織田信時の人生   作:秋月 了

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転換の時――信時、海の向こうで戦を終わらせる

 

 

 織田家の家督を継いでから、数年。

 

 天下は豊臣秀吉のもとで形を整えつつあった。

 

 だが。

 

 平らかに見える時代ほど、その内側では大きな変化が起きている。

 

 織田家もまた、世代交代の最中にあった。

 

---

 

 北ノ庄城。

 

 広間には、信時の子らと重臣たちが集まっていた。

 

 佐々成政はすでに家督を嫡男へ譲っていた。

 

 その嫡男は信時の娘を妻に迎え、二人の間には男児も生まれている。

 

 前田利家と滝川一益もまた。

 

 戦場には立ちながら、家督そのものは次の世代へ渡していた。

 

 家を残すために。

 

 戦国を生き抜いた者たちは、皆、次の時代を見始めていた。

 

 そんな中で。

 

 隠居した柴田勝家だけは、妙に元気だった。

 

 最近の勝家は、北ノ庄の兵の鍛錬場へ毎日のように姿を見せていた。

 

勝家「槍が遅い!」

 

若い兵「はっ!」

 

勝家「声が小さい!」

 

若い兵「はっ!」

 

勝家「返事だけはでかいな!」

 

若い兵「はっ!」

 

勝家「よし!」

 

 兵たちは、最初こそ恐れていた。

 

 だが勝家は、怒鳴るだけではない。

 

 槍の持ち方。

 

 隊列の組み方。

 

 馬の扱い。

 

 退く時の足並み。

 

 戦場で生き残るための術を、一つずつ自ら教えた。

 

勝家「戦は強い者だけが勝つものではない」

 

勝家「生きて戻る者が、多い方が勝つ」

 

勝家「兵を死なせるな」

 

勝家「民を泣かせるな」

 

 勝家に鍛えられた兵たちは、目に見えて強くなっていった。

 

 信時は、その様子を遠くから見ていた。

 

信時「楽しそうですね」

 

勝家「暇なのだ」

 

信時「隠居した方の言葉とは思えません」

 

勝家「隠居したからこそ、好きにできる」

 

信時「俺も、いつかそうなれますかね」

 

勝家「貴様は無理だ」

 

信時「即答ですか」

 

勝家「お前は死ぬまで働く顔をしている」

 

 信時は、少しだけ笑った。

 

---

 

 その年、祝いもあった。

 

 三男・吉永が、徳川家康の娘である督姫と婚姻した。

 

吉永「父上」

 

信時「緊張しているか」

 

吉永「少しだけ」

 

信時「督姫様は、家康殿の娘だ」

 

信時「だが、これからはお前の妻でもある」

 

信時「大切にしろ」

 

吉永「はい」

 

 そして。

 

 時継と、信長の娘・冬姫の間にも男子が生まれた。

 

 織田の血。

 

 津田の血。

 

 そして信長の血を受け継ぐ、新たな命だった。

 

 信時は、その小さな子を腕に抱いた。

 

信時「よく生まれてきたな」

 

冬姫「父上に、似ていますか」

 

信時「まだ分かりません」

 

時継「父上に似れば、きっと大変です」

 

信時「何だと」

 

時継「褒めています」

 

 広間には、穏やかな笑いが広がった。

 

---

 

 その後。

 

 信時は家督について、新たな決断を下した。

 

 織田家の家督の半分を、時継へ譲る。

 

 時継は織田家の次代を担い。

 

 信時はなお、織田家全体の柱として残る。

 

 さらに。

 

 津田家と新田家の家督も、他の息子たちへ分け与えた。

 

 ただし条件は一つ。

 

信時「お前たちは、それぞれの家を治めろ」

 

信時「だが兄弟で争うな」

 

信時「織田を継ぐ時継に従え」

 

信時「家を大きくするために、家族を傷つけるな」

 

 子らは、揃って頭を下げた。

 

時継「承知しました」

 

義正「兄上を支えます」

 

吉永「俺もです」

 

信時の子ら「家を守ります」

 

 信時は、安心していた。

 

 子らは皆。

 

 幼い頃から互いを支え。

 

 勝家や良成。

 

 利家や成政。

 

 そして鈴や市、雫の背を見て育った。

 

 兄弟で争うよりも。

 

 助け合うことを知っている。

 

 だから信時は。

 

 軍権だけを手放さず。

 

 領地の経営と家の運営を、次の世代へ任せた。

 

信時「俺は軍を預かる」

 

信時「だが、お前たちの家はお前たちのものだ」

 

時継「父上」

 

信時「困った時は呼べ」

 

信時「呼ばなくても、俺は行く」

 

 こうして。

 

 豊臣も。

 

 織田も。

 

 大きな転換の時を迎えていた。

 

---

 

 だが。

 

 その変化を待たずして、秀吉は大きな戦を始めようとしていた。

 

 朝鮮征伐。

 

 海を渡り。

 

 異国へ兵を送り。

 

 大陸へ進出する戦。

 

 大坂城の評定で、その方針が告げられた時。

 

 信時は反対した。

 

信時「秀吉殿」

 

秀吉「何だ、信時殿」

 

信時「今は、戦を始める時ではありません」

 

秀吉「なぜだ」

 

信時「国内はようやく整い始めたばかりです」

 

信時「各家で世代交代が起きている」

 

信時「兵も家臣も、立て直しの最中です」

 

官兵衛「確かに、兵站の面でも不安がございます」

 

信時「朝鮮へ渡れば、補給線は海の上に置かれる」

 

信時「嵐一つで、兵糧も武器も届かなくなる」

 

秀吉「天下を取った者が、守っているだけではいかぬ」

 

信時「攻めるために、民を飢えさせるべきではありません」

 

 秀吉は、信時を見た。

 

 その目には、苛立ちがあった。

 

 だが。

 

 信時の言葉を否定しきれない迷いもあった。

 

 その頃。

 

 豊臣を支えてきた二人の柱が、病に倒れていた。

 

 丹羽長秀。

 

 秀吉の弟、秀長。

 

 そして、二人は相次いでこの世を去った。

 

 秀吉は、大きな支えを失った。

 

 それでも。

 

 朝鮮征伐を止めなかった。

 

---

 

 一度目の出兵は、失敗に終わった。

 

 兵はまとまらず。

 

 補給も乱れ。

 

 海を越えた先で、戦線を維持できなかった。

 

 それでも秀吉は、二度目の出兵を命じた。

 

 今度は信時も参加した。

 

 織田軍が加わったことで。

 

 日本軍は大きく進んだ。

 

 平壌まで兵を進め。

 

 朝鮮の奥深くへ達した。

 

 だが。

 

 そこで進軍は止まった。

 

 日本海は、連日の嵐に見舞われた。

 

 兵糧を積んだ船が沈む。

 

 荷が流される。

 

 港へ届くはずの食糧が、海へ消えていく。

 

織田兵「兵糧が足りません!」

 

織田兵「負傷者の薬も尽きかけています!」

 

官兵衛「このままでは、戦う以前の問題です」

 

信時「撤退する」

 

官兵衛「秀吉殿が、お認めになりますか」

 

信時「認めなくとも、兵を死なせるわけにはいかない」

 

 信時は、一度長崎へ戻った。

 

 後方拠点として整えられた城へ入り。

 

 補給の乱れと撤兵の必要を、整理しようとした。

 

 そこへ。

 

 石田三成が姿を現した。

 

三成「信時殿」

 

信時「三成殿」

 

三成「秀吉様へ、撤退の理由を説明していただきたい」

 

信時「俺がか」

 

三成「織田軍の大将である信時殿のお言葉なら」

 

三成「秀吉様もお聞き入れになるでしょう」

 

 信時は、頷いた。

 

信時「分かった」

 

 だが。

 

 それは罠だった。

 

 三成は考えていた。

 

 これからの豊臣にとって。

 

 最も危険な存在は、徳川家康と信時だと。

 

 兵を持ち。

 

 民から信頼され。

 

 大きな家臣団を抱える二人。

 

 豊臣の天下にとって、いつか障害となるかもしれない。

 

 三成は。

 

 この機に信時を排除しようとした。

 

---

 

 秀吉のもとへ届いたのは。

 

 信時が勝手に朝鮮から帰国したという報せだった。

 

秀吉「信時殿が、勝手に帰っただと」

 

三成「はい」

 

三成「軍の指揮を放り出し、長崎へ戻ったとのことにございます」

 

 秀吉は、顔を曇らせた。

 

 やがて信時が呼び出される。

 

秀吉「信時殿」

 

信時「はい」

 

秀吉「なぜ、勝手に帰国した」

 

信時「……」

 

 信時は、その瞬間に理解した。

 

 三成に嵌められたのだと。

 

信時「俺は」

 

信時「撤兵の理由を説明するよう、三成殿に頼まれて戻りました」

 

三成「そのようなことは申しておりません」

 

信時「三成殿」

 

三成「証はございますか」

 

 信時は、答えられなかった。

 

 口頭での依頼だった。

 

 秀吉は、苦しそうに目を伏せた。

 

秀吉「信時殿」

 

秀吉「ひとまず蟄居せよ」

 

 信時は、深く頭を下げた。

 

信時「承知しました」

 

 怒りはあった。

 

 悔しさもあった。

 

 だが。

 

 秀吉をさらに追い詰めることはしたくなかった。

 

 長秀と秀長を失い。

 

 朝鮮の戦も上手くいかず。

 

 秀吉自身が、最も苦しい時にいると分かっていたからだ。

 

---

 

 だが。

 

 信時の蟄居が伝わると。

 

 秀吉のもとへ書状が山のように届いた。

 

 織田家の家臣。

 

 北陸の民。

 

 長崎の帰還者たち。

 

 九州の大名。

 

 かつて助けられた者たち。

 

 そして。

 

 譲位した正親町上皇からも、助命嘆願の書状が届いた。

 

正親町上皇「津田信時は、朝廷と民のため尽くした者である」

 

正親町上皇「その者を失うことは、天下にとって大きな損失となろう」

 

 秀吉は、書状の山を前にして黙っていた。

 

 その時。

 

 さらに報せが届く。

 

使者「秀吉様!」

 

秀吉「今度は何だ」

 

使者「側室様が、男子をお産みになりました!」

 

 秀吉の目が見開かれた。

 

使者「待望の御子にございます!」

 

秀吉「……男子か」

 

使者「はい!」

 

 次の瞬間。

 

 秀吉は立ち上がった。

 

秀吉「男子だ!」

 

官兵衛「秀吉様」

 

秀吉「俺に、男子が生まれた!」

 

 秀吉は、声を上げて笑った。

 

 そして。

 

 それまで抱えていた怒りも。

 

 朝鮮での失敗も。

 

 三成の報告も。

 

 何もかもを一度、放り出した。

 

秀吉「信時殿を許す」

 

三成「ですが秀吉様」

 

秀吉「許すと言った」

 

三成「しかし」

 

秀吉「大坂へ戻る!」

 

 秀吉は、それだけを告げ。

 

 待望の男子のもとへ急いだ。

 

---

 

 残された朝鮮の戦。

 

 その後始末をしたのは、信時だった。

 

 信時は蟄居を解かれると。

 

 すぐに長崎へ向かい。

 

 撤兵を進めた。

 

 織田軍だけではない。

 

 各地の大名たちの軍をまとめ。

 

 海を越えて残っていた兵を、順に日本へ戻した。

 

 そして。

 

 李氏朝鮮との交渉を始めた。

 

 信時は、秀吉が朝鮮を攻める以前から。

 

 明との密貿易を通じて、海の向こうとの繋がりを持っていた。

 

 その関係から。

 

 李氏朝鮮の役人たちとも、敵対するだけではない関係を築いていた。

 

朝鮮側使者「信時殿は」

 

朝鮮側使者「なぜ、再び交渉に出てくるのですか」

 

信時「戦を終わらせるためです」

 

朝鮮側使者「日本の将が」

 

朝鮮側使者「そう言うのですか」

 

信時「俺は、日本の民も」

 

信時「朝鮮の民も」

 

信時「これ以上死なせたくありません」

 

 信時は、越前焼の器を大量に用意した。

 

 さらに。

 

 莫大な金を、自らの財から出した。

 

 戦で壊れた土地への賠償。

 

 捕らえられた者たちの引き渡し。

 

 国交を戻すための贈り物。

 

 信時が払った額は。

 

 小さな国なら、数年は運営できるほどの金だった。

 

 官兵衛は、その金額を聞いて驚いた。

 

官兵衛「信時殿」

 

信時「何ですか」

 

官兵衛「本当に、それだけの金を出して大丈夫なのですか」

 

信時「問題ありません」

 

官兵衛「ですが」

 

信時「北ノ庄の金庫から見れば」

 

信時「一割にも届きません」

 

 信時は、苦笑した。

 

信時「金は使うためにあります」

 

信時「民が死ぬよりは、ずっと安い」

 

 官兵衛は、しばらく言葉を失った。

 

 やがて、深く頭を下げる。

 

官兵衛「……あなたは」

 

官兵衛「やはり、恐ろしい方ですな」

 

信時「褒め言葉ですか」

 

官兵衛「最高の褒め言葉にございます」

 

---

 

 こうして。

 

 朝鮮半島から日本軍は撤兵した。

 

 李氏朝鮮との国交も、少しずつ正常な形へ戻っていく。

 

 戦は終わった。

 

 多くのものを失った後で。

 

 ようやく終わった。

 

 長崎の海を前に。

 

 信時は、遠くを見つめていた。

 

 自分の名は。

 

 軍神と呼ばれるようになった。

 

 織田家を継いだ者。

 

 北陸を束ねた者。

 

 海の向こうの戦を終わらせた者。

 

 だが信時にとって。

 

 どんな名よりも大切なのは。

 

 帰るべき者が帰り。

 

 明日を生きる者が残ることだった。

 

信時「信長様」

 

 信時は、静かに呟いた。

 

信時「今回は」

 

信時「少しは、うまくやれたでしょうか」

 

 海は、何も答えない。

 

 だが。

 

 信時はもう一度、前を向いた。

 

 褒めてもらうために。

 

 あの世で信長に。

 

 胸を張って会うために。

 

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