桶狭間の勝利から、ほどなくして。
清洲城の一室に、新六は呼び出されていた。
畳の上には織田信長、そして柴田勝家が座っている。
新六は深く頭を下げた。
新六「新六、参上いたしました」
信長「桶狭間での働き、見事であった」
新六「恐れ入ります」
信長「兜首一つ、侍首一つ。しかも森三左の隊で先頭に立ち、生きて戻った。もはや足軽のままでは釣り合わぬ」
新六は顔を上げた。
信長「貴様を武士に取り立てる」
新六「……俺を、でございますか」
信長「驚くな。力があり、兵を動かし、礼も知る。貴様は使いようによっては、一軍を預ける器になる」
信長は隣の柴田勝家へ目を向けた。
信長「だが、農民出身の者をいきなり家臣団の中へ置けば、古くからの者は面白く思わぬ。ならば家を与え、立場を与えればよい」
勝家「七海家へ入れ」
新六は、初めてその名を聞いた。
勝家「七海家は、かつて織田家で侍大将格を務めた家だ。だが稲生の戦いで主だった男子を失った。信行様に従った者の家であったため、戦死した者もおれば、その後に処断された者もおる」
信長「残ったのは母と娘だけだ。家名はあるが、家を継ぐ男がいない」
勝家「そこで貴様が婿養子に入り、七海家を立て直す。以後、貴様は柴田家の配下として織田家に仕える」
新六は静かに息を吐いた。
これは褒美であり、同時に信長の政略でもある。
旧信行派の名家を、武功を立てた新参者へ継がせる。
家を残し、反乱の芽を摘み、柴田勝家の配下にも新たな力を加える。
誰も損をしないように見える、実に信長らしい手だった。
新六「七海家の方々は、この話を了承されているのでしょうか」
信長が、わずかに笑った。
信長「気になるか」
新六「家を継がせていただく以上、まずはその方々の意思を知るべきかと」
勝家「娘は、鈴という。母娘とも織田家の預かりとなっている。罪人の家ゆえ、自由に外へ出ることも叶わぬ身だ」
新六「ならばなおさらです。俺が家へ入ることで、その方たちが少しでも安心して生きられるなら、お受けいたします」
信長「よい返事だ」
信長は扇を閉じた。
信長「新六。七海の名を継げ。だが忘れるな。家名を与えるのは、貴様を縛るためではない。貴様が力を持つためだ」
新六「はっ。この命、織田家と柴田様のために使います」
勝家「期待しているぞ、新六」
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数日後。
新六は七海家の屋敷を訪れた。
屋敷は古いが、手入れだけは行き届いていた。かつては多くの家人がいたのだろう。今は静かすぎるほど静かで、広い廊下には足音だけが響いた。
座敷には、二人の女が待っていた。
一人は二十一歳ほどの母親。
もう一人は、その娘である鈴だった。
鈴は伏し目がちに座っていた。華奢な体を小さく見せているが、その姿勢には、決して折れてはいない強さがあった。
新六は二人の前に座ると、深く頭を下げた。
新六「初めまして。新六と申します」
鈴「……七海鈴です」
母・澄江「七海澄江にございます」
新六「此度、俺が七海家へ入るよう、信長様と柴田様より命を受けました」
鈴「分かっております」
鈴の声は冷たかった。
鈴「家名が必要なのでしょう。私たち母娘には、家を継ぐ男がいません。だから、武功を立てたあなたを置く。それだけのことです」
新六「その通りです」
鈴が僅かに目を見開いた。
新六「ですが、俺は七海家を奪いに来たわけではありません。守りに来ました」
鈴「守る……?」
新六「七海家の名も、鈴殿と澄江殿の暮らしもです。俺は農民の子でした。親を失い、何も持たぬ者がどれほど簡単に踏みにじられるか、知っています」
新六は、まっすぐに鈴を見た。
新六「だから、俺はあなた方を道具にはしない」
鈴は答えなかった。
しかし、その目にあった警戒は、ほんの少しだけ揺らいだ。
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婚礼の日。
七海家は、新たな主を迎えた。
新六は婿養子として七海家に入り、鈴は正室となった。
だが新六には、熱田に雫がいた。
雫は新六が武士となったことを喜んだ。だが、鈴との婚姻の話を聞いた時だけは、しばらく何も言わなかった。
夜。
熱田の社の裏手で、新六と雫は向き合っていた。
雫「雫は、分かっています」
新六「雫……」
雫「新六様が武士として生きるなら、政略も必要なのでしょう」
新六「俺は鈴殿を傷つけるつもりはない。雫を捨てるつもりもない」
雫「その言葉を聞けたなら、十分です」
雫は微笑んだ。
雫「ただ、一つだけ約束してください」
新六「何でも言ってくれ」
雫「誰かを大切にするために、あなた自身を失わないでください」
新六は、雫の手を握った。
新六「約束する」
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雫が七海家へ移ると聞いた時、鈴は強く反対した。
鈴「正室である私の屋敷へ、別の女を住まわせるのですか」
新六「雫は、俺が何も持たなかった頃から共にいた。俺は彼女を見捨てない」
鈴「ならば私は何なのです」
新六は、すぐには答えなかった。
鈴の怒りの奥にあるものを理解していたからだ。
鈴は家のために婚姻を受け入れた。
自由を奪われ、家を失いかけ、今度は見知らぬ男の妻になるよう命じられた。
そのうえで、夫のそばには既に愛する女がいる。
怒らない方がおかしかった。
新六「鈴殿は、俺の妻です。七海家の主母です」
鈴「言葉だけではありませんか」
新六「ならば、時間をかけて証明します」
その夜、新六は雫を連れて屋敷を出なかった。
鈴が自分の居場所を見失わぬよう、夫として、家の主として、彼女と向き合った。
すぐに心を通わせることなどできない。
だが新六は逃げず、鈴もまた、彼の誠実さから目を逸らせなくなっていった。
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数か月後。
庭先で、鈴と雫が並んでいた。
最初は目すら合わせなかった二人だったが、今では少しずつ言葉を交わすようになっている。
雫「鈴様、お茶を淹れました」
鈴「……ありがとう、雫」
雫「はい」
新六は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
雫が笑う。
鈴はまだぎこちない。
けれど、以前のような棘はなかった。
鈴「新六様」
新六「どうした」
鈴「あなたは……本当に、変わった方ですね」
新六「そうか?」
鈴「普通なら、妻同士を争わせるのでしょう。けれどあなたは、誰か一人を捨てるようなことをしない」
新六「俺は、守ると決めた者を守りたいだけだ」
鈴は黙り込んだ。
やがて、小さく息を吐く。
鈴「……分かりました。雫を、この家の者として認めます」
雫が目を丸くした。
雫「鈴様……」
鈴「ただし、七海家のことは私も譲りません」
雫「はい。雫も、鈴様を支えます」
新六は、二人へ深く頭を下げた。
新六「ありがとう」
こうして新六は、七海家の婿養子となった。
農民の子であった少年は、武士となり、家を得て、柴田勝家の配下という立場を得た。
だが新六は理解していた。
家を得ることは、守るべきものを得ることでもある。
信長の天下取りは、まだ始まったばかりだった。