織田信時の人生   作:秋月 了

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神速の北条征伐――信時、兄の言葉を追う

 

 

 名胡桃城の騙し討ちを知った織田家は。

 

 怒りとともに、関東へ軍を進めた。

 

 進軍路は、かつて上杉謙信が北条征伐のために用いた道と同じだった。

 

 山を越え。

 

 峠を抜け。

 

 北条の備えが薄い場所を突く。

 

 だが。

 

 かつての上杉軍が進んだ速度と。

 

 今回の織田軍が進む速さは、まるで違っていた。

 

 信時は止まらなかった。

 

信時「兵糧は前へ回せ」

 

信時「疲れた者は後ろへ下げろ」

 

信時「代わりの隊を入れ、進軍を止めるな」

 

 街道を整えてきた織田家。

 

 北陸から北信濃までを結ぶ兵站。

 

 常備兵で構成された軍。

 

 そして、半兵衛が組み上げた補給の仕組み。

 

 すべてが、この時のために噛み合った。

 

半兵衛「信時様」

 

信時「何だ」

 

半兵衛「この速さは、兵に無理をさせすぎます」

 

信時「分かっている」

 

半兵衛「ならば」

 

信時「だが北条に、次の策を打つ時間を与えるわけにはいかない」

 

 信時の目には、怒りがあった。

 

 名胡桃城を騙し討ちで奪い。

 

 城主を死へ追い込み。

 

 その者を褒めた北条家への怒り。

 

 そして。

 

 織田の名を軽く扱われた怒りだった。

 

信時「この戦は」

 

信時「北条へ、約定を破った代価を払わせる戦だ」

 

---

 

 北条方の城は。

 

 織田軍の神速に対応できなかった。

 

 城主が兵を集める前に。

 

 城門の前へ織田軍が現れる。

 

 援軍が到着する前に。

 

 鉄砲と工兵が城壁を崩す。

 

北条兵「織田軍が、もう来た!」

 

北条兵「昨日まで北信濃にいたはずだ!」

 

北条兵「あり得ぬ!」

 

 だが。

 

 あり得ぬ速さで進むことこそ。

 

 かつて信長が得意とした戦だった。

 

 神速。

 

 敵が備える前に現れ。

 

 敵が決断する前に叩き潰す。

 

 織田軍は、再びその名を示していた。

 

---

 

 柴田勝家は先陣を切った。

 

勝家「門を破れ!」

 

勝家「北条の城に、次の朝を見せるな!」

 

 前田利家は騎馬隊を率い。

 

 逃げようとする北条の兵を囲い込む。

 

利家「降る者は武器を置け!」

 

利家「逃げる者だけを追え!」

 

 佐々成政は山道を押さえ。

 

 北条方の援軍を分断した。

 

成政「一隊ずつ潰す!」

 

成政「まとまる前に終わらせろ!」

 

 真田信繁と真田信幸の兄弟は。

 

 父・昌幸から受け継いだ地形の知識を使い。

 

 沼田周辺の城を次々と落とした。

 

信繁「兄上、右の沢を使えば城の背後へ回れます」

 

信幸「分かっている」

 

信幸「父上が守った土地を、これ以上踏ませるな」

 

 山内一豊も、兵を率いて戦った。

 

 かつて信時に父を討たれ。

 

 今は津田家へ仕える身となった男。

 

 一豊は、誰よりも真っすぐに前を見ていた。

 

一豊「津田家の兵として進め!」

 

一豊「名胡桃で死んだ者たちの無念を、ここで終わらせる!」

 

 そして。

 

 信時自身もまた、最前線に立った。

 

 義近は、その隣を離れなかった。

 

義近「父上」

 

信時「義近」

 

義近「前へ出すぎです」

 

信時「お前まで同じことを言うか」

 

義近「佐伯様のことを、俺は忘れていません」

 

 信時は、わずかに目を細めた。

 

義近「父上に死なれれば」

 

義近「今度は俺が、父上を守れなかった者になります」

 

信時「……分かった」

 

 信時は頷いた。

 

信時「なら、共に進め」

 

義近「はい」

 

---

 

 やがて。

 

 名胡桃城を騙し討ちで奪った北条家臣が、逃亡を図った。

 

 荷をまとめ。

 

 家族とともに城下を抜けようとしていたところを。

 

 望月千代女の忍びが捕らえた。

 

千代女「逃げるには、遅すぎましたね」

 

北条家臣「俺は命令に従っただけだ!」

 

千代女「褒美を受け取った時も、同じことを言えますか」

 

 捕らえられた男は。

 

 織田軍の本陣へ引き立てられた。

 

 信時は、男を見下ろしていた。

 

北条家臣「津田殿!」

 

北条家臣「頼む! 助けてくれ!」

 

信時「名胡桃城の城主は、自害した」

 

北条家臣「……」

 

信時「お前の騙し討ちで」

 

信時「守るべき城を失った責を負ってな」

 

北条家臣「北条のためだった!」

 

信時「違う」

 

 信時の声は、低かった。

 

信時「お前は、己の功のために約定を破った」

 

信時「その結果、天下を再び戦へ引き戻した」

 

北条家臣「俺だけが悪いのではない!」

 

信時「そうだ」

 

 信時は、静かに頷いた。

 

信時「北条も悪い」

 

信時「だから北条も、今ここで滅びようとしている」

 

 信時は、兵へ命じた。

 

信時「この者を斬れ」

 

北条家臣「待て!」

 

信時「武士として死なせるな」

 

信時「ただの罪人として処断しろ」

 

 男は引き立てられた。

 

 そして。

 

 名胡桃城を奪った者は、城主としてではなく。

 

 約定を破り、多くの命を巻き込んだ罪人として命を終えた。

 

 さらに信時は。

 

 その一族を屋敷へ閉じ込め。

 

 生きたまま炎の中へ置いた。

 

 北条の家臣たちは。

 

 その苛烈な処断を見て、声を失った。

 

 信時が怒っている。

 

 誰もが理解した。

 

 だが。

 

 織田家の将たちは止めなかった。

 

 恐れていたからではない。

 

 勝家も。

 

 一益も。

 

 利家も。

 

 成政も。

 

 皆が同じ怒りを抱いていたからだった。

 

勝家「名胡桃の城主は」

 

勝家「約定を信じたから死んだ」

 

利家「北条は、その信を踏みにじった」

 

成政「なら、報いを受けるのは当然だ」

 

 信時は、燃える屋敷を見ていた。

 

 顔に、喜びはなかった。

 

 ただ。

 

 怒りが、まだ消えていなかった。

 

---

 

 そこから先。

 

 織田軍の進撃は、誰にも止められなかった。

 

 城が落ちる。

 

 関所が破られる。

 

 北条方の将が降る。

 

 抵抗する城だけが、次々と潰れていく。

 

 やがて。

 

 織田軍は、小田原城へ到着した。

 

 豊臣本隊よりも早く。

 

 最初に小田原の巨大な城を包囲したのは、信時だった。

 

信時「小田原城を囲め」

 

信時「だが、無駄に民を傷つけるな」

 

津田兵「はっ!」

 

 ほどなくして。

 

 秀吉も大軍を率いて小田原へ到着した。

 

 毛利。

 

 宇喜多。

 

 徳川。

 

 上杉。

 

 全国の軍勢が集まり。

 

 小田原城は、完全に包囲された。

 

 秀吉は城を見上げた後。

 

 信時へ歩み寄る。

 

秀吉「信時殿」

 

信時「秀吉殿」

 

秀吉「一番乗りか」

 

信時「はい」

 

秀吉「さすがだな」

 

 秀吉は笑った。

 

 だが信時は笑わなかった。

 

秀吉「どうした」

 

信時「……何でもありません」

 

 信時は、小田原城を見つめた。

 

 この戦で。

 

 自分の名はさらに広がるだろう。

 

 北条征伐の先陣。

 

 北陸を率いる大将。

 

 真なる軍神。

 

 そう呼ばれるかもしれない。

 

 だが。

 

 どれほど名を上げても。

 

 最も欲しい言葉をくれる人はいない。

 

 信長は、もういない。

 

 信忠も。

 

 佐伯も。

 

 皆、いない。

 

 信時が欲しかったものは。

 

 天下人の地位でも。

 

 領地でも。

 

 軍神という呼び名でもなかった。

 

 ただ。

 

信長「よくやった、新六」

 

 その一言だった。

 

 今になって、信時は理解した。

 

 自分は。

 

 あの言葉を聞きたくて。

 

 信長に認めてもらいたくて。

 

 ずっと働き続けてきたのだと。

 

 信時は、静かに空を見上げた。

 

信時「信長様」

 

 声は小さい。

 

 だが確かに届くように。

 

信時「俺は、まだ頑張ります」

 

信時「いつかそちらへ行った時」

 

信時「もう一度」

 

信時「よくやったと、言ってもらうために」

 

 小田原の空に。

 

 織田の旗が揺れていた。

 

 信時は、その旗を見つめながら。

 

 もう一度だけ前を向いた。

 

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