天下が豊臣秀吉のもとへまとまってから、数年。
戦のない日々は、以前なら考えられなかったほど静かに続いていた。
北陸の街道には荷車が行き交い。
長崎の港には異国の船が入り。
かつて戦場だった土地では、再び田畑が広がっている。
その間にも。
織田家には、大きな出来事がいくつもあった。
まず。
三法師が元服した。
幼くして父・信忠を失い。
祖父・信長を失い。
織田家が崩れていく姿を見ながら育った少年は。
ついに一人の大人となった。
名を。
**織田秀信**と改めた。
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元服の祝いは、北ノ庄城で盛大に行われた。
秀信の隣には、新たな妻となる姫がいた。
森良成の孫娘。
トキ姫である。
良成の子孫と。
信長の孫。
長く織田を支え続けた森家と、織田家を結ぶ婚姻だった。
トキ「秀信様」
秀信「何だ」
トキ「皆様が、とても喜んでおられます」
秀信「ああ」
秀信「俺も嬉しい」
広間には。
勝家。
利家。
成政。
一益。
森良成。
長可。
義近。
半兵衛。
そして信時をはじめとした、織田家と津田家の家臣たちが集まっていた。
誰もが笑っていた。
信長の血が。
失われずに次の世代へ繋がった。
そのことだけで、皆の胸には深い安堵があった。
だが。
祝いの席が少し落ち着いた時。
秀信は、突然立ち上がった。
秀信「皆に、話がある」
広間が静かになる。
信時は、秀信を見た。
信時「秀信様」
秀信は、まっすぐ信時を見た。
秀信「俺は、織田家の家督を譲る」
その瞬間。
広間の空気が止まった。
信時「……何を」
秀信「新六」
秀信は、幼い頃からの呼び方で信時を呼んだ。
秀信「織田家の家督を、あなたに譲りたい」
信時「お待ちください」
信時はすぐに立ち上がった。
信時「それはできません」
秀信「なぜだ」
信時「秀信様は、織田信長様の孫であり」
信時「信忠様の御子です」
信時「織田家の当主であるべきは、秀信様です」
秀信「俺は、天下を目指さぬと決めた」
信時「それと家督は別です」
秀信「別ではない」
秀信の声は、静かだった。
だが、揺るがなかった。
秀信「織田家は、俺の祖父と父上が亡くなった時に」
秀信「天下を失った」
秀信「それでも、織田の名は残った」
秀信「なぜ残った」
秀信は、広間を見渡した。
秀信「勝家がいたからだ」
秀信「利家がいたからだ」
秀信「良成がいたからだ」
秀信「皆が織田を見捨てなかったからだ」
そして。
秀信は信時へ視線を戻す。
秀信「だが一番大きかったのは、新六だ」
秀信「新六がいたから」
秀信「俺は生きられた」
秀信「織田の名も残った」
秀信「北陸も守られた」
秀信「そして、皆が帰る場所を失わずに済んだ」
信時「秀信様」
秀信「俺は織田の血を継いでいる」
秀信「だが、家を率いる者は血だけで決めるべきではない」
秀信「織田家を守り」
秀信「民を守り」
秀信「皆をまとめてきた者が、当主になるべきだ」
秀信「その者は、新六しかいない」
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信時は、言葉を失っていた。
それは。
信長から認められることを願い続けた男にとって。
あまりにも重い言葉だった。
信時「俺は」
信時「織田の者ではありません」
秀信「違う」
秀信「あなたは、ずっと織田の者だった」
信時「……」
秀信「祖父上が認めた」
秀信「父上も信じた」
秀信「勝家たちも、利家たちも」
秀信「皆が、新六を織田の柱として見てきた」
勝家が、ゆっくり立ち上がった。
勝家「秀信様のお言葉に、異論はない」
信時が勝家を見る。
勝家「新六」
勝家「もう断るな」
信時「勝家様」
勝家「俺は筆頭家老を降りた時」
勝家「この家を率いるのは、お前だと言った」
勝家「今も変わらん」
利家が続く。
利家「俺も賛成だ」
成政「俺もだ」
一益「織田の家督を預けるなら、信時以外にはおらん」
良成「信長様も」
良成「きっと、そうお考えになる」
長可「信時様が当主なら、森は迷わず従う!」
義近「父上」
義近も深く頭を下げた。
義近「織田家を、お受けください」
広間にいる者たちが。
次々と頭を下げていく。
信時は、しばらく動けなかった。
ふと。
信長の声が、心の奥で蘇った気がした。
――よくやった、新六。
信時は、目を閉じた。
そして。
ゆっくりと秀信の前へ進み、深く頭を下げた。
信時「……承知いたしました」
秀信「新六」
信時「俺が、織田家を継ぎます」
信時「秀信様が守ろうとした織田の名を」
信時「必ず守ります」
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その場で。
信時は、さらに一つのことを宣言した。
信時「ただし」
皆が顔を上げる。
信時「織田家の家督は、俺一代のものではありません」
信時「俺が死んだ後」
信時「織田家は、市様との子である時継が継ぎます」
時継「父上」
信時「時継」
信時「お前は、織田と津田の両方を背負うことになる」
信時「重いぞ」
時継「分かっています」
時継は、一歩進み出た。
時継「織田の名も」
時継「津田の名も」
時継「父上が守ったものを、俺も守ります」
秀信は、微笑んだ。
秀信「それでいい」
秀信「織田家は、これからも残る」
秀信「ただ、もう天下を奪うためではない」
秀信「皆が生きるための家として残る」
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そして。
時代が変わるのを見届けた二人の老将が、隠居を決めた。
柴田勝家。
森良成。
北ノ庄城の庭で。
勝家と良成は並んで座っていた。
勝家「長かったな」
良成「ああ」
勝家「信長様のもとへ仕え始めた頃は」
勝家「天下がここまで変わるとは思わなかった」
良成「新六が、織田を継ぐとはな」
勝家「最初は、ただの農民の子だった」
良成「今では、織田の当主か」
勝家「信長様らしい」
良成「何がだ」
勝家「面白い者を拾うところだ」
二人は、静かに笑った。
柴田家の家督は。
勝家とおつやの方の子、勝長が継いだ。
勝長「父上」
勝家「勝長」
勝長「柴田の名、必ず守ります」
勝家「守るだけでは足りん」
勝家「家臣と民を守れ」
勝長「はい」
森家の家督は。
森長可が継いだ。
長可「父上」
良成「お前に家督を渡す」
長可「任せろ!」
良成「……少しは落ち着け」
長可「以前より落ち着いている!」
文「長可様」
長可「分かっている、文」
長可は、妻である文を見て。
少しだけ声を落とした。
長可「森の名も」
長可「家族も」
長可「必ず守る」
良成は、ゆっくり頷いた。
良成「それでよい」
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こうして。
織田家は、新たな形へ生まれ変わった。
秀信は、織田の血を残す者として。
信時は、織田を率いる当主として。
時継は、その未来を継ぐ者として。
そして。
勝家と良成は、長い戦いの時代を降り。
次の世代を見守る立場となった。
北ノ庄城の空には。
穏やかな風が吹いていた。
戦国を生き残った者たちは。
ようやく。
戦ではない形で、未来を繋ぎ始めていた。