼みます、新六殿」
新六も杯を掲げる。
新六「こちらこそ」
その日。
津田新六信時と羽柴秀吉は。
敵ではなくなった。
主従となった。
だが、それ以上に。
二人は、かつての親友に戻ったのだった。